8-3
Long,long ago
Side:―――
良く晴れたその日、月と陽は連れだって約束の商業施設へと向かった。
今回はあらかじめ車と運転手を用意して行くことにしている。
施設はなかなかの広さを誇っており、買い物をするだけでもかなり歩くことになるからだ。
今のうちに体力を温存しておきたい、というのは月の意見である。
「帰りはいかがなされなすか?」
「うーん……帰りは大丈夫。歩いて帰るよ。いいでしょ、陽?」
「構わないが、疲れるんじゃないか?」
だからこそ行きの道のりを来るまでの移動にしたのだろうと陽は首を傾げたが、月は大丈夫と首を振る。
「だって帰りの雰囲気を楽しみたいだろう?
余韻にひたるって言うかさ」
「月がそう言うなら俺に否はない」
「畏まりました。それでは警護の者にはそのように」
そう言って運転手は二人を目的地へ降ろし去っていった。
高校の登下校と言い今回の外出と言い、二人はその家柄のわりにかなり自由に振る舞っているように思えるが実は違う。
登下校の際も今現在も、二人の周囲には分かりにくいが警護の人間がついているのだ。
実際幼い頃から何度か誘拐されかけた経験のある二人にはこれが必要な事と分かっているのでそれに対して不満も無い。
それに警護の人間も気を遣って何かしらの危険が迫らない限りは距離をおいてついて行く程度なのであまり気にならないというのが本音だ。
「さて、と。何から見ようか?
陽は欲しいもの決まってるの?」
今日の為に買ったばかりの服の裾を翻し陽の手を引いた月は歩きながらそう問いかける。
「そうだな……実を言うと特にない」
「やっぱりそれか」
月は彼の返答に呆れた顔をしたが、実を言うとそれは彼女もだった。
二人は元々大して物欲も無く、そもそもこれが十七回目の誕生日だ。
生まれた家柄もあり毎年数々の贈り物(貢物とも言う)を受け取る立場の二人としてはそろそろネタ切れというのが本音である。
それでも大切な家族にプレゼントを贈りたいという気持ちはあるのだから、毎年二人はどうにか欲しいものを頭から絞り出すことに苦心していた。
「月こそどうなんだ?」
「………」
「……取りあえず目についた場所を回っていくか」
結局のところ午前中にはこれといってめぼしいものは見つからず、歩き回って空腹になった二人は施設に入っているレストランで昼食をとることにした。
正直なところ二人は経済的にもこのような一般人も訪れる普通の場所でなく、もっと値段の張る店を利用しても不思議はないのだが――あまり堅苦しい場所を好まないのが原因だろうか、こういった場所で悪目立ちすることなく馴染んでいる。
勿論必要とあらばそういった店も利用するが、いかんせん顧客を構いたがる店の商法にウンザリさせられることが多いのだ。
そうして嫌気がさすごとに二人の私的な行動範囲はどんどん狭まり、こういった場所で他の客に紛れて買い物したり食事を摂ったりするようになる。
「はぁ、本当にどうしようか」
「そうだな………装飾品の類はもういらないだろう?」
食事を摂りながら陽はこれまでの月へのプレゼントを思い返した。
去年はネックレス、一昨年は靴、その前はヘアアクセサリー。
流石にそろそろ芸がないと思われる内容である。
そもそも装飾品は一族からも贈られることが多いためあまり数があっても困るだろう。
勿論着飾ることを求められる場面でしか使われることのない親族からの贈り物と比べて、陽がプレゼントしたものはほぼ毎日と言っていい程身に着けてくれているのだから、また贈りたくなってしまうのだが。
今日も月は彼が一年前に贈ったシンプルなネックレスを首許にそえている。
それを指先でいじりつつ、月ももう持ちすぎているだろうという考えには同感なようで困ったように微笑んだ。
「そうだね。また今年も親族から贈られるんだろうし、陽からもらったものは大切にしたいからできればこれだけで。
もう一つ貰ったりなんかしたら毎日どっちをつけようか考えちゃうよ」
「そうか。そうなると実用的なものの方がいいか?」
「うーん………そうかも。
あ、ねぇ、ショールは駄目かな?」
道行く人が持っているのを見て思っただけのものだが、次の瞬間には名案かもしれないと月は思い始めていた。
冬ということもあり寒いし、あまり華美でなければ高校にも持っていくことができるだろう。
空調はきちんと効いているのだが、それでも風紀の仕事をしていると肌寒く感じることはある。
それに大きなものなら仮眠中の上掛けにも使えそうだと、月は頭の中で色々と想像を繰り広げた。
「……うん。やっぱりショールがいい。大きくて暖かくて、やわらかい素材の」
「ショールか……確かにドレスの上に羽織るようなものしか持っていなかったし、普段使えるようなものがひとつあってもいいかもしれないな。
わかった。ならこの後そういったものが置いてありそうな店を回ってみよう」
「ありがとう。勿論選んでくれるよね?」
「当然だ。毎年のことだし、全て任せきりではプレゼントの意味がないからな」
毎年二人は欲しいものの種類だけを相手に告げ、そのデザインなどは全て贈る側が選ぶようにしていた。
その方が少しはサプライズになるし、何より相手の為にどれがいいか、どんなものが似合うかを考えるのが楽しかったからだ。
実際二人は互いの好みを知り尽くしているため一度として気に入らないものを贈られたことは無く、どれも一番のお気に入りの品として大切に扱われている。
「それじゃあ陽は?何かよさそうなもの、あった?」
「俺か………」
「無いの?」
黙り込んで考えている兄に月がむう、と唇を尖らせる。
そう言われても無いものは仕方がないのだが。
「考えてはいたんだが…」
妹の様子に陽は若干焦りつつ記憶を漁った。
しかし店を歩いていても目を惹かれるものはなかった彼の焦りは増すばかりだ。
じっとそんな様子を無言で見つめる月の視線もある意味プレッシャーだろう。
「……困ったな、何も思いつかないんだが」
結局陽は白旗を揚げた。
髪をかきあげすまなそうに正面に座る月を見つめる。
だがそれに文句を言うでもなく、月はじっと彼を見つめ返した。
「……?月?どうかしたか?」
何かついているのかと思い陽は首を傾げるが彼女は未だ無言のまま。
じっと彼を注視し、かと思えばうろうろと視線を彷徨わせる。
「月?」
明らかに挙動不審な妹の様子に、陽は言葉を促すように微笑んで首を傾げた。
彼女がこの様な動作をするのは何か言いたいことがあり、けれど言えないということだと知っている彼だからこその行動である。
実際そんな兄に背を押されたらしい月はやはり視線をそらしたまま、言いにくそうにポツリと小さく呟いた。
「その………新しいピアス、とか」
「月……」
その言葉に陽は目を見開き、月は不貞腐れたような顔をした。
陽は高校に入学した折にピアス穴をあけて以来、殆どずっと同じピアスを身に着けている。
元々彼がそうしたのは久遠家の当主の証がピアスとして伝わっていたためだったのだが月はそれを知らず、またやはり直前までそれを知らなかった陽が彼女に話さなかったため、その件で喧嘩をしてしばらく経ってからようやくその事実を知ることとなった。
けれど例え当主の証と言えど体を傷つける行為を嫌う(陽に対してのみだが)彼女はピアスを好いていなかった。
そのため陽も公式の場で当主の証のピアスをつける以外は目立たない透明な樹脂製のものを使い続けていたのだが―――そんな月自身が誕生日プレゼントとしてピアスを提案した。
これに陽が驚かずにいられるはずがないだろう。
「その……陽はいつも同じものをつけているし、でも、折角つけるならそんなものよりもっと似合うものがあると思うし、だから、さ。………どうかな?」
「それは、嬉しいが……いいのか?」
「うん。陽がずっと気にしてくれてたから」
月はあの時の事を少し後悔していた。
確かに何も話を聞かされなかったこと、何より兄の身体が傷ついたことは悲しかったが、それでも事情を説明しようとしてくれた彼の言葉に少しは耳を傾けるべきだったのだ。
そうすれば少なくとも陽は避けられたことにショックを受け寝不足や栄養失調にはならなかっただろうし、何より今なおこれほどまでに彼がピアスの事を気にすることはなかっただろう。
そう思えば月としてはそれをどうにかしたいと願うのは必然といっていいことで、その手段として思いついたのが自分がピアスを贈る事である。
午前中に店を回っている時、男物の装飾品の店で目に入ったことからそう決めたのだが、その時には当時の不満や今更態度を変えることへの躊躇いから言い出せなかった。
「なら、頼みたい。俺もこんなものより月が選んだものを身につけたいからな」
「……うん。それじゃあさっき店を見つけたから、そっちに行こう」
「その後に月のストールか。わかった」
嬉しそうに笑ってくれた陽に安堵して、月は残りの料理を味わった。
そしてその後早速彼女が目星をつけていた店に入ったのだが、これがなかなか決まらない。
月の贔屓目を差し引いても陽には殆どのものが似合ってしまうのだから、どれか一つに決めるというのはなかなかに難題だった。
「これもいいし……でもこっちもなぁ…」
陽を正面に立たせその耳元に陳列されたピアスをかたっぱしから当て、月は眉を寄せる。
その表情は真剣そのもので陽としてはされるがままだ。
尤も自分のことについてこんなにも一生懸命に悩んでくれる姿を見ているだけで心が温かくなるのだから、彼が何か苦言を呈するはずもないのだが。
「こちらはいかがでしょう?」
「却下。そんなゴテゴテしたの陽の趣味じゃない」
「ではこちらは……現在人気のある商品でして」
「駄目だね。流行だからって簡単に買いたいとは思えないな」
「……この品は店内で最高の」
「値段が高ければいいと思っているの?」
しかし店員の方は長く居座りあれこれと悩む月を構いたくて仕方がないようだ。
手を変え品を変えては見事に玉砕している。
それにめげない店員もなかなかのものだが、いい加減月も話しかけられることに苛々し始めている頃。
現にその口許は文句を言いたそうにピクピクと引きつっている。
「でしたら――」
「あぁ、もう!邪魔しないでくれないかな!?」
「まあまあ月。落ち着け」
ついに爆発した月は店員をギロリと睨み、そしてすぐに陽にたしなめられうっと視線の力を弱くした。
そんな彼女の頭をやさしく何度か撫でた陽は打って変って店員に冷ややかな微笑みを浮かべる。
「少し放っておいてくれると助かるんだが。
妹は凝り性でね。納得がいくまで決して妥協はしないんだ。
それにわざとらしい第三者の助けを受けることも嫌っている。
俺としても他人に俺達のことに口出しをされたくはないからな」
「……………かしこまり、ました」
その笑みの迫力に店員は冷や汗を流しながら大人しく引き下がった。
幼くして大人と対等に渡り合う必要のある当主の地位を約束された者ならでは、と言ったところだろう。
久遠家の双子の兄妹のことは一部の業界では有名で、今回の店がこの商業施設の中ではやや値の張る中流から上流階級の者のための場所というのが災いしたらしく入店から何かと店員が傍へやってくるのだ。
それにしても月に言ったこととは全く正反対の対応をしていると言っていい兄の行動に妹は少々呆れ顔である。
「陽……私にあんなことを言っておいて」
「仕方がないだろう。俺も煩わしかった。
それで?そろそろいくつかの候補は決まったか?」
「うん、まあ…」
どうにも納得がいかないながらも話を変えられてしまっては仕方がない。
いくつか候補としてピックアップした商品を手に取り、見やすいように近くの棚に並べた。
「この青い石のついたやつか、シンプルに銀のやつか、黒いやつか、紫か。
この四つのうちで迷っているんだ。陽は寒色系の色の服が多いし、合わせやすいかと思って」
「なるほど。青と銀はリングピアスか」
「あまり好きじゃない?」
「いや、つけるのは初めてだから大丈夫か心配になっただけだ」
当主の証は小指の大きさ程の宝石(ある意味定番のダイヤモンドだ)の中に家紋が映り込むスタッドピアスだ。
陽の言葉を聞き確かに慣れた形の方がいいかもしれないと月はその二つを元の場所に戻していく。
「いいのか?別に構わないが」
「うん。それにあぁいうのってどこかにひっかけそうで見ていて怖いし」
「なるほど。そうなると残ったのは黒と紫だな」
「んー………」
月はもう一度それぞれを兄の耳元へ触れさせた。
じっと左右の耳を見比べる。
そしてしばらくするとその両方を持って会計へと向かい、何かの指示を出しつつ支払いを行った。
どうやらどちらにするかは陽に教えないつもりらしい。
その様子を邪魔せず見守る彼は彼女の帰りを今か今かと待ちわびている。
少しして戻って来た月の手には小さな箱。
丁寧にリボンで飾りつけられている。
「はい。ハッピーバースデイ、兄さん」
「……兄さん呼びは、やはり慣れないな」
「ふふっ、こんな時しか呼ばないから意味があるんだよ。
ほら、開けてみて。陽に絶対似合うから。私が選んだんだもん」
「わかった」
照れくさそうにしながらも期待に表情をゆるませる陽は丁寧にリボンを解き箱を開けた。
中に品よく鎮座するのはアメジストを使ったピアス。
照明に美しく輝き、カット面に二人の姿を小さく映り込ませている。
「紫か。ありがとう、大事にする」
「……うん。ね、今つけて」
「当然だ」
流石に店内では、と移動した二人は中央の休憩スペースまで移動した。
噴水の縁に腰かけながら月の手鏡でピアスを買ったものへと取り換える。
「うん。やっぱり似合うよ。流石は私の自慢の陽だ」
「そう褒めるな。月が俺に合うものを選んだからこそだろう」
「そ、そんなことないよ……
………もう、なんで私が喜ばせてもらってるのさ」
照れくさそうに頬を染めた月は不満気に陽を見つめる。
しかし彼はどこ吹く風といった様子で微笑んだ。
「なんだ、喜んでいないように見えるか?」
「………意地悪だ」
「ははっ、すまない。嬉しくて少しはしゃいだ」
声を上げて笑った陽は面映ゆそうに耳朶に触れ漆黒の瞳を細めた。
それを見てやはり紫にしてよかったと内心思う。
リングピアスは形から却下となったが残る二つ、黒と紫は最後まで悩んだ。
けれど陽の漆黒の瞳を見ているうち、黒のピアスは邪魔だと彼女は感じたのだ。
その瞳も髪も見事な黒で染まっている彼に、これ以上の黒は余計な気がした。
陽は既に一番の黒を持っているのだからそこへ新たに黒を取り入れるなど無粋もいいところだ。
だからこそ月は紫にした。
赤と青が混ざり合ったその色はどちらとも相性がいいし、かと言って明るすぎない色合いは陽の持つ漆黒と上手く調和する。
本当に自分を声を大にして褒めてやりたい気分になり、月はこれ以上ない程輝いた笑みを浮かべた。
「陽が喜んでくれてよかった。
……ふふっ、なんだか嬉しいな。
陽はあんまり装飾品をつけないから、私が贈ってもあまりつけるところを見られなかった。
でもピアスは毎日するんだし、これからほぼ毎日私が贈ったものを身に着けてくれている陽を見られるでしょう?」
「確かにあまり身につけはしないが、それでも月からのものはよく使っているだろう」
「それでも毎日と時々は違うの」
「…………まあ、そうだな」
自身も思い当たる節があり陽は仕方なく降参した。
肩を竦め悪戯っぽく笑う妹に約束する。
「なら公式の場で当主の証をつける以外、ずっとこれをつけよう。約束だ」
「え……でも、他にももらうかもしれないよ?」
それこそ今までは頑なに他の物をつけなかったからこそ陽に対してピアスを贈る者はいなかったのだ。
けれど月がピアスを贈ったことで、そしてそれを陽がつけたことでこれからはそうはいかなくなるだろう。
親族とは言え一枚岩ではない。その繋がりを補強するためにも贈られたものを一度は使うことが必要だろう。
「構わない。他人からのものに興味はないからな。
それにそれくらい嬉しいんだ。
勿論今までの物も全て嬉しかったが、ピアスについては月はずっと怒っていただろう」
「陽………あの時は、カッとなっちゃって…ごめんね。
もう怒ってないよ。だからピアスを贈りたかったんだ。
それに気に入ってくれて嬉しい。約束も、本当にありがとう」
ふわりと微笑んだ月にもそれを見た陽にも、同じように幸福が広がる。
それを噛み締め、そして自分も月に早くプレゼントを渡したい気持ちが強まった陽は立ち上がって未だ座ったままの月を振り返った。
「次は月への誕生日プレゼントだ。
よさそうな店を探さなければならないし、急がないとな」
「うん、じゃあもう行こうか」
「いや、俺は今までのピアスを捨ててくる。丁度いいし、少し休んでいるといい」
「え……でも…」
樹脂ピアスは高価なものでもないし大量にまとめ買いした程度のものだ。
元々数週間おきに捨てて新しいものに変えていた陽は少し歩いた場所にあるゴミ箱を見つけてそう言った。
立ち上がりかけた月は迷うように視線を彷徨わせ、引き止めるように陽の指先を握っている。
何となく離れがたいのだ。胸にまだあの喜びは残ったまま。
出来るなら片時も離れたくないが、確かに久しぶりの人混みで疲れている体に陽の気遣いは嬉しい。
どうしようかと考える月に陽は笑って握られていない方の手で髪を撫でた。
「別にすぐだろう。すぐに戻ってくる。
それにその後はまたかなり歩くんだから、休んでいてくれ。
色々と連れまわす予定の俺としては少し申し訳ない」
「もう。そんなに?」
「勿論だ。月のことで俺も妥協する気はないからな」
するりと髪を撫でていた指が目元をなぞりすぐに離れる。
くすぐったそうに目を閉じた月はすぐにその漆黒の双眸を開き陽を見上げた。
「わかった。なら今のうちに英気を養っておくよ。
でも早くね?誰かさんに連れまわされている間に閉店してしまったんじゃあんまりだ」
「酷い言い草だな。じゃあ少しだけ待っていてくれ」
「うん。待ってる」
握っていた手を離し、月は微笑んで頷いた。
陽もそれに応えるように微笑み少し早足でゴミ箱まで向かう。
離れがたいのは彼とて同じこと。
早く戻って可愛い月のためにプレゼントを選ばなければならない。
一体どんなものが似合うだろうか。
自分は紫のピアスを贈られたのだから彼女へのストールも同じ色にしようか。
自分が似合うのだから月とて似合うに違いないと微笑み、以前のピアスをゴミ箱へ放った陽は身を翻し彼女が待つ噴水へと足を向ける。
元々目で確認できるほどの些細な距離だ。
ずっと彼の様子を目で追っていたのだろう月が振り返った陽を認めて微笑む。
それを目に映し更に歩く速度を陽が早めようとした、瞬間。
ぐらりと、地面が揺れた。キャア、と誰かの悲鳴。
たまらず膝を着いた陽はそれでも大切な月の安否を確認しようとすぐに顔を上げる。
視界に映る月は揺れによって腰掛けていた噴水の縁から地面に落ちたらしく尻餅をついていた。
近づきたいのに大地の揺れが邪魔をする。
広場は完全に混乱に陥っていた。
警護の人間もあまりの大きな揺れと混乱する人ごみで月と陽に近づくことができないでいる。
そしてその時、キン、と耳鳴りのような音がした。
月の傍にある噴水を中心として不可思議で禍々しい真っ黒な光の輪が展開する。
噴水のすぐ傍にいた月は誰よりも早くその輪の中に囚われた。
その他にも何人か輪の中に入ってしまったものがいるらしく、そこかしこから悲鳴が上がる。
「月!」
陽が名を呼び手を伸ばす。
それに輪の向こう側の月も大きく口を開けて叫んだ。
けれどその音が輪の外にいる彼の耳には一欠片たりとて届かない。
―――陽、と。
正しく、その名を呼んだはずの彼女の声が、陽には届かなかったのだ。
等しく伸ばされた手と手はそのまま触れ合うことなく空を掻く。
訳のわからない恐怖に漆黒の瞳が潤む。
その様に心が抉られるような気さえして、陽はもう一度妹の名を呼んだ。
心臓がどくどくと五月蠅くてたまらなかった。
己が体をもがれる様な怖気立つ程の恐怖が陽を襲う。
何かの前兆のようなそれに、気づきたくはなかったけれど。
「―――――!」
何かを言った月。
その周囲をとりまく禍々しい、彼女の持つ漆黒とは比べられもしない汚らしい色の輪が、強く輝く。
「月!駄目だ!………、っ行くな!!」
その血を吐くような叫びに、月は答えることすら出来ず。
輝きを放った真っ黒な輪と共にその場から消え失せた。
その頃には大地の揺れもおさまり、耳鳴りのような音も無くなっている。
けれど。そんなものより、何より大切なものが、既に陽の傍からなくなってしまっていた。
「嘘、だろう……?」
地面に膝をついたまま、茫然と陽は呟いた。
その背に警護の人間が駆け寄るがそんなものに構っていられる程彼の精神状態は安定していない。
周囲には同じく親しい人間を失った者がいるのだろう、泣き声や混乱、怒りを露にした怒鳴り声が至る所から発されている。
そう、失ったのだ。陽は、唯一の存在を。
「……っ、嘘だ、嘘だ嘘だ嘘だ……っ嘘に決まっている!」
片翼をもがれたような心の痛み。
今まで感じたことのない途方もない喪失感。
何かの前兆のような、それは正しく前兆だった。
大切な、唯一の半身を喪うという、凶兆だったのだ。
ただ離れているのではない。
それならば陽とてこれ程取り乱すことはなかっただろう。
彼等二人は双子だからなのかほんの少しだけ他人とは違い、離れていてもお互いの存在を感じ取ることができていたのだから。
けれど今の陽にはそれが感じられなかった。
いつだってあった不思議であたたかな感覚が心からすっぽりと喪われてしまっていた。
それは間違いなく月のいた場所で。
ならばその事実が示すのは彼女の消失。
「月、月、るな……る、な…」
どこへ行ったのか。どこへ連れて行かれたのか。
あぁ、月がいない。
自らの傍らで優しく夜の闇を照らすような、そんなやわらかな存在が。
陽はその時確かに自らの心が壊れる音を聞いた。
冷ややかで澄んだ、崩壊の音だった。




