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悪戯を企てし者

・ヘルヘイム




再びの地響き、飛び散る黒い腐肉、幼い女の子の怒りの声に、腹の底まで響く雷の音。


『あっぶな。まぁ助かったぜ、ありがとなトール』


『……外した』


『お前、まさか俺様狙った?』


『…………いや、狙ってない』


トールはふいと目を逸らし、人を疑うことを知らない純真無垢な子供ですら騙せないであろう嘘をつく。


『今はそんなことしてる場合じゃねぇんだよ、帰ったら相手してやるから今は俺の作戦通りに動け、いいな』


トールは黙ったままロキを見つめる、その表情に変化はない。


『何でそんなに嫌がんだよ! 下手すりゃ一生ここに閉じ込められるんだぞ!?』


トールは少しも感情を表に出さなかったが、ロキには不満が分かったようだ。


『いいか、まずお前はここでヘルを引き付けといてくれ、その間に俺がお姫様を回収してくる。そしたら一緒に脱出だ。ヘルに門を閉じられるとまずいからな……ヘルの意識を門にいかせないように注意してくれ、一応アルに見張らせるけどな』


『……つまり、俺は何をすればいいんだ』


『今言っただろ!? 聞いてたのか俺の話!』


『聞いていた、が、長くてよく分からん』


『俺がいいって言うまでここで暴れてろ』


『分かった』


覆いかぶさってきた黒い粘液を槌を振るった風圧で飛ばし、地面に紫電を走らせる。


『なんで、なんで!? なんでヘルのもの盗ろうとするの!? ここには何にもないのに、やっと手に入ったのに!』


無限に地面から湧き出る腐肉は女の子を包み、守っている。

ロキは自分がここから離れていないと女の子に勘違いさせるため、トールが死角に回りこんだ隙に術を施した。


『我、幼稚にして陳腐な悪戯を企てし者。我ここに偽る、この者は我であり我はこの者であると』


素早くそう唱えると、アルの元へ跳ぶ。

だが、アルの横に着地した者はトールの姿をしていた。

そして槌を振るっている者はロキの姿をしている。


『貴様は……ロキ、か』


『変身術は自分も他人も得意でね。さて、アル。お前にも作戦を伝えたい』


雷神の姿をとったロキは、アルに耳打ちする。


『私の主人を取り返すというのに……門で待て、と言うのか』


『ヘルの出す黒い肉に呑まれたら一発で死んじまうからな、神ですら素手で触れるのは危険なんだよ。それに、取り返してきても門を閉められたら終わりだろ? ヘルが閉めようとしたらどうにか妨害してくれ』


『………分かった。貴様に任せるぞ』


アルはぐるりと引き返し、門へと走る。

ロキは空を駆け、この国の中心──巨大な屋敷へと急いだ。




何も見えず、身動きも取れず、腐肉の生温かさと臭いだけを感じている。

時折感じる振動、おそらく拘束される前にもあった地響きだろう。

女の子はどこへ行ったのだろうか、何があったのだろうか、僕はいつ解放されるのだろうか、自答できない自問だけが積もっていく。


ドクン、ドクン、と体に巻きついた管が脈打つ。

心臓に繋がっている訳でもないくせに、どこにどうやって血を運んでいるのやら。

体を包む物体の気持ち悪さに僕の思考が邪魔される。

いや、邪魔されなかったところで有益な考えには至らないのだが。


『おーい、お姫様ー、つーかヘルー、いるかー?』


気の抜けた声が聞こえた。

返事をしようと腹と喉に力を入れる、するとそれを阻止しようと腐肉が圧を強める。

腐臭を取り込み膨らんだ腹が押さえつけられ、破裂寸前の風船のようにひしゃげた。

喉の奥にまで入り込んだ腐肉は少しずつその体積を増やし、膨らみ、喉を内側から押し広げる。

それと同時に外側からも喉を圧迫される。

呼吸などとうの昔から禁じられ、声帯はおそらく今潰された。

死体が何を言う、なんて言われるかもしれないが、死んでしまいそうな苦痛だった。


『いないのかー?』


ああ、待って、行かないで、気がついて。

必死に祈る。

そして同時にこの素晴らしい洋館の一角に腐肉の塊があって、何故それを調べないのかと怒りも覚えた。


『我、幼稚にして陳腐な悪戯を企てし者。遊戯を愉しむ者は常に真実を視るべし、真実を虚偽で包み、他者を欺く。それこそが遊戯なり』


先程までとは打って変わって落ち着いた声、聞き慣れない言葉の並べ立てが終わると、静寂が訪れる。

帰ってしまったのかと絶望した瞬間。

ぐちょ、と耳元で音が聞こえる。

柔らかく水っぽい嫌な音は増えていき、頬に誰かの指が触れた。


『みーつけた』


愉しげな声が聞こえて、目を覆っていた腐肉が剥がされ視界が開ける。


『よっ、お姫様』


太陽のような笑みを浮かべる金髪の男。

見覚えのないその男は僕を引きずり出し、傷を見て顔を顰めた。


『酷ぇ怪我だな、まぁ体は治してあるからヘルヘイムを出りゃ大丈夫だ』


「あ、あの。誰……ですか?」


『ん? 分かんねぇか? 俺だよ、俺様。ロキだよ』


「え、あ……ロキ。え? でも」


その姿は一体どうしたというのか。

彼はもう少し幼く、黒っぽい見た目をしていたと覚えているのだが。


『あー、変身術だよ。得意だって言ったろ?』


「そう……だっけ」


『まぁんなことどうでもいい、早くここを出るぞ』


「そうしたら僕、生き返るの?」


『ああ、だから早く来い』


「アル、アル……は?」


『ちゃんと向こうにいるよ、早く来いって』


僕の手を引き、空を走り出す。

彼は空を走るなど容易なのだろうが、僕には不可能だ。

引かれた手、皮膚を突き破った骨が歪み、嫌な音を立てている。

痛みはないが違和感がある、全く気持ちが悪い。


遠くに聞こえていた地響きが、どんどん近くなっていく。

そのうちに目が痛くなるほどの稲光が見え、僕は久しぶりに地に足をつけた。

巨大な門の前にアルの姿を見つけ、思わず走り出した。

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