第二十章 番外編その三
・人魚の信仰
妖鬼の国には四季があり、また国を二つに分けるような山脈のせいで北と南で気候がかなり違っている。
南側は一年を通して晴れが多く、平均気温も高い。
北側はその真逆。北側に住む者は曇っていれば「天気がいい」と言う。
俺が産まれたのは妖鬼の国の北側の海辺の村だ。
母親はその村で捕れた人魚。
父親は知らない。村の者だろうとは思うけれど、誰かは母にも分からないらしい。
人魚の幼体、つまり産まれてすぐの俺は手のひらに乗る程度の大きさだった。
母が住んでいた……いや、監禁されていた物置は薄暗く、物置の名に恥じず物が多く、俺が隠れる場所はいくらでもあった。
人魚は人間のように腹を膨らまして妊娠はしないし、水に浸けておけば勝手に成長する。食事が必要になるのは生後一ヶ月を過ぎてからだ、もちろん個体差はある、俺は三十二日だったそうだ。
俺はその村を出るまで人間というものを知らなかった。
というのも、その村の住民は人間ではなかったからだ。
深きものどもと言うんだったか、足の生えた大きな魚や蛙のような、俺が見たのはそんな奴らだった。
物置の床に穴を掘り、そこにビニールシートを被せ、端に重しを乗せ、水を流す。
簡易池の作り方だ。
母はそんな場所で村の男達の相手をしていた。望んではいなかったが、人魚は陸上ではそう動けない。逃げられないのだから仕方がなかった。
俺はその様子を物陰で見ながら、母が分け与えてくれる少しの食料を食って生き延びた。
ある程度の大きさになって、知った。
他人に意志を伝える時は声を出さなければならないのだと。
俺は生まれついてのテレパスで、母もそれを分かっていて、俺達はいつも声を出さずに会話していた。
だから母に教わるまで俺が異質な能力を持っているとは知らなかった。
俺はどんどんと大きくなって、物陰に隠れる事が困難になっていった。それでも必死に体を縮こまらせてはいたけれど、ある日見つかってしまった。
俺はその日初めて物置小屋の外に出た。
一緒に引きずり出された母は村人達に必死に許しを乞うていたけれど、俺は流れ込んでくる醜い感情達で頭がパンクしそうになっていた。
今までは一人か二人ずつでしか俺の能力の範囲内には来なかったし、浴びた感情だって母への情欲と支配欲しかなかった。
だから他人の感情を浴びたのはこれが初めてだ、と言っても過言ではない。
外の世界に、視界に目を向ける余裕などなかった。
──私はどうなってもいいからどうかこの子だけは
そんな感情を持った母が俺を抱き締めた。村人達に向けて口をパクパクと動かした。
けれど、母の愛に喜ぶ暇なんてなかった。
次の瞬間には母の声も感情も止んで、母の頭が隣に落ちた。ごぽごぽと溢れた血が口の中に少し飛んで、飲んでしまった。
見上げれば、鉈をもったイモリのような顔をした男が立っていて、鉈にまとわりついた血や肉片を太い指で掬って舐めていた。
人魚の血肉に不老不死の効能があるなんて話を後に知った。
俺は母が目の前で殺されて、生まれて初めて声を上げた。
今までは話す必要なんてなかったから、声を出せば見つかってしまうから、自分の声を聞いた事がなかった。
意味のある言葉を話した訳ではない。ただ音を出しただけ。
美しく、哀しい音を出しただけ。
ただそれだけで、再び鉈を振り上げた男は膝をついた。手の力も抜けたらしく、鉈が俺の隣に降ってきた。
俺は地面に刺さった鉈を引き抜いて、男の頭にめり込ませた。
人魚の血肉を喰ったからか、はたまた元来の特性か、めり込んだ先から肉が繋がっていく。その様は少し気味が悪かった。
村人はざわめき、流れ込む感情に困惑が混じるようになった。
──アレの喉は潰していない
──歌われた
──また声を出される前に早く殺さないと
中でも俺が気になったのがそんな声だった。
歌われた……俺が歌って村人達が困るのなら、俺は歌えばいいのだろう。
歌い方なんて知らないけれど、さっきと同じように声を出せばいいのだろう。
俺は大きく息を吸い込んで、向かってくる村人達に喪失の哀しみを聞かせた。
村人達は俺に近かった者から順に崩れ落ち、呻き声を上げて頭を抱えた。
俺は母の頭を持って、片腕で這いずって村の外を目指した。
母によく似た美しい鱗は砂利道に削られて、母と違って水掻きの生えた手は爪が剥がれて、嗚咽を漏らしながら俺は岬に辿り着いた。
本能的に海を求めた体が勝手に動いた。
芽生え初めて踏み躙られた心が海の様子を観察した。
海は酷く荒れていて、真下の岩場は鋭く尖っていた。
俺は数秒考えて、母の頭を抱き締めて海に飛び込んだ。
母の仲間に母を届けられたら、それだけを思って。
岩に刺さって死ぬならそれでいいし、死ななかったら母の仲間に挨拶をしてからまた改めて死ねばいい。
生きようとは思っていなかった、母はそう望んでいたけれど、俺は真逆を望んでいた。
あの村から解放されても俺の能力は消えない。村人達の悪意を知れば、他の誰もがあんなだと思えば、生きる気力なんて少しも湧かなかった。
目が覚めてまず、生きている事に落胆した。そして次に初めて見た青い空に感動した。妖鬼の国の空は灰色だったから。
死んではいないけれど酷い怪我をしていた。ギョロギョロと目を動かして、赤黒く染まった白い砂浜と赤が流れていく青い海を見て「寝ている間に死んでいたら楽だっただろうな」と他人事のように思った。
目以外は動きそうにないし、このまま出血多量を待つしかない。
そんな俺を見つけた者がいた。
「君! あぁ酷い……大丈夫かい?」
青い瞳の、白い髪と髭の、優しげな老人。
感情は…………俺の心配をしている、ただそれだけだ。
老人は俺が初めて見た人間だった。彼は人間だと言うのに俺を見て気味悪がりもせず、ただ傷を心配してくれた。
……なんだ。
他人は敵だけじゃなかったんだ。
知っていたら、死のうとなんてしなかったのに。
俺が漂着したのは正義の国で、俺を拾ったのは神父だった。
「おじーさーんおかえりー」
「あぁただいま、すまないね、この子の手当をしなきゃならないから今君の相手は……」
「お魚さん! 晩御飯?」
「……今日からの君の兄弟だよ」
「おとーとー!」
「…………この子にもよるけど、君には兄の方がいいんじゃないかなぁ」
老人は騒がしい子供を締め出し、静かな部屋で俺の手当をした。
手当をしながら老人は独り言のように先程の子供を紹介した。
零という名前で、牢獄の国に派遣されていた時教会の前に捨てられていた子なのだと。その境遇の割に明るい子で元気が過ぎて困っているとも。
「……君も今日からここの子だよ」
手当が終わった後、老人は「水槽と君に詳しい人を探してくる」と教会を出て行った。零に「ジョウロで時々水をかけて」と言いつけて。
乾いたからどうなる、とは俺も知らない。けれど一晩中水から離れていた事もあるし、緊急を要するものではないとは思う。
「今日のご飯お魚さんがいいなぁ、君は何食べたい?」
「俺見て魚言うとるん?」
「お魚さんお名前はー?」
「人の話聞かんやっちゃな」
名前……名前、か。そういえば無かったな。
母は俺の名前を考えもしていなかった。名付けられてもいないのだろう。
「…………無い、なぁ」
「ない? ないって言うの?」
「んな名前のやつ居らんて。あらへんねや、俺名無しやの」
「ななしっていうんだね」
「……おじいさんはよ帰ってきて欲しいわ」
「ないななし君ないななし君、お魚さん好き? 零は今日のご飯お魚さんがいいんだ。お魚さん好きならないななし君もおじーさんにお願いしてほしいな」
「魚に魚食えてよう言えんなぁ、尊敬するわ。は? あぁ……ええ人やと思うよ」
零と話すと疲れる。けれど、幼さ故か裏表がないから、心無い心の声に傷付く事もなかった。
老人は夜になってから夕食と水槽を持って、神学者だと言う男を連れてきた。
「この人はえらい先生なんだよ、きっと君が何かも分かる…………分かりますよね? 先生」
老人は水槽に水を入れ、その中に俺を入れ、振り返って男を見上げる。
『えぇ……勿論』
男は身を屈め、俺にしか見えない位置でにぃと気味悪く微笑んだ。
『……面白い。イイねキミ。色々と使えそうだ』
彼の瞳を見つめ返す。深淵を覗いているような、そんな気分になる。
彼の感情は──
『これをあげよう。遊ぶ前に壊れたら大変だからねぇ。でも時々は外してみなよ? とっても醜いものが聞こえてくるから、さ』
男は僕の両耳にイヤリングを付けた。その途端、今まで聞こえていた老人の感情も零の感情も、聞こうとした男の感情も聞こえなくなってしまった。
「先生? それは?」
『……感受性の強い子で』
「はぁ……?」
「ないななし君はねー、お話しなくてもお話しできるんだよ! ねぇぷーちゃん! そうだよね!」
『へぇ、勘のいい子だ。待て……ぷーちゃん? 待って、待ってぷーちゃん? え?』
零は俺の能力を分かっていたのか?
いつ分かったんだ? まさか似たような能力を持っているのか?
知りたくても、俺にはもう心の声は聞こえない。
「零がねぇ、喋らなくてもねぇ、ないななし君はお返事してくれたんだよ! おじいさんどうって心の中で聞いたら返事してくれたんだ! すごいよねぇ。ねぇぷーちゃん、なんでなんで?」
話さなくても返事した? そうか、零のめちゃくちゃな話に疲れて声の聞き分けがつかなくなって口に出していないことまで答えてしまっていたのか。とんだドジを踏んだ。
『……ぷー……ちゃん』
「こ、こら零! やめないか……先生に向かってそんな。すいません先生」
『……ぷーちゃんかぁ』
零は老人に抱きかかえられ、口を押さえられ、ばたばたと手足を振り回している。
『うん、悪くない。ぷーちゃんでいいよ』
「え……せ、先生?」
『ぷーちゃんだよー』
「先生!?」
『……さて、冗談はここまでに。キミ、妖鬼の国って知ってる?』
男は突然真面目な顔に戻り、老人に向き直る。
「ええ、ここから東の……えぇと、島国で、独特の文化と妖怪変化が起こる国でしたか」
『正解。この子はその妖怪だ。正確には人魚と言い、人を惑わす美声で船を沈める生き物さ』
後半の情報は俺も知らない。歌に何かあるとは思っていたが、そんな物騒なものだったなんて。
『……妖怪ってのは、正義の国ではちょっと、問題があるよねぇ? 言い方が違うだけで魔性なワケだし』
「…………処刑、ですか? そんな……この子はまだ、こんな小さいのに……」
『ボクが今からこの子に人間に化ける方法を教える。海水に触れれば解けてしまう淡いものだけどね』
「え……?」
『神を信じる者は皆平等だ。それがこの国のルール、この国の正義だ。けれど……神が許しても、ボクが許しても、世間は彼を許さない。だから世間には偽らなければならない。この偽りは神の思し召しだ』
「思し召し…………先生が、仰るのなら、そうなのでしょう。分かりました、この子を人間として……」
男は俺に向かって指を突き出し、クルクルと動かした。すると体が熱く芯が燃えるようになって……気付けば魚の尾が人の足に変わっていた。
『えぇと、ナイナナシ君? でいいの?』
「いや、それはアイツが勝手に……俺は無いとか名無しとか言うただけで」
『名前が無いの? ふぅん……ふふ、ナイナナシって名乗る?』
「嫌や」
『そう。じゃあ……葛はどう?』
「ツヅラ?」
『竜一』
「……リョウイチ?」
『葛・竜一。でどう?』
その日、俺に名前が付けられた。
零は俺を「りょーちゃん」なんて呼ぶようになった。
俺の厄介な能力を封じ、俺に人間に溶け込む術を教え、俺に名前を与えた。彼の心は読めなかったが、当時俺は彼を善人だと信じて疑わなかった。
俺はその後、零と共に神学校に入学した。
幼少のあの日々から抜け出して、幸せを知った。だから神を信じられたし、神を素晴らしいとも思うようになった。
「ねぇねぇりょーちゃん、帰りにアイス食べよー」
「買い食いは鞭打ち百回やろ? 嫌や」
「じゃあ帰ってからアイスー」
「修行中は嗜好品禁止、破ったら留年」
俺は創造主を信仰していた。心の底から、誰よりも。それは揺るぎないものだった、そのはずだった。
けれど、奇妙な悪夢を見るようになってからそれは変わった。
「…………零、れーい」
「んー……何ー? まだ夜なのにぃ……零眠い」
「なぁ零……ここ、ここは、陸の上……やんな? 海の底ちゃう、よなぁ」
「……また変な夢見たの?」
幼少を過ごしたあの村の村人達と共に海を泳ぐ夢。
暗く冷たい海の底、気味の悪い都市を目指す夢。
「夢は夢だって」
「けど……」
「……ぷーちゃんに言ってみる?」
「あぁ……」
「明日、ね? 今日は寝よ」
「寝たら……また」
何度飛び起きても、何度寝直しても、悪夢を見続ける。同じものを繰り返し見たり、細部が違っていたり、泳ぎの途中から見たり、海面から始まったり、それはバラバラだったけれど内容はいつも同じだった。
『ふーん……』
「…………ぷーやん何でも知ってはるんやろ?」
「ぷーちゃん、りょーちゃん寝不足でクマできちゃったんだよ。零も起こされてるからできそう……」
「アンタは布団被ったらすぐ寝るやろ」
俺の名付け親の男は神学校で臨時教師を勤めていた、俺が何かの拍子に変身を解いた時の為なのだと。全く頭が上がらない、素晴らしい人だ。
『ようやく始まったか。遅いくらいだね』
「……どういう意味や?」
『キミには深きものどもの血が流れてる、あぁ、知らない? 半魚人だよ。そいつらの説明は今はそれでいい。それより重要な事がある』
俺が村人達の種族名を知ったのはこの時だった。
『……海の底には何があると思う?』
「気味の悪い……建っとるんかなんなんかよう分からん家っぽいやつがいっぱい」
『ふぅん、ふんふん……その場所が理想郷だと思うようになったらアウト。キミはそこで創造主とは違う神様を崇めなきゃならない』
「…………は?」
『崇めなきゃならない、ってのはおかしいかな。理想郷に思えるようになるほどに精神がイッちゃったら、キミは彼らの仲間入りだ』
意味が分からなかった。ただ、ニヤニヤと嫌らしい笑みを浮かべてする話ではないとは分かった。
男はとうとうおかしくてたまらないと笑い出し、膝を叩いた。
「ふざけないでよぷーちゃん!」
『……キミ、天使に気に入られたんだって? 今度の昇級の日に加護まで与えられるそうじゃないか! ふざけたフリしてあざとい子だ。分かってるんだろう? ボクが何なのか……』
「なんのこと? 今はりょーちゃんを……」
『れぇぇーいっっ君! なぁ零、凍堂零よ! キミは親友を守りたいのかい? 親友を遠くに行かせたくないのかい? だったら教えてやるよ人間! 愚かで愚図で愛しい人間さんよ!』
男は突然声色を変え、零に掴みかかった。
止めようとしたが、俺はさっきの話をまだ消化出来ずにいて、弱々しく男の裾を引っ張っただけに終わった。
『キミが引き留めてやれよ! キミが神を信じさせてやれよ! キミがしっかり見張ってやれよ! そうすりゃリョウは人間だ! キミと同じ、ボクがだぁいっ好きな、に、ん、げ、ん』
「……どうやったら、止められるの?」
『腕に杭でも打ち込みゃ嫌でも止まるよ、あっ、嫌? 嫌かぁ、なら見送りなよ。海の底は寒くて暗くて怖くて寂しくて冷たいよ? そんな所に親友が行っちゃうのを見送れよ!』
男は零を突き飛ばし、見下して笑っていた。
『貰えるのは雪の加護なんだろ? いくらでもやれるじゃねぇか。頑張れよ神父の卵共! あっははは! ボクが神学者になれるような国だ! その学校にどんな意味があるんだが、神職者って何なんだろうなぁ! あっははっ! 愉しみにしてるよリョウ君レイ君、友情ってやつを見せてよね』
男はそのまま部屋を出て行った。
その時の俺には彼が何を言っていたのか、八割方分からなかった。
けれど零は違った。何もかも分かっていた。
零には全て理解出来ていた。
だから、神学校を卒業して正式に神父になって、配属先が変わった時は大騒ぎしていた。
喚いて喚いて、ようやく落ち着いたと思ったら俺を問いつめた。その時の俺には問の意味すら理解出来ず、適当にあしらおうとしていた。
「ねぇ、りょーちゃん。行かないよね? 親友置いて、遠いところに行っちゃったりしないよね?」
「はぁ……? 配属先の国は結構離れとるけど。寂しいんやったらちょくちょく顔見せに行くし、アンタも来たらええし、どっか行ったりはせぇへんよ」
「……どこにも行かない?」
「行けへん行けへん」
「…………約束ね」
「はいはい」
それを約束すると零はようやく納得し、俺達は別々の国の教会に勤めた。
男の言葉も、零の約束の意味も、今なら分かる。
俺も全てを理解出来た。理解せざるを得なかった。
今はもうあの海底都市は俺の理想で、あの場所で死んでいるモノこそが俺の主だ。
零との約束は守れそうにない。