ランキング批判の正当性
ランキングが政治と勘違いされてるのか?と思う。止まない低俗批判に正直理解できない部分が有る。私は常に制度、運営側の問題だけを問う。その参加者に責任を問うのは間違ってる。無責任ではないか?それは勘違い。その理想は批判者側だけにある。それが政治と勘違いしてるんじゃないのか?って話しになる。
仮に娯楽が高みに上る事を是とするなら、ランキングは衆愚政治そのものだと言える。それが間違ってる。娯楽は受け手のニーズに答えるべきだ。そういったものを逸脱した独りよがりの一部の評価者による娯楽の有り方は頓珍漢な批判を繰り返す。私は無批判な人間でなんでも受け入れてるわけじゃない。一貫してずっと運営の問題を突いてる。
ただそれは運営がそうするべきだとは思ってない。運営がそれを重要だと思えばやれば良い。運営にはその兆しが見えているから。1つに転生転移タグの改革がある。運営には変えたいと思ってる意思がある。なら自身の批判はあながち無責任な利用者のクレームではあるまい。2つに恋愛カテゴリーの優遇。なろうファンタジーによるサイトの独占を良しと思ってないのはこれで明白だ。そこには多数派への要望に対する合理性すらない。
今回私は、一度どうしても書いておきたいと思ってこれを書いてる。以前も低俗でよい話はしたが、それはラノベの商品って目的があったからになる。無料サイトだとその軸が難しい。根本的に娯楽は低俗で良いって話がしたい。実際目的は低俗である事じゃない。ある目的のため低俗になる事は全く問題が無い。
それは気軽に楽しむって事になる。これは今から手抜きをして娯楽と向き合いますよって宣言と同等になる。手抜きは見栄えが悪いように選んだ。その妥当な使い方を変えるなら息抜きだ。そのニーズを満たす事をとても重要だと真剣に考えてる人がい無さ過ぎる。
政治との混同は妄想じゃないか?なら多少それはある。ただ論法がそれに近いというのがある、なろうで多数派に選ばれる作品は間違った方向性に進もうとしてるような論調が目立つ人が居る。その人の中で正しいあり方がある。価値観が単純に言えば違う。ただ価値観が違うとされてしまうと不味いんだ。それゆえ選択する政党に違いがあっても衆愚政治だとして批判すれば宗旨変えを可能に出来る。だから論法が似てくる。
だが似て非なるものだ、政治と違って誰も困らないんだ。当たり前でしょ?娯楽が生活に直結するか?そしてそこから逃げ来るから物語は機能してると言えるんでしょ?娯楽に誤った多数派の選択など無い。おそらく根底に良い創作のあり方って漠然とした思い込みがあると見ている。
確かにそれを是として認めたしよう。だが楽しむと言う結果に選択する前段階があり、その結果は常に満足するものであってほしいと多くの人は考えるはずだ。良いものより、平均的に外れないものを選択したい時どうするか?それが前もってある程度コントロールできれば良い。そこにあるんだ。例えば一番簡単なのはジャンルだ。ある程度イマイチでも好きなジャンルなら楽しめる。こうすれば外れがものすごう減る。今のファンタジーはある程度それを満たしてると言えると思う。
ジャンルが全てか?と言うと、ここで気軽に楽しむって部分前もって分かっていれば外れを抑えられる。これについては2つある。そもそも気軽な作品の空気感などを楽しむ自体がジャンル的な意味を持つ人も居る。もう1つは、作品を創る難易度が低くなる。メリットばかりじゃないか?その代わり気軽に楽しむ作品で、激しい感情は喚起しにくい。すべてを満たす神の創作ではない。
外れるリスクを減らすって点、そもそも気軽さが好みである点、こういった点から創作の古典的な良き発展は必ずしも正当性を持たない。これは理論的ではない。私の経験上になる。じゃ意味が無いじゃないか?そうは思わない多くの人はそれを漠然と思ってる。ある程度経験するとこれが自然と身についてくる。
多くの人は良き発展のための正統派作品を避けてるんじゃない。気軽に楽しめる作品を軸に作品を選択すると、そういった作品はこぼれおちることが多いって結果論に過ぎない。誰も結果に対して困ってる人が居ない。かりに私が、気軽に楽しめる作品は傑作との出会いを遠ざけると書いても、多分だから何?と返されるだろう。それはリスクに対するリターンに見合ったものなのか?と返された私は否と答えるしかない。多くの人は経験の中で、私が言語化したものを経験則としてもう掴み取ってる。
言葉によって、はっとする事はあるだろう。でも、おそらく知ったところで行動に変化は無い。体はすでにその事を知ってるからだ。
より良き創作の発展をした選ばれないランキングに何の価値があるんだ?だから、私は別ルートを創れと書いてるんだ。政治に置き換えたら、有権者に資格を設けるんだ。じゃ何故政治はそうならないのか?ならそれは戦前金でやっていた。だがそれが金持ちの都合の良い政治に結びついたので資格の基準設定が困難だから今の形がある。私は2つ用意すれば良いと書いてる。政治はこれが出来ないのが問題なんだ。根本的に政治と違う。
そんな馬鹿な勘違いしてる奴居ないでしょ?多分してる。正当性自体を磨き上げる論理が欠けてるし、日本で教育を受けた平凡な市民ならこれは欠けてるんだ。日本人はこういう理屈作りが下手。例え嘘でも人を騙してでも正当性を創る姿勢自体がそういった訓練になる。正当性の理屈固めをせずに大衆娯楽について批判すると、民主主義制度の政治批判と同じ論法になると書いてるだけ。混同してるか?は正直分からん。
全員参加の多数決のランキングでは全体の多数派が望むものしか上に来ない。それは必ずしも良き創作とは限らない。その根幹は大衆娯楽と芸術の致命的までの相容れなさだと見てる。
余談として、芸術的発展について話すと、ほぼ例外なく芸術は作り手と受け手の共進化によって発展する。それは、十分に共進化した芸術作品は、その発展に寄与してきた受け手しかその価値を理解できない事が多い。シンプルに言い直すと、芸術作品を楽しむのは多くの場合、敷居が高い。大衆娯楽はその逆にある。ゆえに両者は別々に扱うべきなんだ。
これをごちゃごちゃに混ぜた状態が今のなろうのランキングになる。分離して影響しあうそれがおそらく理想の形だと思う。ごちゃごちゃに混ぜると融合どころか多分多数派の大衆娯楽に埋没して芸術的志向の物語は消えるだけだと思う。