割り箸の袋に入っているつまようじ
コンビニで弁当を買った。唐揚げと煮物が入っていて、茶色を占める割合が高い。ご飯の上には梅干しが乗せてあり、ゴマが愉快に散っている。申し訳ない程度に野菜も入っているが、油ぎっている。みずみずしさが消えているから、きっと唐揚げが悪い影響を与えたのだろう。
割り箸の袋を開けると「あっ」と声が出た。つまようじが入っていて、素早くスライドしたからだ。一瞬のことだった。
つまようじが手元から離れて地面に落ちて、哀しい音を立てた。流れるように拾おうとしたら、つまようじの先っぽが手を刺した。痛い。痛いのに、血が出ることはない。
今すぐ、ふーふーすれば、そのまま使えるだろう。だけど、そこまでして使いたいとは思わない。
割り箸の袋に入っているつまようじは、いつ見ても影が薄い。「僕は割り箸を引き立てる存在です」と全身が主張しているようにさえ感じる。
つまようじが主役になる場面は、いつだって、ご飯を食べ終わった後だ。スポットライトが当たるのが数分遅れる大器晩成型。
こんなふうに、ぼやぼやしていると、唐揚げが見知らぬ鳥から奪われてしまう。海が近いわけではない。だけど、鳥は人が油断したところを狙ってくると知っていた。
野生では、ぼやぼやしている生き物は、食べ物にありつけないと相場が決まっている。
とりあえずと割り箸を割る。パキンと心地よい音がしたのに、左右非対称の歪な形になった。
一つは先が尖っていて、もう一つは、木の面積が十分なほどついていた。半分こできるアイスを、失敗して割ったような気まずさがあった。
この割り箸を使って弁当は無理なく食べられる。だけど食べにくそうだ。
尖った割り箸と、つまようじ。見た目が似ているように感じる。運命という言葉は、人との巡り合わせよりも、ここで使うことが正しいようにも感じられた。
大人だから、ハキハキした声で「いただきます」とは言えなかった。その代わりに心の中で言う。言いにくいことは、何でも心の中で言えば良い。
今思いついたように背筋を伸ばしたら、もうつまようじのことは頭から消えていた。唐揚げは塩辛くてとても美味しかった。