9-1
Side:Luna
真白が降り積もる景色の中で、私はぼんやりとその場に座り込んでいた。
周囲には何もない。何一つ。
私がすべて消し去ったのだから、当然と言えば当然だった。
「陽……」
幸福の残滓に縋るように唯一の名を呟いて、そのまま雪に埋まるように倒れ込む。
仰向けに横たわったそこは召喚の魔法陣が微かに光を放つ場所だ。
古代のこの世界の人間達の力はなかなかに強く、あの時の衝撃でもまだ刻まれた魔法陣は壊れなかった。
恐らく広範囲ではなく魔法陣だけに力を集中させれば破壊は可能だろう。
けれどあれほど憎んだ召喚術だというのに、僅かばかりに陽を――彼と再び相見えたことを証明するものなのだと思ってしまえば私の手は動かなかった。
かと言ってもう二度と召喚術をこの世界の人間に使われるわけにはいかない。
だから私はこの魔法陣の周囲に何重にも結界を張り巡らせ、私以外の人間のこの場所への侵入を拒んだ。
魔法陣の存在さえも知られないように、目眩ましの幻術も。
召喚術の行使の足掛かりになり得る書物の類いの削除は私が“聖国”から逃亡して以降ずっと行っている。
従って他国にはそのようなものは既に存在しないはずだし、“聖国”などは私が完璧に討ち滅ぼしたのだから最早心配は不要だった。
どうにか力を行使して探った結果、召喚術の存在が今の聖王達に知られたのは先代の首席魔術師の残した手記によるものだったらしい。
何かの折りにその手記を発見した今代の首席魔術師は召喚陣を見つけ出し、“聖国”が過去の栄光を取り戻すため術を発動させることを聖王に申し出た。
それに一も二もなく飛び付いた聖王には、私に対する記憶があったのだろうか。
私が今代の聖王と出会ったのは彼がまだ乳のみ子だった頃。
先代の聖王が彼を珍しく玉座の間に連れてきたのが切っ掛けだった。
最初は私が次に仕えさせられることになる王の紹介か何かかと思ったが、先代の聖王の目を見てそれは違うことに気づいた。
先代は目をギラつかせながら、私が仕えるのはいつまでも自分だと言い放ったから。
その頃には前聖王はずいぶん私に執着していて、だからこそその言葉は状況から鑑みるに当然のものだったが気味が悪かったものだ。
もしかしたら前聖王は不老不死でも望んでいたのかもしれない。
いつまでも召喚された当時から姿の変わらない私を、時折じっと見つめていることが多かった。
もしも彼が不老不死か、若しくは長寿の身体を得ていたら今代の聖王は実の父親に殺されていただろう。
そして寿命がこの世界では延びたとは言っても、私だって全く何も変わらない訳ではない。
ゆっくりではあるが髪や爪は伸びたし、徐々に成長だってしていた。
尤も自分の容貌の変化に気づいたのは三、四十年ほど経ってからだ。
どうやら成長速度も元の世界の年数に依存するらしい。
だがこの世界に存在する長命な種族のように、身体の成長は全盛期で一度ストップする。
そうでなければ戦闘に支障がでるから、その辺りももしかしたら生命の魔術に設定されていたのかもしれない。
最近は髪や爪が延びることすらあまり見られない変化になっていた。
そんな姿を陽に見られたこと、今でも後悔している。
唯一の救いは見た目の年齢があちらで生きる彼とあまり変わらなかった事だろうか。
けれど私はあれから五十年が経ったとはっきり明言した。
陽なりに、思うこともあっただろう。
でも、お別れを言えてよかった。
そうじゃないと陽は絶対に私を探し続けるから。
私が同じ立場ならそうするから、だからさよなら出来てよかった。
彼に諦めと絶望という安寧を与えられて、よかった。
このまま雪に溶けてしまいたい。
なにもかも忘れて死んでしまいたい。
いいや、望みはまだ叶っていない。
私の命数が尽きるまで、望みは叶え続けなければならない。
平行線を辿る思いと決意に自分でも嫌気がさすほどだ。
けれど遠い昔に決めた通りに、私は望みを叶える者であり続けなければならない。
自分の願いも欲求も失意も何もかも、全てを憎しみと力に変えて。
だからいつまでもこうしてはいられない。
また私は誰かの望みを叶えなければ。
私の張った強固な結界の壁を、同じく私の魔力を帯びた存在が通過したことを感じて閉じていた目蓋をゆっくりと持ち上げる。
もう少しそっとしておいてくれるかと思った。
それともあの仔狼への説明にそれほど時間がかからなかったということだろうか。
恐らく全てを話して聞かせたのだろう、でなければあれをここに連れてくるはずがない。
話さなければいいのにと思いはしたが、同時に私のしたことを思えば説明もやむなしだ。
さて、あの仔狼はどんな表情を私に見せてくれるのだろう。
考えてつい口の端をつり上げたその瞬間、目の前に魔方陣が展開される。
現れる人影はふたつ。セイとシルヴァ。
セイに予め渡していた魔導結石は私の魔力で作られているから、結界を張ったところでそれを使えば通り抜けることが可能だ。
転移先の座標は私。転移可能な回数は三回。
確か召喚の儀式が行われた時にもそれが使われたはずだから、これで残された回数は一度だけということになる。
けれどそれを待たずに、いっそこれが終わったらすぐに取り上げてしまおうか。
「月」
呼び掛けられて仕方なく身を起こす。
例え私の魔力を帯びて転移してきたとしても、彼等は私の傍へは近づけない。
私と二人を隔てる結界、魔法陣の外縁に沿う形に張り巡らされたそれは、私という個体以外の全てを阻む。
誰にも、そう、セイにだってこの魔法陣には触れられたくなかった。
「やあセイ。それにシルヴァ」
淡く発光する壁の向こう側で、二人はこちらを見て息を呑んだ。
そんなに酷い顔をしているのだろうか。
それとも未だ殺気を納めきれていない?
まあ、そんなのどちらでもいい。
私の見つめる先で、セイは緊張を孕んだ視線を四方に向けた。
事前に言い含めてあるのかシルヴァが口を開く気配はない。
流石はセイ、と言ったところだろうか。
今ヘタなことを言われて、自制できる自信はなかった。
「……全部消したの?」
「そうだよ。煩わしかったからね。
君が傷つかなくてよかった。
自分でもあの時は君が傍にいることを忘れてしまっていて、だから後になって少し心配したんだ」
そう、予想外だったと言うか、すっかり失念していたのだ。
直前まで共にいて、更に彼の傍には式神を置いていた。
だからこそ私が“聖国”の城に転移したこともすぐに分かっただろう。
おあつらえ向きに彼には転移のための道具も渡してあった。
そこへちょうどシルヴァも儀式を終わらせて、そうなればセイが私のもとへ来ることに躊躇する理由は無くなる。
なのにそれを忘れて、いいや、正確には考えることすら出来ない状態だった私は思いきり破壊の魔術を放った。
もしもセイが咄嗟の判断で私の打った剣を使わなければ、そしてもしも彼の傍に転移の魔術を扱えるシルヴァがいなければ、私はあの魔術で彼を傷つけていただろう。
「君に渡したヘアピンは壊れてしまったんだね。
まあ、それで君のことを守れたなら構わないけど」
そしてセイを守ったのはもうひとつ。
私が彼に贈ったヘアピンだ。
あの世界で買ったものだから少し思い入れがあったけれど、壊れてしまったなら仕方がない。
それにもう一本、白い色のそれをまだ私が持っているから。
「折角月からもらったのに、壊しちゃってごめんね。
お陰で剣も仕舞えないし大変だよ」
「ふふ。私が思うに、剣は仕舞えないんじゃなく仕舞わないんじゃないかな?」
「…………どうだろうね」
曖昧に微笑む彼だけど、柄を握り締める手に力がこもるのを感じる。
きっと彼は心配しているんだろう。
私の衝動が今も枷の外れたままなんじゃないのかということ。
生物を見た瞬間、見境なく私が襲いかかるんじゃないかってことを。
「いやだな、セイ。
私は君のことを殺したりしないよ?」
「そうだね。でもシルヴァ君のことは違うでしょ?
いや、でもあの時月は分からないって言ったんだっけ?」
「その通りだね」
私達の会話にシルヴァが反応を示す。
それを制するのはセイだ。
なんだ、少し見ない間にセイは彼の味方になったの?
「何しろそこにいるのは私の可愛い弟子だ。
何も知らず、のうのうとこの世界で生きてきた仔狼。
師である私を一心に慕い、まるで雛鳥のように後をついて回って歩いてきた子供。
――まあ、今は違うみたいだけどね?」
さて仔狼は一体何を知り、何を思ったのか。
気狂い、虐殺、憎悪、様々な負の面を見せつけてぶち撒け、けれど一向にそれに染まらない銀の獣。
きっとこれが彼に見せる最後の、欠片などではない私の真実。
「シルヴァ、今はまだ私の可愛い弟子。
君は何を知って、その先に何を見るのかな?」
私と二人を隔てる結界を抜け出て、手を伸ばせば触れられるほど近くへ。
迫った距離に彼は瞳を揺らし、拳を握りしめた。
そして何か、私には分からない、永遠に分かりたくはない切実で様々な感情を湛えて私を呼ぶ。
「ルナ」
それには応えない。
だって意味を感じないから。
「さあシルヴァ、答え合わせの時間だ」
きっともう記憶を封じるという手段は使えない。
消去し改竄する記憶があまりにも多く、シルヴァの脳に負担を与え過ぎてしまうし、何より全てを明かして彼をここに伴ったセイがそれを許さないだろう。
ならばちょうどいい機会だ。
ここで私はこの仔狼に、永遠の別れを告げようじゃないか。
それが死によるものか、はたまた単なる別離によるものなのかはまだ分からないけれど。
「まずは君もずっと気にしていたであろう私の過去から。
ただ“聖国”での話はもうセイがしてしまったんだよね?」
皮肉に笑めばセイは目をそらし、シルヴァはそれを伏せた。
けれど、とその唇が小さく動く。
「俺はセイルートから確かに話を聞いたけど、だけど、でもルナから改めて聞きたい。
ルナがどんな風に過ごしてきたのか、どう思ってきたのか、それを、教えて欲しい」
「ふふっ、私の過去の傷をこれ以上抉るって言うのかい?」
揶揄のつもりでそう告げれば、放った言葉は思っていたよりもシルヴァを動揺させたらしい。
自覚があるのかな?
それともその可能性に今気づいた?
何にしろそんな言葉で躊躇うような覚悟じゃ、結果は決まりきったようなものだ。
冷めた表情をした私に気がついたのだろう、彼はハッとして一度強く目蓋を閉じ、そして決意も新たにもう一度私を見つめる。
それがどんな覚悟だったとして私には露ほどの関心も関係もないけれど、それでも先程よりはマシな目だ。
「例えそうなっても、俺が聞きたい」
「私が悲しむのは嫌だと言った口が、よく言うものだね。
あぁいや、君は忘れているんだったか」
シルヴァが総代の元から戻ったその日のうちに、私は彼の記憶を消去したのだから。
「覚えてる。……違う。思い出した」
そう思っていたから、そんなシルヴァの答えは私を少し驚かせた。
視線を向ければセイも知らなかったようで驚愕の目を彼に向けている。
と言うことはセイの手引きではない。
そもそもセイはあの時あの場所で起きた全容を知らない。
シルヴァに記憶を取り戻させることなど絶対に不可能なのだ。
だが私の魔術を打ち破るほどの力が目の前の子供にあるとも思えない。
ならば、一体誰が。
「ルナが悲しそうな顔をしたこと。
俺がルナに疑問を抱いたこと。
ルナが俺に優しくしたいと言ったこと。
全部思い出したから、俺は知りたい」
「……そう言えばそんなことも言った気がするね。
君に優しくするのは望みのひとつだ。
そう思うのは当然だろう?
でもそんな事より、一体君はどうやって思い出したのかな?
今の君に、自力で私の魔術を破る力はないだろう」
「神に」
端的なシルヴァの返答の内容は何よりも私の苛立ちを煽った。
あぁなるほど、あの存在はここへきて私の邪魔をするのか。
私に幸福を与えたいといつも言うこの世界の神。
その幸福の導が、目の前にいる仔狼だとでも?
いいや、恐らく神はこれに温情をかけたか、はたまた神にとっての利害と一致したか。
何にせよ、私は目の前のこれによってどうなることもない。
「儀式の最中に神との対話か。
銀狼というのはなかなかに神聖な生き物のようだね」
「ルナ。話をそらさないで」
「はははっ!まさか君にそんなことを言われる日が来るなんて!」
なんて愉快な事だろう。
そして同時に苛立たしい。
私の感情の揺れを察知してか、セイが目を眇める。
大丈夫、話も終わっていないのに殺しにかかるほど、私は無粋ではないつもりだ。
「だけどまあ、そうだね。
確かに時間の無駄だ。本題に入ろう。
君の新たな望み。私の過去と当時の感情について知ること。
望まれるのなら叶えてあげるよ」
吐き気がするほど身の裡に溜まり続ける私の憎悪を、君に教えてあげる。
「そうだなあ、“聖国”で身体を造り変えられたところから話そうか?
これなら目に見えるものだし、単に話を聞くだけよりも実感もわくだろう?」
この先のことを考えれば私の本当の姿を――変わり果てた化け物としての本性を晒すことにも否やはない。
それに“聖国”を破壊したことで私の魔力は半分以下に減ってしまった。
この後シルヴァを殺すか何かするならばあまり魔力を消費すべきではない。
そうなった場合、もしかしたらセイの足止めもしなければならないかもしれないし。
「【私の本当の姿はこんなものじゃない】」
言葉と共に強固に結んだ魔術が解けてゆく。
黒髪と瞳の色はそのままに、伸びる耳殻に舞う獣の気配。
左の二の腕部分は鱗が覆い、精霊族にしか分からない昼の香りが漂った。
姿を変える魔術に普段から結構な量の魔力を消費していたから、これを解いた今私の魔力は半分程にまで回復した。
これならばこの、目の前で表情を歪める仔狼を殺すことができるだろう。
もしくは強引にでもその身を引き剥がすことが。
例え彼が儀式を終え力を増していたとしても、それを使いこなすことが出来なければ意味はない。
きっと簡単にその首は落ちてしまう。
「それが、生命の魔術の結果…?」
「そうだよ。この姿を見せたのは君で三人目だ」
「三人……?」
ちらりとシルヴァの視線がセイへ向く。
そう、そのうちの一人は勿論彼。
セイには今から八年前、今と同じく真実を語った際に全てを晒している。
彼はこんな姿の私を見て泣いてくれた。
そして優しく触れ、抱き締めてくれた。
あのあたたかさを私はずっと忘れないだろう。
「月、俺以外にもこの事を知ってるやつがいるなんて初耳なんだけど?」
けれど今はその彼も雪のなか不快そうに眉を寄せている。
確かに話したことが無かったかもしれない。
そもそもこの姿を見せたのは彼よりも彼女の方が先なのだ。
「このことを知っている残る一人は闇ギルドのジョーカーだよ。
確か……今から三十年程前だったか。
初めて彼女と出会った時、そのまま戦闘にもつれ込んでね。
その時つい本気を出したら簡単に姿を変える魔術が解けてしまった」
だからある意味事故とも言える出来事だ。
そして彼女が知っているのはこの姿だけで、私の抱える事情は一切何も知らないまま。
それを告げればセイは一先ず納得してくれたのか、渋々であることがわかりきった様子で口をつぐんだ。
「だから、ジョーカーはあの時ルナの帰る場所は正規ギルドじゃなくあそこだって言った……?」
対して未だ謎解きの途中にいる弟子はそう呟いて注意深く私を見つめる。
反応を見たいとでも思っているのだろう。
今更そんなことをしなくても、もう終わりなのだから何を偽ろうという気も私には無いと言うのに。
「さあ?彼女の考えは私にはよく分からないな。
でも闇ギルドは私が彼女と作った場所で、正規よりも居心地のいい場所だ。
どちらをより好いているかなんて、私が言わなくても君はもうわかるんじゃないかい?」
私の隣で様々なものを見てきた彼ならば。
そしてシルヴァは予想の通り唇を噛みしめた。
「ふふっ、そんなにしたら血が出てしまうよ、シルヴァ」
「そんなこと、言うなら……」
「うん?」
首を傾げればシルヴァは一度頭を振った。
そして今はまだ聞かない、と言って元の通りに話を戻す。
「ルナのこれまでを教えて」
なかなかぶれる様子のないシルヴァに私はつい苦笑した。
なんて一生懸命なんだろう。相変わらずおかしな子供だ。
そんなに必死になって私の過去を聞き出し当時の思いをなぞり、それが一体何になると言うのか。
そしてその様子におかしさがこみ上げると同時に憎しみが首をもたげ、自分で自分に笑ってしまう。
本当に最近の私は感情の統制がうまくいかない。
いいや、最近、などというものではないのかもしれない。
あの時。“王国”の城でシルヴァに本当を見せてほしいと告げられたあの時から、もしかしてこうなることは決まっていたのかな。
目の前の仔狼がどうしようもなく厭わしく、そして可愛らしく私の目の前に立つこと。
それはある種の運命だったのだろうか。
神は召喚者である私にこの世界の理は効かず、運命から逸脱すると言った。
けれど今の状況はどうだろう。まるでシルヴァが神からの、いっそこの世界からの私への使者のように私を問い詰め私の内部へ入ってこようとする。
―――だが、まあいい。
どうせすぐに離れるだけの存在。私にとって何の価値もない命だ。
その薄墨の瞳は気に入っていたけれど、結局どうやったってその色は黒にはなれないのだから。
今までずっと憎らしくてならなかったその被害者面を、歪めてやる。
私を召喚した人間も国ももう滅びたけれど、私を召喚した世界は未だ存在し続けたまま。
そうさせているのは私の決意でもあるが、だとして私の感情がすべてそれに納得しているわけではない。
例え憎しみを持続させるためだったとしても、例えこの世界に彼らが生れ落ちていたとしても。
この世界全てが憎い。
憎しみは長い時を経てより強く深く濃く、そうして今の私は生きている。
だから今この時くらい。
今この時、目の前にいるこの世界の人間のただひとりくらい。
私は私の心のおもむくまま、悲しませて苦しませて、それで彼を壊したって、いいよね?
「“聖国”に囚われていた五年間は、本当に夢みたいだった。
それはそれは、とびっきりの悪夢だったんだよ、シルヴァ?」
ようやく私生活の方が落ち着きましたので、また更新を四日に一度のペースに戻したいと思います。
読んでくださっている皆様、これからも限りなく人っぽい何かをよろしくお願い致します。




