その一
資料として騎馬隊についてまとめておこう。
たまたま伊予あたりの資料を調べていたらこんな記述を見つける。
データベース『えひめの記憶』 双海町史 第二編沿革 第二章中世より
http://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:3/40/view/11584
七城のうち、どの城が攻められても、機動隊とも言える八三騎が出動してこれを助けた。
当時の一騎は、乗馬の武士一人、徒行武士二人、従兵二人の五人で編成されていた。
攻城中に地形を知りつくした地元の別軍団四〇〇余人に突入されては、退散せざるを得なかったようである。
つまり、この時代の騎馬というのは騎兵と歩兵のユニット編成なのだ。
これの何が困ると言うと、書きたい騎兵オンリーのチャージ突撃が書けない。
この騎兵オンリーのチャージ突撃が無かったかかというとそういう訳でもなく、『蒙古襲来絵詞』ではやっているからあったことは事実なのだろう。
歴史的に見るとこんな感じになる。
奈良時代
大陸からの律令制の導入に伴う律令軍の編成
平安時代
摂関政治と荘園による律令制の崩壊と荘園を背景とした武装集団、『武士』の誕生
源平合戦期-鎌倉時代
武士による軍事衝突と政権奪取。騎馬武者全盛時代。
南北朝あたり
悪党の登場と足軽による槍衾等の対騎兵戦術の構築。
室町時代から戦国時代
騎兵と弓兵と歩兵による諸兵科連合。別名寄親寄子制。
信長の登場と長篠合戦
鉄砲隊を各将から抽出しての鉄砲隊編成による統制射撃。
大雑把な話になるが、騎馬武者だけで戦線を左右できた時代は南北朝で終わり、騎馬武者と郎党によるユニット化で対足軽対策をしていたという訳だ。
ここで、騎馬武者についている歩兵を『足軽』ではなく『郎党』つまり、家の忠臣から選抜している所がポイント。
小規模合戦なら、これら騎馬武者というユニットで片がついていた訳だ。
合戦の大規模化と足軽の大量発生という事態が常態化しなければ。
足軽の大量発生によって、部隊編成はこんな感じになる。
騎馬武者(○○家)
○○家所属徒士武者
○○家所属郎党弓装備
○○家所属郎党槍装備
足軽隊(指揮は足軽大将として騎馬武者が行い、その騎馬武者のユニットも指揮下に入る)
大名家所属足軽槍装備
大名家所属足軽弓装備
大名家所属足軽荷駄隊
つまり、何が言いたいかというと、指揮官として騎馬武者が戦場に散らばってしまい、騎馬隊が作れないという訳だ。
じゃあ騎馬隊のチャージ突撃は無かったのというとそういう訳でもない。
そんな騎馬隊チャージ突撃の可能性がある連中、『馬廻』の話は次に回そうと思う。