2-7*
Side:Silva
ルナが基本的にお人好しで優しいのは知ってる。
俺だって彼女のそんなところに惹かれて、救われたんだから。
けれど、時々どうしてもその優しさが憎らしくて仕方がない。
貴女のその優しさがただ俺にだけ向けられればいいのに、なんて思ってしまうのだ。
「あ。言い忘れていたけれど、しばらくの間フレイの恋人として勘違いされることになったんだ」
ルナが何でもないように――本当にただ事務連絡をするような軽い動作でそう言ったのは、彼女の作った故郷の料理を四人で食べている時だった。
あの時は思わずハシを持つ手が止まった。
恋人。勘違い。でも、恋人。
同じ言葉がぐるぐる頭のなかを回って何一つ反応を返すことができない俺の代わりに色々とルナに質問した二人が引き出した情報によれば、曰く、第一王子と彼の本当の恋人を守るためらしい。
第一王子は体が弱く、少し無理をすればすぐに体調を崩してしまう。
彼にとっては軽い風邪さえも命取りなのだと苦笑したルナには、さすがに何の文句も言えなかった。
だからと言ってルナと第一王子が恋人として周囲に認識されることや、周囲を勘違いさせるために二人が親しげに接することに納得出来るわけではない。
その後は折角の料理の味も全く感じることができなかった。
「シルヴァ?眉間にしわがよっているよ」
そしてそんな暗澹たる俺の思いを払ったのは、やはりその元凶でもあるルナだった。
食事の後セイルートの部屋に結界を張り俺と部屋に戻った彼女は昨晩と同じ様にすぐに風呂へと向かったのだが、一時間程たった今ようやく出てきたらしい。
応接間の一人掛けソファーに座った俺の顔を覗き込んで額を指で軽く押してくる。
相変わらずその黒髪はしっとりと濡れて、重たく彼女の体を覆っていた。
「?」
立ち上がった俺に首を傾げる彼女を先程まで自分が座っていたソファーに座らせ、浴室まで行って乾いた大きめの布を持ってくる。
彼女の髪はとても長いから、大きなサイズでなければすぐに使い物にならなくなってしまうのだ。
「髪が濡れてるから、ふく」
ルナはこういった事に魔術を使わない。
銀狼である俺よりも多い魔力を持っているのに、自分の事にはあまり使おうとしないのだ。
そしてその傾向は彼女自身が大切にしているもの程強い。
「別にそのままでも構わないのに…
君もシャワーを浴びたいだろう?」
苦笑するルナの背後に回って、その長い髪を背凭れに流し布でそっと包み込む。
「別にいい。俺がやりたいだけだから」
彼女の世話をするのは好きだ。
それだけ俺のことを信用してくれている証に思えて嬉しくなるから。
「君は私の髪を小さい頃から乾かしてくれているから、とても上手くて甘えてしまうね」
「長くて、大変そうだったから」
ルナの髪に初めて触れたのはいつだっただろうか。
昔は触れれば彼女が汚れてしまいそうで、あまり俺から触れようとはしなかった。
そのくせ与えられる温もりが嬉しくて、彼女から伸ばされた手には抗うことなくただ甘えていた自分。
そんな俺に、ある日彼女が髪を乾かしてくれないかな、と微笑んだのが始まりだった気がする。
いつも彼女の動きにあわせて、まるで穏やかな夜の闇のように彼女自身を包むその黒髪は、絹糸のように俺の指にからんで綺麗だった。
ルナの後を歩くときには風に揺れるそれに何度も手を伸ばしかけたことを、彼女は知っていたのだろうかと一人恥ずかしくなったのも今では懐かしい思い出だ。
それからは何度も自分からルナの髪を乾かす役目をかって出ている。
「以前は君の身長よりも私の髪の方が長くて大分苦戦していたのに、今はこんなに簡単に出来てしまえるようになったんだね」
「あの頃は小さかったから。でももうルナよりも大きい」
「それはそうだ。君はだんだん大人になって、私を追い抜かしていく存在なんだから」
ゆったりと紡がれた言葉はあまりにも自然で、俺は危うくその言葉をとり逃してしまいそうになった。
「――置いていったりしない」
「……?」
「俺はルナを追い越して、先に行ったりしない」
「………そう」
否定も肯定もしないルナに、俺もそれらを求めない。
これは俺の勝手な目標で決意だから。
「君はどうしてそんな風に真っ直ぐなんだろうね。
私なんかに育てられたのに、不思議でならない」
「なんか、じゃない」
「君の種族が絶えてしまったのは、その身体能力と魔力のためだという話はしただろう?」
「……」
幼い子供に言い聞かせるようなルナの声は嫌いだ。
「私は君達よりも高い身体能力も魔力も持っている。
それに自分で言うのもなんだけれど、少しおかしいんだ。
まともなのは外側だけなんだよ。
だからそんな私と共にいた君がこんな風に育つことが不思議でならないんだよね」
そしてこんな風に、自分を普通じゃないと言う彼女も嫌いだ。
「別に俺もルナも変わらない」
「……君は本当に変なところで聞き分けの悪い子だ。
いいよ。君がそう言うのなら、ね」
同じ話は出会った頃から何度もされてきたけれど、ずっと互いの意見は平行線を辿ったまま重なることはない。
「――ルナはどうして髪をこんなに長くしてる?」
苦し紛れに吐き出した問いは、けれど昔から気になっていた事だ。
戦いは勿論、普段の生活でも邪魔になるだろう。
今まで彼女ほど長い髪の持ち主を見たことはない。
俺の問いに、ふ、と後ろを向いたままのルナが笑った気配がした。
「黒はね、私の故郷の色なんだ。
私の故郷では殆どの人が黒髪と黒い瞳をもっているんだよ。
だから大切にしたくて、気づいたらこんな風になってしまった」
言って、布から溢れた一房を細い指が掬う。
ルナの髪は踝に届くほど長い。
囁くような声音で語る彼女は、拭いきれない寂寥を身に纏っていた。
「黒?でもルナの目は……」
言いかけて慌てて止めた言葉の続きは、ルナには分かっているようだった。
「そう。紫だ。黒はなくしてしまったんだ。
だから余計に、髪だけでもと思ってしまう」
なくした。
それはどういう意味なのだろう。
「――でも、その色はとても綺麗だと思う」
口をついた言葉は、彼女を不快にさせるものかもしれない。
彼女は黒をとても大切に思っているようだから。
けれどルナの声は揺れない。
「ありがとう。でも私は、セイや君のような黒い瞳が羨ましい」
「俺とセイルートの…?」
確かに俺達は二人とも目が黒い。
「二人それぞれの色合いは微妙に違うんだけどね」
「色合い?」
「そう。君の黒は薄墨だけれど、セイのそれは漆黒だ」
「……よく、わからない」
困って呟けば、彼女は声をあげて笑った。
「ふふっ、君はそうだろう。
私の故郷は色にうるさくてね、一口に黒と言ってもたくさんの表現があるんだよ。
同じ様に私もついこだわってしまうんだ」
「じゃあ、ルナの故郷の色はどっちに近い?」
ルナの声がとろりと溶けた。
「セイだよ。彼の瞳は、私の故郷そのものだ」
「…………」
「ふふっ、拗ねるものじゃないよ。
私は君の黒も気に入っている。
……でも、そうだね。私にとって君は“黒”と言うよりも“銀”だから、余計にそう思うのかもしれない。君は銀だろう、シルヴァ?」
「………ん」
ルナのすべては俺を酷く哀しませて、それと同じくらい幸せにする。
「シルヴァ……君は昨日の夜、なんだか怒っていたよね?」
「それは、もう何でもない。
俺の八つ当たりだった。……ごめん、ルナ」
俺の勝手な思いで距離をとって、それでも微笑んでくれたルナ。
距離をとったのは間違いだった。
俺のつまらない嫉妬やそれによる言動で、彼女は変わったりしないとあの時わかったから。
その代わり我慢していた分(たった半日の我慢だったけれど)、その後は歯止めが利かなくて普段以上に彼女に甘えてしまった。
「いいや、私も悪かったんだろう。
よく他の皆にも秘密主義だと言われるから。
それで考えてみたんだけど、取り敢えず君に私がこの“王国”と関わる切欠になった話をしようと思うんだ。
もちろん、君が聞きたいと言ってくれるのなら」
「切欠……」
“王国”の国王の望みを叶えたことでこの国と関わるようになったと言うルナ。
たぶん彼女が言っているのはその話なのだろう。
今まで一度も過去の話の片鱗さえ見せなかったルナがそんなことを言うだなんて信じられなくて、俺は少しの間反応を返すことが出来ずに固まった。
そんな情けない俺の様子に苦笑して、ルナは初めてこちらを振り返った。
髪が布を滑りさらさらと彼女の背に落ちる。
「もう髪も乾いたから、君もシャワーを浴びておいで。今夜は一緒に寝よう」
話はその時に、という事なのだろう。
戸惑う気持ちをおさえ、俺は自分でも分かるほどぎこちない動作で浴室へ向かった。
動揺しすぎて普段の倍近く浴室に籠ってしまっていた俺を出迎えたのは、笑顔で布を広げるルナだった。
「いつも君にしてもらってばかりだからね。
私も君の髪を拭わせて貰おうと思って」
問答無用で寝室へ連行され、ベッドの端に座らせられる。
ルナはその前に立ち布で俺の頭をそっと包んだため、彼女の顔は視界に映らず、ただ対照的な白い足と黒い髪をじっと見つめる。
昔はよくこうして彼女に髪をふいてもらっていたが、成長するにつれそんな機会も無くなっていった。
ルナも同じことも思ったのか、こうするのも久しぶりだねと微笑む気配がする。
「……さて、私は国というものがあまり好きじゃない」
いよいよ語りだした彼女に、思わずぴくりと体が揺れた。
顔をあげそうになったところを、未だ髪の水気をぬぐい続ける細い手が阻止する。
「特にね、私は“聖国”が大嫌いだ」
大嫌いだと告げるルナの声は、けれど嫌悪による棘は感じられず平坦だった。
確かに今までの五年間、ルナは基本的に“王国”を活動の場としていて、あまり他国へと出向くことはなかった。
たまに食材の買い出しや依頼によって“帝国”や“教国”へ行くこともあったけれど、“聖国”の地を踏んだことはない。
勿論“聖国”が殆ど鎖国状態にあるという事もその理由に含まれるのだろうが。
「君は“聖国”について、どこまで知っているかな?」
加えられる手の力が弱まる。
「確か、人間を至上の存在としていて、他の種族は殆ど生活していない国だったと思う」
「そう。私はそう教えたね。
あの国は他の種族を奴隷として扱っている。
――私は昔、“聖国”にいたことがあったんだ。
だからあの国のやり方というものを他の人よりは知っているつもりだよ」
最後に丁寧に髪を整えられ、ルナの手は離れていった。
顔をあげ、視界に映る彼女は微笑んでいる。
「最初に見た国が、あそこだったからいけなかったんだろうね。
私は権力というものが嫌いになった。
そして色々あって“聖国”を出てギルドに登録することになったんだけど、その時登録した場所がオルドだったんだ。
ヒルルクと会ったのもその頃だったかな」
水気を吸って湿った布地を近くの椅子にかけ、彼女はベッドに上がる。
手招きされて、俺も同じ様にそこへ横たわった。
目と目があった状態で再び目の前の唇が開く。
「それからはしばらくオルドを中心に依頼を受けてランクを上げた。
たまにヒルルクから個人的に依頼を回される事もあって、それを達成するごとに面白いぐらいランクが上がったからSSになるまで二、三年程度しかかからなかったように思う。
そうすると名前も売れてきてね。
“宵闇”に依頼を頼みたいという人間も出てきたりしたんだ」
「二、三年………」
俺はA+になるまで五年もかかったというのに、この差は何なのだろうか。
まあ俺の力不足が原因だろうが。
「私の場合は少し特殊だから、君が気にすることはないよ。
五年でA+も十分誇れる。
実際君より年下でAランクの人間だって存在していないだろう?」
諭されるように言われ、反論することも出来ずに小さく頷けば頬にそっと手が添えられた。
「君は優秀だ。あと数年もすればきっとランクもSSになって、君に並ぶ者はいなくなるだろう。私が保証するよ。
……さて、それでSSになって指名が増えてきたところまで話したかな?」
手が離れ、ルナは仰向けになった。
視線は天井に飾られた豪奢なシャンデリアに向かう。
彼女の瞳にその光が反射して、朝焼けの空のように輝いた。
「王都に出入りする行商人の依頼が入ったんだ。
SSになった以上、いつまでもオルドにばかり留まってはいられなかったからね。
私はそれを受けた。そしてちょうど各地の視察をしていた国王の一行と、ある村で行き合ったのさ」
その村は山に囲まれた場所にあって、昔は鉱山で栄えていたがその時には殆どの石を採りつくし困窮していた。
そこで新たな資源となるものがないか、当時即位したばかりの国王自ら視察にあたっていたのだとルナは語る。
「国王は、ルナが新しい資源を探すことを望んだ?」
「いいや、違うよ。
その村は石の加工に秀でた職人が数多くいたから、外から石を持ってきてそれを加工することで再び元の活気を取り戻すことが出来たんだ。
国王が私に望んだのは、また別のこと」
国王の視察はうまくいったという事なのだろう。
ただ最後に、予想外の事態が起こった。
「鉱山に魔物が住み着いていたようでね。
国王一行が来たことで外が騒がしくなったから、山から出てきてしまったんだ」
「魔物が……?」
そう言えば数年前レナードの店で、城の使用人が“ルナはこの国の恩人だ”と言っていた。
普通の魔物ならばそこまでの言い方はしないだろうし、そもそも国王の護衛の騎士達でどうにかできたはずだ。
「その魔物はどんなやつだった?」
「うーん、君も名前は聞いたことがあるかな。
“神喰らい”という魔物なんだけど」
「!?」
つい勢いよく起き上がってしまう。
俺の反応が意外だったか、ルナは不思議そうに目を瞬かせた。
「……空想上の魔物じゃ、ない?」
“神喰らい”と言えば、遥か昔にある魔術師が幾多の魔物をより集めてひとつの生物にしたものがその始まりだと言われている。
それはあまりの強さに創造主たる魔術師の手に余り、その魔術師の手から離れてしまった。
そしてそれ以降も他の生物を食すことで更なる進化を遂げ、その強さは神をも喰らうことが出来ると伝えられる程。
そんな伝説級の魔物が、何故寂れた鉱山に住み着いていたというのか。
「まあ神喰らいだと言ったのは周りの騎士や村人だから、本当のところはわからないけれどね。
でも確かにかなり大きかったし、話に聞く通り色々な生物の特徴や魔力が混ざっていたから間違いはないんじゃないかな」
私の記憶でよければ映像があるよ、と言ってルナが手をかざす。
そこに写し出されたのは山のような体躯と竜の首に獣の足、猛禽の翼を持ち、その尾から幾本もの触手を生やした気味の悪いイキモノだった。
「これが、“神喰らい”……」
「……君は、このイキモノをどう思う?」
「……?」
突然の質問に彼女の意図が掴めず首を傾げれば、ルナはふ、と目を細めた。
「気味の悪い化け物だと思わないかい?」
「……確かに、そう思う。
でも結局これを造ったのは人間だから、少し可哀想な気もする」
「………、そう」
ルナの瞳に一瞬浮かんで、けれどすぐに消えた感情の色。
それがどんなものなのか見極める前に再び彼女は口を開く。
「後から分かったことだけど、どうやらその村で採れていた鉱石は魔力を帯びていたらしくてね。
それに惹かれて住み着いたようなんだ。
鉱石が採れなくなったのも“神喰らい”が食べたからじゃないかな」
飄々と言う彼女は、神喰らいがどれだけ恐れられている存在か理解しているのだろうか。
あの魔物は一度何かを喰らい始めれば、それが消えるまで永遠と活動を続ける。
そしてその神喰らいが現れたと言うことは、十中八九次の“食事の対象”として“人間”を選んだということだろう。
「まさかルナは、神喰らいを倒して欲しいと望まれた?」
「そうだよ。取り敢えず依頼主を安全な所に送ろうと思ったから荷物ごと強制的に目的地の王都へ転移させて、その後はどうなるのかなと暫く様子を見ていたんだ。
そうしたら何故倒すのを手伝わないんだと怒鳴られてね」
「………」
あはは、と笑うルナに対して、反応に困った。
彼女のその対応は馴れている俺としてはわからないでもない。
だが仮にも伝説級の魔物による人類の危機だというのに、普段通りすぎるその反応はどうなのだろうと思ってしまうのも事実だ。
「私はひねくれ者だけど、当時の私はもっとひねくれていてね。
全ての人間が自分の命を守って当然だって?と国王に聞いてみたんだ。
勿論、頷いたら神喰らいの口に放り込むつもりで」
それはなんと言うか、随分な極論だ。
そして今現在国王が生きていると言うことは、彼はルナの目にかなう答えを返せたのだろう。
その証拠に彼女は微笑んで目を細めた。
「彼は馬鹿にするな、とまた怒鳴ってきたよ。
ここで自分は死んでもいいけれど、この魔物を国に放すわけにはいかないんだとね。
その返事がなかなか気に入ったから彼の望みを叶えてあげることにした」
「だけど神喰らいは倒すのも簡単じゃないんじゃ…」
何しろ伝説のひとつになっているのだ。
生半可なことでは滅することはできないだろう。
「そうだね。あれを倒すのはなかなかの苦労だった。
何しろ三日三晩かかったからね」
「三日!?」
つい上からルナの顔を覗き込めば、彼女は何が面白いのかころころと笑った。
「ふふっ、こんなに驚かれると話しがいがあるね。
勿論その間国王と騎士達はその場を立ち去らなかったし、応援の兵士も続々とやって来た。
でも邪魔だから私と神喰らいを結界で包んで入らせなかったんだ」
確かに彼女の力は他の人間と天と地ほどの差があって、他人の介入は邪魔にしかならないだろう。
だがたった一人で三日三晩戦い続けて、無事でいられるはずがない。
昔のことだとは分かっていても、ルナが心配になった。
「ルナは、怪我はしなかった…?」
「当然したよ。簡単に勝てる相手ではなかったからね。
腕をもっていかれそうになった」
つい、目が彼女の両腕へと向かう。
用意されている寝衣は袖のないタイプのものだから、肩から指先までの全てがしっかりと目に映った。
目で見た限りでは傷跡の類いは見当たらない。
「……あぁ、もしかして傷を探しているのかな?」
暫く俺の動作を黙って見守っていたルナが右手をほんの少し持ち上げる。
そうすれば今までの白く美しい肌が嘘のように、痛々しい傷跡が彼女の腕を斜めに裂くように現れた。
思わず息を呑む。
「……触ってもいい?」
「構わないよ」
恐る恐る彼女の肌に手を伸ばせば、その傷がかなりの深さとわかる。
「見目がわるいからね。普段は魔術で隠しているんだ。
勿論、触れた感覚も何でもない普通の肌と感じるようになっている。
君も今日まで気づかなかっただろう?」
「ん……痛かった?」
「少しね。…シルヴァ?」
傷跡を指でなぞれば、彼女はほんの少し、ぴくりと震えた。
無意識にそこへ唇をよせ、ひきつった皮膚を舌で舐め上げる。
ルナの傷。
今まで一瞬たりとて顔を見せることのなかった、彼女の負った痛みとその足跡。
それを知ることのできた喜びと、彼女の身体に消えない痕を残した神喰らいへの怒りと、ちらりと過る羨望に心が焦げつく。
この傷をつけたのが、俺ならばよかったのに。
―――ほんのりと甘さすら感じる柔肌に牙を突き立てかけて、ようやく我に返った。
ルナは戸惑ったように俺を見詰めている。
……今日は本当におかしい。
上手く我慢がきかない。
いつもならきちんと自分を抑えられるのに。
「………ごめんなさい」
「いや、気にしないでいい。
ただこの傷はもう治っているから、舐めても意味はないよ?」
どうやら彼女は俺が傷を癒すために腕を舐めたと思っているらしい。
確かに傷口を舐めるのは獣人がよくやる仕草ではあるが、今回はそういう事を考えて動いたわけではない。
ただ単純に、あまりにも自然に、ルナの肌に舌を這わせたいという欲求が生まれたのだ。
彼女の勘違いに残念なような、ホッとしたような相反する気持ちを抱きつつ手を離し再び横たえさせる。
そうすればまた傷跡は消えて、元の通りのきめ細かな肌が現れた。
「ええと、それでどこまで話したんだったかな。
ともかく神喰らいは倒すことが出来て、国王にすごい勢いで感謝されたんだけど……」
「?」
「私も疲れていたから早く眠りたくて。
そのまま帰ってしまったんだ」
「……ルナらしい」
彼女はよく眠る。
特に戦闘が終わったあとなどは欠伸を漏らしたり眠たげに目を擦ったり、分かりやすすぎるくらいだ。
「あの時は本当に眠かったんだ。
それでまあ、依頼主も王都まで送り届けたから依頼達成になるだろうと思ってオルドで三日間ずっと寝ていたかな」
「またヒルルクが二階の部屋を貸してくれた?」
ルナがオルドのギルドへ行けば、必ずギルドの二階、一番奥の部屋が貸し与えられる。
よく寝る彼女が寝過ごして依頼主との顔合わせに遅れることが無いようにするための処置だとヒルルクは言っていたが、あれは単純にルナが心配だからだろう。
彼女は食事よりも睡眠を重視するタイプで、たまに朝食や夕食をとらずにずっと寝ている時があるから。
「いや、どうだったかな……たぶんそうなんだろうけど。
あまりにも眠かったから、しっかりとは覚えてないんだ。
それで目が覚めたらいつもの部屋にいて、ヒルルクの所に行ったら城へ行けとせっつかれてね。
私は嫌だと言っているのに行け行けうるさいから、トンズラしたんだ」
「とんずら……?」
「あぁ、逃げるという意味だよ。
でもそうしていたら、今度は正式に“王国”から呼び出されてね。
来ないとギルドから除名するぞと脅されたから、仕方なく城に行って国王から直々に感謝されてあげたんだ」
普通の人間なら喜ぶことであるはずなのに、ルナの話しぶりから心底嫌がっているとわかるから不思議だ。
「その感謝の表し方も最悪で。
パレードをするとか、国の恩人として大々的に発表するとか、パーティーを開くとか。
どれも脅し……頼んでやめてもらったけれど、散々だったよ」
今、脅してと言いかけたような。
ちらりと彼女を見るもその表情はいつも通りで聞き間違いだろうかと首を傾げる。
「なのに何故か気に入られてしまったんだ。
その後もしょうもない依頼で城に逗留させられたりしているうちにまあ、情がわいたんだろうね。
国と関わる事があまり気にならなくなってきた。
それからもずるずると数年に一度くらいの頻度で依頼を受けたりしているうちに、セイが生まれたんだ」
セイルートの名に自然と眉根がよるのを自覚する。
それに気づいているのかいないのか、それとも気づかないふりをしているのか、ルナは淀みなく話を続けた。
「彼の元を年に数回訪れるうちにジークとも兄のフレイとも親しくなって、少しだけ後悔したかな」
「後悔?」
「またこの国への情が増してしまったから。
……まあ、セイの存在がある時点でもう手遅れだったのだけどね」
「……ルナは、」
「うん?」
どうしてセイルートばかりそうやって、特別扱いするんだ。
「……セイルートと仲がいい」
「……えっと、そう、だね?」
こぼれかけた問いをおさめるため他の言葉を慌ててつけ加えれば、変な顔をされた。
自分でも全く違和感しか覚えない会話の流れに頭を抱えたくなる。
けれど聞きたかった言葉を投げ掛けて、もしも彼が好きだから、などと返されれば耐えられない。
「…………うん、“王国”との関わりの話はこれで終わりかな」
微妙な空気を取り払うようににっこり笑って、彼女は話を締め括った。
そして俺を見上げて首を傾げる。
その拍子にシーツに髪が流れ、悩ましげな白い首筋が露になった。
噛みつきたい。
「君が昨晩言ったことへの答えとして、これは適うものかい?」
「………ん。ありがとう、ルナ」
どうにかそこから視線を剥がすことができた俺は(自分で自分を全力で誉めてやりたい気分だ)、そのままぎゅうと彼女に抱きつく。
俺は彼女の身長より頭ひとつぶん程大きいから、そうすればすっぽりと彼女の体は腕の中におさまった。
目線を下げれば見えるつむじはとても可愛いし、細いのにやわらかい体はとても抱き心地がいい。
傷ひとつつけず、真綿で包むようにして守りたくなる。
今日彼女を抱きしめて、初めて知ったことだ。
「……この体勢は、どういうことかな?
私の記憶が正しければ、今まで同じ布団で寝てもこんな風にされたことは無かったように思うけれど」
胸に顔を埋める形となっていたルナが顔をあげれば、その睫毛の一本一本まで見ることが出来る近さを実感して嬉しくなった。
きっとこんな状況でも彼女には危機感などないのだろう。
俺の事を全く異性として認識してくれない、酷い人だから。
「俺がしたいと思った。
――でもこれは、望みじゃないから。
ルナが嫌だと思うなら今まで通りで構わない」
少しだけ腕の力をぬく。ほんの少しだけだ。
だって、優しい彼女が出す答えはもう分かっている。
「別に嫌というわけではないよ。
………仕方ないね、まったく」
その仕方がないという言葉は我儘な俺に向けられたものか、それともそれを許してしまうルナ自身に向けられたものか。
わからないけれど、今はそれでいい。
「なら、もう寝よう。
明日もセイルートに付き合って早起きしないといけない」
「……そうだね。おやすみ、シルヴァ」
「おやすみ、ルナ」
キュッと腕に再度力を込め、俺は彼女を包み込むように、そして同時に彼女に包み込まれるようにして眠りの淵に落ちていった。