ゴブリンの巣穴
金髪のボブが風に揺れる。
透き通るような青の瞳に、道行く人々がつい視線を向けた。
エリカ・ウォルター。
鉄のロングソードを背に負い、首元には小さな鉄のドッグタグが揺れている。
ギルドにより与えられたそれには、魔法刻印でこう記されていた。
「エリカ・ウォルター D級」
――だが、世間では既に彼女の名は別の形で囁かれはじめていた。
数日前、北辺の村で盗賊を剣を抜かずに制圧した。
返り血すら浴びず、静かな顔で「旅の者」と名乗り、処刑の要請すら拒んだ少女。
彼女の技は剣術のそれに似て非なるもの、空手と剣道を融合した体術だった。
村人はその姿をこう記した。
「まるで刃を持たぬ剣姫……」
そうして彼女は、“無銘の剣姫”と呼ばれるようになった。
その噂は、地方ギルドの受付を通じて本部へと伝わり、
風刃流北派の剣士ライグの元にも届いた。
ある者は笑い飛ばし、ある者は沈黙したまま記録をめくり、
ある者は剣を携え、名もなき少女を探しに街を出た。
一方、当の本人は――。
小さな宿場町の掲示板の前に立っていた。
並ぶ依頼書のひとつに目を留める。
「ゴブリンの群れの再出現につき調査と討伐を依頼」
エリカは微かに息を吐く。
(……また、か)
召喚されてすぐ、命令に従い魔物を斬った時のことを思い出す。
自分がこの世界で最初に殺したのは――理性なき魔物だった。
恐怖も、ためらいも、終わった後にやってきた。
けれど、今は違う。
魔物を倒すことに、罪悪感はない。
ただし、それが人間でない限りは。
ギルドから受け取った依頼用紙には、赤い印が押されていた。
「北方山岳地帯、クラヴァ坑道跡。ゴブリンの巣穴の根絶。危険度:Dランク上位。推奨人数:3~5人」
だが、その任務に名乗りを上げたのは――ただ一人の少女だった。
クラヴァ坑道跡は、かつて銀を採掘していた鉱山の残骸だった。
今はすっかり廃れ、地下深くに棲みついたゴブリンたちの巣窟と化している。
エリカは静かに洞窟の入口に立つ。
首元で小さく揺れるドッグタグには、未だ「D級」と刻まれたままだ。
(……あのとき、殺したことに言い訳はしない。でも)
彼女は剣の柄に手を置くが、すぐに離した。
――この洞窟では、ロングソードは長すぎる。
狭い通路、低い天井、ねじれた岩壁。
振り回せば壁に弾かれ、自らの身を危険に晒す。
(なら、私の武器は――この拳でいい)
気配を殺して中へと踏み込む。
やがて、鼻を突く腐臭と、獣のような鳴き声が聞こえてくる。
洞窟の奥、明かりも届かぬ闇のなか。
一匹のゴブリンが、地を這うように接近してきた。
エリカは踏み込み、寸勁に似た正拳を繰り出す――だが。
「……硬いっ」
鈍い感触。拳が喉元を打ち抜いても、即死には至らなかった。
この世界の魔物は、人間よりも骨が厚く、筋繊維も強靭だ。
致命打にならなければ、仲間を呼ばれる。
囲まれれば、殺される。
彼女はわずかに下がり、深く息を吸った。
――気力。
自然のエネルギーを取り込み、自らの力へと転化する技術。
カイルから教わったばかりのその力を、今こそ“拳”に宿す。
右拳に集中する。
呼吸と精神を一点に凝縮する。
(撃つ瞬間に、“解き放つ”)
踏み込み、重心を乗せ、拳を突き出す。
「――拳閃!」
次の瞬間、目の前の空間が爆ぜた。
音よりも速く、拳に宿した気力が閃光のように放たれた。
ゴブリンの頭が、轟音と共に砕けて吹き飛んだ。
背後の壁に叩きつけられ、もはや再起の気配はない。
エリカは静かに、拳を見つめた。
血に濡れぬその手は、ほんの微かに震えていた。
だが、それは恐れではない。
新たな“力”を手にした実感――
(……これが、気力の技)
拳で魔物を討つ。
気を込めて、一閃の爆撃に変える。
そうしてエリカは、この技に名を与えた。
「拳閃」――刃なき剣の、第一の型。
――10匹目を倒した直後だった。
洞窟の最奥、暗闇の向こうから、重く唸るような足音が響く。
岩肌を揺らし、にじみ出る圧力。
姿を現したのは、普通のゴブリンの倍はある体躯を持つ異形――ゴブリンキング。
棍棒というより鉄の柱を握りしめ、獣のような目でこちらを睨みつけていた。
その背後。青白い光がほのかに揺らめく。
長い杖を構えた異形がもう一体――ゴブリンメイジ。
「魔法使い……!」
その瞬間、杖が揺れる。
青紫色の魔力弾がエリカめがけて放たれる――が、
「……効かないよ、それは」
魔力の奔流が、エリカの体表に触れた瞬間、まるで霧が日光に焼かれるようにかき消えた。
まったくの無効。彼女の体質が、魔力の干渉を完全に拒絶したのだ。
だが――
「……っ、あれは別」
次の魔法。
ゴブリンメイジが詠唱した火球が、空中で実体を持って燃え上がる。
物質としての火は、当然、エリカを焼き尽くす力を持つ。
彼女は身を低くして回避。爆ぜた炎が背中を掠め、マントの裾を焼いた。
直後、ゴブリンキングが吠えた。
巨体を揺らし、鉄棍を振り上げて突進してくる。
「速い……!」
エリカはすぐさま右拳に気力を集中し、滑るように間合いを詰めた。
「――拳閃!!」
拳から炸裂した衝撃波が鉄棍の軌道を逸らす。
ゴブリンキングの腕が弾かれ、体勢が崩れる。
だが、ゴブリンメイジは再び詠唱に入っていた。
今度は氷の魔法――空中に冷気が凝縮し、槍の形を成す。
(魔力は効かない。けど、氷は当たれば刺さる)
エリカは前へ跳ぶ。
氷槍が放たれた瞬間、両拳に気力を宿す。
「――拳閃・双!」
衝撃波が氷槍を粉砕し、砕けた破片が散る。
その隙に、エリカはメイジの懐へ一気に踏み込む。
剣は抜かない。
代わりに、掌打で胸部を打ち上げ――気力を瞬間的に解放する。
**ドン!**という重い衝撃音とともに、メイジの体が壁へ吹き飛ばされ、動かなくなった。
「……次で最後」
ゴブリンキングが怒声を上げ、棍棒を振りかぶる。
エリカは、静かに息を整える。
下腹に気を集め、右拳に流し込む。
血管のように巡る自然エネルギーが、手の先へ凝縮していく。
「拳閃――終ノ型!」
踏み込み、拳を突き出す。
音より速く、空気を割くように走った拳が、
ゴブリンキングの胸に炸裂。
骨が内側から砕け、巨体が後ろへ吹き飛んだ。
岩壁に叩きつけられ、そのまま動かなくなる。
しばしの静寂。
燃え残る火の粉が、洞窟の天井からひらひらと舞い落ちる。
少女は、無傷のままそこに立っていた。
金髪のボブがふわりと揺れ、透き通った青の瞳が静かに光る。
血に染まらず、剣を抜くこともなく。
その姿を知る者の誰かが、後にこう呼んだという。
“無銘の剣姫”