第二十二話 蝉時雨
沢渡さんの家から自宅への帰り道、いつもの駅へ向かって僕は歩いていた。
普段ならこの時間になると祐と涼が心配するだろうが、すでに遅くなると連絡してあるので、無理に急ぐ必要はないだろう。
七月に入りじわりじわりと暑くなり始めてくるこの頃、薄暗い夜道にすっと流れる風が、妙に心地よかった。
「――あれ……。朋くん?」
ふと背後から声が聞こえた。
振り返ると、そこには私服を着た菜月の姿があった。
「菜月、こんな時間にどうしたの?」
「僕はちょっとコンビニに行ってただけだけど、朋くんは……あ、沢渡さんの家に行ってたんだよね。――何かあったの?」
「……え?ど、どうして?」
「いや……。なんとなく、明るい表情してるなと思って。学校にいるときとは大違い」
そう言って、菜月は曇りなく笑った。
「――そんなに、暗い顔してた?」
「そりゃあもう。正しく心ここに非ずっていう顔してたよ。世界の終わる瞬間でも見てきたのかってくらい」
――僕、いったいどんな顔してたんだよ……。
そんなことを思いながらも、学校を出る前より心が随分と軽くなったのは確かだった。
恐らく、圭が好きだという感情に気づかされたからだろう。
さすがに沢渡さんからそうほのめかされたときは、戸惑いを隠しきれなかった。
しかしその反面、その沢渡さんの言葉は、すっと胸の中に入っていった。
その言葉を、僕は違和感なく受け止められた。
むしろ自分の本心に気づき、重荷が取れたような感覚さえ覚えた。
だから、やっぱり少し恥ずかしいけど、
――もう二度と、この気持ちを疑ったりなんかしない。
「僕さ、今日沢渡さんの家に行って、わかったことがあるんだ。正確には、沢渡さんに直接気づかされたわけだけど……」
そこまで言って、僕は言葉を飲み込んだ。
そして思い出した、圭は菜月が好きなんじゃないかと疑っていたことを。
「――朋くん、この後何か用事ある?」
菜月は突然、僕にそう尋ねた。
「え……?いや、特にはないけど……」
「よかった。なら立ち話もなんだし、ちょっと場所変えない?」
僕は断る理由もなく、菜月の言葉にこくりと頷く。
菜月はそれを確認して「こっち」とだけ呟き、僕の前をすたすたと歩き始めた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
連れて行かれた先は、小さな公園だった。
薄暗い公園は数か所の街頭で照らされており、僕と菜月以外は誰もいなかった。
その公園には、小さな滑り台や砂場、そして座る場所に小さな屋根がついているちょっとしたスペースがあり、菜月はそこにちょこんと座る。
そんな菜月に習うように、僕も彼の隣に座った。
「――僕、この場所好きなんだ。この時間に来たら誰もいないから、自分だけの場所になるし……それに、ここには大切な思い出があるから」
「思い出……?」
「うん」
そう頷いた菜月は、なぜか少し寂しげな笑みを浮かべている。
「僕と圭くんは、最初にこの場所で出会ったんだ」
「……え?菜月と圭って、高校で初めて会ったんでしょ?入学式の前に偶然ここで会ってたってこと?」
「――いや……。僕と圭くんは、小学生の頃すでに会っていたんだ」
そして、菜月は僕に、圭との思い出を話してくれた。
この公園でいじめられていたところを、圭が助けてくれたこと。
菜月がその頃女装していたことに対して、圭は何の嫌悪感も抱かないでくれたこと。
圭は卒業するまで、菜月のことを守ってくれていたこと。
そして、最後に圭と別れた場所も、この公園だったということ。
「ごめんね。僕が女装してたなんて朋くんに知られたら、嫌われるかもと思って……。圭くんは僕に気を使って、朋くんに言わないでくれていたんだと思う。でも、いつかは……どうしても伝えなきゃと思ってたんだ。遅くなって、本当にごめんね」
「……そうだったんだ」
菜月は、申し訳なさそうな表情を浮かべながらうつむいている。
確かに菜月が話してくれたことについては、少なからず衝撃を受けた。
だとしても、菜月がそんな表情をする必要などどこにもない。
「――菜月が謝ることじゃないよ。秘密にしたいことの一つや二つ、誰でも持ってるものだし。……それに、女装をしていたってことくらいで、菜月を嫌いになったりなんかしない。まぁだからと言って、女装を肯定するわけじゃないけどね」
そう口にして、僕はニヤッと笑った。
それに釣られたかのように菜月もクスッと笑い、
「……ありがとう、朋くん」
そう呟いて、小さく笑みを浮かべた。
そして、
「――実はもう一つ、朋くんに伝えないといけないことがあるんだ」
菜月は唐突に、そう口にした。
「何?」
僕は平然と、その話の先を促す。
すると、菜月はすっかり暗くなった藍色の空を見上げながら、こう言った。
「――昨日、朋くんが僕たちを見つけ出す数分前に……。僕は圭くんに、告白したんだ」
僕は、ただ茫然とした。
言葉が、見つからない。
冗談なのかとも思った。
いや、そうであってほしいと願った。
しかし、夜空を見上げる菜月の晴れやかな顔が、それが事実であることを物語っていた。
「――そっか。なら、二人はもう……」
僕はうつむきながら、言葉を零す。
ただ、その言葉の先は出なかった。
僕は咄嗟に口を噤む。
その先を言ってしまったら、泣いてしまいそうだった。
「と、朋くん?大丈夫……?」
菜月は心配そうに、僕に声をかける。
そして、少しの沈黙の後、
「朋くん……何か、勘違いしてない?」
ふと、菜月はそう呟いた。
「――勘違いも何も……。菜月と圭は、付き合ってるんでしょ……?」
「えぇ!?いやいや、なんでそうなるの!早とちりしすぎだよ……!!」
焦るように菜月は胸の前で手を振った。
「確かに僕は告白したけど……。僕は、振られたから」
「え、でも……圭には好きな人がいるって……」
「――それは僕じゃない、別の人だよ。……朋くん、圭くんに好きな人がいるって知ってたんだね」
菜月は困ったように笑っている。
「それで……沢渡さんの家で、何があったの?」
菜月は先ほどの質問を、再度僕に投げかけた。
僕は、少しの間口を閉ざす。
しかし、菜月は素直に圭と何があったのか打ち明けてくれた。
僕も、菜月に伝えなければいけない。
「……何があったか、全部は言えない。ただ、その……沢渡さんと話して、わかったことがあるんだ」
沢渡さんが見つけ出してくれた、その答え。
自分自身で気づくことができなかった、僕の本心。
僕は、本当に最低なやつだ。
自分への情けなさは、いまだに拭いきれていない。
もしかしたら、これからもずっと……
その情けなさを、背負い続けるのかもしれない。
それでも、僕はこの気持ちを……
――もう二度と、疑ったりしない。
沢渡さん、ごめんなさい。
「僕は……圭のことが、好きなんだ」
僕の本心に気づいてくれて、ありがとう。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
僕は、圭のことが好きなんだ。
はっきりと、朋くんはそう言った。
頬を少し染めながら僕を見るその瞳は、強い意志が滲んでいるようだった。
しかし、なぜだろう。
僕は、少しも動揺をしなかった。
「――そっか」
そう言って、僕はふっと微笑んだ。
「……意外と、驚かないんだね」
「まぁ……なんでかな。もしかしてそうかもって思ってたからかな」
「え……菜月も、気づいてたの……?」
朋くんの顔が、みるみると赤くなっていく。
「いや、確信はなかったけどね!ほんとに!」
朋くんを落ち着かせようと、慌ててそう付け足す。
そして、僕は尋ねた。
「そういえば……圭くんに好きな人がいること、知ってるんだよね?」
少しの沈黙の後、
「……うん」
うつむきながら、朋くんはそう応える。
それを確認し、
「――それでも朋くんは……。圭くんに、好きって言える?」
どうしても聞きたかったことを、朋くんに問いかけた。
卑怯だっていうことは分かってる。
ここで、圭くんは朋くんが好きなんだと伝えれば、確実に二人は結ばれるだろう。
だけどね、
僕は、真剣に圭くんのことが好きなんだ。
朋くんが生半可な気持ちでそう言っているのなら、僕は黙ったまま見ていられない。
ここで朋くんが「言えない」という答えを出すのであれば、僕は朋くんを応援できない。
そして、僕はその答えを期待していた。
しかし、
「――自分の気持ちを疑わないって決めたんだ。もう、逃げたりしない」
迷いのない瞳で僕を見据えながら、朋くんはそう言い放った。
僕の期待は、無惨にも砕け散った。
それでも、その答えを聞いて、僕は少なからずうれしかった。
朋くんの気持ちは、僕と同じくらいに一途だとわかったから。
そんな真剣な表情で言われたら、僕は朋くんを止められない。
自分の好きな人にこれだけ想われているのだから、圭くんも幸せ者だ。
僕は笑みを浮かべながら、
「――そっか。頑張ってね」
二人を応援しようと、心に決めた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
朋くんが帰った後も、僕は一人、座ったままでいた。
「――はぁ……。あれだけ二人が想いあってるなんて……。どうしようもないじゃん」
そんなことを呟きながら、僕は再び空を見上げる。
僕はポケットに入れていた音楽プレイヤーを取り出し、イヤホンを耳に刺した。
――こんな時は、楽しくなる曲を聴こう。
僕は適当に、明るめの曲を流し始める。
空を見上げたまま、僕は瞑目した。
唐突に、僕は湧き上がってくる何かに襲われた。
悲しい気持ちとも、うれしい気持ちとも判別がつかない、この気持ち。
目を閉じたまま、自然と涙が溢れてきた。
それでも、その気持ちは嫌なものではなかった。
むしろ、心地いいとさえ感じた。
僕は大粒の涙をこぼしながら、自然と笑みを浮かべた。
曲の合間に聞こえてくる蝉時雨が、やけに切なく感じた。
藍色の空に、蝉時雨が鳴り響く。




