浅はか
・お菓子の国
メルは焦っていた。
あの魔獣の気配が追ってきている。町民達を振り切った……まさか、殺した? 人に飼われた魔物がそんな真似をするとは考えなかった。あの魔物使いにそこまで執着するキマイラがいるなんて思いもしなかった。
なんて考えの浅い! そうやって自分を責めた。
勢いよく自室の扉を開ける。気に入っていたグミの弾力も今では苛立ちを加速させるだけだ。天蓋付きのベッドの上でヘルは手枷を外すのを諦めて静かに泣いていた。
『ハァイ、まいだーりん! イイ子で待っててくれたみたいね?』
焦りと疲れで荒い息を感づかれないように、いつも以上に演技じみた言葉を吐く。そんな努力を知らないヘルはメルの言葉を無視していた。それに苛立ちを覚えつつも、メルはヘルを隠すために手枷を外す。
『逃げようとしたらぁ……分かってるわよね?』
脅しをかけるが、ヘルはそれを聞いていたのかいないのか、メルを突き飛ばしてベッドを飛び降りた。その行動は無意味だ。赤いドレスのスリットから細長く黒い矢印型の尻尾が現れ、ヘルの足首に絡みつく。
『逃げるなって言ったのにぃ、酷いわ』
「嫌だ! 離してよ、アル……アル、助けて」
『泣かないでよ、別にとって食おうってわけじゃあないのよ?』
「………やだっ…… 離 せ 、よ」
先程まで人間らしくない力でヘルを捕まえていた腕から力が抜ける。一瞬だけ、メルの動きが止まった。逃げ出すのにその時間は十分すぎた。
グミでできた城中を走る。ぐにゃりぐにゃりと沈む床や、血管を思わせるグミの形や色は平衡感覚を狂わせていく。角のない階段を滑り落ちて大広間に転がり出た。そこは人で溢れかえっていたが、誰一人として僕を見た者はいなかった。
「なに……これ。どうなってるの」
そんな呟きが虚しくこだまする。虚ろな目をして両手は垂れ下がり、口からは無理矢理押し込んだような菓子が漏れ出る、ここにいるのはそんな人間ばかり、恐怖に嫌悪感が勝り、このどこかグロテスクな城の内装も手伝って、胃の中身が上がってくる。
「ふっ、ぅ、ぁあ……気持ち、悪い……アル、どこにいるの」
ここまで走って体力も限界だ。先程から耳鳴りと頭痛が酷い、目眩もする。そう、丁度メルの腕を抜けた時からそれは始まった。何故メルは僕の手を離したのだろうか、そんな疑問は大広間の扉を壊す音と共に消え去った。
『みーぃつっけたぁ!』
嬉嬉として姿を現したメル。赤いドレスの隙間から蝙蝠のような羽や矢印型の尻尾が見え隠れする。赤い髪をかき分けて羊のような角が見える。羽、角、尾……まさか。
「………悪魔?」
『……その呼び方あんまり好きじゃあないのよ。アンタ達とそう変わらないのにさぁ! 勝手に悪魔悪魔って、嫌って! ホントむかつく! 姉妹みんなも! お母様も! お父様も! 神様も! 大っ嫌い!』
メルに蹴り飛ばされ、壁に背中を打つ。肺の空気が追い出され、喘ぎ喘ぎなんとか言葉を紡いだ。
「……ごめ、ん」
『…………はぁ?』
「気に、障ったなら……謝るから。だから、蹴る前に、何が嫌だったのかちゃんと教えてよ」
メルの発言に過去の自分と同じ孤独を感じた。
僕は少し前に独りではなくなった、でもこの娘はまだ独りなんだ。だったら、僕が僕にとってのアルのようになりたい。この娘の孤独を少しでも癒したい。先程までの恐怖を無理矢理に捨て、僕の方から歩み寄るんだ。
『なに、それ』
「少し前に自己紹介してくれたよね、あんまりちゃんと聞き取れなかったんだけど……その、メルで、いいんだよね」
『なんなのよ、アンタ』
「メル、ちゃんと教えてくれないかな、君のしたい事。協力出来るかもしれないしさ」
もっとも、この広間の現状がメルの仕業だとするなら協力すべきではないのだろう。それでも一度話をすべきだとは思う。逃げ回って、泣き喚いて、助けを乞うばかりじゃなくて、僕自身で解決してみたい。
『さっきまで逃げてたじゃない……なんなのよ、調子狂っちゃう』
「それはっ……君が手枷なんかつけるから、怖くなって。だっ、第一! 僕を攫ってきておいて、逃げられないなんて思わないでよ! 君が悪いんだからね!」
『分かってるわよ! そんな事……分かってる』
「あ……いや、ごめん。大声出して……」
ぺたんと床に座り込んだメルと目線を合わせる。そうだ、ちゃんと目を見て話さないと。
『……アナタの力を使って魔王になりたいのよ。そうしたら、嫌いなモノ全部消せるから』
メルは想像以上に簡単に口を割った。
「か、過激だね。嫌いなモノってさっき言ってたの?」
やはり協力出来ないかも……なんて口を滑らせないように気をつけながらメルの話を聞く。黙って頷いていればそれなりに話は進んでいく。
『そう、嫌いなの。むかつくの。いらないの。お母様のせいよ、お母様のせいで、ワタシは神様に愛されてない。悪魔だから』
「それで、その……君は。どうしたいの?」
何故母親のせいなのかは今はどうでもいい。
何故神に愛されたいのかも今はどうでもいい。
僕が知りたいのは理由ではなくその先だ、動機ではなく求める結果だ。下手に理由を聞くと同情して非人道的行為の片棒を担いでしまうかもしれない、先に望む結末を聞いて冷静に判断しなければ。
『どうって、さっき言ったでしょ? 嫌いなモノ全部消したいの』
「消した後は、どうするの?」
全部消すという時点で協力が出来ないことは決まったけれど、その先を聞いていけば省略が可能かもしれない。
『え? それは……ワタシの……好きなコトだけをすれば、いいの?』
「好きなことって何?」
『好きなこと……好きなこと、は……ない? そんな……だ、だってワタシ、お母様に、神様に……復讐してやろうって、全部消すって……それで……あれ?』
四枚の羽がぱたりと閉じ、尻尾は不安そうに揺れる。小さな肩が震えて赤い双眸が潤む。震える指が僕の肩を掴んだ。
『どうしよう……ワタシ、何にもない。だって……ずっと、恨みだけで……』
「メル……あの、僕」
何かを言いかけて、口を噤む。抱き締めようとした腕を、そっと下ろす。
目の前で泣くメルをどうしていいのか分からない。無責任に慰めていいのか。そもそも慰めていいのか。彼女はそれを求めているのか。悪魔であるメルに人間の僕が何か出来るのか。そんな葛藤が、疑問が、今更湧いてでる。
そんな僕が僕はたまらなく嫌いだ。優柔不断で、すぐ後悔し始めて──自己嫌悪に浸り始めたその時、グミの壁を壊す轟音が響いた。僕は思わずメルを抱き締めて、降ってくるであろう瓦礫から庇おうとした。
僕はその日、生まれて初めて他人を守ろうとした。