アパートの鍵は貸さない
夕方、暮れなずむ町の風景になんとなく違和感を感じる。やっぱり灯りが少ないせいだろうか、灯火管制とか戒厳令といった言葉が脳裏に浮かぶ。いや、そこまでじゃないし、ちゃんと照明がついている家もある。
自家発電の設備がある家や、車のバッテリーに余裕のある人達なんかはこんな時でも電気を使えるのだろう。
明るく輝いてるのは金持ちの家ってわけだ。今の時代マイカーを持ってるだけでもなにげに勝ち組だからな。武装グループに押し込まれなきゃいいけれど。
街中を走っている車の数は普段よりずっと少ない、警察官の手信号に従ってゆっくり流れている。調子に乗って自転車でどんどん追い抜いていると、パトカーからスピーカーで怒られてしまった。
リンリンが自分の頭を軽く小突いてテヘってして見せる。昭和のドラマかよ? だが現代でも十分有効な手口みたいだ。若い警官が鼻の下を伸ばしてリンリンのケツを眺めている。
未曽有の大停電で大混乱してるかと思いきや、案外世の中は平和なもんだ。
アパートに近づくにつれて見覚えのある景色が増えて来る。俺はこの町に何年も住んでいたのに、考えてみれば通勤ルート以外の道はほとんど通ったことがなかった。それもまた人生か、人生いろいろってやつだな。
無灯火で走ると罰則があるというので、完全に日が落ちる前に自転車屋で買った懐中電灯をハンドルのホルダーにセットする。サドルの後ろにも赤いテールランプをくっつけるようになっている。反射板だけだと相手が無灯火で突っ込んで来た時に死ねるらしい。たかが自転車で何を大袈裟なと思っていたが、今日一日で認識を改めたよ。自転車だって立派なマシーンだ。
わざわざライトをつけたというのに、俺のアパートはそこから百メートルもなかった。
「だって交通ルールは守らないと。たった百メートルの間に大事故に巻き込まれてたかもしれないじゃない?」
こいつ、アウトローの癖にこういうところは真面目だな。不良が捨て猫に優しいみたいなものか、ちょっと違うか。
うーん、こうして久しぶりにアパートの前に立つと、なんとも不思議な気分だ。見慣れている筈の場所なのに、現実感がない。もっと感動するかと想像していたが、そういうものでもないな。
俺がまだいろいろ考えているというのに、リンリンは自転車を担いでそのままどんどん階段を上って行こうとしている。まさか、俺の部屋番号を知ってるのかよ?
「おいおい、駐輪場はこっちだよ」
「こんなの外に出してたらすぐ盗まれるわよ」
マウンテンバイクは室内保管が基本らしい、そういうものなのか? まあ、軽自動車並みにお高いものだしな。高級自転車を専門に狙う泥棒もいるらしい、まったく世も末だよ。
超軽量な自転車だから担いで上がるのに苦労はしないが、泥だらけのタイヤはちょっと気になるな。大家さんに見つかったら絶対怒られる。彼女は年増の未亡人で、最強生物だ。美人だったらまだよかったんだが、現実は非情さ。
廊下は真っ暗で不気味だ。俺はオバケは一応平気だが、危ない奴が潜んでいたら怖い。自転車のライトが役に立っているが、配光が強力過ぎて少々眩しい。まあ、勝手知ったる安アパートだし、多分目を瞑ってたってドアにたどり着けるけどな。
こんなこともあろうかと、新しいキーホルダーにはアパートの鍵もちゃんと入れてあるのだよ。せっかく家賃を払い続けてるんだしな、せめて物置として活用するつもりだった。長いこと忘れてたけどな。
扉を開けて中に入ると、郵便受けにはたっぷりチラシの類が溜まっている。それだけじゃない、下駄箱の上にも山ほどの郵便物が積み上げられている。誰がこんなことをしてくれてるんだろう? 大家さんかな。
自転車から外したライトで部屋の中をあちこち照らしていると、まるで泥棒に入った気分だ。ずっと住んでいた場所なのになんとなく薄気味が悪い。停電で暗いせいもあるがそれだけじゃないな、注意して見ればそこここに誰かが入った形跡が残っている。
「それでは、お先にシャワーを使わせて頂きますわね」
いきなりリンリンがお嬢様モードで喋り出す。今度は何の遊びだ? ああ、部屋に盗聴装置が仕掛けられてる時のサインだったよな。やはり侵入者がいたのか。敵が何者かは知らないが、こんな所にまでわざわざご苦労なことだ。
リンリンは自転車を抱えたまま風呂場へ。停電中にシャワーは使えるんだろうか? そういや何年か前に単一の乾電池を取り換えたことがあったな。電池で動いてる装置なら、ガスさえ来てれば問題ないだろう。
自転車と一緒にシャワーを浴びるとか変わった趣味だが、洗浄は整備の基本か。これだけ派手に汚れてしまうと、ウエットティッシュで拭いたくらいじゃどうにもならんからな。さすがに泥だらけのホイールは外して下駄箱の横に置いてある。
お高い自転車はレバーをチョイと引っ張るだっけで、指先一つで簡単に車輪が外せるようになっている。飛んだり跳ねたり結構無茶な走りをしたと思うんだが、途中でよく外れなかったもんだ。
俺は自分の自転車を邪魔にならないように玄関の帽子掛けにぶら下げてみる。軽いからこんなこともできるな、これなら収納スペースもそんなに気にならない。泥は……まあ、気にしないことにする。
パンパンに詰まった重いバックパックを部屋の隅に放り出し、全身タイツみたいな服を脱ぎ捨ててベッドに飛び込む。少し黴臭いが、長年使い慣れた枕はやっぱり落ち着く。
この数日の緊張と疲れから、眠気が一気に……
「あー、さっぱりした……いたしましたわ」
シャツとパンツだけのリンリンがほかほか湯気を立てながら出て来た。どうやらガスはちゃんと使えるようだな。下着姿は目のやり場に困るんだが本人はえらく堂々としている、見せパンというヤツだろうか? スポーツの時に着る下着は見られても大丈夫だというあのノリだ。あるいはアニメか映画のだらしないお姉さんキャラのコスプレかもしれない。まあ、現実には女性がこんな感じでだらしなく振舞っていたら、色気も何もあったもんじゃない。初めて同棲した頃は、慣れて行くにつれいろいろ幻滅したもんだ。
下着と言えば俺もトランクス一丁だが、こいつはどうせそんなの気にするようなタマじゃないしな。まあ、寒いからジャージか寝間着でも着るとしようか……そうかちゃんとお湯が出るのか、俺もシャワーくらい浴びてこよう。
懐中電灯の明かりを頼りに風呂に入る。こういう非日常なシチュエーションもたまにはいいかもしれない。現在命を狙われ中みたいだが、それほど緊張感はないな。死と隣り合わせの生活も、慣れてしまえばただの日常だ。どうせ人間一度は死ぬんだし、ずっと怯えて生きてても仕方がない。人間開き直りが肝心だ。
俺なんかを狙わせるとか、ユーラシア連邦の偉い人もどうかしているけどな。多分だけど、最初は軽い気持ちで暗殺命令を出してみただけで、悉く失敗するうちにだんだん引くに引けなくなったんじゃないかな。あっちの人はメンツに拘るって言うし。
あ、そういえば、大佐がスパイ狩りのために仕掛けた釣りだったな。俺が餌でリンリンは釣り針か? 結局一番悪いのはあの大佐じゃないか。だからといって恨んじゃいない、狙われている状況下で危険な飛行艇にわざわざ一緒に乗りこんでくれたしな。あれって一応責任は感じているというパフォーマンスだよな。
今までさんざんひどい上司を見てきた俺にとっては、大佐に利用されるくらい余裕で許容範囲だ。
小さい湯船にのんびり浸かってとりとめもないことを考えていると、餃子の焼けるいい匂いが漂ってきた。なんだ、ガスコンロもちゃんと使えてるみたいじゃないか。あれは余計な調理コンピュータがついているので、停電じゃ使えないだろうと思ってたんだ。
料理を指定すれば自動的に火加減を調節してくれる一見便利な機能もあるが、実際に使うと融通が利かなくて面倒なだけなんだ。AIがベティちゃんくらい賢ければまた違ったんだろうけれど。
バスタオルがどこにも見当たらないので、犬みたいに体を震わせて水気を飛ばす。籐籠の引き出しにタオルも着替えも入れてあった筈なんだが、綺麗に空っぽになっている。俺のトランクスなんか盗んだ奴は誰だ? 需要があるとは思えないんだが。
普段なら下着くらいコンビニで買えばいい話だが、大停電のせいでそうもいかない。仕方ないから脱いだ奴を手洗いして、力任せに絞ってから履く。うーん、下手に洗うんじゃなかったかもしれない。濡れてて気持ち悪いし、下手すると風邪をひくな。俺一人なら乾くまで素っ裸で頑張るんだが、今の状況下でさすがにそれはできない。
上に何か着ようと箪笥を開けると、こちらも全て空っぽだった。安物の服ばかりだったが、値段の問題じゃない。一体俺の敵は何を考えてるんだろう? ただの嫌がらせのつもりか?
仕方なくバックパックから一張羅の背広を出して着る。結構しわくちゃになっていたが、さすがいい生地だけあって着心地は悪くない。無事に大阪に戻ったら、少し上のグレードでもう何着か仕立ててもらおう。
さて……リンリンはというと、部屋の真ん中でキャンプみたいなことをしている。まったく、自由過ぎる女だな。広げた不燃シートの上で、オモチャみたいな小型バーナーが轟轟と炎を上げて燃えている。
その上にままごと遊びに使うような小さなフライパンをかざして一生懸命餃子を炙っているわけだが、こいつは家の中でキャンプをするなと学校で教わらなかったんだろうか。
「面白そうなことをしてるじゃないか」
もちろん嫌味のつもりだ。まあ、こいつがそんなの気にするとはハナから思ってないがな。
「大人の火遊び……ですわ」
色っぽい声色で悪戯っぽく囁くリンリン。盗聴してる奴が聞いたら誤解するじゃないか、誤解させようとしてるのか?
もうどうでもいいや、火事になったらその時はその時だ。うーん、やっぱりガスコンロは使えなかったのか。だからといってこうなるかなあ。一応不燃シートを敷いたのがコイツの配慮か? 幸い天井を焦がす程の火力はなさそうだが、キャンプ用のバーナーなんていつ機嫌が悪くなって燃料が噴き出すかわかったもんじゃない。そうなったらアパート丸焼けだな。
「へえ、それが火遊びセットってわけか」
SGNを燃料に使うキャンプ用のバーナーセットで、鍋の中に調理道具一式全てが入れ子に収納できるようになっている。上手く重なるサイズの大中小の鍋のセットで、蓋はフライパンやまな板も兼ねている。一番小さい鍋の内側にバーナー本体がすっぽり収納されるというコンパクトな設計だ。使用後は鍋やフライパンを全て洗わないと仕舞えないから、後片付けをサボルわけにもいかない。なかなかよく考えられている。
おいおい、取扱説明書には室内で燃やすなとちゃんと書いてあるぞ。わかりやすくドクロマークまで描いてある。リンリンに見せると目を逸らされた。
燃料はSGNか。ガソリンに比べれば引火しにくいが、ディーゼルエンジンに使えるんだから気化すれば爆発する。リンリンは赤いポリ水筒に入れて携行していたみたいだ。振ってみるとちゃぽんと音がする、まだ半分ほど残っているようだ。
SGNは日米両軍の標準燃料でもあり、ジェット機も戦車も全部これで動かせる。補給のこととかも考えられてるんだろうな、ひょっとしてロボの燃料もこれを使うんだろうか?
ぶっちゃけ、成分はほとんど灯油と変わらないんだけどな。灯油より安いし入手もし易いから、学生時代は石油ストーブに使っていた。実家の物置から引っ張り出してきた昭和時代の骨董品だったが、まったく問題なく使えていたな。そういえばあのストーブはどこに行ってしまったんだろう? 別れた彼女が持って行ったのかもしれない。別にいいけどな。
「どうしたの? そんなに真剣に炎を見つめて」
「いや、まあ、過ぎ去りし日の……若さゆえの過ちって奴をだな」
フライパンは本当に小さくて、一度に四つの餃子しか焼けない。仲良く二つずつ食べる、本当におままごとだ。
店で一度焼いてあるやつだからそのまま食べても問題ないんだが、炙った方が当然美味い。さすがに三食続けて餃子というのもどうかとは思うが、他に食べ物がないしなあ。
冷蔵庫の中は綺麗に空っぽだし、ストックしておいた缶詰やラーメン、パスタやそうめんなどの乾麺も何故か全てなくなっている。盗まれたのか、それともゴミだと思われたのか?
芽が出かけてたジャガイモやタマネギが綺麗に処分されていたのはありがたいが、缶ビールやとっておきのブランデーまで消えている。今の俺にとっては取るに足りないような安物ではあるんだが。
いくつの餃子を食ったことだろう。少しずつゆっくり食べたせいで満腹中枢が働いたのか、昼食の半分も食べられなかった。リンリンも同じとみえて、焼くのをやめて後片付けにとりかかっている。
食器類は専用のウエットティッシュみたいのでさっと拭くだけで終わりみたいだ。キャンプでいつも水が潤沢にあるとはかぎらないからな、なかなかよく考えられている。バーナー本体は完全に冷えてから最後に収納するみたいだ。
油ゴミの匂いにつられたのか、季節外れのゴキブリがのそのそ這い出してきた。まだ気温が低いせいか動きはそれほどでもないな。使い終わった割りばしでつまんで捨てようとしたら、何故かリンリンに止められる。
「殺しては駄目。ゴキブリは南京虫の天敵よ、悪い虫から私達を守ってくれているの」
ああ、南京虫ね。噛まれるとひどいらしいよなあ。俺がこの安アパートでも無事だったのはG達のおかげだというのか? そういえばナンシーに聞いたんだが、リンリンは毎年鈴虫をペットに飼っているそうだ。小さな虫を可愛がるとか、人は見かけによらないもんだな。
確かに見た目はキモイが、死ぬほど痒いという南京虫に比べればまだマシだと言えるか……いや、キモイものはキモイ。
まあいい、今回だけはリンリンに免じて許してやろう。放免してやると、のそのそと箪笥の裏に逃げ込んで行った。
幸い俺はまだ南京虫に苦しめられたことはないが、近年東京を中心に外国の危険な生物が大量に入り込んで来ているらしい。元々はGも外来種だそうだが、まさか奴らが味方になる日が来ようとはなあ。本当にまったく世も末だ。
さて、あとはもう寝るだけか、ベッドをリンリンに貸してやるべきだろうか? コイツの場合、そんな真似をしたらこの先ずっと揶揄われる気がするんだよなあ。
リンリンは何をしてるのかと思ったら、膨らませたレジ袋を懐中電灯に結んで、即席の提灯を作りあげている。見た目こそゴミのようでも、ムラのある柔らかい光が意外にムーディーだ。若いのにこういうことをよく知ってるよなあ、従軍経験でもあるんだろうか?
提灯のできに満足したのか、次に彼女は小さな袋から銀色のシートを取り出した。今度は何だ? みるみる膨らんでいくぞ。これは寝袋か。
説明書には特殊な断熱フィルムを使用していて氷点下20度の環境でも快眠できると書いてある。たいしたもんだな、このフィルムさえあれば大気圏突入とかもできるんじゃないか?
「それじゃ、おやすみなさい」
リンリンはさっさと寝袋に入って寝てしまう。あれ? 絶対何か妙な真似をしてくると思ったんだけどな。さすがに今日は疲れたんだろう。
だけどねる前に歯くらい磨けよ、あ、歯ブラシがないのか。山のようにキャンプ用品を買い込んでたくせに、詰めが甘いな。
「……おやすみ」
リンリンはもう気持ちよさそうに寝息を立て始めている。寝つきのいいのもいい戦士の条件だそうだな。
俺も自分のベッドに転がり込む。いろんなものがなくなっている中、布団と枕だけでも残されていたのはありがたい。
状況的には交代で不寝番とかすべきなんだろうが、敵の襲撃が無かった場合、周囲を警戒し続けて消耗するのは下策だよな。疲れてるしここは気持ちよく寝てしまおう。どうせ殺気を感じたらリンリンが飛び起きるだろうさ。