嫉妬は放置時間に比例する
・酒色の国
風呂場でアザゼルと一緒になったからだろうか、堕天使の話をしたからだろうか、あの光景を鮮明に思い描いたからだろうか、僕は酷い悪夢に魘された。
ライアーに夢を管理してもらえばよかった。そういえば彼の姿を数日見かけていないけれどどこに行ったのだろう。
鉄混じりの生臭さが鼻腔を突いて、しょっぱさも感じる鉄錆が舌に乗って、下卑た美しい笑い声が鼓膜を揺さぶり、散乱した臓器と銀色の毛が視界を埋め、失われていく体温を全ての皮膚で感じている。
僕は五感全てでアルの死を実感させられている。
『貴方が居なければ私はこんな姿にならなかった』
目の前に転がったアルの頭部が恨めしそうに僕を見つめている。
『…………貴様にさえ、出会わなければ』
その上に綺麗な女の素足が乗って、僕の大好きな整った顔が次第に歪んで、バキャッと音を立てて破裂する。禍々しく美しい女の笑い声を聞きながら、僕は頭蓋骨の破片と脳漿に目を奪われていた。
『──ろ、ヘル!』
アルの姿は完璧に壊されたのに僕にはまだ彼女の声が聞こえる。
『ヘル! ヘル、ヘルっ! 早く──』
凄惨な光景と僕を責めるアルの声に耐えかねて目を硬く閉じると、胸に強い衝撃を感じた。
『……っ、ぅ……何?』
重いものが落ちてきたような衝撃に目を開けると視界いっぱいに銀毛が広がっていた。
『漸く起きたか、ヘル』
胸の上に感じていた重みが消えて上体を起こせば、傷一つないアルの姿があった。
『…………アル、おはよ』
『お早う、ヘル。顔を洗って歯を磨け、髪と服も整えろ』
『ん……』
数秒前までバラバラになっていた愛しい彼女が目の前で元気そうにしていても、泣き喚いたり抱き着いたりはしない方がいい。迷惑をかけるだけだ。
数秒前まで血塗れだった手を冷たい水で流し、うがいをして口の中に入った毛を追い出し、まだ寝惚けている脳と身体を覚醒させる。ゆっくりと夢と現を認識し、震える手と溢れる涙が落ち着いたらアルの横に戻る。
『朝食は持って来てあるぞ』
アルはベッド横の棚に置かれたプレートを尾で示し、毛繕いに戻る。
『毛を引っ張ったり口に入れたり……寝ている間の癖をどう治すか調べなければな』
『…………ごめんね』
『……ぁ、いや、そう落ち込むな。別に本気で困っている訳では無いぞ』
もそもそと朝食を口に含み、そっとアルの背に手を這わせる。
『食事中は私に触らない方が……』
アルの忠告を無視してアルを撫でながら朝食を終え、コーヒーを飲み干してアルの上に倒れ込む。
『二度寝するなよ』
『ん……』
温かい。柔らかい。硬い。もふもふ……僕のアルは生きている。目を閉じて二度寝の体勢を整えると、胴に尾が巻き付いて僕の身体はベッドの真ん中に放り投げられた。
『…………なぁ、ヘル。近頃楽しそうだな。鬼に髪を弄らせたり、メル達と買い物に行ったり……挙句の果てに堕天使と混浴だと?』
ぐりぐりと大きな頭が腹や胸に押し付けられる。
『貴方は私のものだ。今日は此処から動けないと思え』
『……怒ってる?』
『…………ただの嫉妬だ。見苦しいだろう』
『んー……うぅん、可愛い』
温かく、力強く、動いている。それがどんなに素晴らしいことなのか僕は知っている。だからもう今日は満足だ。今日の僕はアルに生存以上を求められない。
『……可愛いと思うならもう少し私に構え』
『んー……可愛い可愛い、大好きだよ』
『…………それを言えば私が許すと思って』
アルは全身の力を抜いて僕の上に横たわる。そのくたっとした身体には不安を煽られて、思わず首に腕を回した。するとアルは甘えた声を上げ、僕の頬を舐めた。
『楽だろう? 少し甘言を吐くだけで私は絆される』
『楽じゃないよ。そんなこと言うから信じてないって分かるし』
『……信じているさ』
『信じてるなら絆されるなんて言い方しない』
アルはそれきり黙り込んだ。僕に構われなくて少し拗ねただけなのに、嫌味を言っただけなのに、僕に疑われて傷付いただろう。そこまで分かっているのに僕はどうして吐き捨てるような言い方をしてしまったんだろう。
『ね、アル。デートしよっか』
今の失敗を帳消しにする何かが必要だ。
『……え?』
『ダメ? 今日一日僕の上で寝てるの?』
『ぃ、いや……その…………貴方は外出を嫌っているのでは無かったのか?』
確かに僕は外出嫌いの引きこもりだった。だが、人間でなくなったことで強さに自信が持てるようになって外出への恐怖心が薄まった。
『最近はそうでもないかな。アルが外に出たくないって言うなら……ね、別のことしよっか?』
首の後ろに置いていた手をゆっくりと下ろしていくと翼の付け根にたどり着いたあたりでアルは勢いよくベッドを飛び降りた。
『そっ、外に出るのは良い事だ! たまには陽の光を浴びて外気を身体に取り込まねばな! さ、さぁっ、早く行こう。どこに行くんだ?』
『……デートだし、何か雰囲気あるとこ行きたいなぁ』
酒色の国はその名の通り酒屋と風俗店が溢れ返っている。雰囲気をゆっくりと育むと言うよりはベッドに蹴り飛ばされるような街だ。
だが、そんな街でも一割くらいは性に直結しない場所がある。メルとセネカと行った店もそうだった。
『アル、何が好き? 僕以外で』
『酒と肉と風呂』
色気の欠片もない返答は仕事に疲れた中年男性のようだ。
『……お風呂に入りながら酒と肉を楽しめる店かぁ』
『無いだろうそんな物』
温泉の国では露天風呂で月見酒を楽しめる場所もあったそうだが、酒色の国にはそんな風情あるものはない。この国で風呂に付属するのは淫魔だ。
『じゃあもう普通にお酒飲む?』
『……貴方は呑まないのだろう?』
『どうせもう歳取らないし死なないし一杯二杯は付き合うよ』
アルコールはきっと僕は嫌いなものだけど、アルは僕と飲むのを楽しみにしているようだったから、一杯くらいは付き合いたい。
『貴方は……もう、歳を取らないんだな』
『なんか美人になった気もするしぃー、最高だよね!』
『…………そうだな』
いつまでも若く美しいまま──人類の夢なんて言われる不老不死。何がそんなに良いのか分からないけれど、段々と吹っ切れてきた。
ようやく冗談半分に不老不死を最高と言えるようになったのに、アルはどこか寂しそうだ。
『……アル?』
『…………ん?』
『一生、一緒だからね!』
『……あぁ、勿論』
僕の勘違いだろうか。アルは嬉しそうに僕の脇腹に頬を擦り付けていた。
『えっと……ここかな?』
『……喫茶店か』
酒呑やヴェーンに雰囲気があって性的サービスがなく酒だけに本気になっている店を聞いておいたのは正解だった。邸宅から真っ直ぐ進んで四つ目の角を右、という分かりやすい立地も助かった。郊外にはこういった性的サービスを切り落とした店が多いらしい。
『……わ、暗い』
カウンター席で隣の客の顔は薄らと見えてもその隣の客の顔は分からない、程よい暗さだ。夜目がきくアルには部屋の隅まで見えているのだろうか。
『葡萄酒。赤でも白でも構わん、自信のある物を寄越せ』
『度数低くて味が濃いのください』
メニュー表が見当たらないので僕達は各々に店員に希望を伝えた。
『どう? アル、美味しい?』
『うむ……良い酒だ。飲むか?』
『んー……じゃあ一口』
ほろ苦い葡萄の味が口内から鼻に抜け、濃い後味が何秒か残った。重たい酒の感覚に一口飲んだだけで目眩が起こった。
『貴方のはただのジュースだな』
アルは僕の前に置かれた酒のはずのグラスを一口飲み、鼻で笑った。
『やっぱ僕お酒ダメかも』
『もう少し成長してから成長を止めるべきだったな』
『止める時期選べないし成長したからってお酒飲めるようになるとは限らないし……』
『そうだな。貴方は子供のままがいい。いつまでも私を頼り、甘え、求めるといい』
大きな翼に抱き寄せられ、その温かさに蕩ける。
そうだ、酒なんて要らない。わざわざアルコールを摂取しなくても僕は現に酔えるのだ。




