この世で一番嫌いな人間
・魔法の国跡地
痣だらけの腕を掴むと、僕の偽物は目を硬く閉じて歯を食いしばった。僕には分かる、この仕草はこれから来るであろう痛みを待っているのだ。それなら痛みを与えてやらないと。
僕は持っていた「優しくなる方法」の本で偽物の頭を殴った。
『ヘル! 止めろ! 何をしているんだ、貴方自身に向かって……』
「こいつは僕じゃない!」
『見た目は同じだろう、仕草も同じだ。貴方の複製と言って遜色無い筈だ。それを殴るのか?』
アルは僕の腕に尾を巻き付け、僕の暴力を止めている。偽物は声を殺して泣き始めた。
「だって……こいつ」
『まだ何もしていないだろう』
「ムカつくんだよ! 気持ち悪い、見てると虫唾が走るんだよ!」
『殴った理由はそれか?』
「…………そう、だよ。そうだよ! それが何!?」
鬱陶しくて、気持ち悪くて、どうしようもなく心を掻き乱される。だから、それを解消する為に殴った。
『……兄と同じだな』
「え……? な、何それ。何言ってるの、アル……」
『兄と同じだ、と言ったんだ。腹が立ったから殴る、気に入らないから暴力を振るう。貴方を虐げてきた貴方の兄と全く同じだ』
何を言っているの。僕は兄とは違う。あんな酷い人間じゃない。そう言いたいのに僕の口は開いてくれない。
偽物の腕を掴んだ手から力が勝手に抜けて、偽物はその場に蹲った。頭を抱えて、肩を震わせて泣いていた。兄に暴力を振るわれた時の僕のように。
『…………大丈夫か?』
アルはそんな偽物に優しく声をかける。
「……アル?」
『ごめんなさい、ごめんなさい……』
『もう平気だ、顔を上げろ。大丈夫だから、ほら、大丈夫……もう誰も貴方を傷付けたりしない』
「何してるの? ねぇ、なんでそいつに構うの? それ、僕じゃないよ?」
見た目が似ているだけ。身体を裂けばあの黒い粘着質な液体が詰まっているはずだ。
なのにアルはどうしてそんな紛い物に構っているのだろう。理解出来ない、したくない。
『……なぁ、ヘル。私は心優しい貴方が好きだ。自分よりも他人を重んじてしまう貴方が愛おしくて堪らない。ヘル、今の貴方は何だ。私が好きな貴方では無い』
「…………何、それ。そいつの方がいいってこと? そんな……偽物がいいの?」
『違う。冷静に考えて欲しいんだ。自分と同じ見た目の物を見て取り乱すのは分かる。だがもう落ち着け、早くいつもの貴方に戻ってくれ』
いつもの僕って誰?
心優しくて、自分より他人を重んじる。それが僕なの? そんな防衛人格が僕なの? アルはそう思ってたの?
僕は身勝手な奴なのに。どうしようもない屑なのに。それがバレたくないから気を使っていただけなのに、アルはそれを気に入っていたのか。
狙い通りのはずなのに、心にぽっかりと穴が空いた。
『……ヘル? 落ち着いたか?』
「…………もういいよ! そんなにうざったい僕が好きならそいつといろよ! もういい! アルなんか知らない!」
『ヘル!? 待て、待ってくれヘル!』
開け放たれた扉を抜けて、家を飛び出すと硬いものにぶつかった。転んだ僕を追いかけてきたアルが心配そうに見ていたが、僕はアルを無視して立ち上がった。
『どないしたんな頭領はん。そない慌てて……なんかありはったん?』
「茨木……ごめん、ぶつかったよね」
顔をぶつけたのは茨木の胸だったらしい。その割に硬かったような……いや、そんな事をもし口に出せば失言では済まされない。余計な思考をするな。
『うちは平気よ。で……狼はん。なんかあったん?』
『少し……な』
僕は茨木の背後に隠れ、アルを睨む。
『喧嘩しはったん?』
茨木は僕とアルの不自然な態度に戸惑っている。けれど僕には彼女に状況を説明する心の余裕が無い。アルもまだ整理出来ていないようで、言い淀んでいる。
そんな僕達の前に偽物がゆっくりと姿を現す。
『……あれ、頭領はん?』
「違うよ、僕はこっち。あれは僕のにいさまが作った偽物。アルはあっちの方がいいんだってさ、茨木は?」
『そらこっちやろ』
茨木はキョトンとした顔のまま僕の肩に腕を回した。僕は嬉しくなってその腕に抱き着いた。
『違う、ヘル。私は別にヘルもどきの方が良いという訳では無い』
『もどきはん不味そうやしなぁ』
『ま、不味そう……!? な、なに、なんなのこの人……ねぇ、狼さん。何がどうなってるの?』
偽物はアルの翼を引っ張って自分を隠す。どうやらアルが自分を傷付けないと理解したらしい。頭が悪いくせに妙なところで知恵が働く。僕と同じだ。大っ嫌いだ。
「……ほら、アルが好きなうざったい僕がアルを頼ってるよ。慰めてあげなよ」
『…………ヘル、違うんだ、私は……』
「行こ。茨木」
『ええのん?』
「いいの。アルはあれが好きみたいだし、僕はもう好きじゃないんだって」
『ふぅん……?』
茨木は腕を組んでも嫌がらない、手を繋いでも振りほどかない。義肢とはいえ感触は本物と遜色無い。
アルは僕を追わず、偽物に話しかけていた。僕はその様子を横目で流して、茨木の腕を抱き締めた。
「……っ、アルの、ばか……」
『頭領はん? やっぱりちゃんと話した方がええんとちゃう?』
「いい。だって……アル、もう僕のこと要らないんだよ。話したって、意味ないよ。きっと無視される。あっちと楽しそうにしてるもん」
『……せやね。楽しそうや。せやったら泣きな、男の子やろ? ほーら、泣きやみ』
茨木は僕を比較的綺麗な瓦礫に座らせ、自分もその隣に座った。優しい声をかけられて、頭を撫でられると、ますます涙が溢れてきた。
『しゃーない子やねぇ』
「ごめんなさいっ……ごめんなさい、泣き止む、から、嫌いにならないで。見捨てないで…………もう、僕にはアルが居ないんだ、お願い、見捨てないで……」
『見捨てへん見捨てへん。好きなだけ泣いとき』
「…………さっき、泣くなって」
『泣いとる子ぉ居ったらとりあえず泣くな言わへん? 泣いとったらなんで泣いとるかも教えてもらわれへんからなぁ、ちょっと泣き止んでもらわんと話出来へんから。頭領はんがなんで泣いとるんかは大体分かったし、うちが口出すようなもんでもあらへんし、せやったら好きなだけ泣いてもらわななぁ』
僕はその言葉に甘えて、茨木の腕を抱いたまま泣いた。
「僕……茨木みたいなお姉さん、好きだな」
『そら光栄やわぁ』
くすくすと笑って大人の対応をされてしまった。けれど、こんな気の迷いのような告白はそんなふうに流してもらった方がいい。後の為にも。
泣いて泣いて、喉が痛くなる頃、後ろから頭を小突かれた。
『何しとん自分』
『酒呑様。お話終わりました?』
「…………ぁ、酒呑。ち、違うよ? 別に……そ、そういうのじゃないからね? ただ話に付き合ってもらってただけで、そんな……」
『おー終わった終わった。ほんまかなんであのハエ。上げて上げて落とす、っちゅう話し方しよるからな。で、や、頭領。ちょっと顔貸し』
弁明は意味をなさず、首に腕を巻かれて家の壁だったらしい瓦礫の裏に引きずられた。ようやく離された後も胸倉を掴まれ、逃げ出す事は出来なくなった。
『で? 何話した』
「な、何も……ほんとに、ちょっとした相談だよ。アルと色々あって……その話」
『ほーぉ、好きや言うとったんは俺の聞き間違いか。そらえらいすんまへんなぁ』
「き、聞いてたの? 意外と意地悪い……あれも別に、口説こうとかそんなんじゃなくて、人間として好き……みたいな?」
酒呑は僕の服から手を離し、自分の額にあて、深い深いため息を吐いた。
『……茨木はやめとき頭領。あんっの男たらしはタチ悪いで。惚れるだけ惚れさして放っとくわ誘惑するだけしといてなーんもせぇへんわで最悪やで』
かと思えば僕の両肩に手を置き、諭すように話す。
「だからそういうんじゃないって」
『いーや頭領、危ないで。茨木は相手の好きそうなイイ女に化けんのが上手いんや。このままやったらコロッといってまうで』
「い、いかないって」
『いやいやいや、よぉ聞き頭領。茨木はな……』
『酒呑様? 何話してはるん?』
瓦礫の影からひょっこりと顔を出す。いつから聞いていたのか、と聞くのは野暮だろう。そう離れてもいなかったのだから、先程の酒呑と同じく最初から全て聞いていたに決まっている。
『…………茨木がどんだけ男たらしか』
『嫌やわ酒呑様。うちは女もたらしますよ。酒呑様の命令でしたら……なぁ?』
『……そっち本業にして欲しいわ。女の方が美味いし』
『うちに釣られるようなん男も女も阿婆擦ればっかりやねんから贅沢言いなや。両方同じくらい連れてったってたやろ? 第一この格好せぇ言いはったん酒呑様やし』
会話に食人の気配がする。
僕はそっと彼らから距離を取り、生々しい人肉についての会話を聞かないように耳を塞いだ。




