外伝(1):岩瀬の妻
※本編の続きは次回です。シリアスな話が苦手な方は飛ばして頂いて結構です。
20年前、岩瀬 克也が異世界へ召喚されたとき、彼は26歳、妻の岩瀬 晶は24歳だった。
当時まだ新婚1年目の新妻だった晶は、毎朝早く起きて2人分の朝食を用意し、時間になるとぐずる夫を優しく起こした。
夫が出かけるときには代わりにネクタイを締めてやり、冷めない容器に入れたお弁当を持たせて送り出していた。その1つ1つの動作が、小さい頃から晶が憧れていた幸せの形だったのだ。
ちょうどその日の朝も、何一つ変わることのない、いつも通りの平和な朝であった。
「お夕ご飯は何が食べたい?」と聞いて、「何でもいいよ」と言う夫に、「決めないと作ってあげないんだから」と言って催促する。
そういうときは大抵、「それじゃカレー」と言って好きなものを挙げるのだ。まるで子どものように。そして「行ってらっしゃい」と送り出した。
いつものように……夕方には家に帰って来るはずだった。
しかし、その日の夜は違っていた。いつもの時間から1時間経ち、2時間経ち、心配になり電話をかけても携帯は繋がらなかった。
会社に連絡しても、既に定時で帰ったと言われた。それなのに何時になっても夫は帰らず、いくらかけても携帯は繋がらず、結局一睡もできなかった。
翌朝、もう1度会社へ電話するが夫は出社していないと言われた。夫は今まで無断欠勤などしたことがなかったのに。実家にも連絡したが、帰っていなかった。
夫の身に何が起きたのか――心配でたまらず、夫のためにと作ったカレーは1晩寝かせた朝も全く喉を通らなかった。
それから更に2日――夫が定時で帰ったという最後の消息から3日経っても夫は出社もせず、連絡も取れず、家にも実家にも帰宅しないため、恐る恐る警察に行方不明届けを出した。
一通り事情を聞かれ、会社にも連絡が行き、同じことを確認された。
夫がいつも利用している駅の防犯カメラには、改札の前で一度立ち止まり、時計と発車時刻を見ている様子と、通路の途中からトイレに入っていく様子が映っていた。
その後の映像には、夫の姿は捉えられていなかったそうだ。「何か思い当たることはありませんか?」――そう聞かれても、何一つとして変わったことはなかったのだ。答えようがない。
会社からは迷惑がられ、警察には疑われ、姑には叱られる。晶はもうどうしていいのか分からなかった。
毎朝目が覚めたときに思う……。
これは何かの夢で、隣にはいつものように夫が寝ているのではないか。密かに会社の命を受けてどこかへ出張しているのではないか。浮気の線は――考えられなかった。
憔悴しきった晶の前に夫が帰ってきたのは、消息を経ってから約10日後――行方不明届けを出してから1週間後のことだった。
だがそのとき夫は1人ではなかった。サラサラの金髪をした可愛らしい女の子が彼の服の裾をギュッと握っていた。聞いた事もない言葉を話すその少女は、一見してヨーロッパのどこかの国の女の子と思われた。
見慣れない服を着ている2人を風呂に入れ、着替えさせたときに気付いた。夫の身体に刻まれた、今まで見たこともない無数の傷跡を。
――いったい、どこへ行って、何をして来たらこんなに酷い傷を負うのか……。
そんな疑問を口にすることはできなかった。夫はずっと謝り続けていたが、カレンダーを見て何を思ったのか10日分の新聞を急いで読み漁った。
会社と実家に――また謝り続けていたが――連絡し、それから警察へ出頭することになった。
岩瀬夫婦とソフィアの3人で担当の警察官に会うと早速、事情聴取の嵐にあった。蒸発したと思われていた夫が帰宅した――ただそれだけのことならすぐに済んだことであろう。
ところが夫婦と一緒にいたのは、金髪と澄んだ蒼い瞳という白人の特長をもった国籍不詳の幼い女の子である。
まず疑われたのは誘拐だ。行方不明届けを出していた奥さんも共犯者ではないのか、他に共犯者がいるのではないか、弱い立場の外国人を狙って警察に通報されないように脅迫しているのではないか。いや既に両親は殺害されているのではないか。
それから次は人身売買ではないのか、裏で暴力団組織とつながっているのではないかと疑われた。無数の傷跡を見られると、どこの組に乗り込んできたのかと聞かれる。
挙句の果てには公安警察が出てくる始末である。どこの戦場に行ってきたのか、「異世界」という何かの思想的な洗脳を受けていてテロでも起こすのではないかと。
ソフィアの話す言葉がどのヨーロッパおよび世界の言語体系とも異なることは専門家により確認されたが、それはつまりソフィアがいずれの国家・社会にも属さないということを意味した。
それを知るや今度は、宇宙人に拉致されたのではないか、ソフィアは地球外生命体ではないか、などと言い出す者まで出てきた。
けれどもソフィアに関する過去の記録を調べようにも指紋のデータどころか歯の治療をした痕跡もない。日本で生まれたのか、海外で生まれたのか、少なくとも岩瀬が実父ではないだろうことは外見から明らかであった。
ソフィアという名前すら本人が発音するとソフィアとは聞こえなかった。流暢な日本語を習得するには、専門家による発声方法の矯正も必須であると思われた。
秘密を厳守できる専門家――身体動作を交えて日本語を日本語で教えることのできる者を探さなければならないだろう。
自由診療でソフィアの歯を診察した際、まだ乳歯が抜けていないことが判明すると、岩瀬が語る異世界の体験談による供述と合わせて年齢が5歳であると推定され、生年月日は連れ帰ってこられた日から数えてちょうど5年前と決定された。
以上の警察による調書によって推定5歳の棄児とされたソフィアは、連絡を受けた岩瀬の住民票のある市の担当者が対応することとなり、岩瀬夫婦によって引き取られた。その後6ヶ月間は警察により養育監護の実績を監視されることになった。
今まで平凡に生きてきたはずの夫婦は、もはや平凡な新婚生活を送ることはできなかった。しかしそこには新しい家族の絆が生まれていた。
全てを打ち明けてくれた夫。全てを受け入れてくれた妻。全てが新鮮な異世界で暮らすことになった幼子。その3人の新たな生活――闘いが既に始まっていた。
岩瀬も、妻の晶も、ソフィアを実の娘のように育てようと心に決めていた。命に換えてもこの子を守るのだと。岩瀬の両親は実の孫を望んでいたが、2人は結婚してから続けていた不妊治療をやめることにした。
生来の聡明さからか小学校に上がる頃にはソフィアは日本語の会話も年齢相応にできるようになっていた。岩瀬はゲーム開発に没頭するようになっていった。ソフィアに異世界語でも日記を付けるように言っておきながら。
日本の法律によって親子となったソフィアと岩瀬は婚姻を結ぶことができない。しかし岩瀬とソフィアの間には魔法契約で結ばれた血液が今も流れて続けている。ソフィアを苛む呪われた血液が。