第一話 七年後、夏
ウトウトと微睡む夏夜の耳に、停留所を告げる車掌の声が届く。
「次は、有漏村ー。有漏村ー」
座席から伝わる心地良い振動に夢の世界の入口へと半分足を踏み入れかけていた夏夜は、そのアナウンスにゆっくりと瞼を上げる。まだ覚醒しきらない意識の中、しかし耳では目的地の名前を捉え、指先は自然と頭のすぐ横に設置された降車ボタンを押す。
軽快な鈴の音。『次、止まります』
寂れた停留所で降りた乗客は、夏夜一人だった。数段のステップを踏んで乾いた地面に降り立った瞬間、車内の冷房で冷え切った夏夜の頬を熱気を含んだ風が撫ぜてゆく。見上げた先には遮るもののないどこまでも青い空と、さんさんと降り注ぐ夏の日射し。
誰も乗せぬままプシューッ……と空気が抜けるような音をたてて、背後の扉が閉まる。そして静かに発車したバスの車体は、あっという間に道の先に消えて見えなくなった。
停留所にポツンと佇む看板が眩い陽光を照り返している。所々にシミの目立ったそこには、ペンキの剥げかけた文字が踊る。
『有漏村』
じんわりと額に滲む汗を手の甲で拭い、夏夜は一人ぼっちのそこで小さくポツリと呟きを落とした。
「……着いた」
――夏夜の両親の海外転勤が決まったのは、今年の春先のことだ。父と母は同じ外資系の会社に勤めており、仕事場でもパートナーとして共に働いている。夏夜はいつだって両親を応援し、二人が居ない間の家のことを率先してこなしてきた。だが、来年には夏夜は受験生になる。日本での進学を考えている夏夜はここ数か月間両親との相談を重ね、遂に自宅から遠く離れた田舎に住む祖母の家に預けられることが決まったのだった。
すうっと深く息を吸い込むと、凝縮した夏の匂いが鼻孔を通り抜ける。
幼い頃は毎年夏になると両親に連れられてこの田舎まで遊びに来ていた。だが成長するにつれて両親の仕事が忙しくなり、夏夜もまた学校の授業や部活で暇を見つけられず、気が付けば最後にこの地を訪れてから七年が経とうとしていた。
久しぶりの訪問は、しかし意外なことに夏夜の心に何も生まなかった。目の前に広がる村の様子は、おぼろげに覚えている光景と何ら変わりがないように見える。それだけだ。暫し記憶を辿ろうとしてその場に立ち尽くしていたが、何も甦ってこないのを悟ると夏夜は肩に提げた鞄の中から一枚の地図を取り出した。
祖母の家に本当に辿り着けるか、心もとない。何せ七年間の空白があるのだ。バスの中で何度もそうしたように広げた地図で道を確認する。
「よし……、行こう」
意を決して歩き始めてみれば、すぐに夏夜は自分以外に歩行者の姿がまるで見当たらないことに驚くこととなった。この炎天下の中、誰も自ら進んで外出するようなことはしたくないのだろう。それともこの一帯の人口が単に少ないだけだろうか。――おそらく両者だろうな、と漠然と夏夜は思った。
みんみんみんみん、近くの雑木林から響き渡る蝉の大合唱。畦道の先にゆらゆらと立ち上る陽炎。その間にも日射しは容赦なく夏夜の首筋を、肩を、背中を照り付ける。帽子を持ってくればよかった、とほんの少し後悔する。
そうして真っ直ぐに進んでゆくこと暫し、やがて目の前に緩やかな坂道が現れた。地図によればこの坂を登ったところに祖母の家があるはずだった。自然、夏夜ははやる気持ちに急かされるように足取りを速める。――と。
「…………っ」
その巨大な門が視界一杯に立ちはだかった瞬間、知らず夏夜は息を呑んだ。
屋敷、と呼ぶにふさわしい立派な日本家屋。粛然とした雰囲気を漂わせそれは建っていた。長い年月の蓄積を感じさせる重みが外観からも感じられ、真っ白な塀と青空のコントラストが美しい。
間違いない。手元の地図に視線を落とし、再び屋敷へと上げて――夏夜はここが母の実家、つまり昔何度か訪れたことのある祖母の家であると確信した。
(こんなに大きなお屋敷だったっけ……)
思わず呆然としてしまう。次にハッと我に返ったとき、夏夜は恐る恐る周囲を見渡した。それから門の柱に真新しいインターホンを見つけると、ゆっくりと傍に歩を進めて緊張した面持ちで腕を持ち上げる。
どきどきと高鳴る鼓動の音。気付けば、いつの間にか喧しい蝉の声が遠のいていた。
しかし夏夜がインターフォンのボタンを押すことはついになかった。何故なら、指先が触れる前に門の内から声が響いたからだ。
「あら、夏夜ちゃん?」
びくりと大仰に肩が震えた。突如自分の名前を呼んだ声に、夏夜は視線をそちらへと向ける。すると内側に開け放たれていた門の奥、広々とした緑深い庭が見える。そこに一人の女性が佇んでいた。彼女はどうやら庭の草木の手入れをしていたようで、麦わら帽子を被り、花柄のエプロンを身に着けていた。手にしていた剪定ばさみを無造作に鉢の横に置くと、女性は屋敷の外に立つ夏夜の方へと近づいてくる。
「やっぱり! 夏夜ちゃんじゃない!」
その顔が視認できる距離になると、夏夜は目を大きく見開いて驚いた。
「……恵子叔母さん……?!」
女性が夏夜の真正面に立った。その姿と、夏夜の頼りない幼少時の記憶の中の姿が不意に重なり合う。そうだ。彼女は恵子叔母さんだ。優しくておっとりとした叔母のことが、夏夜は大好きだった。
恵子は何度も瞬きを繰り返し、やがて感極まったように口を開く。
「久しぶりね、夏夜ちゃん! まあまあ、こんなに大きくなって……! 元気にしてた?」
「はい。……お久しぶりです、恵子さん」
頭を下げる。そんな夏夜を、恵子は足先から頭のてっぺんまでじっと熱く見つめていた。
「懐かしいわあ。七年ぶり、だったかしら? すっかり夏夜ちゃんは大人っぽくなって、綺麗になったわねえ」
「叔母さんもお変わりなく」
「ううん。それに比べて、私はすっかり皺も増えちゃって」
気恥ずかしそうに頬に手をあてる姿は少女のようだ。その様子がとても可愛らしく、夏夜は緊張に引き締めていた口許をつい緩めてしまう。するとつられるようにふわり、と恵子も微笑んだ。
「取りあえず、早く中に入って。長旅で疲れたでしょう。積もる話は、それからにしましょうか」
木綿の涼しげなワンピースからのぞくほっそりとした腕で屋敷を示して、恵子は言う。夏夜は「はい」と答えながら、久々の叔母との対面に心が温まるのを感じた。恵子の穏やかな雰囲気や優しい声音は昔と変わっておらず、そのことが何よりも今の夏夜には嬉しかった。
――カコンッ
鹿威しの涼しげな音を聴きながら白い飛び石の上を進んだ。恵子の後をついて歩きながら夏夜は間近で見る庭園の美しさにほうっと感嘆する。毎日恵子が手入れをしているのだろうか。手入れの行き届いた、しかし同時に自然の美しさも併せて存在しているような、素晴らしい眺めだ。きっと一年を通して四季折々の花々を咲かせるのだろう。
そうこうするうちに玄関へと着き、戸に手をかけながら恵子が夏夜を振り向いた。
「夏夜ちゃんの荷物はもう届いているのよ。後で部屋にも案内するわね」
「はい」
「さあ、……どうぞ」
ガラリと開け放たれた引き戸。「お邪魔します」、と深くお辞儀をして夏夜は敷居をまたぐ。その時だった。
(……? 足音……?)
騒々しい足音が聞こえた気がした。それは屋敷の中からこちらへと向かってくるようだ。刹那、夏夜は自分の身体に勢いよく突進して来た何かがぶつかるのを感じた。
腹部への圧迫感。不意の出来事と衝撃に思わずバランスを崩しかけた夏夜だが、何とかその場に踏みとどまり転倒は免れた。
「――ッ、」
「わあー!! お姉ちゃんだー!!!」
そうして明るく無邪気な声が響いた。
(……声が、二つ)
何が起きたのだろう。状況が理解できず混乱する思考。しかしぼんやりとしたまま、夏夜は視線を落とし自分に抱き付いている見知らぬ二人の子供を見下ろした。
子供の年の頃は八つか九つといったところだろうか。一人は少年で、もう一人は少女だった。驚いたことにキラキラと瞳を輝かせて夏夜を見つめ返すその顔は驚くことに瓜二つである。髪型さえ違わなければ、どちらが少年でどちらが少女が見分けもつかなかっただろう。
「…………、」
「――こら! 歩夢、羽瑠々! 夏夜お姉ちゃんをおどかしちゃ駄目でしょう」
束の間落ちた沈黙は、続いて家の中に入った恵子によって終止符を打たれた。恵子の咎める声を聞いているのかいないのか、子供たちは真っ直ぐな眼差しで夏夜だけを見つめ続けている。思わずひるんでしまいそうになるほど純真な瞳だ。
その様子に呆れたようにため息を吐き、恵子は夏夜に申し訳なさそうな苦笑を向けた。
「ごめんなさいね。大丈夫? 夏夜ちゃん」
しかし困惑して返事も出来ずに固まる夏夜。そこへさらに子供たちの声があがった。
「本当にお姉ちゃんがきたー!」
「お姉ちゃん、お名前なんていうのー?」
ぱちぱちと夏夜は目を瞬かせる。
「ほらほら、離れなさい」と言いながら子供たちを引き剥がしてくれたのはまたしても恵子で、玄関口に立ち尽くす夏夜を振り返り説明した。
「夏夜ちゃん、紹介するわね。これは双子の兄妹の歩夢と羽瑠々よ。この家に一緒に住んでいる遠縁の家族の子供で、まだ十歳なの。……確か、夏夜ちゃんと会うのは初めてね。仲良くしてあげてくれる?」
「はじめまして!」
「よろしくね、お姉ちゃん!」
息の合った挨拶をしてにこにこと愛嬌たっぷりに笑う双子に、つられて夏夜も微笑んだ。それから膝を折って二人と視線を合わせる。近くで見れば見るほどによく似た兄妹だった。
「初めまして、今日からこの家でお世話になる夏夜と言います。これからよろしくね」
すると、ぱっと顔を輝かせて「うん!!」と元気よく頷く。とても人懐こい子どもたちのようだ。そうして二人は唐突に夏夜の手を握ると、まだ靴も脱いでいない彼女を家の中に招き入れたのだった。
「お姉ちゃん、来て」
「こっち、こっち」
「わ……! ちょっと待って……!」
言いながら夏夜は慌てて靴を脱いで、廊下を導くように駆け出す子供たちについてゆく。
「まったく、もう」
そんな夏夜たちの後ろ姿を目を細めて見送りながら、恵子が和やかに笑い声をあげたのが微かに聞こえた。