プロローグ
約束。その言葉はいつも、夏夜の心の底に眠る何かを震わせるように響く。
夢の中で夏夜は十歳の幼い子供だった。ふと視線をめぐらせてみれば、甘ったるい匂いがふわりと前髪を掠めてゆく。まるでモノクロの映画を観ているかのように、夢の景色は色彩を欠いている。音もなく吹き抜けるひんやりとした風、揺れ動く真っ白な大群の花々。その名もなき花畑の中央に、誰かと向かい合うようにして夏夜は立っていた。
「お前が大人になったら、俺の花嫁にしてやろう」
仰ぐように顔を上げた先、夏夜を見下ろして誰かのくちびるが言葉を紡ぐ。顔は見えないが声だけは聞き取ることが出来た。滑らかに低い声音。突然、ギュッと心臓を鷲掴みにされたような息苦しさに襲われて、夏夜は戸惑う。幼い少女にはその感情の正体が分からなかったのだ。
「だから、それまでは――」
誰かは身を屈めて夏夜の耳元に囁きを落とした。その際にくちびるが首筋を掠め、思いがけぬくすぐったさに堪らず身体を捻る。すると、そんな夏夜の身動ぎを封じるように抱き寄せられた。再度――今度は確かな意思をもって、うなじに口づけられる。ひくり。夏夜の小さなのどが鳴った。
――瞬間、誰かの口がカッと開かれ、一切の躊躇もなく夏夜の白く細い首筋に咬みついた。
痛い。痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛いイタイ――。
嗚呼、これは自分が大人になるその時までの約束なんだと。そう思った瞬間にふっ、と目の前が夜の闇に覆われ、夏夜の意識は呑み込まれた。