名古屋の猛犬
時代が、けたたましく動いていた。
養老で行われた西国と東国の存亡を賭けた戦いは、拍子抜けするほど一方的な展開で幕を閉じた。
編成をどうするか。
誰と誰をぶつけるべきか。
どういう布陣を展開するか。
内通していた味方をどれだけ再び寝返らせべきか。
そんなことを日昼夜考えていたのが馬鹿らしいくらい敵は自爆行為を繰り返してきた。
西軍の迷走ぶりはもはや芸術的とさえいえるレベルであり、悩んでいたら戦況は勝手に決していたという感じだった。
西軍はこの戦いにより、主要な武将をことごとく失い、今の西国の面々は、主力がことごとく卒業してしまったアイドルグループのように、非常に残念な絵面になってしまっていた。
後はただ天下統一に向けて本格始動するのみ。
神武天皇の即位から二千年あまり、奈良、京都、神戸、神奈川と移り変わっていった日本の首都に我らの名古屋国が名を刻むことになるのだぎゃあ。
「という皮算用をしていたのですが…」
「長引くと思ったら、簡単に終わることもあれば、簡単に勝てると思ったら逆に負けることもある。それが戦というものだ」
卓上の茶をずるずると音を立てながら啜ると、ほのかな苦みが口に広がった。
名古屋と岐阜のちょうど間にある尾張一宮の外れにある二百平米はある巨大な屋敷で榊原康政は、この屋敷の主、本多忠勝に向かい合っていた。
「これはどこのお茶でしょうか」
「三重産の伊勢茶だ」
「ほう、となると赤福と共に食せば最高ですな」
「分かっておるのう。わしも未だに一日三食は食っておる」
『にもかかわらず客人には出さんのか…この強欲赤福爺が』
決して口には出さず、今一度正面にこの爺をとらえる。
やはり、齢五十を過ぎたただの甘党ではない。
全身から放たれる気がそう言っている。
普通の人間であればその圧に借りてきた猫のように縮こまり、声も出せぬであろう。
自分が平然と向かい合っていられるのは、それをも凌駕する気があるわけではなく、長年の研鑽で身に付けた華麗なるスルー力があるからに他なかった。
「そういえば、本多先生は最近は何をなされているのですか」
「サーキットトレーニングにバーベル上げ、体幹トレーニングにスクワットと、後は土に還ることだけを待っておる生きた屍だ」
「生きた屍とは御冗談を。バイタリティーが満ち溢れているではございませんか」
視線を少し後ろの壁に移すと、年間MVPのトロフィーが二つ、戦国武将ベスト9の楯が六つ、攻め落とした城を再現したミニチュアに、表彰状と輝かしい戦歴の限りが飾られている。
悪趣味この上ないが、やはり口にはできない。
「引退するにはまだお早いのではないですか」
「いや、もはや戦場にやり残したことはない」
「先生ほどの方ともなると、やはり戦場で死ぬことが誉でしょう?」
「誇りのある戦場ならば、だ。今の戦場には埃しか積もっておらん」
「誠に。今の京都国にせよ、広島四国にせよ不足なき相手など片手で足りるほどになってしまいました」
「どうでもいいが、今のわしがギャグを言ったのは気付いたか」
「誠に申し訳ございません。まさにどうでもよかったので、完全に気づきつつ、華麗にスルーしておりました」
そう言うと本多忠勝は頬を膨らませた。
元々赤黒い顔をしていることもあり、頬ふくらませるとそれこそ赤福だ。
こうなると赤福爺ではない。妖怪赤福だななどとどうでもいいことを考えてしまう。
「我らの奈落帝が随分と激怒されています」
ほう、と本多忠勝の目に妖しい火が灯った。
元々、奈落家は没落した天皇の分家だったのだが、徳川に担がれ、名古屋国の帝として名乗り出たお飾りである。
人望など皆無に等しく、誰も彼のことを天皇とは思ってはいないのだが、本人は声高々に政から戦にいたるまであらゆることに口を出し、挙句喚き散らしている。ようするに見るに堪えない馬鹿だ。
「私もつい先日、呼び出しをくらいまして。『何事だろう。どうせロクなことじゃないんだろうな、は、ひょっとしてこの間のレポートがウィキペディアのコピペだったのがバレたんじゃないか、そんなことでハラハラドキドキしていたのですが、難航している滋賀攻めに関しての事だったで胸をなでおろしました」
滋賀という名前が出たときに、本多忠勝の眉が少しだけ動いた。
「何故、京都を目前にして滋賀ごときを攻め落とすのに難航しているのかと聞かれたので、適当に濁していたのですが、次第に不穏な空気が流れ始めまして。歯医者の予定があるとか言って抜けだそうとしたところ、滋賀を攻め落とすように命じられました」
「名古屋三軍神にも数えられた、榊原殿が指揮するならば心配はないな」
これは、『名古屋三軍神筆頭の本多先生に比べたら、私など小学生ですよ』と言わせたい謙遜に見せかけた自己顕示であることを知っている。そしてこの爺の企みにのってやらなければならないことも。
「名古屋三軍神筆頭の本多先生に比べたら、私など小学生ですよ」
「うむ、小学生か。お主も成長したな。まだ保育園児かと思っておったわ。よし、アメをやろう」
本多忠勝は手に持った袋から那智黒を一つ取り出した。
生じた殺意は殺意のままにとどめ置き、受け取った那智黒は帰りにすぐ捨てることにする。
「まあ、ただし一つ問題がありまして」
「京極の娘らだな」
「お、即答とはさすがですな」
本多忠勝は養老の戦いの後に隠居宣言をしたと聞いていたが、すぐに京極の名前が出て来るあたり、やはり老いても軍神だなとクラッカーの一つでも鳴らしたくなった。
俗世から離れて昔の自慢話をするだけのどうしようもない爺さんになり果てていたら、トイレに行く振りをしてそのまま帰るつもりだったのだ。
「大変手ごわく、困り果てております」
「そうかそうか。頑張ってくれ」
「興味はございませんか?」
「おじいちゃんには関係ないんだもん。おじいちゃんの半分も生きてない子をボコしても楽しくないんだもん」
突如、子供の言葉を操り始めた目の前の老人に再び殺意を覚えるが、持ち前のスルー力を発揮する。
「しかし、父親と並ぶ素質だと聞いています」
「嘘だい。絶対ありないことなんだい。あんな武将はもう二度と現れることはないんだい」
確かにあの父親の圧倒的な存在感は、自分の脳裏にも克明に刻み込まれている。
初めて戦場で京極東源を見た時、鬼が召還されたのだと思った。
安倍晴明の末裔が超禁術みたいなのを使って、鬼を呼び出したのだと思った。
「しかし、戦った者は皆が口を揃えて父親そのものだと言っております」
「ふん、そんなことを言って、わしを戦場に駆り出そうとしているだけだろう。はっきり言え。ビビっているだけだろう」
「正直言えば、おっしゃる通りです。ビビっています」
見るに堪えないバカとはいえ、一応はこの国の長を名乗る者からの勅令を賜ったのだ。
このイケイケムードの中で滋賀まで行って負けて戻って来るようなことになれば、最悪死罪だ。
さらに相手が相手だ。七人いる京極東源の娘。
その実力は未知数だが、あがってくる話は京極東源そのものだ。
さすがに京極東源が七人いるとは思わないが(もしそうなら、東軍の天下統一どころか、西軍が天下統一しかねない)、それでも勝てる気がしない。
「ふん、最初からそう言えばいいのだ」
だからこそ絶対的な保証が必要だった。
まさか名古屋三軍神を二人も出て来るなど誰が想像するだろうか。
石橋を叩きまくった挙句その橋を使わず遠回りして向こう岸にいくような慎重さだ。
本多忠勝は立ちあがると、ふっと頬を緩ませて外庭に眼を向けた。
「わしが出るとなると、誰かの傘下に入るという訳にもいかんな」
思わず顔をあげた。
「その言葉の意味は…」
「百聞は一見にしかずだろう。東寺や金閣寺への観光がてら、その娘達に挨拶でもしていくかな」
「感謝いたします。お礼といたししまして赤福一年分をお送りいたします」
「約束だぞ。約束破ったら針千本飲ますからな」
指きりげんまんをすると、それに呼応するように本多忠勝の顔は赤福強欲爺のそれではなくなり、軍神と謳われた名古屋国、いやこの倭国の最強の猛将のそれに変わっていった。
「出発の準備が整い次第、連絡させていただきます」
「ふむ、それまではこちらも下調べをしておくことにしよう」
中庭と通って玄関に向かう途中に、蓮の花が池の上でくるくると回転しているのが見えた。もう夏はそこまで来ている。
「あ、そうだ、榊原殿。一点確認したいんじゃが」
「なんでしょう?」
軍神に悪魔の笑みが浮かびあがる。
「京極の娘のことだが……一人残らず討ち取ってもいいのかね?」
それから半月、ようやく準備が整ったところで本多忠勝から正面から突破するのは難しいと言われた時、不思議と安堵している自分の姿があった。
自分の勘はまだ鈍っていなかったということだ。
京極の娘らがいくら若かろうが、実戦経験が浅かろうが、鷹が鳶を産むむことはない。
鷹が産むのはやはり鷹なのだ。
一人で戦っていたのであれば、苦戦は免れなかったであろう。
「既に突破困難な鉄壁の守りであるにも関わらず、さらに守備を固めようとしている。用心に用心を重ねているようだが、そこが弱さだ。敵に他の突破口を探せと教えているようなものだ」
「ですが、京都に向かうには、米原を通る他に道はないでしょう」
「ないだと。わかっておらんな。この世界に神から与えられた道などないのだ」
「何かのとんちでしょうか」
出てきた提案は、桑名からおよそ道とも呼べないような場所を通りぬけるという、作戦と呼べるかどうか分からないものだった。
不可能ではないかとも思ったが、その可否を判断する能力も権限も自分にはない。
ただひたすら道なき道をを突き進むという仕事の手伝いをするだけだった。
人数を絞った名古屋軍の精鋭でなければありえない行軍。
そしてついにその時は来た。
軍神が無傷で滋賀に入ったのだ。
「まずは馬を鹵獲するぞ」
歩兵で滋賀に入ると、まずは適当な兵舎を襲って馬を奪うことにした。
さすがの京極家だけあり、どれも駿馬ばかりである。
我々の存在に気付いたのだろう。幾つかの部隊が切り返しを行って、南下してきたという報告を受けた。
しかし、本多忠勝はそれよりも遙かに速く、蜂のように部隊はめまぐるしく形を変えて進んでいく。
「突っ込むぞ」
守りの薄いところを突き破っていく。
防衛線をほとんど張っていない南側を破るのは、障子にぷすぷすと穴を開けるほどに容易い作業だった。
あれほど悩ませた滋賀を今は我が土地のように好き放題に動きまわれている。
本多忠勝はふむと声をあげた。
敵の小隊の動きに感心させられているのだろう。
それぞれが名もない部隊のはずだがこの圧倒的不利な状況でも何とかこちらの動きを食い止めようと奮戦している。
逃げ足の早さのみが評価される京都国の兵とは雲泥の差である。
京極東源が無くなって一年が経っていたが、未だ兵の質、モチベーションは維持しているのだ。
それからも押し続けた。
決死で向かってくる兵を討ち続けながら彦根城に迫っていく。
主力はほとんど前線に回っているため、労をかけずに急襲をかけることが出来るだろう。
敵が方円で壁を作って、こちらを誘導させようとしてくる。
「前線に出ている指揮官の指示だな」
「こんな速さで戻ってきたというのですか? 米原からここまで馬でも一時間はかかる距離ですぞ」
「さあの。どういうカラクリか知らんが、距離が離れていようと指示は出せるようだからな」
「まるで妖術ですな」
しかし、京極の娘が妖術の一つや二つ使えようが恐れることはなかった。
ここにいる人物は何でも味噌を付けて食べるだけの名古屋爺ではない。
ましてや強欲赤福爺でもない。
生きながら軍神の称号を手にした人物なのだ。
「甘いな。甘すぎる。その構えはどこを死守したいかを、タダで教えているようなものだ」
榊原康政が迷わずに守りの一番固いところに突っ込んだのを見て、敵に動揺が走ったのが分かった。
挟撃の形などに持ち込もうとするが、一直線の形で貫いていく。
敵の守りを突き破った。
「蔵か」
榊原康政が嬉しそうな声をあげた。
時価総額で何億円になるのだろうかという蔵が横一列に並んでいた。
大名でもない軍人の一族が、これほどの私財を貯め込んでいたのか。
これだけの額があれば独立も不可能ではないだろう。
「奪うだけ奪え。食糧には火を付けろ」
もはや、この敵中央は我々のやりたい放題だ。
ほっと胸をなでおろしながらも、否が応でも期待が込み上げて来る。
何せ、これだけの少人数で成果をあげたのだ、充分に誉められてしかるべきだろう。
しばらくは目先の成果にこだわらなくてすむ。
上司への今季のアピール欄にこの戦いのことを書ける。
評価はもちろん上がるだろう。
あれ、ひょっとしてこの歳での昇進もありえるんじゃないだろうか。
そんなのんきな皮算用をしながら駈けていると、ふと、空気の中に、地獄へと繋がっていそうな暗黒が見えた。
うん?違う。何かが立っている。
全身から垂れ流す異様な気配から察するに鬼か?いや、違う。この気配は前にも感じたことがある。
そうだ!
京極東源!!
奴が地獄から舞い戻ってきたのか。
いやそんなわけはない。
でなければ答えは一つだ。
俄かに信じがたいが……こんな速度で戻ってこれるのか。
味方の兵が剣を振りかざして飛び込んでいく。
鬼まであと二メートルまで近づいたとき、深い眠気にでも襲われたのかそのまま地面に滑り込みながら倒れていった。
他の兵が槍を前に突き出した。
恐ろしい速さだが槍筋は見事に悪魔の真横を通過した。
こちらも昨日緊張してよく寝られなかったのか、気合の一撃と共に疲労困憊となったのかその場に倒れ込んだ。
まるで子供が乱暴に扱う人形のように、味方の兵の首や手足や胴がぽろぽろと取れていく。
「四人一斉にかかれ。それより少ない人数では向かうな!」
榊原康政が叫んだ。
「絶え間なく動いて死角に入れ。後方の合図を確認してから動け」
さらに、北から別の何かが近づいている。
大気が灰色に渦を巻いていて、台風か何かのように見える。
もしそうならチームのマネージャーとして早く避難するように勧告すべきだろう。
ここなら死ねるかもしれない。
剣を振りながら、私はそんなことを考えていた。
向かってくる相手に、誰一人として未熟な者は存在しない。
己の力を知っていて、私との力差をも分かっていて、それを何とか知恵と工夫で埋めようとしている。
連携も取れている。
合図はあらかじめ決められており、攻撃パターンは三つや四つの組み合わせから出来ている。
切っ先が服を掠めるのも、一度や二度のことではない。
頭蓋を狙った剣筋を数センチのところで避けると、ぱらぱらと髪が舞い落ちる。
首筋に心臓といった急所ばかりを狙ってくる。
実戦でここまでの攻撃を受けるのは久々のことだ。
一体、ここまで辿りつくのにはどれほどの血を汗を流し、戦友の亡骸を見てきたのだろうか。
そして、戦場とは研鑽に研鑽を重ねた者達が、儚く散る場所でもあった。
僅かに息があがってきている。
ここまで飛ばしてきたのもあるが、それでもここ数年はないことだ。
長い間、味わってこなかった感覚に体が僅かに高揚している。
しとめたと思った兵に紙一重のところで攻撃をかわされた。
これまた近年なかったことなのでちょっとだけアレと首を傾げた。
太刀筋が乱れてきているのか、敵のレベルがまた上がったのか、敵がこちらの動きになれたのか。
もしくはそのすべてなのか。
敵がどれくらい残っているのかと横目で見ると、人気ラーメン店ばりの行列だ。
しかも整理券を持ってる者が他にもいるかもしれない。
残りペースを考え、状況が悪化する中でも省電力モードに切り替えないといけなかった。
こちらの動きを見て体力が尽きてきたと思ったのだろうか、敵が勢いを増す。
省電力モードだと防ぎきれない。
一瞬だけ省電力モードから高パフォーマンスモードに切り替え、敵の首筋に刀を這わせた。
敵が動揺しているのが分かる。
二十は斬った。
北から邪悪その物というような気が獣のような速さでこちらに向かって来てるのを感じた。
気配からして間違いなくニシャ姉さんだろう。
二人ならばこの敵を半分に分けることが出来る。
半分ならば省エネモードを完全に解除することができる。
そんな気を緩めた瞬間だった。
取り囲んでいたメンバーの総入れ替えが行われた。
目つき、風格、佇まい。
そのどれもが今までのとは比べ物にならない。
これはまずい…再び高パフォーマンスモードに切り替えた。
刹那、四方向から蛇のような剣筋が飛んでくる。
一つをかわし、一つを流し、一つを受けた。
最後の一つだけは避けることは出来なかった。
剣筋が体を通過していくのを感じながら、致命傷を避けるように体を動かし続ける。
反撃を試みようとすると、目の前にいた男が横に飛んで道を作った。
そして、そこに一騎の老兵が身丈ほどのある円月刀を振りかざしながら飛び込んできた。
威力を消しきれず、全身に爆発のような衝撃が襲った。
しばらく空に浮いた後、地面に叩きつけられる。
受け身を取り損ね、背中に激痛が走っている。
「まったく…今ので仕留めきれないのか。歳はとりたくないもんだな。」
渋くて深みのある声が聞こえた。戦場には不釣り合いなほど優しい響きも含んでいる。
しかし、声の主は、血と死の匂いをまとっている。
恐らく修羅だ。
立ち上がりながら体の破損部位を確認する。
骨が何本かやられた。
出血は動脈までには至ってない。
「人の域は、ゆうに越えておるな」
お互い様だろうと心の中でつぶやく。
しかし、奇襲を受けたことといい、この人間離れしかけた実力といい、一体何者なのだ。
そう思った目を細めると、背後に『無』の旗がはたはたと靡いているのが見えた。
成程、合点がいった。
こいつが名古屋の猛犬と呼ばれ、三軍神筆頭として讃えられた男か。
父と同じ時代を生き、切磋琢磨した伝説の武人の一人か。
ならば刺し違えるにしても悪くない相手だ。
目を瞑り意識を集中させる。
感覚が研ぎ澄まされていく。
世界が自分と同化していく。
再び、目を開けた。
「さあ来い、軍神。お前が私の被殺者か、身をもって確かめてやる」
敵に動揺が走ったのが分かった。
残念ながら、それは私の放つ気に対してではなく、別方向からやってきた味方の増援に対してだった。
「榊原様」
「分かっている。そう慌てるな」
老兵は馬に跨り、ゆっくりと笑みを浮かべてこちらを見た。
「比叡山を見に来たつもりだったが、思いもよらない滋賀名物を見させてもらった」
そう言って、老兵は視界から消えていった。
全身から力がふっと抜けて、片膝が地面についた。
剣を杖代わりにして何とか踏ん張った。
生き残った、のか。
体が鉛のように重い。
頭が寝不足の時のようにぼんやりとしている。
久々に死神の足音を聞いた。
私の前で止まることなく通り過ぎてしまった、今も余韻を残して体を蝕んでいる。
誰かが近づいてきている。
顔を見なくとも、その威風堂々と闊歩する足音だけで誰だか分かってしまう。
「あら、しばらく見ないうちに、お婆ちゃんみたいになっちゃって」
耳に響いたのは、暴力性しか感じないニシャ姉の声質でも、いつも癇癪を起こしてきいきい喚いている六韜の声でもない、落ち着いた音だった。
「京都に行ってたのではないのですか」
「敵の動きに不吉なものを感じて、心配になって出張を切り上げてすぐに戻ってきたの」
そう言って肩を担がれる。
体全体に温かさが広がる。
まるで母親のような優しさだけで出来た体のように感じた。
体を全部預けて、目を瞑った。
「父様が残してくれた遺産をよく守ってくれたわ。ここを焼かれていたら、兵やその家族を食べさせられなくなっちゃうところだった」
「よかったです」
遅れながら兵達が合流してくる。
返り血のシャワーを浴びたニシャ姉だけではなく、この世の終わりみたいな表情を浮かべている六韜の姿も見えた。
その中に四浪の顔も見て取れた。
不思議な弟だった。
京極の血を引いているとは思えないほど、料理以外のすべての能力が凡庸そのものだった。
未だに拾い子なのではないかと疑うこともある。
それでも気になるのは、顔だけは悔しいほどに父親の面影が見て取れるからか。
単に六姉妹の中に男が一人混ざっているという違和感から来るものなのか。
それとも圧倒的な存在感の無さは逆に人を惹きつけるのか。
あるいはその全てか。
そんな下らないことを考えながら、ゆっくりと意識を落としていった。
久々の姉妹再会だった。
涙目でハグを交わして、喜び合う。
普通ならそうなのかもしれない。
しかし、京極姉妹は不幸なことに普通ではない。
実際にあったのはこんなやりとりだ。
「六韜、どうしたの。もう戦いは終わったわよ」
「死ぬ前に、一華姉様に挨拶しておこうと思いまして」
目は真っ赤に充血させた六韜の片手には、鈍い光を放つ短刀が握られている。
「料理は四浪の仕事だよ。あいつの唯一の活躍の場をとらないであげて」
「…京極家の名に泥を塗るような真似をしてしまいました」
「不思議なことを言うわね」
「姉様も私が言っている意味は、充分ほどに分かっているはずなのに」
「ええ、分かっているわよ。今回を含めて計四度、米原から入ってきた名古屋国の軍勢を追い払ってくれました。これほど大規模の指揮を取るのは初めてのことながら見事な活躍でした。あなたでなければ決して出来なかったことです」
「ですが、不覚を取ってしまいました」
「学べばいいのです。父を肩を並べるような相手が一体どのような戦いを仕掛けて来るのか。身を以て覚えたではありませんか。それは今後の六韜の糧になるはずです」
六韜の目は、蜂にでも刺されたのかと思う程に真っ赤に腫れあがっていた。
「生きている限りは、何とでも出来ます」
「でも、でも」
「とりあえず、その手にある物騒な物をしまいなさい」
六韜は刃物を地面に置いて、うなだれながらてくてくと向かってきた。
頬がきらきらと光っているのは汗だろうし、じゅるじゅる言っているのも花粉症に違いない。
一華姉さんはそれをぎゅうと抱きしめた。
六韜の体の震えが止まるまで優しい声をかけながら頭をずっと撫でていた。
「さあ、今晩は久々の再会を楽しみましょう。四浪が美味しいものをいっぱい作ってくれるから」
六韜が小さく首を縦に振った。
物陰からこそこそやり取りを見つめていた僕は台所へむかう。
姉さんや妹の戦いはいったん終わり、ようやく僕の戦いが始まろうとしていた。