6-8*
Side:Silva
転移を終えて転移陣から外に出れば、恐らく案内のための人員なのだろう女が頭を下げる。
「お待ちしておりました、明星様」
一瞬で帰りたいと思った俺に、たぶんルナは苦笑すると思う。
俺のすぐ前をヒールの音を立てつつ歩く女の背を何ともなしに視界に入れつつ、まだ数回しか訪れたことのない本部の構造を頭に入れる。
ルナは慣れているから平気だけど、俺はまだ案内がいないと迷わずこの建物の内部を歩けない。
そもそも地上十階から地下三十階まで、全四十にも及ぶ階層の詳細をきちんと把握するなんてこと通いなれた者にも難しそうではあるが。
でも出来ればこうやって一人で来た時(一人でなんて来たくないけど)他人にはなるべく世話になりたくない。
そのためにもこうして少しずつ――せめて転移陣から総代の待つ部屋へぐらいは一人で行けるように道順を覚えたいのだ。
ただ今回は呼び出された内容が内容だから、これっぽちも部屋になんて行きたくなくてやる気も半減だが。
『明星様、只今お時間よろしいでしょうか?』
そもそもの事の発端となるそんな念話が俺のもとにかかってきたのは昨日の午前中。
用意された部屋で“王国”国王たちとの話し合いに出かけたルナを待っている時だった。
―――誰―――
『こちらギルド本部で御座います。
今回は明星様の師匠である宵闇様に関する件で連絡させていただきました』
―――……ルナの?―――
思えばあの時問答無用で拒絶してしまえばよかったのだ。
そうすればルナを困らせることも考えさせることも無かったのに。
それにこんな用事がなければ今日だって一日中ルナといられた。
過去(つい昨日の事だが)を振り返れば振り返る程苛々とした気持ちがわき立ってくる。
いけない。ちゃんと冷静に話をしないといけないのに。
ルナは総代の事を頑固爺と言っていたけど、俺から言わせればあれは狸爺だ。
話をあちらのいいように持って行かれそうで、俺としては今から気が気じゃない。
まだ俺は子供で人生経験も浅く、だからこういう交渉術は弱い。
こういう力も大人になるためには必要で、身につけていかなければいけないと自分でも分かっているけどやっぱり他人が嫌いだから話そうとは思えなくて結局そのまま。
ルナはこういうことが結構得意だけど。
――断りたいなら正々堂々と断っておいで。
それによって不利益を被ることになるとあちらは言うけれど、私は特に困らないし、君の事も困らせる気はないよ。――
そう言ったルナの表情に不安など欠片も無く、きっと彼女の中ではそれが確定していてそう断じることが出来る材料も揃っているんだろう。
そこまでの実力や冷静な思考、情報判断能力と自信は俺にはまだなくて、この先それらを手に出来るのかどうかすら不安だ。
勿論ルナに追いついて追い越すような男になるためには必須の条件だと思っているけど。
だから今回のことをまずは上手く切り抜けて、ステップアップしていこう。
「こちらで総代、次官、秘書がお待ちです」
志を新たにした丁度いいタイミングで目的地に着いた。
本部の中央、最深部に位置する部屋だ。
ここに諸悪の根源がいる。
目の前に立てばひとりでにゆっくりと開かれる重厚な扉。
中に入れば正面に座るギルド組織の長――総代が皺に埋もれた顔を僅かに動かした。
「ようこそお越しくださいました。
ギルドランクA+【明星】シルヴァ様」
「………」
その両脇に控える秘書と次官がそう言って頭を下げても不愉快しか感じない。
ようこそ、だなんてよく言ったものだ。
こちらを半ば脅すような言葉で無理矢理ここへ呼んだくせに。
しかしあちらは俺の無愛想な態度に何か反応するでもなく、やはり畏まった態度で椅子をすすめた。
「明星様が以前こちらへいらしたのは確か――宵闇様の付き添い、という形でしたね。
あれから一年ほど経過致しましたが、ギルドの依頼達成率、また遂行回数などギルド内で見ましてもかなりの」
「前置きはいい」
すらすらと秘書の口から紡がれるどうでもいい世間話は聞いているだけ時間の無駄だ。
席に座りはしたけれど、俺は今回の話を受ける気なんてこれっぽっちもない。
だから早く話を済ませてルナのところに帰らなければ。
「……では、今回の【明星】シルヴァ様の召還におきまして我々ギルド本部からの指示内容を読み上げさせて頂きます」
ピタリと黙り込んだ秘書に代わり、手に持った資料を捲る次官。
どちらも表情を動かすことなく、まるで人形か何かのようだ。
それにずっと黙ったままの総代の意図も気にかかる。
「ギルドランクSS【宵闇】ルナに、規定違反の疑いがかかっています。
内容としてはひとつ、特定の国に対する情報漏洩、過剰な依頼受理。
ふたつ、ギルド組織への裏切りを示唆するような言動。
これらにより彼女を要監視対象として認定、明星様にはその弟子という立場から彼女の行動をこちらに逐一報告して頂きます」
昨日も念話で言われた内容そのままの言葉。
その言い方は疑いなどではなくまるで規定違反が本当にあったような、断定するそれだ。
そもそも監視の事だって俺に拒否権など存在しないように話している。
丁寧な言葉こそ使っているが、自分達の方が上の立場にいるのだという考えが透けて見える。
「ルナは規定違反なんかしていない」
「それを決定いたしますのは我々です。
宵闇様の疑いを晴らしたいのならば監視結果を報告することです」
「断る」
「……否を返されると言うのなら、こちらもそれなりの対応をとらせていただくといった内容の事柄は昨日もお伝えさせていただきましたが、それでもよろしいので?」
冷え冷えとしたガラス越しの目。
断ることは出来ないだろうと、こちらの足元を見た言葉だ。
オルド支部のギルドマスターヒルルクや“帝国”皇帝ガイオス、闇ギルドマスターのジョーカーなど、今までルナに連れられてたくさんの地位のある人物と会ってきたけれど、彼らはこんなことはしなかった。
目の前にいるやつらは下の人間を押さえつけいいように扱うことしかしない、腐った思考の人間ということか。
「別にいい。やりたければ勝手にしろ」
「除名処分では済みませんよ?」
「どうとでも。俺もルナも困らない」
否を続ける俺に流石に苛立ちを感じたのか、人形のようだった秘書と次官の顔が怒りに歪む。いい気味だ。
つい皮肉な笑みが漏れそうになる。
「………落ち着かんか、見苦しい」
けれどずっと沈黙を保っていた俺の真正面に座る総代が重い口を開いたことで、ゆるんでいた緊張がまたすぐに引き締まった。
元は他に並ぶ者がいないとまで言われたランクSSの冒険者。
何十年も前に現役を退きギルドの職員になり、いつの間にか現在の地位にまで登り詰めたらしいが――その実力は今も現役のままだとまことしやかに囁かれている。
「明星よ、主はこの命を拒むと言うか」
「何を言われても、しない。ルナは違反をしていない」
「何故そう言いきれる?」
何かを言いかける左右の側近達を制したまま、総代はそう言って口許だけで笑みを浮かべた。
「宵闇はその名の通り漆黒の闇。
その裡など主にはわからぬし、誰もその闇の内側に入ることは出来ぬであろうよ」
「……ルナは、確かに秘密主義ではあるけど、だからって」
「裏切りはせぬと申すか。青いな」
「……ルナの何が分かる」
「わからぬ。主と同様な」
淡々と紡がれる言葉だからこそ重みをもってこちらに迫ってくる。
確かにルナは秘密主義で、その考えや心のうちを殆ど他者に明かすことは無い。
それは知らせることをせずとも自分一人で何でもできてしまう彼女の力や、しっかりと自立したその在り方にあるのだろう。
「あれは誰も求めんし、誰を必要とも思わぬ。
それこそ月のない夜の様に。
主はあれの弟子でありはするが、今までにあれが主に何かしら頼ったことはあるか?」
「………」
「それが答え。あれは他者を必要とはせん」
確かにそうなのかもしれない。でも。
反論しかけたこちらを先んじるように、総代は再び口を動かした。
「――そも、此度の事は主にとって悪いことばかりではない」
「……?」
目の前のこの老人は何を言い出すのか。
ギラリとこちらを射る瞳の光は歴戦の猛者のそれで、情けないことに圧倒される。
黙り込む俺を良い事に、総代は重々しく言葉を続けた。
「宵闇の監視、それにはこちらも手を貸す。
相手はランクSS、それも当代――否、歴代最強を誇る程の者。
それにただ主を差し向けたところで何の成果も得られぬ。
だがこちらが手を貸せば事情も変わろうて。
闇に包まれたあれの本性を、主は探りたくはないか?」
「………」
「誰も知らぬその過去」
「……!」
「秘される“王国”王太子との繋がり」
「………っ、」
「明かされぬ心の向かう先」
「……………」
「主はあれを好いておろう。
なればこそ、悪いことばかりではない。
主が否定を続けるあれの嫌疑も晴らされよう」
総代は俺の弱みを全て分かっているようだった。
俺の心の底に隠した欲望、望み。
それらをひとつひとつ曝け出させるように言葉を紡ぎ、追い詰められる。
「あれは主を何とも思ってはおらぬ」
「……っ!」
何より決定的に、そう断じておきながら。
「あれは人を人とも思っておらぬ。
そして何者に対しても執着などせん。
唯一の例外は王太子。主のその想いは果たされぬ」
「………るさい」
「が、あれの真実を主が知れば、何ぞ変わる可能性もあろう」
「………うる、さい…!」
「あれを手に入れるため、あの漆黒の闇を晴らして見せよ」
「五月蠅い!!」
立ち上がり叫んだ俺に、目の前の男はようやく言葉を止めた。
「………だから、何だ」
そう、何だと言うのだ。
ルナの事を何も知らない。
年齢も、どこから来たのかも、どうしてギルドに入ったのかも、それまでは何をしていたのかも。
ルナとセイルートの事も知らない。
どうしてそれほどまでに強く深い繋がりがあるのかも、八年前にあったという事件も、彼女がセイルートに向ける思いの正体も。
ルナを知らない。
彼女が大切で、唯一だと言う“ヨウ”のことだって。
でも、だから何だっていうんだ。
――嬉しかったよ。――
そう、彼女が言った。哀しそうな顔で。
それは俺が初めてみる顔で、同時に一度見たことのある表情でもあって。
神喰らいの討伐、消える直前の式神も、ありがとうと言って同じ顔をした。
いつもの笑顔じゃなくて、切なくて透明でどこか痛い悲しみの表情。
どうしてルナがあんな顔をしたのかは分からない。
彼女の心は未だ俺に扉を開かないから、その中身は謎のまま。
でもあの言葉はルナの本心で、たぶんあんな表情を自分がしていたなんて気づいていない、そんなルナの言葉だからこそとても嬉しく、これは真実なのだと分かった。
あの言葉は絶対に彼女の偽りでも誤魔化しでもない、彼女もよくわからない彼女の心が出した真実の音。
だから俺は、ルナを信じることが出来る。
「ルナがどんな人間でも、俺の事を大切だと思っていなかったとしても。
ルナにとって俺が大切かじゃない。
俺にとってルナが大切。それこそ、そっちが言うギルド以上に。
だから俺は命令には従わない。脅しにも屈しない。ルナ以外からの言葉には揺れない」
ルナ。俺の大切な人。
絶対に裏切らないと言った俺の言葉、それに貴女がただ一言嬉しいと、そう返したことが、その言葉を信じてくれていることを裏付けるって、きっと貴女は気づいていない。
以前の貴女ならこんなことは言わなかった。
たぶん、ありがとうとだけ言って俺の言葉をそよぐ風かなにかのように受け流して平気な顔をしていただろう。
ねぇ、でも貴女は哀しそうな顔で嬉しいと言ったんだ。
それは俺が貴女に近づいたという事で、俺の言葉が貴女にとって疑う事のないものになったということで。
目の前の彼等には貴女にとって俺が大切かじゃないと言いはしたけど、俺は貴女と違って嘘吐きだから。
本当は貴女にも俺と寸分違わず同じ想いを返して欲しい。貴女に俺を見て欲しい。
その望みが叶えられるまでに少しだけ近づいたって、そう、自惚れてもいい?
「あくまで否と申すか」
「そう言った。俺はルナを裏切らない」
いよいよ殺気立つ側近達。
けれど対照的に、いいや、ある意味同様に総代はもう一度口許だけに笑みを浮かべた。
「その心意気や良し。そうまでの忠誠、ギルドに向けよ。
【何故ならば主は“明星”。明けの明星。漂う闇を晴らす者。
ギルドに位置する漆黒の闇を晴らし、その正体を我等に示すための狗】」
「何を――――」
パンッ、と何かが弾かれるような音。
俺の周囲に白く輝く複雑な文字が浮かび上がり、それが何かを弾いたらしい、というのがわかる。
そしてそれが、ルナの力によるものだということも。
ほんのりと熱を持つ左手首。
そこには城を出る前に彼女に持たされたものがあるから。
***
『シルヴァ、これを持っておいで』
そう言ってルナが示したのは、俺が彼女から以前贈られた黒紫のリボンだった。
戸惑う俺にルナは微笑んで俺の左手をとり、そこに綺麗にそのリボンを巻いてくれたのだ。
『ルナ、これは…?
と言うか、どうやって。これ、俺はバッグに入れていたのに』
『ふふ、悪いとは思ったけれど、昨日のうちに借りていたんだ。
勝手に漁ってしまってごめん。
今日は君が初めて一人で本部へ行くし、総代との直接対決だからね。
気休めのようなものだけれど、お守りだよ。
君は右利きだから、こっちなら邪魔にならないだろう?』
確かにルナのオマケとして着いていったり、あるいは俺にルナが付き添ってくれた状態での本部への召還は経験があるが一人というのは初めてだった。
それに、今日はただ指令を受けるのではなく軽い脅しをかけられ、それでも指示を断るために向かうのだ。
そういった点においてあの時からルナにはそれなりに結果の予想はついていたのかもしれない。
『お守り……?』
そんなことも分からず首を傾げた俺に、ルナは指でリボンをそっと撫で微笑んだ。
『君がきちんと帰ってこられるように。
気を付けていっておいで、シルヴァ』
***
浮かび上がる光の言語に目を通し、総代はほう、と小さく呟いた。
既に側近達は武器を抜いた状態の臨戦態勢、けれど向けられる殺意も何もかも彼女の力が阻むようで、俺の心に焦りは一欠片も浮かびはしなかった。
「主等は剣を置け」
「総代!?」
「しかし……!」
「聞こえぬか」
「………承知致しました」
たった二度の制止で気色ばんだ二人を抑え、総代は文字からこちらへと視線を移した。
それに対して剣に手をかけた俺には何の制止も告げず、ただじっと眼差しを注ぐ。
「あれの本気の魔術は誰であろうと一朝一夕には破れぬ。
それこそ、そうまで力を込めた失われた魔術など論外であろうよ」
「失われた、魔術……?」
「知らぬか。無理も無かろう。
明星、再度命じる。宵闇を監視せよ」
突然の魔術の発動も、それに続く言葉も俺を混乱させる。
けれど最後の言葉だけは決して逃すことなく頭に入れ、俺は首を振った。
総代はそれに対し先程の様に言葉を重ねる訳でもなく、側近達の様に敵対の意思を示すわけでもなく、ただ一つ頷き。
「よかろう。なれば去れ。
ギルドは宵闇の規定違反疑いを取消、此度の事も不問に処す」
「……!?」
やはり突然覆ったあちらの意見に目を見開く。
同時に頭の中には疑問が溢れかえった。
どうして急に命令を止めたのか、規定違反の疑いを消し、且つルナの監視まで。
俺がこの話を断ったとしても、恐らく他の誰かがその役目を担うことになるのは分かっていた。
出掛ける前に他でもないルナ自身がそれを言っていたから。
そして恐らくそれが彼女に近い実力を持つ同じランクSS.煌炎か氷雨によってなされるであろうことも。
なのに、目の前の老人はそれも止めると言う。
これは単純に俺の手前そう言っているだけなのか、それとも真実なのか。
見極めようとした途端後方の扉が開き、来た時の案内と同じ女が入室する。
「去れ。主のような小童には見極められぬ」
先程より強く、退出を命じる声。
これ以上は分が悪い。今まで散々命令に逆らってきていていう事でもないが、この狸爺はギルドのトップ。
折角の言葉なのだ、ここでまた逆らって意見を変えられても困る。
事の真偽はルナの判断を仰ぐしかないだろう。
未だ周囲を彼女のあたたかな魔力が取り囲む中、俺は渋々その場を後にした。
***
Side:総代
「総代、何故です!?」
「宵闇は明らかに規定違反、先程の明星の態度も処罰の対象に出来る程です!」
今まではこちらの制止の命を聞いていた自らの側近はあの小童が辞した途端に口を開く。
これも未熟な証だろうて、躾に力を入れなければならぬと実感させられる。
いつの頃であったか、あれが五月蠅い子犬と評すのも無理はない。
「黙らぬか。元々此度の事は実現するとは思っておらぬ」
これ等は力の差というものをどうにも理解しておらぬ。
例えギルドの力をあの小童に貸したとして、その様な力の行使や監視などであれの闇を晴らすことは出来ぬということが分からぬとは。
それは行う者が同じくSSの位を冠する煌炎、氷雨とて同様。
あれらなどは怒りを買うことがないようそれこそ小童の様に、否、それ以上に命を拒むだろうて。
……それを消し去り無理を強いさせる手はあるが、現状として宵闇はギルドに敵対する意思はないだろう。
なればこそ、今回はあの小童を呼び、揺さぶりをかけた。
「で、では何のために今回明星を?
あのような子供、宵闇が関わらなければ…」
わからぬ者共だ。だからこそあの童を呼び寄せたと言うのに。
「あの小童はあれの弟子。それを見極めるためよ」
あれは人を人とも思わぬ。
何者にも何物にも執着することなく、ただ厭いた様に世界を見つめ続けるだけの化け物。
ならばあれにとってあの小童は何者か、何物か。
愛すべき弟子、善き隣人、自らの付属物、何者でも何物でもあることが出来ない存在。
果たしてあの童はあれにとってどの様な存在か。
それを見極める必要があればこそ、あのような何も分からぬ童を呼んだ。
「宵闇は敵対せぬ。先はともかく、今は」
そう、先の事は分からぬ。なればこそ。
このギルドの存続のため、繁栄のため。
あの化け物を、金でも、名声でも、魔を帯びた力ある名でも縛ることの出来ぬあれを。
このギルドに繋ぎ、飼う為の布石。
「主等は分からなんだろうがな」
監視という命に否を返した童。
恐らくその念話はあれの手中にあっただろう。
されど返ったのはギルドへの敵対でもギルドからの脱退でも命令の無視でもなく。
既に失われた、こちらの二つ名を用いた微々たる――それでも打ち消しようもない筈の洗脳すら弾くような術式を纏い、ただ純真にあれを慕う仔狼。
あれの、小童への情がそれで測れようというものだ。
何より“王国”王太子の時と決定的に違うのは、そこにあれ自身の自覚が伴わぬこと。
守るという明確な意思なく行動をするのでは、流石のあれとて隙が生まれる。
王太子は既に煌炎ですら膝を折る力を身につけあれと同じ位置に君臨している。
だが、あの小童はどうか。
力、魔力、意志、知識、経験、その全てが未発達。
先々成長するのであったとしてもギルドの総力をかければ無力化は容易い。
あれが小童への庇護を意識せずに行ううちは、傍に置く童の自身の中での立ち位置を自覚せぬうちは。
あの小童は容易く手折られるであろう。
「あれらのことはもう良い。主等もこれ以上徒に騒ぐな」
これは秘すべき策。
あれはこの場所とて容易に魔術を差し向ける。
この会話も耳に入る事であろう。
ならば誰に何を言うでもなく、口を噤む。
これを知るのは己一人、あれの手にかかればどれ程忠実なギルドの飼い犬だとてただの情報の塊。
ただ己だけが策を身に潜め、その時が来るまではそれを表に出すことなく練る。
あれが弟子をとったと耳に入った時から決めていた。
何の確証もない、むしろ己の負けが分かり切ったような博打。
それでもあの仔狼の二つ名は“明星”と。
闇を晴らす者。明け方の空に輝く金星。
賭けに勝ったのは己。
明けの明星はその名の通りに漆黒の闇と共に在り。
己には出来なんだ、あの闇を手に入れることの出来る存在。
“王国”王太子と並び立ち、あれから情を向けられる童。
あの小童は未だギルドの、己の手中に在り続ける。
それにあれが気づかぬ限り、あの力ある化け物は。
何者にも何物にも執着することないあの女は。
ギルドの頂に位置するあの漆黒の美しい闇は。
待ち望んだ宵闇は、真にギルドのものとなる。
あの童は、いずれあれを繋ぎ飼い殺すための鎖になろうて。
【あるひとりの男の物語】
男は最初から、その銀色の仔狼が闇色の彼女の特別になるかもしれないと思っていました。
だからこそ仔狼の二つ名は彼女と対になる“明星”に決めたのです。
彼女の闇を晴らし彼女からの情を得て、彼女を縛り付けること。
そんな意図を込めた名。
元々男は例えギルドへの忠誠心が彼女の中にあろうとなかろうと、ギルドに身をおいてさえいればそれでよかった筈でした。
けれどとある国の王子の存在によりその考えは一変。
王子のためならば容易にギルドを切り捨てるその在り様に許せない程の怒りを抱き。
彼女がきちんと持っていた人間としての情が誰かに与えられたことに対する悲しみと憎悪を感じ。
そして何より彼女の圧倒的な力をギルドの為に失いたくないと思い。
男は王子が現れたことで知ってしまったのです。
何者にも、何物にもその心を傾けることのない彼女に、それこそ心というものがあったことを。
心というものがあったとして、それが誰にも向けられていないことが男に安堵と安寧をもたらしていたのです。
彼女は自分と同じなのだと。
同じように、大切な何かを喪っている抜け殻なのだと。
だからこそその空虚な心をギルドに向けてもらいたかった。
自らと同じ思想を持って欲しかった。
同じ虚ろな心を持つ者であるからこそ。
男は本当は、ずっと自分と共に空虚な心を抱え、そしてそれを共有する存在が欲しかったのです。
けれどそんな思いは知ってしまった現実により歪に歪み。
王子を利用し彼女をギルドに縛ろうとして、しかし阻まれて。
今となっては王子もギルドでは手を出せないような実力を持ってしまい。
――そこに五年前現れたのがみすぼらしい小さな仔狼。
弟子という近しい存在、それを利用しない手はないと明星という二つ名をつけ。
自らも己の計画の穴を、彼女が他者へと心を傾けることがないという決定的な負けの要因を自覚しながら、男はじっと待ち続け、そして、ついにこの日を迎えたのです。
今、男の心は逸ります。
あの日鮮烈に熱烈に強烈に男の脳裏に焼き付けられた、あの漆黒の闇を手に入れられる、そんな未来を思って。




