7-10
Side:Luna
「……【聞こえているかい?】」
周囲に結界を張った雪原の中、念話で式神に語りかける。
けれどそれに返ってくるのは沈黙のみだ。
「やっぱりか……」
どうやら私の分身は消されてしまったらしい。
それが一体何者の手によるものなのか分からないが、由々しき事態だ。
完璧に私と同じ力とは言えないものの式神の能力は限界まで上げてある。
それを消すことができるなんて、人間業には不可能に近い。
もしも予想が正しければ式神を消したのは神喰らいだ。
それを外に放たず城の中に飼っているのは防衛の要にでもしようと言うのだろうか。
だとしてアレが脆弱な力しか持たない人間に大人しく従うとは思わないが――
「閉じ込めて……いや、意味がないか」
閉じ込めても何の役にも立たないだろう。
侵入者の排除だって、侵入者だけでなく城にいる人間全てが神喰らいの標的になる。
仕方がない。百聞は一見に如かずとも言うのだし、覗いてみるしか私に選べる手段はないのだ。
こんなところでセイ達を待たずに私が城に向かえば後々の結果は目に見えている。
ただ、セイのところに残してきた式神に覗き見の件は黙っていてもらおう。
「【透視】」
瞳がじんわりと熱を持つ。
こういう使い道があるのだから、いくら忌まわしい過去の象徴だとしてこの目を抉ることをせずにいようという気持ちになるものだ。
そうでなければ戦闘になれてすぐにでも抉り取って潰したものを。
「【“聖国”城内、王の間】」
視界が急速に拓け、遠い先へと進んでいく。
すぐに城の外壁を越え目に映る景色は数十年前と変わりのない玉座となった。
「相変わらず悪趣味な部屋だな」
あの時はそれを直そうと真っ赤に染めてやったっけ。
数少ないあの城でのましな思い出だ。
どうやら部屋の主は不在らしい。
単純に眠っているのか、それとも何かしらの企みごとを別室で進めているのか。
仕方なくそのまま視線だけ外の廊下へ出て専任魔術師が詰めているだろう部屋へ向かう。
少し前に式神から受けた報告によれば確か以前とは部屋を変えたらしく地道に移動するしかないのだ。
昔と変わっていなければすぐに飛べたのだが。
「こっちも空……」
続いて覗いた宰相の部屋すらも。
こうなってくると単純に寝ているだけという可能性は無くなってくる。
式神の消失も彼等が関わっているのだろうか。
「仕方ない、【地下に】」
召喚が行われた忌まわしい場所。
冷たく寂れた石畳のあの場所に視線を飛ばそうと魔力を込め、けれど弾かれる。
結界だろうか。それも強力な。
だとして私のこの距離からの透視を防ぐなど、一体どれだけの魔力を込めたのだろう。
百程度の犠牲では済まされないはずだ。
「チッ、」
仕方なく地下へと続く隠し通路から視線を移動させる。
壁に偽装してある扉を抜け長い階段を下り凍える廊下へ。
左右に広がる牢屋は召喚された人間などいないのだから、今はカラだろう。―――いや。
「神喰らい……?」
随分小さく、またつい最近討伐したものと比べ力も弱いが、牢屋の中にいるのは紛れも無く神喰らいだった。
それも一体や二体ではない。およそ大ホール程度の広さのあるその中に、十を超えるだろう神喰らいが入れられていた。
それらは揃いも揃って首輪よろしく枷をつけられており、神喰らい同士による共食いを防止しているらしい。
廊下側に繋がれた神喰らいは私の魔力を感じてか触手を伸ばしてきた。
恐らく式神もこれにやられたんだろう。
さすがの彼女もこれだけの数を相手に出来ないだろうし、こちらに念話をかける手間も取れなかったのではないだろうか。
「でも、だとして何故こんな数を城に……」
恐らくこの間討伐したものは牢屋にいるものと同じ時期に造られたはずだ。
けれどあちらは外に出して残りは未だ城内に留めている。
―――外に出したのは造り出した神喰らいの出来栄えを見るため?
わざと被害を出させ、現時点で他国に神喰らいの討伐が可能な人間がいるかどうかを確認した?
いいや、だとしてあの時誰かから見られている感覚は無かった。
では偶然ということだろうか。
造り出してすぐならともかく、一度逃げ出して何かを喰らってしまえば“聖国”からの手出しは不可能だろう。
視線を目的地へと進めながら考えるのはなかなか骨の折れる作業だった。
今自分の身体がある周囲、視線を巡らす先、そして脳内。
三か所に同時に意識を向けながら考えるのでは集中が足りない。
まったく、本当に厄介な事をしてくれる国だ。
「大体神喰らいを造り出したのは召喚術の後のことのための準備じゃないのか…?
準備段階としての生命の魔術なら別に一体造り出してしまえばそれでいいはず」
そうすれば後は適当に生命の魔術の材料となる素材を――――素材?
「冗談だろう……」
思い当たった考えに怖気が立った。
私の時は獣人と、朝と夜それぞれの精霊族に竜族だった。
そしてそれに加え私と一緒に召喚されたあの世界の人間の命を使った。
では今回はどうなのだろうか。
もし、もしも既に全ての準備が整っているとしたら?
「素材は、神喰らい……?」
呟いたと同時に、牢屋の中の全ての神喰らいが転移術によりその姿を消した。
同時にぶわりと強い魔力による力の渦が巻き起こり透視の魔術が弾かれる。
まるで津波の様に、私の身体がある北の地まで迫りくる身に覚えのある魔術の揺らめき。
――――紛れもない、召喚術。
そしてこの世界へと引き寄せられようとしているその存在。
「うそ、でしょ……?」
そんなわけない。そんなはずがないんだ。
そんなことがあってはいけないのに。
でも、もしそうなら、絶対に許さない。
「【今すぐに、私をあの忌まわしい地へ!】」
何が阻もうと、何を失おうと。
もしも彼があそこにいるのなら、厭うものなど何もない。
数々の障壁、防壁、守護を突き破って転移したその先。
見慣れた灰色の石畳。吹き込む冷たい風。全てが凍りつく温度。群れる人間。
人の群れの先にある、忌まわしい床に描かれたあの頃とは少し違う召喚陣。
――――――その中央に立つ人。
最初は幻かと思った。心の底からそう願った。
あまりにも君を求める私が作り出した、最上で最悪の幻想。
でも、違う。ねえ、どうして。
どうしてここに、馴染んだ君の気配があるの。
どうして君が、ここの人間に囲まれているの。
どうして君の、君の気高い黒が、他の汚ならしい色に汚されようとしているの。
「――――陽っ!!」
心の底から腹の底から、振り絞るように出した声は掠れて、それでも君は私に気づいてくれた。
同時に陽を包む魔法陣に被さるようにして私の描いた通りの陣が渦巻く。
君の元へ。
そのために邪魔なもの、すべてを排除して。
「月!!」
召喚は身体の情報の変換を終えることで安定したものになる。
神喰らいを造り出すにはたくさんの命をより合わせることが必要だ。
そしてそれは召喚も同じ。
たくさんのこの世界の命を召喚したものに混ぜ込み、そうして召喚した存在をこの世界に定着させ新たな存在に変える。
人の形をとった、ヒトでないものに。
それを、私はこの身をもって知っている。
術を止め新たな陣に書き換えることで陽の召喚が不完全なものとなり、彼と私の間には不可視の次元の壁が出来上がった。
けれどそれでいい。次元の壁の圧力で私以外は君に近づくことだって出来やしない。
君が忌々しいこの世界に触れることがないのなら、私は君に触れられない痛みにも哀しみにも堪えてみせよう。
「陽…なんで、君が」
強い抵抗の中、腕を伸ばせば届く距離。
それでも、なにより君は私に遠かった。
それを同じく感じてくれているのだろうか、眉が寄り痛みを堪えるような顔をしていた。
君の顔、久しぶりに見たよ。
ぼやけかけていたその姿が再び鮮明に描かれることが嬉しく、そして辛い。
「月っ、どこに行っていた!?あの日、お前を失くして、俺は……!!」
君の姿は最後に見た時よりも確実に成長していて、流れる時の違いをまざまざと感じさせるものだった。
ねえ、私がいなくなって、どれだけたった?
「5年だぞ!?なんでこんな、俺を一人にした!」
心の問いが聞こえていたかのような言葉はどうして、責められているのに泣かれているみたいだ。
ごめん。ごめんね。
君を一人にした。君を悲しませた。君を苦しませた。
私の感じる罪悪感は、きっと君も等しく感じているのだろう。
「私だって、寂しくて、つらくて、苦しかった……
こんな、君のいない、どこかもわからない場所に飛ばされて。
あれから50年間、君のことを一瞬だって忘れたことは無い……!」
「50、年………」
この世界とあの世界で流れる時は違う。
君からしたら、到底理解できない、あり得ない話だろう。
でも、本当なんだ。信じて。君に否定されたら、私はもう何も――
「……ここにいる、人間が」
「……?」
「この人間達が、俺から月を奪ったのか……?」
その美貌に浮かべられるのは憤怒。
あぁ、それだけで、堪らない。
「陽……っ」
君に触れようと無様に足掻く私を嘲笑うように、次元の壁は存在し続ける。
君への道を阻むそれに両手をつけば、君も重なるようにして向こう側から掌を合わせた。
ピリピリと抵抗を示す壁により身体に浅い裂傷を負っても、そんなものでは私達を隔てることはきっと出来ない。
「俺からお前を、お前から俺を奪って50年だと?
ふざけるな……!月、帰ろう!!また一緒に、ずっと傍に…!!」
共に。なんて幸せな言葉だろう。
だと言うのにゆるく首を横にふる私はどうしようもない愚か者だ。
君を悲しませて、自分で自分を苦しめて、何がしたいんだろうね。
でも、駄目だから。
「もう、戻れないんだ」
目が熱い。駄目だ、泣くな。
だって最後に見せる顔が泣き顔なんて、あんまりでしょう?
「私、もう、君とは違うものになったんだよ。
瞳の色だけじゃない、過ごした時間だけじゃない……中身だって、ぜんぶぜんぶ、もう、違うんだ。
もう私は君の隣にいられない。一緒に生きていけない。
でも、陽だけならちゃんと、あの場所に、私達の大切なあの場所に還すことができる」
陽の身体の変換は止めた。
今回彼の召喚後の素材となったのは神喰らい。
転移させてすぐに術をかけたのだろう、すでに神喰らい達の姿はどこにも見当たらない。
元々がたくさんの種族が混ざり合う強い力を持った存在だ、修正には時間がかかるが――書き換えられた情報を元に戻し、彼という存在をあの場所へ、もう遠い場所となってしまった日本へ返してあげるため私の魔術が働いている。
……それももう、あと少しで終わるだろう。
「馬鹿を言うな、そんなことを俺が認めると思っているのか!?
……っ、一緒に戻れないなら俺をここに繋ぎ止めろ。月……今のお前になら可能なんだろう」
泣きそうな顔してる。
君はそう言うって、わかってたよ。
君とずっと一緒に、歪んだこの世界で生きる。
それはなんて、甘い甘い誘惑だろうね。でも、駄目だよ。
「君を私だけのために、こちらに留めるなんて出来ない。
私を喪ったときと同じ思いを、あちらの皆に負わせる気なの?」
私の言葉にハッとして、目をそらす君。
とても優しい君はそれをよしとはしないだろう。
そして私は、私こそがそんな君を誰より理解している。
けれど君は顔を歪めてどこか縋るように私を見るんだから、堪らない。
やめてよ。そんな顔しないで。笑ってさよならしたいの。泣いちゃうよ。
「――なら、俺にずっと、お前を喪ったまま生きろって?」
「……そうだよ、私は酷いんだ。
もう人間でもない、ただの化物だから」
君だって、薄々わかっている癖に。だから君は自分をこの世界に留めることができるって言った。
あの世界ではあり得ない魔術も、変化することのない容姿も、変わってしまった瞳の色も。
ぜんぶぜんぶ、化物の証だ。
「月。俺の唯一を、例えお前だろうとそんな風に言うことは許さない」
優しい陽。
君の言葉は、いつだって私の心に真っ直ぐ届く。
狂いそうなぐらい心を揺さぶって、痛いよ。
だから私にも、少しでいい、君に消えない傷をつけさせて。
「知らない。君のことなんて知らない。
君が怒ったって、悲しんだって、しるものか」
ねぇ、だからさ、私に、嘘をつく勇気をちょうだい。
唯一を否定するだけのそれを、ちょうだい。
だってそれがないと、きっと君と離れられないの。
「君なんて、もう、私には、いらないんだ……」
あぁでも、やっぱり駄目だね。
体内で暴れる偽りへのペナルティ。
けれど身体がバラバラになるような痛みも、この心の痛みに比べればどうというものでもない。
「月、言え。頼むから、俺が必要だと、言ってくれ……
そんな顔をして、そんな事を言うな。今の俺はお前に触れられないんだ…」
酷いよ。私の嘘に、それを嘘と知っていても頷いて欲しかった。
「……っ、だって。だって、だって……っ、…」
だってね、私。
「……本当にもう、君と共にはいられないんだから、しょうがないじゃない…!」
君は酷い。いつだってそうやって、私を泣かせるの。
「こんな汚い色の瞳、君と違う色の瞳、潰してしまいたいよ。
君と、同じ、大切なものだったのに……!
なのに、この世界が、この世界に住むイキモノが、ぜんぶぜんぶ、私から奪っていった!
君と同じ時を刻むはずだった体だってとっくになくして、君と過ごした大切な日々だって、もう今にも記憶が擦りきれそうなの。
君を……っ、君の声も姿も温度もすべて、いつだって隣にあったはずなのに、それがぜんぶ消えてく!!
ねぇ、どうしたらいい?わたし、もう、何も、何ひとつなくして、きみと一緒になんて、いられないよ…」
「……っ、馬鹿。いつだってそうやって、一人で抱え込んで…
もっと俺に縋ればいい!泣いて、喚いて、俺をお前に縛り付ければいいだろう……!!」
ごめん。泣かないで。だって、出来ないよ。
優しい君を私に繋いで、それじゃ私も君も幸せになれないって、私は知ってるから。
――でもね、もしも贅沢を言うのなら。
君は言っていることがまるで反対だって、怒るかもしれないけど。
ずっとずっと、私のためにその心では泣いていて。
「死ぬまで一緒だって、ずっと昔にした約束、破ってごめん」
「……っ、月!嘘だと言え!!」
魔法陣が収縮し始める。それと同時に君との距離も近くなって、けど、もう触れられないね。
君のその肌に、髪に、身体に、最後に少しだけでも触れられたらよかったのにな。
「還ったら、みんなにも謝っておいて欲しいの。
もう私は還れないから。君になら、君だからそれを頼めるんだよ。
私が喪ってしまった皆に、最後の感謝と謝罪を」
「頼むから、嘘だと……!」
泣かせてごめん。
ただ自分の苦しさを吐き出して、なのに伸ばされた君の手を拒む馬鹿な私でごめんね。
―――大好きなの。君が大好き。
私の、すべての世界でひとりのひと。
あぁ、やっぱり、本当にだめだね。
笑って君と別れようと思ったのに、涙が止まらない。
「ねぇ、陽。もう君と私は違うものになってしまったけど、それでも、私は君で、君は私だって、そう言っていいのかな……?」
「っ、ばかやろ…」
君の声も、溢れた涙と感情で掠れた。
いよいよ魔法陣は陽の体がひとつ入る程度の大きさになり、一層強く輝き始める。そこで、陽が動いた。
「くそっ、壊れろ!!」
「陽!?何を………そんなことしたら、手が」
力任せに次元の壁を破ろうとするなんて、何が起こるか分からないのに。
「月!!お前も、手を伸ばせ!」
「でも……」
「俺を!」
力強い声に、体が震えた。
「俺をこの先ずっと後悔させて、不幸にする気なのか!?」
―――君は、とっても狡い人だ。
何と言えば私が動かずにいられないか、ちゃんと知ってる。
「陽、陽、っ、よう………!」
手が千切れそうな抵抗。
それでも私は、君に触れたい。
君の温度を、もう一度しっかり感じたい。
そしてそれを、今度こそ記憶に身体に、刻み込んで。
二人、同じ様に手を伸ばして、決して壊れることのないであろう壁を破壊しようともがく。
ただ、互いに触れるためだけに。
ピシリと、空間に皹が入った。
そこに手を伸ばし、力任せに裂けば触れる体温、あぁ、陽の温度だ。
指と指が絡んで、同じ紅い血が混ざりあって、融け合って、とても愛おしい。
この気持ちが、正しく伝わっていますように。
ねぇ、きっと今なら私は死んだっていい。
「月、俺は忘れない。お前と過ごした幸福もお前を喪った悲しみも、悔しさも、怒りも、お前への感情全部を忘れない。
俺はお前で、お前は俺だ。この先何があろうとずっと。俺の、俺だけのたいせつな、月」
陽は私の手を引き寄せ、右耳に触れさせた。
そのまま私の指で、勢いよくピアスを千切りとる。
ああ、昔君がピアスを初めて開けたとき、違うものになってしまったのが悔しくて悔しくて、やっぱり私は泣いたね。
でも君は決して私にピアスをさせてはくれなかった。
「私も君を、忘れない。
君と過ごした幸せも、暖かさも、君を喪った切なさも、痛みも、憎しみも、永遠に忘れない。
私は君で、君は私。永遠に、私が死ぬときまで」
私も君の手を引いて、自分の右耳に触れさせた。
鈍い、肉が押し潰される音と微かな痛み。
私はこの痛みを一生忘れることはない。君が、そうであるように。
「世界が変わったって、私自身が変わったって。
ずっとずっと君は、私の“世界で一番のたいせつなひと”だよ。だから、さよなら、陽」
その私とは少し違う、細いけれど男のものの手に頬擦りして。
私は君の手を離した。
その手は最後に私の涙を掬いとるように目許に触れ、粒子となって消えていく。
あぁ、君はよくそうしてくれた。
ある時は労るように、ある時は慰めるように、ある時は存在を確かめるように、そうして私の眦をなぞった。
「月、月、るな、る…な……」
ずっと、終わりのその時まで私の名を呼んでくれていた君の声が聞こえなくなって、それで、もう、限界だった。
「うぁ、あ、ああぁぁぁぁぁぁあ……!!」
君がいない。
君に触れられない。君の声が聞こえない。君を感じることが出来ない。
もう、永遠に届かない場所に行ってしまった。
あの時のような、何一つ分からないままの突発的な別れではなく。
私が送った。私が還した。
私が、君を、君の手を、離した。
永遠の別れを選んだのは私のはずなのに。
嗚呼どうして、心が壊れそうだ。
天地がくずれるような感覚に膝から力が抜けて、その場に座り込む。
唯一君と同じだった黒髪が床に散らばった。
傍にいて。誰より近いところで、私を支えていて。
触れていて。離さないで。
大切な君。ねえ、ずっとずっと、死ぬまで一緒にいてよ。
全部全部私が、君に、望みたかった事。
そして君が、私に望みたかった事でしょう?
遠く離れたあの場所で、君もこうして狂いそうな喪失感に悲鳴をあげているんだろう。
そしてできるならどうか、そんな君を誰も慰めないで。
私がいた場所のその心の傷跡に他の人間が入り込んだりはしないで。
同じ痛みに、喪った確かな質量に泣いていて。
「――、―――――――――――!!」
「………?」
近くで醜い豚がわめいているけれど、その声は耳障りに反響するだけで私の中に意味をもたらさなかった。
ただ、そう。
振り返って、心にいくつもの疑問がわくだけで。
どうして悲しみに浸らせてくれないのか
どうして私に陽のものではない手で触れてくるのか
どうして私に陽のものではない音で言葉をかけてくるのか
どうして陽ではない存在がここにいるのか
どうして私は陽と引き離されているのか
どうして陽と私のいる世界は違うのか
どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうして。
どうしてこんな世界が、存在していて赦される?
「こんな世界、消えてしまえ」
ぼろぼろと壊れたように涙を流し続けるガラクタの瞳。
ああ、そういえば私はもうとっくに壊れていたんだっけ。
見慣れた部屋。聞きなれた無音。
―――もう慣れた、隣に唯一がいない孤独。
ぱたぱたとフローリングの床に、血と涙が零れた。
それらは混ざり合って汚らしく床を汚す。
まるで俺からあいつを奪った、あの世界の様に。
「月。月、月、月………る、な…」
俺の唯一。この世界に生まれ落ちた瞬間から決められていた対。
どうしてお前は今隣にいないのだろう。
何がいけなかったのだろう。
ただほんの瞬間。あの日、ほんの些細な事から手を離した、それだけで、永遠に道を別たれた俺達。
お前も今、もう届かない遠いあの場所で泣いているのだろう。
そして出来るならばその涙を誰も拭うことがなければいい。
俺を欠いたその心に他の人間が入り込むようなことがなければいい。
同じ痛みに、喪った確かな質量に泣いていて。
月がなければ太陽は輝く意味を忘れたまま、誰かを照らすことだって出来はしない。




