我こそが
近江八幡から北に二十キロあがった琵琶湖の真上には、不気味な三階建ての木造の建築物が浮かんでいる。
夜、湖釣りなどに勤しんでいる時に出くわすと、源平合戦で敗れた平家の亡霊が乗り移った幽霊船と勘違いしてしまうのも無理のない話なのだが、よく目をこらすとピンク色をした壁、目と鼻がついた円柱型の住居エリア、屋根には巨大な緑色の屋根が乗っており、その中央には大きな鼻が書かれた家紋が輝きを放っている。
つまりおよそ常人の感性からすれば理解しようがないデザインをしている。
しかし、どこぞのネジの飛んだ芸術家が失敗作を琵琶湖に流したわけではない。
『京極本家』という名前で呼ばれているこの二世帯住宅は、父が返らぬ人となった今も個性的な娘達が住み続けている。
深夜一時を過ぎても、京極家からは、眩いばかりに明りが漏れ、陸地まで優に届きそうなガンパレードマーチが響き渡っていた。
琵琶湖の魚達は絶賛近所迷惑被り中である。
「オラ、四浪。もう皿が空になってるぞ! 次はまだか、次の飯は!」
「ニシャ姉さん。すいません。もう食糧庫が空なんです。」
「はあ!?まだ腹半分も膨らんでないぞ。このままだと餓死してしまう! 餓死するくらいなら四浪を食べた方がまだましだ!」
そんな無茶苦茶なことを言って、舌舐めずりをする蛮族のような女性に対し、僕は子ウサギのようにぷるぷると震えあがりながら、ただ頭を下げることしかできません。
「はわわわ。僕なんか食べても美味しくないですよお」
「どうかな。四浪はいい匂いするし、噛んでもいい弾力が返って来るからな」
以前、彼女が敵の死体を焼いて塩胡椒で味付けしていたというとんでもない噂を聞いたことがあり、とんでもないのに僕はそれを嘘だと笑い飛ばせない。
「分かりました。何とかあり物でやってみます」
「おう、初めからそう言えばいいんだよ」
そう言って、笑みを浮かべた理不尽の権化とも言うべき肌黒ムチムチの女性こそが、泣く子も笑う子も黙ると知れ渡った京極東源の二女で、その父親の狂暴性を磨きに磨きあげた京極家の張飛こと、京極ニシャであります。
そして、何を隠そう彼女は、僕の腹違いの姉であり、僕は壊れにくいオモチャとして愛されています。
僕は大急ぎで厨房に飛んでいき、限られた食材と調味料の中、腹を膨らませるという目的だけに特化した料理を全身全霊をささげて作っていきます。
「こ、これでどうでしょうか」
「おう。味をみてやろう」
そう言って、ニシャ姉は犬のように皿をぺちゃくちゃし始めました。
「お、そんなに悪くないぞ」
「あ、ありがとうございます」
ニシャ姉はとにかく質より量なので、味を家畜の餌まで落とさなければ何とでもなるんです。
「ふふふ、ご褒美にキスをしてやろう、ほら顔をこっちに寄せろ」
「あ、ありがとうございます。こ、これでいいですか……ってぎゃあ」
首にがぶりと噛み付かれた。
そのまま食ちぎられると思ったので、必死に暴れ回って何とか解放してもらう。
「おい、四浪。やっぱお前は危ない奴だなあ。こっちは遊びでやってるのに、自分から暴れて引きちぎられようとしてるんだから」
「いやいや! わりと最初から最後までガチで歯に力が入ってましたよ!」
僕の正当な反論を全く無視して、酒瓶を持ってがぶがぶと宴を再開するニシャ姉。
「ん、四浪、ほら、酒も無くなったぞ! こっちも替わりを準備しろ!」
「ひぃぃ、分かりました。少々お待ちくださいぃぃ」
厨房に飛んでいき、酒樽の日本酒を一升徳利に移し、お盆に乗せて運んでいると、視界の隅に漆黒の闇がうずまいている。
湖の上に偶然にも現れた地獄に繋がる因果の渦だろうかと目を擦ると、その中心から見慣れた顔が浮かび上がってきます。
「あ、三剣姉さん! どう、ちゃんと楽しんでる?」
僕がそう元気に声をかけると、その暗闇がより一層深みを増すのがわかる。
「楽しい……訳がない……今日も死ねなかったんだから……」
「ちょっと! いきなりそれはないでしょ! 今日も大勝したんだから、もっと楽しまないと」
「あれだけ……敵がいたのに……また生き延びてしまった」
「そんな不吉なことを言わないでよ! なにせ三剣姉さんがあんだけ活躍したから今日の勝利があるんだから! 次々と襲いかかってくる敵を、予備動作無しで真っ二つにしていくのは、本当にいつ見ても感動させられるよ!」
「あんな雑魚、百体斬っても……何も変わらない。嗚呼、一体、いつになったら私を殺せるような敵に出会えることになるのか」
「そんな、三剣姉さんが追い込まれるような状況なんて、想像もつかないよ」
そう、この女性こそが、物心ついた付いた頃から常に剣を抱きかかえ、父親の刀術を高めに高め、古今独歩の剣豪と謳われながら、そこしれない被殺願望を抱えた京極六姉妹の三女、京極三剣。
元々生きることに執着しない人だったが、好きだった父を亡くしてからはその傾向に拍車がかかり、父のところに行きたがっている。
ただ、あまりにも腕が立つために、前線にどれだけ立てど無傷で帰ってきてしまう。
「六韜が、血が繋がった姉だからって気を使われて、わざと私を安全なとこばかりに置く……」
「いや、今日の戦いは明らかに捨て駒のような扱いだったよ! 姉さん以外の他の人、みんな囚人兵だったし! あの中で生き残ったの半分もいないし!」
「次こそは……次こそは死なないと」
三剣姉さんとは戦場に出るたびこんなやりとりをしている。
ニシャ姉とかは死ぬ死ぬ詐欺と呼んで楽しんでるようだけど、確かに四面楚歌の状況でも軽々と突破出来そうな三剣姉さんが戦場で誰かに倒されるなんて光景は全く想像がつかない。
「でも、きっと父さんも三剣姉さんに長生きして貰いたいって思ってるよ。だから死にたい死にたいばっか言ってると父さんが悲しむよ」
そう言うと、三剣姉さんは何かの呪いにでもかかったのかと思うようにぴしりと固まる。
「あ……あの、三剣姉さん……?」
「四浪……父さんの名前を出すのは禁止。口喧嘩が成立しなくなっちゃう」
これが兄弟喧嘩のつもりだったというのも驚きだけど、やはり父さんが亡くなって一年が経とうとしていても、三剣姉さんの中では父さんのことが全く消化出来てないよう。
他の姉さんに聞いた話ですが、西軍がこてんぱんにやられた事でと名高い養老の戦いでは、三剣姉さんだけが最後まで残って父さんと一緒に戦いたいと言い続けたそう。
そして父が討たれたと聞いたときには年中能面の三剣姉さんが涙を流したという。
ニシャ姉は、あれは汗だったというのだけど、他の姉さん達もその光景には驚きだったと。
「ごめんね……これから父さんの名前は出さないようにするよ」
「うん……」
しばし感傷に浸っていた僕の背後からにゅっとから姿を現したのは心の機微とサトウキビの区別もつかない無神経グラトニー。
「おい! 何勝手に端っこで根暗とメランコリックな会やってんだよ! 酒はいったいいつ来るんだよ!」
「あああ、すいません。もう用意してますので、それをそのまま持って行って下さい」
「じゃあ四浪、お前も来て飲めよ」
「い、いや、僕はまだ未成年なのでお酒はまだ……」
「あぁ、あたしの酒が飲めないってのかい。逆らうならお前を旨い酒の肴にする。逆らわないなら私と旨い酒が飲める。さあ、どっちがいい」
「うぐぐぐ……分かりました。酒の肴ではなく相手をさせて頂きます」
そう言ってちびちびと舌を這わせる。
美味しくないわ、頭は痛くなるわ、吐き気はするわ。
よくこんなものを楽しそうに飲めるもんだと感心。
「おい、酒をちびちびちびちび啜りりやがって、お前は恋する乙女か」
「いいですよ。所詮僕は京極家で唯一数えられてない存在なんで。みんな僕のこと見えてない感じですし。四って数字は死とも読めますしね」
「お前、三剣みたいなこと言うなよ。京極家の出来そこないって、お前今更そんなこと気にしてるのかよ。いいじゃんか。お前は料理の腕前があるんだから。きっと将来立派な板長になれるよ、ブフッ、ブフフッ」
平和な時代であれば間違いなく餓死するであろう、初等算数も出来ない脳まで筋肉娘に失笑されるなんて、不愉快、不愉快。
あと五十年もすれば天下は平定してて、僕みたいな大衆料理を作れる人間が重宝される時代が来るはずなのに。
そんなことを考えてたら、突然に怒りのカミナリが縦ではなく、横から飛んで来る。
「お前ら五月蝿い! 作業が集中出来ないでしょ! 大声で歌って飲んで踊りたいなら、屋形船でも出してやって! ここでやるなら静かにやって!」
振り向くと、広間と台所の真ん中にある梯子階段の前に、今にも飛び掛かってきそうな、発情した猫のように息を荒げた小柄の短髪女性が立っていました。
「何や。自宅で飲んで騒いで何が悪いねん」
「騒ぐったって節度ってもんがあるでしょう! 何時だと思ってるのよ!」
「ええやろうが。うるさいと思うなら、丸めた綿を海水にでも浸けて、それを耳に詰めて静かに勉強しとけ」
「くっ、人が不眠不休で、阿呆猿でも理解できるような戦術をまとめ上げようとしているのに、そんな人様の気も知らずに腹立ちしか覚えないような満面の笑みでお酒を楽しむなんて…」
「何を大袈裟に言ってるのやら。六韜は戦術を練ること以外にやることないからやってるだけやろう」
まあ、事実ではあるんだけど、身もふたもないニシャ姉の言葉に対し、六韜は、悲しみと憤怒がごちゃまぜになったような表情を浮かべる。
「ああああっっ、つっ、ついに、言ってはいけないことを言ってしまいましたね。肉親といえど最低限守らないといけない一線を越えてしまいましたね。本来ならおしゃれや、京都の甘味処巡りに花咲かせているこの年頃の女の子。それが、狂気に満ちた殺戮一家に生まれたが悲劇、せめてもと年がら年中一兵でも多く命を救うため頭を悩ませているというのに、それを趣味でやってると!!!!!」
「おい、六韜が愉快な冗談を言ってるぞ。こいつのおしゃれなんて布を丸めたものに胴体に手足を突っ込めば十分だし、おやつはイナゴで充分だろう。彼氏が欲しいなら敵軍の捕虜から一番デブで不細工なのをあてがってやるよ」
「うきぃぃぃ。この人はぁぁぁ。この人はぁぁぁ!!!」
売り言葉に買い言葉の応酬が続き、緊迫した空気が部屋中に充満。
しかしこういった光景が日常の一部と化している僕からすれば、台本のあるプロレスでしかない。
このニシャ姉と向かい合ってるショートカットの女性は、京極家の五女こと京極六韜。
そのひきしまった細い体つきを見ると体育会系の女子を想像させるけども、その実は親父がどこぞの国(一説では関東)の文官との間に作った娘で、六韜という名前も中国の兵法書から来てるらしい。
子供の頃から源平合戦や史記を音読したりと、他の姉妹とは違う毛色でここまで育ってきました。
「まあまあ二人とも、とりあえず暖かい牛乳でも飲んで気持ちを落ち着けましょうよ」
「「四浪(兄)は黙ってろ(て)!」」
右耳から入ってきた大音量は、左耳から入ってきた大音量と合流して、僕の頭の中で絶叫音楽会が開演する。
僕の視界は波のように揺れていますが、湖の揺れでないことは明らか。
「でもやっぱり、相変わらず六韜の采配は冴えわたってるよね」
「敵を知り、己を知れば百戦殆うからず。敵を調べた上で、事前にあらゆる想定を検討しておけば、本番で慌てるような事態には出くわさないのよ」
「でも、面白いくらいに敵が六韜の戦略に誘導されていくんだもん。まるで六韜は未来のことが見えてるみたいだよ」
「机上の空論であっても、どこまで実戦を想定してるかで動きは変わってくるものよ」
僕は、六韜を必死でなだめながらそれでもやっぱり末期的な軍事オタクだなと心の中で呟く。
そんな演劇の最中に、刀と話せることで(ほとんど刀としか話せない)有名な三剣姉さんが珍しく入ってきました。
「六韜……どうでもいいけど、次はもっと死地に置いて。あんな風に露骨に保護されてたら私も辛い」
「ごめん、もうどこから突っ込んでいいか分からないわ。私も不仲の極みとか身内殺しとか裏で色々言われてて胸が痛いんだけど、三剣姉さんは無敵のチートキャラ扱いで毎回一番しんどいところに置いてるわ。あまりにも鉄壁過ぎて私もちょっとひいてるくらいよ」
「雑兵は……百隊集まっても雑兵でしかない……」
「今の京都国でそんなことを言えるのは、京極家の人達だけよ」
「養老のときは、私を殺せる可能性がある武将が何人かいた……あれは、どうして出てこない……?」
「どうも東軍は主力を国に引き上げさせていて、もはやいつでも天下を取れるという算段のようだわ。ただ、安易に京都を落とすことをしないのは、攻め落としたあとに起こる守りの維持コストに気を使ってるからよ。京都はブランド名こそあれど、盆地に開けててどこからでも攻めることが出来るために守るのに向いてない都市なのは、源平合戦や後醍醐天皇の時代に何度も攻め取られるのを見ても一目瞭然よ。次に彼らが出て来るときは、京都国の残兵を残さず追い続けて滅ぼすときだわ」
「ま、そうなることは一生ないぜ。なにせこの滋賀にはうちら一族が残ってるからな」
何の根拠もないのに、やたらと自信ありげに言うのはニシャ姉。
「そうね。これからは前のような馬鹿な麻呂共には口を挟ませないわ。この滋賀の地で京極の一族が戦える限り、敵の勝利は微塵もありえないわ」
いつも冷静な判断を下す現実主義の六韜ですら、そう断言しています。
「父さんを殺した東国の連中を一人でも多く地獄に送って、私は父さんのいる天国に行く」
やたらご都合主義の輪廻観を持つ三剣姉さんも、攻めて来る者を叩き斬るという点では他の姉妹と同じ。
全く色の違う姉妹達ですが、その能力は疑う余地はなく、滋賀に入って来る侵入者を心強く追い払ってくれるのです。
そんな個性的な彼女らに囲まれた料理しか特技がない僕は、さてはて、これからどんな生活を送ることになるのでしょうか