日常と失踪
・酒色の国
移身石を貰う約束を取りつけて、ヴェーン邸に帰ってきて、アルを抱き締めて話しているうちに眠ってしまって──目が覚めた今、隣にアルは居ない。
『アルちゃんなら買い物だよ』
「…………にいさま?」
『この部屋、結構面白い本あるね。これ読んだ?』
僕に目が無いことを忘れているのではないだろうか。いや、興味が無いの方が正しいか。
「読んでない。ね、お腹すいたんだけど、何かある?」
『牛と豚を一緒に挽いたやつの腸詰め持ってきてるよ。そこに置いてる』
どうしてそう食欲を減退させる言い方をするのか。合い挽き肉のソーセージくらいの言い方は出来ないのか。目が見えていないのに「これ」だの「そこ」だのと……気遣いの一つも出来ないのか。
言ってやりたいことは大量に浮かんだが、言う勇気はない。僕は手探りでベッドの横の棚を探り、ランプの手前に置かれた皿を見つけた。
「……ねぇ、ソーセージだけ? パンとか、サラダとか、飲み物は?」
『無いね』
食事を作っているのはフェルだ。近頃様子がおかしいとは思っていたが、まともな食事を作れなくなるくらいだったのだろうか、心配だ。
『昨日の夕食も今日の朝食も手が込んでてさ、凄く美味しかったみたい。だから、起きてこなかったヘルの分は食べられちゃった』
「………………誰に?」
『ほら、あの髪短い方の鬼……名前なんだっけ』
「酒呑? 文句言っておいて、次やったら一週間禁酒って。後、止めなかった人も同罪だって全員に伝えて」
『分かった。あ、僕は違うもの食べてたからね』
「……その場に居たなら同罪」
『手厳しいね』
皿の上に乗ったソーセージは二本、それも僕の指程度の太さと長さ。昨日の夕食も食べていない僕がどうしてこれで満足できよう。
「お腹すいた……ねぇ、何かないの?」
『僕の備蓄とダンピールの備蓄があるけど、どっちがいい?』
「……中身教えてくれる?」
『人肉、人の血』
「…………トマトとかお菓子とか、ないの?」
『蝿さんが全部食べたよ』
「なんであげちゃったんだよっ……!」
流石に人間の肉や血はいただけない。
僕は深くため息を吐いて、アルがいつ頃帰ってくるのか聞いた。
『今日はダンピールと一緒に行ってて、お酒とか日用品とかも買ってくるみたいだから、昨日より遅いかも……って言ってたよ』
「昨日どれくらいで帰ってきたのか知らないよ」
『まぁ、出かけたの結構前だし……』
兄の言葉はそこで止まる。
「……にいさま?」
『玄関が開いた音だね、帰ってきたみたい』
僕には何も聞こえなかった。誰も彼も感覚が鋭敏過ぎる。
ほどなくしてアルが部屋に入ってくる。ガサガサと袋を鳴らし、その袋を僕に渡し、ベッドに飛び乗った。
『土産だ、やる』
「あ、ありがと……」
『兄君、帰る途中ダンピールと逸れてな、荷物は全て私が持っていたから問題は無かったのだが…………一応、報告しておく』
『了解、帰ってきたら文句言えばいいんだね』
そう残して兄は退室する。
ヴェーンとはぐれたと言ったか、アルが街に慣れている彼より早く帰ってきたのなら、ヴェーンは故意にはぐれたのだろう。
風俗店の類なら言わなくても不思議ではない、買い忘れなら言うだろう、アクセサリーの材料なら言わないだろう……僕に想定できるのはこのくらいだ。想定する必要も無いけれど。
『喰わんのか?』
「え? ぁ……あぁ、食べ物なの?」
『貴方好みの菓子だ、見えていなくても喰えるだろう』
袋を漁り、中に入っていた菓子らしい物──棒状の物を取り出す。包み紙を剥がして口に運ぶ。もちもちとした食感と、大抵の人間は「くどい」と嫌うであろう甘み、生地に包まれていたらしいトロっとした液体を感じる。
「……おいしい」
『気に入ったか? 良かった』
「ん……ベッドにこぼしてない?」
『今のところはな。降りるか?』
「うん……」
アルの尾が太腿の下に滑らされ、腰に巻き付き、僕を座った体勢のまま床に下ろした。どこからか紙ナプキンを持ってきて僕の膝の上に乗せさせる。
「買い物、どうだった?」
『……どう、とは? ただ店に行って必要な物を買って来ただけだ、感想も報告も無い』
「僕には一緒に居ない時のこと話せって言うくせに」
今日は暇だし、アルが買ってきてくれた菓子のおかげで夕飯まで部屋から出なくていい。少し悪戯してみよう。
『そうは言ってもな……何も貴方の耳に入れるようなことは……』
「アル、僕が女の人に近付かれたり触られたりしたら怒るよね?」
『怒ってはいない。腹が立つだけだ』
怒ると腹が立つの違いはイマイチ分からない。僕を責めていると言うより、駄々をこねているようだと言うなら分かるけれど。
「アルがヴェーンさんと買い物行ったり、店員さんと顔合わせたりするの、僕も怒っていいよね?」
『……今日は量が多かったし、メモだけでは買い切れない物もあったからだな……』
「…………言い訳?」
的外れな事にでも嫉妬する……か、案外楽しいな。アルがしつこくなる気持ちも分かる。
『違う! 私だって、買い物は貴方と行きたい!』
「…………ふふっ」
アルの必死な声に思わず笑いが漏れる。
『……ヘル?』
「あははっ、ははは……もう、面白いなぁ、そんな必死にならなくても本気で怒ってないよ、怒るわけないじゃん」
『なっ……! ヘル! ふざけないでくれ! 私は本当に貴方が……あぁ、もう…………知らん!』
「そんなに怒んないでよアルー、可愛かったから、つい、さぁ? あはは、ごめんごめん」
脛の上にアルの顎が乗る。不機嫌そうに唸って、ぐりぐりと頬を擦り付ける。
二つ目の菓子を食べ終え、三つ目の包み紙を剥がして床に捨てる。
「少しは分かった? 僕がアルに「女の匂いがする」とか言われてる時の気持ち」
『…………済まない。だが、どうしても……他の者の匂いが付いているのは我慢出来ん』
「愛されてるって思えるし、あれ自体はいいんだけどさ。あの時のアル声低くて……怒ってるって思うと、どうしても、僕……怖くて、さぁ。殴られるのかな、蹴られるのかなって、思っちゃって……」
幼少期の経験で身に付いた考え方のクセはその原因が暴力を振るわなくなっても治らない。
「もうちょっと、声とか、唸り方とか、気にして欲しいなぁって」
『済まない……貴方が怯えているとは分かっていたんだが、何に怯えているのかよく分からなくて。気を付ける』
「ん、いいよいいよ。謝らないで。後さ、匂い気になるならもっと僕に擦り寄ってよ、そしたらアルだけになるでしょ?」
縄張りを示すように僕を束縛して。
『……そうだな。貴方が食事を終えたら、たっぷりと……』
三つ目を食べ終え、四つ目の包み紙を剥がして床に捨てる。何だか身体が熱くなってきた気がする。
『……ん? ヘル、包み紙……少し見せてくれ』
手探りで床に散らばった紙を拾って、アルの頭の辺りに持っていく。
『…………アルコールが入っている。気が付かなかった……ヘル、気分は?』
「……アルコール?」
『そうだ、平気か? 四つ喰ったな……一つの量が、えぇと……』
四つ目を食べ終えると流石に腹が膨らんできた。僕は僕の足を跨いでオロオロと紙を弄っているアルの頭を抱き寄せて、額に頬擦りした。
「アルコールって……なんだっけ。アルコール……アル? アル……ふふっ」
『ヘル? 吐き気や頭痛は無いか? 気分は悪くないか?』
「コールぅー……ふふ」
『……気分は良さそうだな』
その通りだ、とても気分が良い。様々な悩みの種がボヤけて見えなくなっているような感覚だ。悩み過ぎる性格も、他人を気にし過ぎる性分も、今はない。
「ご主人様って呼んでごらん?」
『……ど、どうしたんだ。ヘル……酔ったか?』
「ご主人様って呼ーぶぅーのぉー! ほら、言えよぉ、おっきい口ぃ! あはは牙すごーい!」
アルの口周りを撫でて、皮を持ち上げて牙をなぞる。鋭く尖った牙は見えていなくても恐ろしいものだったが、今は何故か笑いが込み上げてくる。
『絡み上戸、いや笑い上戸……? 楽しそうで何よりだ、ご主人様』
「あははっ、そうそうご主人様ぁー! 僕ご主人様なんだぁ、はははっ、変だねぇー」
『変、か? 私は貴方以上に主人らしい主人は居ないと思うぞ』
「やだぁーアルが褒めるぅー! 僕愛されてるぅー!」
『……楽しそうで何よりだ』
アルは僕から菓子が入った袋を取り上げ、僕の胴に尾を巻いてベッドに上げる。真ん中に寝転がされ、アルは隣に腰を下ろした。
「もっとこっちおいでよアルー……ご主人様が寂しがってるよー?」
『…………貴方は酔った後眠ると記憶が無くなる部類の人間だろうか。それなら、貴方にとっては幸運だろうな』
「抱き枕になってよ、眠い……」
『……全く。良かったな、私が万年発情期の生き物でなくて。ほら、好きなだけ枕にしろ。但し、私の上で吐くなよ』
「おやすみー」
『おやすみ…………先程まで眠っていただろうに。猫のようだな、貴方は』
酔いでボヤけ、眠気で薄まった意識。ゆらゆらと暗闇に沈んでいくような眠る直前の感覚。
優しいアルの声で心が満たされて、その暗闇にも温かさが宿った。




