第8話
待遇が悪かったわけではない。
むしろ生活は、はるかに上向いた。少年の両親は感謝すらしていた。
毎日訪れるたくさんの客と、満足げな笑顔。そして充分な俸給。
妹を奉公先から戻すのも、そう遠い日のことではない。
無邪気に信じているようだった。
だが、そうはならなかった。
ソニョイの街で儲かっているのは、ただ一軒だけ。
恩恵を受けているのは、ごく一部の人間だけ。
事態は加速度的に悪くなっていった。
そして事件が起きる。
私たちが酒場で聞いた、仲買商人シュリン氏の乱心事件である。
彼が殺した使用人の中に、ピノ少年の妹が混じっていた。
不幸な偶然。
とはいえない。
シュリン氏は、やはり街の名士だったのである。
ピノ少年の両親だけでなく、他にも頼った者も多かったのだろう。
それが結局、シュリン氏を追いつめる結果となった。
悲報に泣き崩れる両親を横目に、少年は異世界人の元へと向かった。
そこで見たのは、堆く詰まれた金貨と銀貨の山だったという。
ピノ少年の中で何かが弾けた。
ナニモカモ、コイツノセイダ。
異世界人がすべての財貨を独占したから、祖父母の代から両親が大切にしていた店は潰れ、妹は奉公に出されたあげくに死んだ。
気付いたとき、少年の手には包丁があった。
この世のものとは思えないほど、磨かれた美しい包丁。
彼は笑いながら、幾度も幾度もエイジ氏の腹を刺したという。
「まるで見てきたような嘘じゃがな」
荷台から聞こえるマルドゥクの声。
酒場の女将は、現場に居合わせたわけではない。
聞きかじった情報を、彼女なりにつなぎ合わせて、整合性のあるストーリーに再編集しただけ。
当然、その中には多少の脚色が含まれているだろう。
「何の理由もなく十四、五のガキが人を刺すかよ。しかも殺すつもりで」
ふんと鼻息を荒げるゴンタ。
地球だって、世界を見渡せば、たった数ドルを盗むために少年が人を殺すこともある。
ただ、多くは衝動的な犯罪であり、この事件のような怨恨がらみものものは少ない。
わずか十五歳で殺したいほどに他人を憎む、という心理は、私のような粗忽者でも胸が痛む。
ピノ少年は、悲鳴を聞いて駆けつけてきた者たちによって拘束されたが、特に抵抗もしなかったらしい。
もちろん金にも手をつけていなかった。
ただ、うつろな笑みを浮かべていたという。
「なんでそんなことになっちまうんだよ……」
ハンドルを握るゴンタが声を詰まらせた。
目尻で光る涙。
会ったこともない少年に同情している。
なかなかに熱い魂をもった農業戦士だ。
施術院というのは、日本風にいうなら病院のようなものである。
といっても、設備や技術は比較にならない。
点滴も輸血もできないし、外科手術などという単語すら存在しない。
腹を刺され、もし傷が内臓に達しているなら、冗談ではなく命に関わる。
そして私たちが訪ねたとき、件のエイジ氏はもう虫の息だった。
土気色の顔は、死人のそれと大差ない。
黒い髪と、コック服。
着替えさせてすらもらっていないのだろう。
腹回りは変色した血で染まっていた。
ひゅうひゅうと、荒い呼吸が漏れている。
息を呑むゴンタを尻目に、巫女装束のマルドゥクが怖れた風もなく近づいてゆく。
旅の巫女、ということで簡単に通してもらえたのである。
死んだら祈りの言葉を賜りたい、という理由で。
耳元に口を寄せる。
「エイジとやら。汝はこのままでは死ぬじゃろう」
「…………」
ごくわずかに男の唇が動いたが、私やゴンタの耳を射程に捉えるには、その声は小さすぎた。
「生きたいと望むかや?」
「…………」
「よかろう。費用は後ほど請求するでの」
ゆったりと笑ったマルドゥクが両手をかざす。
端正な口から流れ出る呪文。
溢れ出す優しい光。
みるみるうちに、エイジ氏の顔色が良くなってゆく。
竜語魔法というらしい。
人間に扱うことができる魔法をはるかに超えた力である。
驚いた施術院の人々。
金髪の巫女を、高位の魔法使いだと思ったのだろう。
「みなさん、頭を垂れるのです。竜の巫女たるマリィ様の奇跡ですぞ」
「竜神様への感謝を捧げなさい」
私とゴンタが、すかさずフォローする。
一斉に頭を下げる関係者たち。
中には跪き、祈っている人までいる。
なんだかインチキ宗教みたいだが、マルドゥクの魔法は本物だ。
名乗る立場が違っているだけである。
やがて、エイジ氏の呼吸も落ち着いてくる。
「ふむ。こんなものじゃの」
「あ……りがとう……」
初めて耳にするエイジ氏の声だ。美声というほどでもないが、耳障りなわけでもない。
私とゴンタは視線を交わし、人払いする。
いろいろ込み入った話を聞き出さなくてはならないのためだ。
「巫女様より患者へご下問があります。どうぞみなさんは別室にてお控えください」
「けっして聞き耳など立てぬよう。破れば神罰がくだりますぞ」
「や、ゴンタ。それかえって好奇心あおるって」
小声で注意する。
「大丈夫だ。なんか真面目そうなやつらだし」
そういう問題だろうか。
夕鶴の主人公も、たしかけっこう真面目な男だったと思うが。
「いちおう名乗っておこうかの。我はマルドゥク。マリィという通称をつかっておる」
「紫藤英二だ」
「やっぱり日本人だったね」
私が横から口を挟み、慌ただしく自己紹介がおこなわれた。
ただ、大事なのは姓名ではなく、事ここに至った経緯である。
ぽつりぽつりとエイジ氏が口を開く。
そして私たち三人は唖然とした。
この男、まったく何も知らなかったのである。
街の荒廃も、その原因も。
ただ美味しい料理でみんなを笑顔にしたかっただけ。料金を安く設定したのも、たくさんの人に食べてもらいたかったから。
自分は悪くない。
呆れて言葉も出ないとはこのことだ。
見た目は私と同年配に見えるのに、頭の中身は中学生レベルである。
「……いくつか質問して良いかな。紫藤」
名や愛称で呼ぶ気にはなれなかった。
丁寧語を使う気分にも。
こいつは、自分のせいで何人の人生が狂ったと思っているのだ。
「君は料理に使う食材を、どうやって仕入れていたんだ?」
「たぶん日本から」
「たぶん?」
彼の能力は、異世界と交易する力、らしい。
エオスの通貨を使い、日本から食材を仕入れていた。どういう交換レートになっているのか、それを聞いても意味がないので問わない。
食材だけでなく、調理器具、生活物資、ありとあらゆるものを、こいつは日本から買っていた。
そうやって作り出したものを、この世界の人々に売りつけていた。
やはりこいつが元凶だった。
しかも、自分が何をしたのか、まったく理解していない。
「ピノ君の妹さんのことはお気の毒だと思う。だけど、なんでそれが俺のせいになるんだ?」
こいつはっ!
不意にかっとした。
拳を握る。殴りつけなかったのは、さっきまで死にそうだったからではない。
私より前に、ゴンタが殴っていたからだ。
「ふざけんなよ! このくそガキ!」
農業戦士が拳を突き出したまま震えている。
「な、なにを……っ!?」
怯えた目を向ける男。
数日前に刺されたばかりなのだから、暴力に対しては敏感になっているのだろう。
その体勢のままゴンタが左手を肩掛けかばんに突っ込む。
「食え!」
引き出された手に握られていたのは、握り飯だった。
海苔もなにも巻いてない、ただの白いご飯。
昨夜炊いた米で作ったものである。
すっかり冷め切ってしまっている。
ゴンタの作った北海道米。
冷めたらかなり味が落ちてしまう、まだまだ発展途上の米だ。
殴られた上に、握り飯を食わされる。
謎の状況に目を白黒させながら、紫藤が一口頬張った。
「…………」
そして微妙な顔。
「美味くないんだろ? けどな。これが今の俺に作れる精一杯だ。おめえはこの米、買うかい?」
「…………」
「買わねえだろ。便利な力で、もっとずっと美味いもんを取り寄せられるんだからな」
便利な力。
その言葉に悪意を感じないことは、私にはできなかった。