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限りなく人っぽい何かと銀と金  作者: 美羽
金色の後悔
61/178

5-12*

Side:Seilute




全てを話し終えた彼女の精神は、きっと今グラグラ揺れているんだろう。


「………あぁ、随分遅くなってしまったね。

私の話はこれで終わりだよ。

この後私は(るな)からルナになった」


俺に背を向けて硝子越しの空を見つめる月さんに、震える唇でどうにか声を出した。


「……ほん、とに?」


「嘘を言ってどうするんだい?

流石にこんな真剣な空気のなかで大法螺をふけるほど度胸はないよ」


「違うよ。そういうことを言ってるんじゃない……

月さんだって分かってるだろ?」


どうしてそんな、何でもないことのように笑みさえ浮かべて言葉を紡ぐのか。

月さん、貴女はずっと知ってたんだろう。

俺と貴女、同じ様で全く違うその差異に。

けど俺はそんなことには全く気づかずに、馬鹿みたいに笑って、泣いて、悩んで、そして貴女を一人にした。


「……どうして泣いているのかな?」


「……月さんが、泣かないから。

ごめん。俺、泣く資格ないのに」


子供の体は涙腺が緩くて、涙がボロボロと簡単に零れる。

月さんは苦笑すると俺に近づき頭を撫でた。


「そう。ありがとう。

君は少し思い違いをしているようだけど、私は一度だって君を恨んだことも羨んだことも、妬んだこともないよ。

それに、君とこうして出会えてよかったと思っている」


「………」


「君の存在は私の歯止めのようなものだ。

君がいるから、一人じゃないと思えたから私は今もこうしていられる。

この世界を憎しみながらも、壊さずにいられるのだしね」


そうだろうか。

俺は本当に、貴女の役に立てているのだろうか。


「この話を聞いて、きっと君の決意は揺らいだだろう。

でも君ならきっと、改めていい選択ができると信じているよ」


「……月さんてさ、ほんと、何でもお見通しだよね」


確かに俺の決意は揺らいだ。

この世界でセイルートとして生きる。

それで本当にいいのだろうかと、考えが根本から覆されそうになったから。

でも、それでもやっぱり貴女の話を聞けてよかったと思うんだ。

俺は月さんがそうであるように、貴女のただ一人の理解者であり、拠り所でいたいから。


「でもそうだね……君と出会って、一つだけ悪いことがあった」


「なに?」


「……君が」


彼女は囁くように言った。


「誠が死んで、一人になってしまったらどうしようって、私はずっと不安で堪らないんだ…」


その言葉が切欠だったのかな。

不安定に揺れていた月さんの心は脆く崩れて、座る俺の前に膝をついた彼女の紫の瞳からぼろぼろと涙が零れる。

涙なんて、初めて見た。

震える唇が何かを恐れるように一度引き結ばれ、それでも箍の外れた感情は簡単にそこから漏れ出す。


「ねぇ、他にもずっと黙っていたことがある。

過去の事だけじゃない、今までずっとずっと、君に秘密にしていたことがあるんだ」


まるで許しを乞うように、懺悔のように告げられる言葉。


「私は、本当はずっとずっと怖かったんだ。

君と出会ってしまったこと、君と過ごしてしまったこと。

君に甘えれば甘える程、幸せを感じれば感じる程……君を、いつか喪うその日がくるのが、ずっと怖いんだ。

いっそ君を殺せればと思うくらい、そしてそんな自分の狂った考え方だって、ぜんぶ恐ろしいって、私はずっと怯えてた。

今まで私が犯してきたあの世界ではありえない罪や思考や感情を君に知られたら、どんな目で見られちゃうのかなって、だからずっと秘密にしてたんだ。

私は君の事、これっぽっちも信じることが出来ていなかったんだよ……」


縋るように俺の手を掴もうとした細い指は直前で躊躇うように動きを止める。

表情はくしゃりと歪んで、それでも彼女の美しさは一切損なわれず。


「ねぇ、セイ、教えてよ……

君はこんな私を恐れて軽蔑して忌み嫌う?

君はいつまで私と一緒にいてくれるの?

いつ、君は私の目の前から消えてしまうの?

それで、また、私は一人になるの?……でもそんなの、もう嫌だ」


「月、さん……」


知ったばかりの彼女の真実。

それはとても辛くて悲しくて。


告げられた本当の思い。

それは俺と彼女を苛んだ。


ねぇ、貴女はずっとそう思ってたの?

俺がなんの恐れも無く過ごす毎日の中で、ただ貴女だけがそんな恐怖を抱いてきたの?

それが切なくて悔しくて、俺はすぐ傍でギュッと握り込まれた震える手を握り締める。

彼女のそれは一際大きく震えて、次いでまるでそれだけが唯一のものだとでも言うように指が絡まり強く隙間なく握り返される。


「もう、寂しいのは嫌。一人で孤独に震えるのも嫌。

死にゆく同胞をおくるのも、私を映さない黒の瞳を見るのも嫌だ」


ねぇ、これは私の身勝手な感情だけど。

そう言って彼女は口を開く。


「私は君を恨んでいない。憎んでいない。羨んでいない。

――でも、私にとって君の存在は残酷な幸福だ。

君を知って、私は私が孤独だったことを思い出した。

そして君と過ごして、孤独ではない日々を思い出した。

最後には君を喪って、思い知らされた孤独と共に私は生きていくんだろう」


俺と彼女の間に横たわる確かな違い。

今まで俺が気づかずにいたもの。

それがある限り確かに俺は貴女をおいて逝くんだろう。


「……だからいっそもう君と会いたくなんかなくて、でも君という存在を知らなかった頃には戻れなくて、結局離れることなんて出来やしない……」


「月さんは、俺といるの、辛かった…?

だからここへ来るのもたまにで、すぐに居なくなって…」


俺の問いに彼女は泣きながら笑った。

そんな風に、笑わないで。

浮かべる表情はどこまでも皮肉げで自らを嘲笑い、それでも微かな救いを求めてやまない悲痛で歪なもの。


「辛かったら、どんなにかよかっただろうね」


楽しかった。幸せだった。

そう言う様からは確かにそう思ってくれているのが伝わってきて、だから、余計に辛いんだよ。


「君と過ごす日々は幸せで、だから離れられないって、言ったろう…?

でもずっとそんな幸福に浸っていたら、私、もう駄目になる。

何もかも忘れてそのままずるずると楽な方へ楽な方へ進んでしまう。

………でも、それじゃあ駄目だから。

私、忘れたくないんだ。

あの時の痛みも悲しみも憎しみも、喪ったたくさんのものも。何もかも、忘れたくないんだ。

だから狡い事は分かっていたけど、今までずっとああしていた」


忘れたくない、なんて。

忘れてしまえばいい。

貴女にそう言えたならどんなによかっただろう。

でも俺にそんな事を言う資格はなくて、それに、逆の立場ならたぶん俺もそうしてた。

だからその決意に、俺は返せる言葉なんてない。


「君は私の光だよ。

もうとうの昔に失ってしまった太陽に代わって闇夜で輝く星のような」


眉を寄せて、それでも幸せそうに笑う貴女。

でも、そんなの違う。

そんな風に笑って欲しかったんじゃない。

俺が光だって言うなら、じゃあもっと幸せな顔をしてよ。

喪うことが分かってる希望なんて、そんなのただの絶望だ。

闇を照らすことは出来ない小さくて微かな輝き。

貴女にとって俺は、そんなものでしかないんだろう?


「君と会わない数ヵ月はとても寂しくて、寒くて、駄目だ。

君という存在が冷えきった私にぬくもりをくれる。

君が――セイが私を受け入れてくれるから……私の、もう誰も呼んでくれない名前を、唯一呼んでくれるから。

だから、私、君から離れられないよ」


ねぇ、俺、貴女に何か出来ていたの?

だって受け入れるなんて、名前を呼ぶなんて、当たり前だよ。

そんな当たり前のことで貴女の孤独を和らげられていたことが嬉しくて、でも悲しい。

俺が出来ていたのはそれだけ。

ならこれ以上、貴女に何が出来るんだろう。


俺を救ってくれた月さん。

周囲から、たくさんの悲しみから、そして俺自身からも。なのに俺は。


「月」


結局口から零れたのは感謝でも後悔でも答えでもなく、ただ貴女の名前で。

そんな情けない俺に、それでも貴女は最上の笑顔をくれた。

相変わらずその瞳から溢れる涙は止まることがなかったけれど。


「セイ。君はきっと知らないよ……

君にそう呼ばれるたび、私はすごく幸せで。

君が何気無く私に触れるたび、私は独りじゃないんだって嬉しくて。

君の瞳に映るたび、私はまだこの世界を壊さずにいたいと思えて。

――君という存在が、どんなに私にとって大きいか、きっと、君は知らないんだ」


その言葉に、堪らなくなる。

貴女だってきっと知らないよ。

俺がどれだけ貴女に救われているか。

俺がどれだけ―――貴女からたくさんの幸福を与えられているか。


貴女の声が届くたび喜びが胸に溢れて。

貴女の笑顔を見るたび鼓動が跳ねて。

貴女に触れるたび、もっともっとその先を求めたくなる。


俺達は同じ、あちらの記憶を持つ者で、他より飛び抜けた力を持つ者で。

だから互いが特別で、この世界で唯一とも言える理解者で。

知ってた。知っていた、つもりだったんだ。

でも俺は全然気づいてなかった。

貴女の哀しみにも苦しみにも、そして俺自身の感情にさえ。


「―――ごめんね。私は君を楔にしてる。

私がこの世界で生きるための、この世界を壊さないための楔に。

そうやって君を利用して、でも世界への憎しみを忘れないように、同時にいつか君を喪っても耐えられるように、そのためにずっと傍にいることはしないで。

結局私はどこまでも身勝手で、自分のことしか考えていないんだ」


ごめんね。

そう、彼女はいっそ消えてしまいそうな声でもう一度俺に告げた。


「でも、お願いだから、独りにしないで…」


「………!」


乞われる言葉が堪らなくて、初めて明確に望まれたそれが痛くて、俺は泣き崩れる彼女を抱き締めた。


「前に、望まれたことがあった。

独りにしないで欲しいって。ずっと自分を見ていて、最期を見送って欲しいって。

その時私はそれになんでもないように頷いたんだ。

そうしたらその人は泣いて、ごめんって、私に言った。

その気持ちは私、痛い程分かって、でも同じくらい分からなかった。

だってその時は自分がこんなことを望むような相手が現れるなんて、ちっとも思ってなかったから」


「月さん、俺は……」


続く俺の言葉を聞くことを拒むように彼女はまたすぐに口を開く。


「ねぇ、少しでいいんだ。

君が死んでしまうまでの欠片ほどの時間でいいから、私にちょうだい。

君が死んで独りになって、それでも永く続く日々を生きていけるだけの思い出が欲しい。

それがあればきっと、平気だと思うんだ。

だから、私もその人みたいに、望みたい。

お願い……ほんの少しだけ、私をその瞳に映していて…」


「っ、」


もう、駄目だった。

月さんは馬鹿だ。だってそんな、答えを怖がるみたいに。

俺はそんなに貴女の信頼に足りないの?

俺が貴方の言葉に否を返すって、そんなの本気で思ってるなら許さないよ。


自覚したばかりの想い。

それが勝手に身体を動かして、僅かな共に過ごす時間を望む彼女を抱き締める腕の力がゆるまる。

――泣く貴女は綺麗だ。

でも自分をそんな風に言う貴女の言葉は聞きたくない。

そして俺にそんなことしか望まない貴女は酷い。


その頤に手をかけ、躊躇なしに唇と唇を合わせる。


もっと貪欲に俺に望んで。俺を求めてよ。

俺で貴女の楔になれるなら、喜んで貴女を繋ぎ止める。


――――貴女が、好きだ。


「…………え?」


何が起きたか分からない。

そんな顔をする月さんは、驚きで涙も止まった。

自分を傷つける言葉ばかりを溢すのもおさまったけど、少し残念。

だって、泣く彼女は本当に綺麗だったから。

白い頬を伝う透明な雫も、震える桜色の唇も。

少し乱れた長い黒髪も、縋る細い指も。

その全てがきっと俺にしか晒されることのない特別なもので、だから。


「泣いて」


でも自分を傷つけないで。

俺の愛しい人を傷つけるのが例え月さん自身でも、俺は許せない。


「いいよ、もっと泣いて。俺の前でだけ。

そうしたら俺は貴女を抱きしめてあげる。一緒に泣いてあげる。

俺は貴女のことを怖がらないし、軽蔑しない。忌み嫌ったりなんてしないから。

弱くて狂った貴女でいいから、俺の前でだけ泣いてよ」


「なんで……」


「キスしたこと?

俺は、貴女をそういう風にずっと見てたよ。

それにこれからもずっと見続けるよ。

だから約束してよ。俺以外の前で泣かないで。

俺も月さんの前でしか、泣かない」


きっとずっと前から俺は、貴女が好きだった。

それをようやく自覚したのがこんなギリギリのタイミングなんて情けないけど。

でも自覚したから、もう間違えない。

貴女の哀しみを見逃さない。

だから、そんな望みを口にしないで。


「よ、く……わからない…だって、何で、君は…」


「少しの間なんて言わないで。

俺はずっと月さんを見てるよ。

貴女が喪ったもの全ての代わりになんてなれないし、なろうとも思わない。

でも、俺は貴女の事、ずっと見てる」


目の前の貴女は瞬きを二つ。

俺の言った言葉の意味をようやく理解して再びほろほろと涙を流す。

やっぱり、綺麗だよ。


「………君は、時々どうしようもなく、馬鹿だ…」


「あはは、酷いな、それ」


でもそれは俺の言葉をきちんと受け取ってくれたってことで。

俺の言葉がきちんと月さんの心に届いたということだ。


「…ねぇ月さん。俺はまだ、色んなことに対して答えを出してない」


これからセイルートとしてどう生きていくか、孤独に震える貴女とどう過ごしていくか。

俺が死んだ後の貴女の為に、俺は何ができるのか。

俺が決めなければいけないことはたくさんある。

今までたくさん知らないふりをしてきたし、何にも気づかないでいたんだから当然と言えば当然だ。

でもそれらは今すぐ回答を求められているものじゃなくて、俺がゆっくりじっくり時間をかけて決めなきゃいけないもので。


「だから、さ。俺が決めるまで待ってて。

きっちり自分が納得できる答えを出して、いつか貴女に言うから。

そして答えを出すまで――ううん、出してからも、俺のところに来てよ。

でも、ただ何があっても変わらないことは、俺がずっと貴女の味方だってことだ。

それだけは絶対に忘れないで、少しだけ待ってて」


貴女が好きだ。貴女が愛おしい。

でもこの言葉は、まだ何も決められない俺が伝えられるものじゃないと思う。

だから全部決めたその時に言うから。

それまでも、それからも俺の傍にいてよ。

俺に笑いかけて、触れて、俺の姿を目に映していて。


「……私は、臆病者だ。

だから今までみたいに、きっと数ヶ月に一度しか、君を訪ねない…」


「そんなの今まで通りのことじゃん。

俺は貴女と一緒にいたいけど、それで貴女の身を縛る気はないよ。

月さんが俺の出す答えを待っててくれるように、俺も月さんのことを待ってる。

ただひとつだけ、絶対に俺のところに来てくれる、そんな約束が欲しいんだ。

それがあるなら俺は例え何年だって月さんのことを待てるから」


とびきりの笑顔で告げた言葉に返ってきたのは、これ以上ない程の泣き顔だった。


「…………セイの、馬鹿……」


それは俺と約束してくれたって、そうとるよ。

自分よりも小さな体に縋って涙する貴女は、今まで知らなかったけれどとても脆くて弱い人だ。

でもそんな貴女を俺は支えたいと願うし、そんな貴女にこそ時には寄りかかりたいと思う。

それに、ねぇ、俺さ、貴女の話を聞いて思ったことがあるんだ。


「月さん、あのさ」


「……?」


「俺があっちの世界で死んで、そのまま記憶を持ってこっちに生まれて。

知らない間にチートまでもらって転生したの、なんでだと思う?」


問いかけると彼女は顔を上げ、ふるりと首を振る。

赤く染まった眦が少し痛々しくて、でもそれさえ愛おしい。


「そんなの、わかるはずが…」


「そうだよね。俺も分かんなかった。

それに少なくともそのせいで辛い思いもしてるし、あんまり嬉しくないことだったけど」


でもそれは過去形なんだ。だって。


「貴女のために、俺って転生したのかも。

俺が記憶を持ってるのは貴女と悲しみを分かち合うためで、俺が強い力を持っているのは貴女に守られるだけの男にならないためで。

そう思ったら、なんか、チートもいいもんかもって思ったよ」


「…………っ、ばか…」


「さっきからそればっかり」


可愛くて弱くて綺麗で愛しい貴女。

でもその言葉はいただけない。どうせならありがとうって言って。

もしくはそんなの当然だ、とかさ。それくらいの自信は持ってよ。

俺、自覚してない間も月さんのことはかなり特別に扱ってたでしょ?


「月さん」


「……!」


呼びかけてこちらを向いた彼女にもう一度キスを贈る。

だって俺も、身体は子供だったとして心は立派な大人の男。

好きな人が自分に縋り付いて泣いて、それで何もしないでいられる程紳士じゃない。

想いを明確に言葉に出来るのはまだ先だけど、それでも伝わったよね?


「俺は貴女とこうしたいって思うんだけど……月さんは、どう?」


唇を離してそう問えば、やっぱり戸惑ったような顔。


「誤解しないで欲しいから言うけど、冗談でも何でもないし遊びでもないよ。

俺は真面目に、誠司としてセイルートとして、貴女を………特別に思ってる。

傷の舐め合いなんかじゃなくて、純粋な感情として、貴女に触れたいと思うんだ。

………でもこれは俺の感情だから、貴女の返事が否ならもうしない。

月さんは、俺にこうされて、嫌かな……?」


お願いだから、嫌って言わないで。


ねぇ、俺の心臓の音、今すごい。

すぐ傍にいる貴女に、これが伝わらないことを願う。

情けないね。俺、あっちの世界でもそれなりに彼女もいたし告白だってしたりされたりしてたのに。

それもこれも全部、貴女だからだ。


「……嫌って言っても、今までのままでいてくれる?」


「………そ、れは、嫌だったって、こと?

あ、いや……うん、それ、は、勿論…ごめん、そっか」


「っ……ごめん、違う…私の、……違うんだ、セイ」


絶望しかけた俺の心は続く彼女の言葉で少し浮上する。

それでも最初のダメージは大きくて、疑うように見てしまうのはどうしようもない。

月さんは視線を落として俺と目を合わせることなく、ただ繋ぐ手の力を強くした。


「悪い癖だね。私はこうして逃げる事が当たり前になってしまった。

――嫌じゃなかった。全然、嫌なんかじゃ無かったよ。

でも、やっぱり少し怖くて。君との関係が変わって、平気なのかなって、疑ってしまったんだ。

君の事、私だってずっと前から特別で。

でも今までだって私、君を喪うことが不安だったのに、こういう事すると、もっと怖くなる」


「………」


「だけど、それ以上にセイにそんな顔させるのは嫌だ」


俺、どれだけ情けない顔してたのかな。

慌てて顔をどうにかしようとして、それを留めるように繋がれていない彼女の反対の手が頬に触れる。


「君を傷つけたくない。君と笑い合いたい。君と触れ合いたい。

そう思うのは私の中の数少ない真実で、だから、嫌じゃない。

……君と、そうしたいと思う。傷つけて、ごめんね」


「……いいの?だって、最後に苦しくなるのはどうしたって月さんの方だ」


やっぱり自分の気持ちに精一杯だった俺は気づいてなかったけど、考えてみれば彼女の恐れは当然のものなんだ。

どうしたって先に死ぬのは俺の方で、後に遺されるのは月さんの方で。

あたたかな思い出があればあるほど、孤独な寒さが彼女を襲うのに。

でもそう問うと同時に喜びが心を支配して、俺はきっと最低だ。


そんな俺に月さんは微笑んだ。

涙はもう流れていなくて、それはさっきみたいな驚きによるものじゃなくて、彼女の心がもう泣く必要がないくらい穏やかなものになったからで、そしてそれは、俺という存在によって為されたことだと、自惚れてもいい?


「それ以上の幸福を、君はくれるだろう?」


「………俺よりずっと、貴女の方が馬鹿だよ。

それに優しすぎる……そうやって優しくするのも、俺だけにして欲しいくらいに」


「そんなことは無い」


「ある。――ねぇ、月さん。キス、してもいい?」


「………うん」


問いかけに月さんは頷いてくれた。

不意打ちではない、互いにそうするものと分かっての行為。

それがこんなに緊張するなんて、初めてだ。

段々近づく彼女の表情も少しだけ緊張に強張って、瞳は不安そうに伏せられている。


―――堪らなくなって、結局唇ではなく額を合わせた俺に、彼女は当惑したように目蓋を上げた。


「気づいてないでしょ?」


「……なに、に?」


「震えてる」


「………」


小刻みに震える華奢な体。

指摘すれば彼女は動揺に瞳を揺らした。


「やっぱり、怖いよね……」


「………ごめん。でも、セイが嫌なんじゃなくて。

……これはセイもだろうけど、私は大切な人をあちらに遺してきたから、またこうしてそんな存在をつくることが恐ろしいんだ。

それに私は化け物で、他人の犠牲の上に生きているような存在だから……本当にこんな風に、幸せを感じるような価値があるのかなって、不安でもあって」


そんなこと、思う必要なんてないのに。

特に最初はともかく、最後なんて絶対。

月さんは幸せになるべきだし、出来るなら俺がそうさせたい。

でも貴女は俺が否と言ってもきっと聞かないんだろう。


「俺は、月さんが怖がりでも臆病でも、化け物でもなんでもいいよ」


だから俺は、貴女の全てを受容する。


「どんな存在だっていい。ただ、月さんなら。

だから、そんな事俺に対しては気にしないでいいんだ。

でも弱音を吐いてくれるのは嬉しいから、ちゃんと思ってることは言葉にして。

それ全部、俺が何とかしてあげるから」


「……人じゃないのに?」


「うん」


「他人の命で生きてるのに?」


「だからどうしたの?」


「化け物なのに?」


「俺だってそうだよ」


「私、一番大切な人をあちらの世界に遺してきてしまったんだよ?」


「さっき話を聞いたばっかりなんだから、覚えてるに決まってるでしょ。

彼のことなら俺も納得してるからいいの。

まあ少しは嫉妬するかもだけど、それだって俺から貴女に向かう気持ちの表れで、全然嫌なものじゃない」


「……馬鹿」


「もう今日のうちに何度も言われたから知ってる。

それに月さんがそんな馬鹿な男の事、特別に思ってるってことも」


吐息がかかる程の距離での問答。

その結果に月さんは諦めたように、あるいは安心したように目を閉じた。

こんな問い、簡単だよ。

こんなもので貴女が安心できるなら、俺は何度だって付き合う。

これで俺を受け入れてくれるなら、俺は喜んで答えるよ。


額をそっと離し顔を傾け、離れてしまった距離を埋める。

触れた唇はしっとりと濡れて、やわらかかった。

唇同士が重なった瞬間やっぱり僅かに彼女は震えたけれど、それもほんの少しでおさまって今は俺に身体を預けてくれている。

何度も何度も、啄むように触れ合わせ。

結局我慢が利かなくなって、閉じられた唇のその奥へと舌を這わせた。


「……っん、」


ぴくりと跳ねる身体、漏れる声と吐息。

それは涙と同様、俺にしかもたらされることのないもの。

それがとても嬉しくて、俺は少し泣きそうになった。

月さんが泣き始めてからはピタリと止まっていた筈なんだけど、な。


「ね、月さん」


息継ぎの合間にもう一度名前を呼ぶ。

触れるか触れないかの位置で留まった俺に、彼女はゆるく首を傾げた。


「……?」


どうしても、狡いって分かってるけど、言いたい。

貴女は俺を楔だと言うけれど、どうにも貴女を繋ぐにはそれだけじゃ弱い気がして。


「“月が綺麗ですね”」


「――――!」


大きく見開かれた瞳。

それは少しだけ潤んで、けれど涙は零れることなくふんわりと微笑みが広がる。

貴女の泣き顔が好きだと思う。

でもそれと同じくらい、そうやって本当に笑っている貴女が好きだ。

――ねぇ、早く返事をちょうだい。答えないなら続けちゃうよ?


「……私、“もう死んでもいいわ”」


貴女を繋ぐ。俺に、生に、この世界に。

それはとても残酷な事で、けれど貴女が望むことで。

そして結局俺だって後の後悔や苦悩が分かっていても望んで、叶えてしまうくらい甘く苦い幸福だ。

だから、もういいんだ。

貴女は諾を返してくれた。

それだけで俺は後にくる全てをのみこんで、それでも貴女の楔で在り続けることが出来るよ。








触れる唇もどうにか離し、手を握りしめたまま互いを見つめる視線から先に目をそらしたのは月さんの方だった。

瞳を伏せて所在なさげに俺のまだ小さな手をいじくる彼女は、もしかして照れてるのかな。

そしてそのまま、少し腫れてしまった唇からぽつりと言葉が漏れる。


「……結局、君には情けないところを見られてしまった。

その、泣いたりして、ごめん……」


「何言ってるの。俺の話聞いてた?

俺の前でだけ泣いてって、言ったよね?」


他のやつの前でこんな綺麗な貴女を見せるなんて駄目。

いくら俺が温厚だからって流石に怒るよ。


「俺は泣いてる月さん、好きだよ。

女の子だなって思うし、抱きしめたいなって思うし、キスしたいなって思うし」


「そ、それが、恥ずかしいって話じゃないか…!」


「あ、やっぱり照れてるんだ?可愛いね、月さん?」


小首を傾げてそう言い放った俺に対し、彼女は不満そうにそっぽを向いた。

でもそれも照れ隠しなんでしょ?

普段は同じくらい恥ずかしい事を素で俺に言うくせに、こういうのは駄目なんだね。

なんだか新発見したみたいですごく嬉しい。

もしかしたら朝のも照れていたのかな。


「大体、君の体は、十歳だから…」


やっぱり俺を見ないまま、月さんは対抗するように呟いた。


「……何だか、おかしな罪悪感がある」


その口調が心底そう思っているものと伝わってきて、俺はつい笑う。


「そうかもね」


でも、子ども扱いしないでよ。

分かったんだ。月さんに子ども扱いされるのが妙に嫌なのって、自覚してなくても貴女が好きだったから。

俺は好きな人に可愛いって言われて喜ぶような男じゃない。

確かに体は――いいや、体だけじゃなく俺の場合心もまだまだ幼いと言えるんだろう。


でもすぐに貴女のところに追いつくよ。

今日から俺は、貴女に相応しいように努力する。

そう在るために生きる。

未だ答えの出せない問いにいつか答えて、それで貴女にきっと伝えるから。


「でもじゃあ、それを忘れちゃうくらい、たくさんキスしてあげる」


だから、もう子ども扱いなんてさせないから。

こちらを見ない貴女に手を伸ばして、俺は嫣然と笑んで見せた。





「君は、私を弱くする。

だから、なんだか……困るよ…」


「何で?それでいいじゃん。

他の人間の前ではそんなことなくて、ただ俺だけが貴女を弱くするんでしょ?

それって俺が貴女にとって特別だって、堂々と言ってるようなものだよ?」



またしばしの別れを告げる朝の問答。

……本当に、君は、意地が悪い。

昨日からそうだ。そうして徒に私を揺らがせる。

今までの君は今にも壊れそうな繊細な硝子細工のようだったのに、どうして?


――答えなんて分かってる。

きっと自覚したからなんだろう。

月が綺麗ですね、なんて、なんてキザなんだか。

でもあれが今の彼に出来る精一杯だったんだろう。

だから私もああ言った。

今の彼がくれるものと等しくなるような答えを。


でも明確な言葉としてもたらされたものと、こうして行動によってもたらされるものの落差が大きすぎて、私は戸惑ってしまう。

だから、本当に困るんだ。



「……それじゃあ、時間も不味いしもう行くよ。じゃあね、セイ」



逃げて誤魔化すのは悪い癖だって分かってるけど、慣れるまではもう少し勘弁してほしい。

きっとこの思いはセイも察してくれるだろう。

―――そう、思っていたのに。



「あ、月さん」


「え?」



振り向いた瞬間、勢いよく下方へと手を引かれ。

これが敵なら色々と違ったんだ。もしくはこの世界の他の人間なら。

きちんと対応できた。

瞬時に手をすり抜けて転移することも、逆に相手を伏すことだって。

でも、セイだったから。

どうすることも出来ずにただ加えられる力に従って、少しかがむことになった私の唇にやわらかい感触。

それが何かなんて、見なくてもわかる。



「いってらっしゃい、月さん」



唇を離して10歳にあるまじき表情で笑んだ彼に、私は何が言えただろう。



「ば、馬鹿じゃないか……!?」



そう捨て台詞じみた言葉を吐いて、逃げるように転移するしかなかったに決まってる。



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