6-9
Side:Luna
一人用意された部屋の長椅子に行儀悪く寝転びながらため息を吐く。
あぁ、嫌になるな。
遠く離れた場所でシルヴァのために用意した魔術が発動した気配がするから、余計に。
「……本当に、裏切らなかったんだ」
馬鹿な子供。裏切ればよかったのに。
そしてそんな子供の戯言を信じて、こうして本部での会話を盗み聞くことすらせずにただ待つ私も同じくらいか、それ以上の馬鹿者なんだろう。
「この世界の人間なんて皆死んでしまえ」
守りの魔術をあの仔狼にかけたその口で吐き出す怨嗟の言葉は頼りなく宙を漂った。
結局私はあの雛鳥のような子供に絆されているんだろうか。
セイも、ジョーカーも、煌炎や氷雨も、みんながみんなそう言う。
“シルヴァが特別”、そんなの有り得ない。
私の特別は二人だけ。セイと、あの世界に置き去りにしてしまったあの人だけだ。
特別も唯一も大切も、全部二人にしか許していない。
分かってる。どうすればいいかなんて。
あの仔狼を殺してしまえばいい。それか捨ててしまえばいいんだ。
広い部屋の中心に転移の魔法陣が浮かび上がっても、私は起き上がる気になれなかった。
その中に人影が見えはじめて、魔術が放つ光がおさまりその姿が目に映っても。
周囲に特別な魔術を展開させながら戻って来たシルヴァは、こちらを見て目を見開いたけど。
「ルナ。……具合が悪い?」
すぐに駆け寄ってくる様はまるで飼い主を心配する犬だ。
それに返事をすることすら億劫な気持ちになる。
―――昨日、セイに言われたことがよっぽど私の中で尾を引いているのかな。
***
「……ギルドからシルヴァ君に、か」
「彼は絶対に私を裏切らないと言っていたけどね。
けれど彼の意志に関わらず総代の力で操られる可能性がある」
盗み聞いた念話の内容とその後のシルヴァとの会話をセイに伝えれば、彼は難しい顔で眉を寄せた。
シルヴァは気づかれないくらい微量の眠りの魔術で深く眠っている最中。
その隙にベッドを抜け出してきた私はセイの部屋で隠れた話し合いだ。
彼に知られたら自分も同席すると煩そうだし、それに彼がいては出来ない裏の事情というのもある。
「二つ名を使った暗示ってやつ?
ギルドもなかなか下種いことするよね。
所属する人間にそんな魔術使うなんて」
「まあ仕方がないんじゃないかい?
ランクA+以上が牙を剥けば色々と大変だからね。
強すぎる手駒にはきちんと首輪をつけておきたいという心理も理解できない訳じゃないさ」
それにその事を知っているのは総代の座に就く者だけ。
私の場合は力が並はずれて強いからこそ気づいたけれど、他にそれを知る者はいないだろう。
恐らく煌炎や氷雨も知らないはずだ。
二つ名を魔力を込めた声で呼んだり、その意味を紐解くことでその名の持ち主を支配することが出来るだなんて。
「あれは数百年前に失われた術式だからね。
私も昔の遺跡を興味本位で探っていなかったら気づかなかったよ」
「興味本位なんかじゃないくせに。何俺にまで変な嘘ついてんの」
「……ごめん」
そう、本当は興味本位なんかじゃない。ちゃんとした目的があった。
私をこの世界に召喚した魔術も、その失われた術式のひとつ。
だから遺跡を探れば召喚術だけじゃなくて返還術――つまり私を元通りの体に戻してあの世界に帰らせる魔術を編み出すための手がかりが見つかるんじゃないかって、自分でも笑っちゃうような僅かな希望に縋ってたんだ。
結局、そんなもの見つからなかったけれど。
それはセイに既に話してあることで、だから誤魔化す必要なんかなかった。
でも答えをはぐらかすのはもう私にとって呼吸をするくらい自然な事で、知らぬ間に口は動いていたんだ。
「まったく―――でもいいよ。許してあげる。
月が嘘を吐いたって俺は分かるから。
俺の前では嘘を吐けなくしてあげるから、何を言ったっていいよ」
「別に、君に嘘を言いたかった訳じゃないんだけどね…」
「それも知ってる。それで?月はどうするの?」
苦笑して促された答えの内容は、もう考えてある。
懐から取り出したリボンを使うつもりだ。
「これに魔術をかけてシルヴァに持たせるよ。
目には目を、歯には歯を。失われた魔術には、同じものを」
正直あの時遺跡を探っておいてよかったと思う。
この術式を私が知らなければシルヴァを一人で行かせることは出来なかっただろう。
「ふーん、その魔術で暗示を防げるんだ?」
「うん。結構難しいものだけど、まあ不可能ではないし」
「………でもさ、結局のところシルヴァ君が脅しに負けたら意味なくない?」
頭の中で術式を思い出しつつ簡略化している最中に投げられた問いに瞬く。
流石はセイと言うか、本当に彼はネガティブだ。
「あはは、シルヴァは真っ直ぐな子だから大丈夫だよ。
実際私に直接嘘でも裏切りたくないとまで言っていたしね」
「そんなの100%じゃないじゃん。信用できるの?」
「君は心配し過ぎだよ」
それに実際のところシルヴァが監視命令に頷いても私は困らないのだから。
そういった意味合いを込めて笑っても、セイの表情は変わらなかった。
「……ねぇ、月。月はシルヴァ君に裏切らないって言われて、どう思った?」
まるでシルヴァに問われたままのそれ。
一体彼等は何がしたいのだろう。何を知りたいと言うのだろう。
でもセイならあの時、私自身分からなかった感情の正体を見つけてくれるような気がして。
「どうって……分からないな。
むしろ私が教えて欲しいくらい。
それくらい気恥ずかしくて、あの子供の真っ直ぐさが眩しかった。
そして同じくらい、もしかしたらそれ以上に、なんだか悲しかったんだ」
だから私は思ったままを告げた。
それに彼は目を見開いて、そしてとても複雑そうな顔をした。
どうしてそんな顔をするのかな。
私は何か、可笑しな事を言ったの?
「……そっか。嬉しいけど、少し妬けるな。
月はあいつのこと信じてるんだね」
「信じて、る……?」
そして君は何を言っているの?
「そうだよ。あいつが言った裏切らないって言葉を月は信じた。
だから気恥ずかしくて、眩しくて、でもそれを天邪鬼でこの世界を憎んでいる貴女は受け止めることが出来ないから、悲しかったんだよ」
「そんなこと、ないよ」
「あるよ。ね、俺は怒ったりしてるんじゃないよ。
だからそんな風に否定しなくていいんだ。
月がそういう風に少しでもこの世界の人間を信用できるようになったのは、俺にとっても嬉しいことだから」
違う。そんなんじゃない。
そんなんじゃ無いはずなのに、明確な否定の材料はどこにも見当たらず、言葉は喉元でひりついた。
「ただやっぱりどうしても妬ける。
何だかんだ心のどこかでずっと俺だけだって思ってたから。
この世界で月が信じる人間なんて、さ」
「違う、君だけだ。あんな子供、違う……」
「……うん、認めなくたっていいよ」
「セイ………」
ねえ、その言葉は認めなくたって事実は変わらないと、そう言っているの?
逃げる私の弱さを揶揄しているようで、あたたかく包んでくれているようで。
それでも同時にその内容がどこまでも私を追い詰めた。
「でも俺としても色々ちょっかいかけた甲斐はあるな。
月も薄々察してるんだろうけど、前に城に来てた時色々とあの段ボールに発破かけたからさ。
俺としてもその後が気になってはいたんだよ?」
「……そう言えば今日の朝も何かしていたね」
話をそらした君に私もなにを言う事もなく続く。
それに漆黒の目を細め、セイは仕方なさそうに苦笑した。
まるで八年前の逆だ。
それなら私はあの時の君の様に真実から目を背けて、ずっと自分に嘘を吐いているのだろうか。
そしてそれを明らかにしようともしない私は、やはり逃げているようなものなのか。
「月は気にしないでいいよ。俺とあの段ボールの事だからね。
ただ笑ってて。ずっとずっと俺はそれだけを望んでるから」
「君は私の泣き顔が好きだって言ったくせに」
「いいの。泣いてる月も、本当に笑ってる月も同じくらい可愛いくて愛しいよ」
そう言うセイの表情はこれまで見たどんなものより複雑なそれで、その後にまるで私の記憶に刻み込むように降ってきた口づけは何だか悲しい味がした。
***
「ルナ?」
返事をしない私に、シルヴァの表情が翳る。
「……おかえり、シルヴァ。
すまないね。少し考え事をしていて、ボンヤリしていた」
それに胸が痛むのは私がシルヴァを信用して信頼して、近しく感じているから?
それとも彼の持つ薄墨の瞳がそうさせるのか。
少し前の私なら簡単にその結論を出せていたのに、一体僅かな間に私の頭はどうしてしまったのだろう。
――いいや、もしかしたらずっと前からそうだったのかな。
直接言葉という形でセイにそれを明らかにされて、だから私は気づくようになったのかな。
私の中にある思考の微かな違和感に。
「考え事……今日の?」
「そうだね。さて、君の話を聞こうか。
その魔術が発動したという事は、なかなか穏やかではない事態になったみたいだけれど」
でもそれに私は、知らないふりをしていたいんだ。
何も知らずに、私はこの世界の全てを憎んでいたいんだ。
だからこの世界の人間である君は、嫌いだ。
シルヴァは少し躊躇うように瞬いて、じっと私を見つめた。
先程の態度が原因だろう。
気遣わしげな視線が煩わしく、けれどそれを表に出すことはせずに微笑む。
起き上がって長椅子の隣を示せばおずおずと腰掛ける様に苛々した。
「実は―――」
あぁ、情緒不安定だ。
まるでこの世界に来たばかりの頃のよう。
まるでこの世界で自由になったばかりの頃のよう。
吐き気がした。
「―――それで、よく分からなかったけど、結局戻って来た」
話し終えたシルヴァはこちらを窺った。
その頃にはどうにか私の心も落ち着いて(無理矢理思考をギルドの方に向けたから、実際のところは逃げて誤魔化したようなものだけど)冷静に対処することが出来る。
それにしても、不問に処す、ね。
あっちも本気で私を監視することが出来るだなんて思ってはいなかっただろうけど、さすがにこのあっさり感は気にかかる。
私の監視なんて煌炎は魔力を持たないから勿論、氷雨にもほぼ不可能だろう。
私が気を抜いた一瞬とかなら可能かもしれないけれど、この話を知った以上はこちらも警戒する。
そんな状況下ではまず彼は手出しができない。
いくらギルドの後押しがあると言っても私からの報復が恐ろしいはずだし。
「まるで君を自分の目で見たかったみたいだね」
「……?」
「あぁ、少し考えていてさ。
総代は最初から私を本気で監視しようとは思ってなかったんじゃないかなって。
ただ単純に君とサシで――まあ五月蠅い子犬共がいるけど、ともかく直接君と話したかったんじゃないかな?
話の最中、何度か君のことを試すようなことを言われたのもそうなんじゃないかい?」
私を信用することが出来るかどうか。
弟子の口から忌憚なく発されたその問いへの彼の答えは、聞きたくなかったけれど予想通りだった。
総代はギルドに自らの全てを捧げる男だ。
彼にとってここまでの真っ直ぐな思いは何よりもギルドに向けさせたいものだろう。
だからこそ二つ名で縛ろうとしたんじゃないかな。
……まあこの仔狼に、そこまでの価値があるようには思えないけれど。
その点でいえばこの理由付けは少し弱い。
もう少しちゃんとした、言ってしまえばシルヴァの利用価値というものが見つかれば私もこの考えに自信が持てるのだけど。
「試される……あれが?」
「わからないけれどね。
あの老人の目に適ったから彼もわざわざあんな面倒な魔術をかけようとしたのだろうし」
眉を寄せるシルヴァに苦笑しつつ肩を竦める。
失われた魔術を使わせるなんて面倒な老人だ。
あの術式はなかなか魔力を消費するから。
まあ条件はあちらも同様で、総代などは私よりも魔力が少ないのだから半分以下になっているだろうけど。
「そう言えばもうおさまったけど、話し合いの途中で魔術が発動した。
ルナの魔力を感じて、あれを見た総代は失われた魔術だって言ってた」
「そうだね。私が用意したものだ。
総代もきっと気づかれないように失われた魔術を使ってくるだろうと分かっていた。
あれに太刀打ちできるのは同じ失われた魔術だけだからね」
「失われた魔術なんて初めて聞いた」
「それはそうだろう。何しろ失われているんだから。
それに君にはまだ扱い方を教えていないしね」
あの魔術は使う人間を選ぶし、そもそも術式を見つけ出すことすら難しい。
それで言えばあの老人は自らの力だけであの遺跡を調べ上げ術式を手に入れ、かつそれを扱うだけの実力と野心を持っていたことになる。
「それに失われた魔術の殆どは禁術に指定されているんだよ。
だからどんな高名な術者だってそれをおおっぴらにしようとはしない。
禁術にはどんなものが数えられているか、君は憶えているかい?」
「ん。支配の魔術、記憶の魔術、生命の魔術の三つ」
「そうだね」
その支配の魔術を総代は君に使おうとしたのだと言ったら、目の前の弟子はどんな顔をするだろうか。
そして記憶の魔術による記憶の消去と改竄を私が以前君に行っていると言ったら?
生命の魔術によって作り出されたのが神喰らいだと言ったら。
相変わらず彼は何も知らない雛鳥のまま。
それに少し安堵する私は、追い詰められているのかな?
「それがあるから、失われた?」
「うん、そういう見方もある。
後は失われた魔術を扱える人間が少なくなったというのもあるんだろう。
全部が全部複雑で面倒な術式だし、消費される魔力量も馬鹿にならないからね」
シルヴァは困ったように眉を寄せた。
「……魔術のせいで、ルナは、疲れてる?」
「おや、心配してくれているのかい?
でもそれは杞憂だよ。そんなに疲れるようなものでもないんだ。
昨日のうちに仕上げておいたものでもあるしね」
「でも、何だかやっぱり元気がない」
「………」
何が分かるというのか、この子供に。
けれど虚を突かれ黙り込んだ私にシルヴァは微笑み、ゆるく手を握った。
「黙ったという事は、当たったという事。ルナは嘘を吐かないから。
最近、やっとだけど分かるようになってきた。だから、ルナ、寝よう?」
私はずっと私のまま、この世界で生きていきたい。
何ひとつ忘れ去ることなく、過去に縋っていたい。
でもそれを君が邪魔しそうな気がして、憎らしいよ、シルヴァ。
分かってる。どうすればいいかなんて、私はちゃんとわかってるんだ。
この、目の前で嬉しそうに微笑む雛鳥のような彼を、殺してしまえばいい。
捨ててしまえばいい、もう関わることなく傍を離れればいい。
――ねぇ、でもこの仔狼は、私に望んでいるんだよ。
皆。もうどこにいるかもわからない、たくさんの同胞達。
あなた達の望みを叶えるために私は生きている。
望みを持つことがどれくらい難しくて悲しくて、時に人を救い時に人を絶望させるか私は知ってる。
だから私はたくさんの望みを叶えたい。
そうしていればいつか、生まれ変わったあなた達の望みを、私は叶えられるかもしれないでしょう?
私はどうすればいいのかな。
この仔狼の望みを、私はいつになったら叶えることが出来るんだろう。
そうすればお別れなんて簡単で、私はまた今までの様に一人で気ままに生きていくのに。
「―――いいや、眠らないよ」
「……?」
否定を返した私に、彼は少し戸惑ったような顔をした。
握られている手を解いて立ち上がる。
それに続こうとしたシルヴァの動きは魔力で縛った。
「ルナ……?」
「私はルナなんかじゃない。私は月だ。久遠月。
でも君にはそれがわからないし、わからなくていいと私も思ってる」
滔々と語られる内容は君には理解できっこない話だろう。
わかっていたことだったけど、私は最低な師匠だね。
決定的なことなど何一つ口に出さないまま、私は君に選択を迫るのだから。
「シルヴァ、選んで」
選択を求める言葉に、目に見えて彼の表情が強張った。
「なに、を……?」
「君は全てを知ることができるとしたら、知ることを望むかな?
――君に、私のことを教えてあげる」
見開かれる薄墨の瞳。
それに笑みを深めながら、私は残酷に告げた。
「でも君が全部を知ったら、私は君を殺す。
知らないままなら、私は君の望みが叶うまで君の傍にいよう。
シルヴァ。何も知らない雛鳥のような君。君はどちらを選ぶ?」
何も知らない君は、やっぱり全てを知りたいのかな。
そんなことのために命を捨てられるくらい、私の全部を知りたいのかな。
それとも命までは懸けられない?
ずっと何も知らないまま、何一つ知らないふりを続けて笑うことを望むの?
「…………ルナは?」
「え………?」
一瞬何を言われたのかわからなかった。
その拍子に魔力の束縛が弛みシルヴァがこちらに手を伸ばす。
もう一度繋がれた手は、どうして、とてもあたたかかった。
「ルナは、どうして欲しい?」
「……そ、んなの…関係ない。
私は君の選択を聞いているんだ、私の事なんて」
「俺はルナのことを知りたいけど、でも傍にいたい。
俺は欲張りだから、両方がいい。
だけど、ルナの全部を知るのは、もしかしたらルナにとって悲しいこと。ルナが悲しいのは、俺は嫌」
「………どうして」
どうしてそんなことを気にするの。
「……最近になって、そう、前に依頼でここに来てから、たくさんのことがあった。
今までとは比べられないくらい、たくさんのこと。
それで、俺は少しだけ気づいたことがある。
さっきのルナの癖もそうだし、ルナが誰のことも好きじゃないこともそうだし、ルナの寿命のことも。
他にもいっぱい、少しだけど、変だなって思った」
どうしてそうして微笑みながら言葉を紡ぐのか。
語る内容はどこまでも謎ばかりで、きっと彼を戸惑わせただろうに。
「それを全部知ることができるのは嬉しい。
でも、ルナは、それをして悲しくない?」
「……っ、」
悲しくなどない。
私にとって目の前の仔狼は取るに足らない存在で、だから、私の心は揺らいだりしない。
「悲しくなんてない。
シルヴァ。選べ。死ぬか、生きるか」
はやく。はやくはやく、選択を。
そして私を楽にさせて。
それは逃げだと、私は知っているけれど。
「………なら、よかった」
シルヴァが私の言葉を信じたのかなんてわからない。
彼は嬉しそうに微笑んだだけだったから。
「俺はどっちも選べない。
さっきも言ったみたいに欲張りだから。
ルナのこと、全部知りたい。ずっと一緒にいたい。
それが俺の望みだから」
「……それが、君の望みなの?」
そんなことを望むの?
その望みを叶えたい。でも、私には叶えられないよ。
どうして。
わからないけど、酷く哀しかった。
「………ルナ、泣かないで」
おかしなことを言う子供だ。
私は泣いてなんかいない。
泣かないって約束したから、私は約束を破らない。
乾いた頬を繋がれていない彼の手がなぞって、おかしな気持ちになる。
幻想だ。私は今、少しおかしくなってしまってるんだ。
だからそれに縋ってしまいそうになるなんて、そんなことはない。
私をこの世界に堕とした、私に憎しみと恐怖と狂気を植え付けた奴等と同じ、この世界に生きる人間。
この雛鳥は、そんな人間なんだよ。
だから今私が感じるあたたかな感覚もくだらない感傷も、全部まやかしだ。
「君が嫌いだ」
触れる指の動きがピタリと止まった。
全てを振り切って、そのまま唇を動かす。
「君だけじゃない、この世界の人間、みんなみんな大嫌いだ。
憎くて憎くて堪らない。一人残らず殺してしまいたい。
人間だけじゃない、動物も、魔物も、草木も、この世界すべてが忌まわしくて、壊してしまいたい」
「ルナ……?」
「だから、忘れてよ」
グン、と力の限り魔力を燃やし、シルヴァを魔法陣で包んだ。
触れる手も握られたままの手も私は拒まない。
だって君は望んだ。
私の全てを知りたい。そして傍にいたいと。
知りたいなら教えてあげる。
私が心底君達を、この世界の全てを憎んでいること。
傍にいたいならいてあげる。
君がもういいと言うまで、あるいは私の心が限界を叫ぶまで。
――でも、その二つの望みは両立なんてしない。
だから、忘れて。
私が語った憎しみも、君が知った小さな真実の欠片も、全部全部忘れてしまえ。
「【忘れてしまえばいい。
そうすればきっと私達はこのまま。
私は君の傍にいることができるんだ。
だからシルヴァ、お願い、全部忘れてしまって】」
「ルナっ、俺は―――」
君の言葉なんて、私はいらない。
中途半端に零れた言葉は室内に溶けて、魔術の完了を知らせた。
失われた魔術のなかの、禁術に数えられる記憶の魔術。
記憶の消去と改竄。また君に使ってしまったね。
ぐたりと力を失い倒れかけるシルヴァを抱き締めて支える。
触れた体温はあたたかくて、同時に私の心を凍りつかせた。
「君は何も知らない雛鳥。
今まで通り、君は可愛い私の弟子だよ。
君が死ぬまで、あるいは君が私の前から消えるまで、ずっとこのままでいてよ、シルヴァ」
私が君に抱く感情なんて、それだけだ。
君は私の弟子。私の気紛れで拾い上げた仔狼。そして忌まわしいこの世界の人間。
ただそれだけだよ。
それ以外なんて知らない。
それ以上の感情なんていらない。
私は君の師匠。望みを叶えるために望まれるだけ隣に居続ける、気紛れで残酷で嘘だらけの限りなく人っぽい何かでしかない存在。
君のなかで私が永遠にそうでありますように。
それ以上も以下も必要ないんだ。
だから何も変わらないで。何も変えないでいて。
そうまでしてシルヴァと共に過ごす選択肢を選び取る自分を嫌というほど自覚して尚、私は何も知らないでいたい。変わらないでいたい。
私の特別で唯一は、陽とセイだけだよ。
ずっとずっと永遠に、そのはずなんだ。
【なかないで】
ごめんね。
ぽろぽろと降り注ぎ頬をうつ雨。
目を開き空を見上げれば曇り空。
大切なあの人が泣いているんだと、どうしてか分かった。
その瞬間地上に現れる彼女の姿。
雨に全身濡れて、顔を両手で覆って、その指の隙間から伝う涙も嗚咽も俺の胸を締め付ける。
どうして、泣いているの。
問いかけたくても声は響かず、体だって動かない。
俯いて傍で震える彼女はそんな俺に気づかずに、ただごめんね、と繰り返した。
私は嘘つきなんだ。君のことを大切に思いたくないんだ。
だから忘れて。君が私に近づいたこと。君が私に切なく微笑んだこと。全部忘れて。
哀しかった。切なかった。
どうしてそんな風に泣いているの。
何が貴女をそんなに哀しませるの。
それがわからなくて、考えれば考えるほど頭に靄がかかるようで。
不意に彼女が顔を上げる。
流れ落ちた涙の痕は雨粒に消されて、ただ今にも零れ落ちそうな睫毛を濡らす液体だけが色鮮やかな紫の瞳と共に輝く。
私は君が嫌いだ。君は私に近づいてる。
君がいつか私の全部の本当を知ってしまいそうで、怖いよ。
ねぇ、でも、私はね。
彼女はやわらかく唇を震わせて、耐え切れずほろほろと流れ落ちた涙は頬を伝って地に落ちた。
君に、私は私に許されるだけ、やさしくしたいな……
脳を襲う強烈な力。
それが煩わしく、けれど抗うこともできずに意識が沈む。
どうして泣いているの。そんな疑問すら霞がかった意識に散っていく。
彼女の言う通り、俺はこのままたくさんの事を忘れてしまうのだろうか。
――でも。何を忘れてしまったとしても。
ルナのことは、わすれたくないな。
ルナが、哀しんでることは、ぜったいに、わすれたく、ないな。
2/22活動報告に【猫の日小話】をupしました




