第2話
その女性はマルドゥクと名乗った。
あまり女性っぽくない名前だが、誰のどんな名前でも本人の責任ではない。
私の名だって、あまり男らしくはないだろう。
まして人間ではなく竜だというのだから、多少のセンス的なズレは仕方がない。
「しかし汝は肝が太いの。竜王が娘たる我を前にして、糸くずほどの動揺も見せぬとはな」
「育った環境が悪いんだよ」
苦笑を浮かべる。
場所は彼女が泊まっている宿屋。マルドゥクが客人として招いてくれたため、私はなんとか街に入ることができた。
尊敬をもって遇されているらしい。
「環境とな?」
「女神の末裔やら鬼やら堕された神やらモンスターやら人間やら、百鬼夜行みたいなところだったからね」
「ふむ。異世界というのも、なにやら賑々しい場所のようじゃの」
「俺の周囲が異常なだけだけどね」
ところで、私はマルドゥクに対して言葉遣いを変えている。
堅苦しい敬語など不要、と、明言されたからだ。
年長者に対してくだけた態度というのは気が引けたが、マルドゥク曰く、人間の年齢になおすと、二百歳というのはまだまだ少女ということらしい。
長命すぎて、ちょっと想像が付かない。
「とはいえ、汝が我の正体を知って動揺せぬのは重畳じゃ。我は人間など食わぬが、怯えられるのも面倒な話じゃしの」
「大丈夫。俺の故郷に住みついていた竜は、ふつーに豚肉の唐揚げが好物だったよ」
「ほう? それは興味深いの」
赤い瞳が輝く。
この淑女は、先ほどからやたらと食べ物の話題に食いつきが良い。
食いしんぼうさんか。
「俺が関わっていたわけじゃないんだけどね。美味しい豚肉を使った料理で、観光客を集めていたみたいだ」
「行ってみたいのぉ」
「問題はそれだよ。俺は帰ることができるんだろうか?」
「判らぬ。異世界からの旅人、というのは、昨今よく聞くのじゃがの。無事に元の世界に帰れたのか、我には判断が付かぬのじゃ」
当然である。
私のような迷い人が他にもいるとして、彼らが突然消えても、どこに行ったのか判るわけがない。
帰ったのか、別の世界に飛んだのか、あるいは、ただ死んで死体が見つかっていないだけか。
「正直に言うての。ヒジリや。帰ったにせよ消えたにせよ、いなくなってしまえば、さほど問題はないのじゃ」
「……つまりマルドゥク。異世界人たちは、この世界に迷惑をかけている?」
「然り。それもかなり深刻に、の」
思いため息を吐くマルドゥク。
豊かな金の髪がゆらゆらと揺れる。
「それが俺の身元を引き受けてくれた理由かな?」
私は苦笑を浮かべた。
世の中は善意のみで動いているわけではない、と、悟るていどには、二十六歳という年齢は成熟しているだろう。
放っておいて大過ないなら、わざわざ手や口を出す理由はない。
それは日本だろうが異世界だろうが同じである。
「理由の一部じゃな。本来、我らにとってはあまり関わり合いのあることではないのじゃが」
言い置いて金髪の美女が説明をはじめた。
ドラゴンと人間はべつに共生関係にあるわけではない。
長い時間を生きる竜たちにとっては、命短きものどもが何を為そうが、逆に何を為すまいが、さして関係がない。
人の一生も、王国の興亡も、彼らからみれば一夜の夢と異ならないのだ。
「我らは人間の生活に介入せぬことを信条としてきたし、今後もそれは変わることはなかろう。じゃが、あまりに乱れるのはよろしくないでの」
「そうなのか……」
「趣味の食べ歩きができなくなってしまうからの」
「うん。あまりにも個人的な理由でびっくりだよ」
食いしんぼうさんだった。
これには苦笑しか出ない。
とはいえ、この食いしんぼうドラゴンのおかげで、こうして無事に街へ入れたのだから、私は運が良かったというべきだろう。
「具体的には、どんな迷惑をかけているのか訊いていいかい? マルドゥク」
「ひどいものじゃと、住民皆殺しとかじゃな」
「おいおい……」
マルドゥクの話によると、この世界に落ちてきた異世界人というのは、どういうものか特殊なチカラを持っているらしい。
想像を絶する戦闘力だったり、無から有を生み出す力だったり、さまざまだ。
最初から持っていたのか、転移のはずみで得てしまったのかは判らないが、とにかく力に溺れ、周囲を巻き込んで派手に自滅するというのがだいたいのパターンだという。
たしかにこれ以上の迷惑はちょっとないだろう。
「ヒジリにも、なにがしかの力が宿っていような」
「あ、いや。変な力なら最初から持っているんだ。俺は」
「ぬ?」
説明しない、というわけにもいかないだろう。
私の血族には不可思議な力がある。
女神の血脈とか異星人の遺伝とかいわれているが、本当のところは誰にも判らない。ただ事実として力が存在しているだけだ。
ちなみに私の場合は、常人に数倍する身体能力と、なんでも斬れちゃう不思議な剣を作り出すという、しょうもない力だ。
生活していく上で、ほとんど何の役にも立たない。
同じ血族には、余裕で東大一発合格の上に、二年で飛び級卒業できるような知略系の能力を持つものもいるというのに。
私もそういう力の方が良かった。
そうすれば、あんな魑魅魍魎が跋扈する職場に就職することもなかっただろう。
「なるほどの」
冗談を交えた私の解説に、マルドゥクが微笑を浮かべた。
「衛兵に囲まれておるくせに、妙に落ち着いておったのは、そういう事情じゃな」
「うん? 普通に困っていたけど」
「それじゃ。たいていの者は困るでは済まぬよ。ヒジリや」
金髪美女がころころと笑う。
見たこともない世界に迷い込み、言葉も通じず、いきなり大人数に囲まれて武器を向けられる。
普通はパニックを起こす。
力を持っているなら振るってもおかしくない状況だ。
「戦いとなれば切り抜ける自信あった、ということじゃろ。あとは、この程度を修羅場とは思えぬほど経験を積んでいるというところかの」
「おみそれしました」
ずばりと言い当てられ、私は素直に頭をさげた。
事実、私は困ってはいても危機を感じてはいなかった。
なんというか、単身で巡洋艦に突っ込んでいったときに比べれば、きっと穏当な状況だろうし、日本語は通じるのに話が通じない脳筋女に比べれば、きっと獣人たちのほうが平和的だ。
我ながら、とんでもない環境にいたものである。
「そして今度は異世界に転移。どうなってるんだ? 俺の人生は」
「退屈せずに良いではないか」
「他人事だと思って……」
「他人事じゃもの。それで、これから汝はどうするつもりじゃ?」
「何もないよ」
肩をすくめてみせる。
事実なので隠しようもない。
日本に帰る手段も判らないし、言葉も通じない。通貨だって持っていない。わりと手詰まり状態だ。
「では、我とともに旅をするか?」
「いいのかい?」
「関わってしまったからの。ここまできて見捨てるというのも、ない話じゃろ」
「それはありがたいな……」
「条件はあるがの。ヒジリの国の料理を教えるが良い」
「うん。きみはとてもブレない人だね。独身貴族の俺じゃあ、たいした料理が作れるわけではないよ。それでもいいかい?」
「かまわぬ。知らない料理を食すというのは、それだけで心が躍るものじゃ。美味い不味いはさほど重要ではないよ」
とても良いことを言っているような気がするが、ようするに食の冒険者である。
何でも食べる子元気な子。
転移したのが私ではなくマルドゥクだったら、日本の豊かな食文化を思う存分堪能したことだろう。
そうならなかったのが残念である。
「何はともあれ、これからよろしく。マルドゥク」
「うむ。まずは旅装を整える必要があるの。さすがに裸足では街の散策もできぬでの」
「お世話になります」