闇討ち、掌底
訓練場の石床に、いまだ乾かぬ血痕が残っていた。
だがその中央に立つ少女の姿は、奇妙なまでに清らかだった。
血飛沫すら触れられぬまま、ただ一本の剣を手に、静かに呼吸を整えている。
彼女は“勝った”。
魔法も、加護も使わず。
ただ剣一本で。
──それは、王国にとって“祈りのような奇跡”であり、
帝国にとっては“理の否定”だった。
「……異世界から来た少女が、魔物を一撃で屠ったらしい」
その噂は、神殿を出てすぐに兵舎へ、街へと広がっていく。
最初は誇張されたおとぎ話のようだった。
だが、実際に“見た者”たちは言う。
「剣の軌跡が、見えなかった」
「魔法すら効かないらしい」
「ただ立っているだけなのに、呼吸が浅くなるほどの威圧感だった」
エリカ本人は、それをまるで知らぬまま、支給された部屋で剣の手入れをしていた。
……名前なんて、どうでもいい。
必要なのは、今ここにいる意味。
役割を与えられたなら、果たすだけ。
彼女はただ、それだけを考えていた。
一方、神殿奥の会議室。
幾人かの高位神官が集まり、密談が交わされていた。
「……精神操作も効かない。魔力も感じられない。だが殺傷能力は高い」
「異世界人とはいえ、あれは“規格外”だ」
「このまま“制御不能”と判断されれば、帝国に報告せざるを得ない」
そこに、一人の男が入ってきた。
漆黒の法衣、無表情のまま冷たい視線を送る高位審問官。
帝国直属、神殿内でもっとも忌避される“監視者”の一人。
「……対象の“排除”を、検討すべきかと」
空気が凍った。
だが、誰も否定できなかった。
“少女は美しく、そしてあまりに危険だった。”
その夜、エリカは夢を見る。
日本で過ごした日々。
夕暮れの道場、汗に濡れた道着、仲間の笑顔。
そして──光に飲まれた、あの交差点。
遠く、遠く、彼方の記憶。
もはや戻ることはない場所。
彼女は目を開けた。
そして静かに呟く。
「……剣があれば、生きられる。
なら、私はここで戦う」
深夜、静寂。
窓の外には月が浮かび、城館の空気は肌に貼りつくように冷たい。
エリカは、まどろむこともなく、壁に背を預けていた。
──何かがおかしい。
感覚でわかった。道場で、裏取りの気配を読む時と同じ。
耳鳴りのような違和感。空気の揺れ。音の“無さ”。
(私のいる部屋だけ、“静かすぎる”)
直後、扉の鍵が「コツ」と鳴った。
エリカは息を殺し、静かにベッドの影へ滑り込んだ。
やがて扉がわずかに開く。
闇の中、黒ずくめの影が二つ──侵入者だ。
刹那、空気が弾けた。
黒服の一人が短剣を抜いた瞬間、その手首に蹴りが入る。
骨が砕ける音と共に、男の体が壁に叩きつけられた。
「ッ、この──!」
もう一人が振るった刃は、空を切る。
その腕を、エリカの手刀が下から跳ね上げる。
「落ち着いて」
囁くように言って、
エリカは掌底で喉元を一撃した。
男は呻き声もなく、意識を刈り取られて崩れ落ちた。
人も、殺していない。
「……殺せば楽。でも、それをしたら……」
呟きは、自分に向けたものだった。
武器を拾わず、剣も抜かず。
エリカはふたりの刺客の意識を確認し、窓へ向かった。
屋根伝いに外へ出る。訓練用の塀、神殿の裏門、巡回の時間。
全てはこの数日で把握済みだった。
──自分は、始末される側に回った。
理解した時点で、迷いはなかった。
ただ、剣で戦うことと、生き抜くことは別だ。
それを、彼女は日本での人生から知っていた。
「……逃げるんじゃない。戦場を、選ぶだけ」
静かな足音が、夜の石畳を走る。
この日、王国神殿の“英雄召喚対象”は姿を消した。
その報告は、翌朝には帝国へ送られ、
世界にひとりの“魔法を拒む少女”は、正式に“追われる者”となる。
だが、彼女の目はもう迷っていなかった。
無銘の剣姫は、
この世界で“生きる”ための、自分の戦場を探していた。