第4話
青年の名は権田弘。
日本人である。
もうちょっと細かく分類すると、私と同じ北海道の民であった。
ただ、少しばかり驚くことがある。
なんと彼の生まれは昭和二十五年。そして年齢が三十五歳。
つまり、一九八〇年の日本から転移してきたということである。
「同じ時間から落ちてくるわけではないのじゃな。なかなかに面白いの」
赤い瞳に興味の色をたたえ、マルドゥクが頷いた。
権田氏の方は、茫然自失といった体だ。
「とても信じられないとは思いますが、それが私やあなたの身に起こったことです」
死んだ魚のような目を向ける権田氏。
「私はいま、こちらのマルドゥク嬢とともに旅を続けながら、日本に帰る方法を探しています」
「手がかりもなにもないがの。汝はこれからどうするのじゃ? ゴンタとやら」
「どうすればいいんだ……品評会に間に合わない……」
「品評会とな?」
問いかけるマルドゥクに視線を動かす権田氏あらためゴンタ。
彼はマルドゥクに呼ばれたときすぐに訂正を求めなかったため、ゴンタという名で呼ばれることとなる。
習性なのかポリシーなのか、マルドゥクは一度決めた呼び名を絶対に変えないことを私が知ったのは、一緒に旅をはじめてからのことだ。
なので私は、ずっとヒジリと呼ばれている。
あまり気に入っている名ではないが、本名なので訂正のしようがない。
「米の……」
「コメじゃと?」
マルドゥクの目が輝いた。
日本の料理。その主食たる米。
彼女が興味を示さないはずがない。
「よろしければ事情をお聞かせください。何の役にも立てませんが、すこしは気が晴れるかと」
私の言葉に、ゴンタがかすかに頷く。
北海道の稲作。
それはゼロからのスタートではない。
はるか手前の地点、マイナスからのスタートである。
極寒。
獰猛な野生動物。
明治になってから入植が始まった、日本で最も新しく最も広い島は、不毛の大地だった。
津軽海峡に引かれたブラキストン線。
すべてが本州とは違う。
手探りでの開拓。
北海道開拓に多大な貢献をした開拓顧問のホーレス・ケブロンですら、北海道は稲作に向いておらず、麦を主産業とすべしと提唱したほとだ。
ちなみに彼のこの意見によって、開拓使麦酒醸造所が設立され、のちに世界に冠たるビールメーカー、サッポロビールとなってゆくのだが、それはまた別の説話で語られるべきものである。
ともあれ、それでも稲作への挑戦は続けられ、西暦の一八七三年、初の稲作に成功する。
そこから半世紀で北海道米は昔風にいうなら百万石を超え、一九六〇年代に入ると生産高で新潟を超えて日本一に躍り出る。
だが、生産量が増えた増えたと喜んでもいられない。
時代は高度成長期。
東京オリンピックが開催され、人々の生活は加速度的に良くなっていった。
一九五六年の経済白書に記された「もはや戦後ではない」という言葉が示すとおりだ。
食生活も多様になり、全国的に米が余りはじめる。
そして一九七〇年、ついに政府は米の生産調整に乗り出した。
減反政策の始まりである。
政府が買い取る価格にも銘柄によって差がつけられるようになった。
そして北海道米の評価は、ほとんどが最低ランク。
価格は安いが味は悪い。
高級志向を高めてゆく日本国民に、北海道米は見向きもされなくなっていった。量だけ多くて誰も食べず、ただ余ってゆく。
厄介米。
ほっかいどうならぬ、やっかいどう。
そう馬鹿にされた。
ゴンタは、そんな稲作農家のひとりだった。
悔しかった。
丹誠込めて作り上げた米に最低のレッテルを貼られ、誰の口に入ることもなく捨てられる。
ならば、と、優良米の開発に乗り出す。
彼だけではなく、北海道全体がその取り組みをはじめた。
悔しいなら良いものを作る。
開拓者精神。
千年以上の歴史を持つ日本の米に、百年ちょっとの歴史しかない北海道米が戦いを挑むのだ。
伝統で勝てないなら、アイデアで勝負する。
ありとあらゆる交配実験がおこなわれた。
寒さに強く、味の良い品種を!
「それが荷台に積んであるものじゃな?」
「ああ。まだまだ伸び代がある。北海道米はまだまだ伸びる。俺はこんなところで立ち止まっていられないんだ」
拳を握りしめ、ゴンタが語る。
熱く燃える男。
まさに農業戦士だ。
「そして、あなた達が勝利することを、私は知っています」
私はゴンタのいた時代より、少しだけ未来からやってきた。
彼らの努力が正しく結実することを知っている。
一九八四年、ゴンタが転移した四年後、ついに北海道初の良味米『ゆきひかり』が誕生を見る。
味の良い北海道米。
それまで東京の物産展などには、北海道米を使った料理は出品を見合わせてきた。勝負できないからだ。
だが、ついに日本の首都へと殴り込みをかける。
難点がなかったわけではない。
冷めると劇的に味が落ちてしまうとか、吸水が悪くぱさついてしまうとか。
酷評も受けたが、北海道の農業者たちは諦めなかった。
『きらら397』『ほしのゆめ』『ななつぼし』、そして『ゆめぴりか』へと続く北海道米の系譜。
不断の努力。
西暦二〇〇九年、ついに『ななつぼし』『ゆめぴりか』が日本穀物検査協会がおこなう食味ランキングで特Aを獲得する。
ブランド米である魚沼産コシヒカリなどと肩を並べた瞬間であった。
生産量ではるかに勝り、味の面でも劣らないと証明された。
「俺たちは勝てるのか……」
ゴンタの目に涙がたまる。
「はい」
「俺たちは……報われるのか……」
「はい。歴史が証明しています」
「うぉぉぉぉぉっ」
感極まったのか、ゴンタが泣きついてきた。
男と抱擁するのは色々と嫌だが、彼は私にとっても恩人である。彼らの努力がなくては、私は幼少期に美味しいご飯を食べられなかっただろう。
両腕を広げて受け止めよう。
そして、横からどんと突き飛ばされた。
ゴンタとではなく地面と抱擁する。
痛い。
これ、どっちが幸せだろう?
益体もないことを考えながら身を起こすと、突き飛ばした犯人とゴンタが抱き合っていた。
なんか二人とも涙を流しながら。
うん。理解不能の光景である。
「汝は……汝らの執念は……」
「判ってくれるかい……お嬢ちゃん……」
「判るっ 判るともっ」
抱きしめあい、おいおい泣いている。
大昔の野球漫画みたいだ。
なんとかの星とか、そういうやつだ。
呆れつつも立ち上がり、ふたりを分ける。
「はいはい。ここは天下の往来だよ」
丁寧語を使うのが馬鹿馬鹿しくなってきたので、平素の言葉遣いに戻す。
「二人ともっ 俺の作った米を食ってくれっ」
軽トラックへと駈けてゆくゴンタ。
荷台に張られた緑色のシートを剥がすと米俵が三つ鎮座していた。まだ流通前なので、袋詰めされていないのだろう。
「是非にっ」
マルドゥクも駆け出す。
「走るの嫌いなんじゃなかったのかよ……ていうか、炊飯ジャーもないのにどうやって米を炊くんだよ……」
こいつらのテンションについていくのが大変だ。
「ぬ? 食べられぬのかの?」
「生で食べるものじゃないんだよ。マルドゥク」
「鍋で炊けばいいじゃねえか。鍋くらいはあるだろ」
「え? 米って鍋で炊けるものなの?」
驚く私に、ゴンタが肩をすくめて見せる。
「はあ。これだから未来人のおぼっちゃんは」
馬鹿にされた。
だがしかし、米が鍋で炊けるなど、未来人でなくてもお坊ちゃんでなくても知らないはずだ。
私だけが特別なわけではない、と、思う。
もしかして昭和の人々は、炊飯ジャーを使っていなかったとでもいうのか。
「かまどがあればもっと良いけどよ。お前らだってキャンプくらい行ったんじゃねえの? メシどうしてたんだよ?」
「……どうしてたんだろう?」
首をかしげる。
十年以上前のことだ。あまり憶えていない。
「肉は焼いてた記憶はあるんたけど……」
バーベキューを食べた気がする。肉は憶えてるけど、それ以外はまったく憶えてない。
私は肉だけ食べて生きてきたのだろうか。
「うぅーん……世の中は肉だ?」
「汝は何を言っておるのじゃ」
マルドゥクが私の頭を小突いた。