よくわからない宇宙論
宇宙の果てには、なにがあるのでしょうか。
宮沢賢治の童話・『銀河鉄道の夜』では、主人公の少年たちはサウザンクロス駅から向こうで、「石炭袋」「空の穴」とよばれる天体に近づきます。そしてそこで、銀河鉄道の旅は終わるのです。どうやら、宮沢賢治にとっては石炭袋とよばれる暗黒星雲が宇宙の果てだったようです。
宇宙に果てなどはない、という考えもあります。宇宙は星がいっぱいに満ち満ちていて、どこまでいっても終わりはなく、果てなどはない、というのです。
これを裏付ける考え方もあります。それは、「ニュートンのゆりかご」とよばれるおもちゃを考えのうえで利用したものです。ニュートンのゆりかごは、ステンレスの骨組みの中にテグスで鉄球を何個か(4個ぐらい)吊り下げたおもちゃです。端のほうのボールを一個もち上げて、離すと、逆のほうで一個はね上げられます。次に、2個をもち上げて、離せば、こんどは2個がはね上げられます。ボールの数と同じだけの衝撃が伝わっているのです。これが、ニュートンのゆりかごというおもちゃのしくみです。
では、少し想像力を働かせてみてください。宇宙の果てまでこのボールがつながっているところを思い浮かべるとします。いま、わたしたちの手元でボールを一個もち上げて離します。宇宙の果てで、ボールはもち上がるでしょうか?もち上がらないでしょうか?
ボールがもち上がるとすると、宇宙の果てより外にボールが行くことができる、ということになります。宇宙の果てより外、とは、どんなところでしょうか?どうやら、ボールがもち上がる、ということはなさそうです。
では、ボールはもち上がらないのでしょうか?ボールがもち上がらないとすると、宇宙のどこかでわたしたちがボールに与えた衝撃と同じだけの衝撃が逆向きに加えられている、ということになります。これもおかしな話です。
さあ、困ったことになりました。ボールがもち上がる、としても、もち上がらない、としても、わたしたちの予想をはるかに上まわる、困った事態になります。どうすればよいのでしょうか。
きっと、宇宙には果てなんかないのです。ボールをもち上げて、離せば、その衝撃はどこまでも無限に伝わっていくだけなのです。天文学者が宇宙を遠くまで探索すればするほど、宇宙はさらに広くなってゆきます。これが、宇宙は無限である、とする科学的な考え方です。
ところが、今日の宇宙論研究者の多くは、宇宙に果てがある、と仮定しています。これは、ニュートンのゆりかごで想像すると、こういう考え方です。ボールを一個もち上げると、反対側で一個はね上がり、ボールを2個もち上げると、反対側で2個はね上がる、これは、衝撃がこちら側と反対側でつり合っているから、そして、ボールがこちら側と反対側で同じ大きさ、同じ重さだからでした。
ですがいま、反対側の端のボールが2倍の重さをもっている、と考えてみてください。すると、こちら側で2個のボールをもち上げても、反対側の端のボールは一個しかはね上がりません。こちら側のボール2個をもち上げた衝撃は、反対側の2倍の重さのボール一個をはね上げる衝撃とつり合うからです。
宇宙論研究者によれば、わたしたちの宇宙は地球から遠くに行くほどボールが重くなるような構造になっていると考えられています。そして、地球から一億×一億×4000億㌖向こうで、ボールの重さは無限大になります。そこから向こう側の宇宙は、天文学の対象ではなく神学の対象です。この宇宙模型を理論化したものを、ビッグバン理論といいます。
宇宙論とはなんでしょうか?宇宙論とは、古代語のCosmologiaの訳語です。ドイツの記号研究者クリスティアン・ヴォルフが1731年に思いつきました。宇宙論とは、宇宙の果てや性質について研究する学問です。
古代中国は、蓋天説・渾天説や無極・太一など独自の宇宙論を早くからもっていました。このような伝統的な宇宙論をとくに宇宙観とよぶことがあります。現代宇宙論は、ニュートンのゆりかご、という大きな考え方の大枠をきめる道具をもっていることを別にすると、300年間続いてきたひとつの宇宙観、といえるかもしれません。みなさんの宇宙論を、どうか教えてください。
過去光円錐の集合を物理的宇宙とする、という宇宙観には、「未来が宇宙にふくまれていない」という欠点があります。しかしどうでしょう。観測者の存在する、時刻マイナス0点は、ある意味特異点となっています。ここで被覆空間をとります。裏返された過去、それが未来です。わたしたちは過去の再解釈によってしか未来を見出せない、これは常識的宇宙観と一致していませんか?