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黒い果実

作者: 網笠せい

 老人は長年の友人の肩を叩く気安さで、葡萄の幹に触れた。渦を巻くように絡み合った枝を目で追うと青々とした葉が棚を覆っており、夏の日差しが葉脈をはっきりと淡い緑の中に見せていた。老人は肩に乗せた手ぬぐいを使うのも忘れて膨らんだ実を確かめていく。

 小鳥がラジオから流れてきたラッパの音に驚いて飛び立った。定時の放送は軍の勝利ばかりを声高に叫び、ぜいたくは敵だ、国民一丸となって敵を討ち滅ぼすべしと戦意高揚の歌を流す。老人がくたびれた手ぬぐいで額をぬぐうと、荒い繊維の隙間から汗がにじんだ。

 果物、まして葡萄酒ともなれば真っ先に目をつけられそうなものだが、軍は「葡萄は兵器だ」と葡萄酒造りを奨励した。樽につく酒石酸を、海軍は音波探知機に、陸軍は海水を飲用にするために欲したのだった。


 八月に入ってから蝉の声がやかましい。日が高くなれば、さらに声は増すだろう。老人は日に焼けた顔を空へと向けて、木陰を提供してくれる頼もしい相棒の肩を叩いた。ぎっしりと実の入ったかごを抱えて進むと、腰や膝が悲鳴をあげる。働き盛りの男たちはとうに戦場へとかりだされている。葡萄を破砕機にかけるまでは女子供でもやれるだろう。仕上がった葡萄酒を街へ届ける算段をしていると、空襲警報が響き渡った。防空壕へと駆ける人々の背を、戦闘機の飛来する音が追いかける。

 穴倉では農園の面々が息を潜めており、解除の知らせと共に外へ出て、作業の続きをはじめた。爆撃はなかったようだ。女たちは破砕機に葡萄を運び、子供たちは誰にも見つからないように葡萄の茎についた果汁をねぶる。老人は木箱をリヤカーに積んで、街に出かけた。今から出れば八時には街に着く。戻ったら葡萄を圧搾しよう。


 けれども持ち手を腹に食い込ませてリヤカーを引く老人の願いは叶わなかった。

 熱風に耐えた葡萄が一粒、地面に転がり落ちる。青い実は誰にも拾われることなく、やがて降り注ぐ黒い雨にうたれて朽ちた。

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