5-10*
8 years ago
Side:Seilute
あれから何日が過ぎたのか分からない。
まだ数日しか経過していないのか、それとももう何十日もたってしまっているのか、それすらもあやふやで。
ただ彼女の存在と別れ際の言葉だけを頼りに、俺は日々を生きていた。
そんな俺を周囲は気遣って、まるで腫れ物のように扱ったけどそれすら大して何も感じない。
喜びも煩わしさも、全く。
ただよく化け物相手に気を遣えるなと、少し感心したような気はするが。
そして今日という日もやっぱり周りは俺の様子を不安がって、お目付け役としてジークと侍従長の二人を傍につけた。
「セイル様、本でも読みませんか?
以前言っていたものが届いていますよ」
「うん、そうだね」
「……いえ、やっぱり少し早いですがお茶の時間にしましょう!
本日のデザートはセイル様のお好きなものを取り揃えてあります」
「そっか」
「…………」
目の前に差し出されたものをただ受けとる。
そんな生活は案外楽なものだった。
周りはそれに対して、今のジークのように戸惑いを露にしていたけれど。
「………セイル様、何があったんですか?」
そして押し黙っていたジークは、意を決したように強い瞳でこちらを見据え、俺にそう問いかけた。
背後に控える侍従長は黙ってそれを見守っているけど、その体が緊張を帯びたことがわかる。
ジークは何があったのか、俺が何をしたのかを知らない。
あの事を知っているのはあの時あの場にいてあの惨状を目の当たりにした人間だけだ。
全ては暗黙の了解の下に伏せられ、ただ周囲へはひとつの村が魔物によって滅んだことだけが伝えられた。
――まったく馬鹿みたいだ。
結果的に村を滅ぼしたのは俺なのに。
でもそんなことをジークにわざわざ伝える気も起きず、俺はただにっこりと笑った。
「別に、なにも?」
そう、何もなかった。ただ分かってしまっただけ。
俺がどんなに弱かったのか、俺の持った能力の異常さ、俺の心が、脳が俺自身を騙すために吐き続けてきた嘘の真実。
それらに気づいてしまった、ただそれだけのことだ。
俺の表情を見てぐっと押し黙ったジークは再び口を開こうとして、それを父親である侍従長に止められる。
横目でそれらの事を観察しながら、俺は座っていた椅子から立ち上がって窓際に立った。
ここからは外がよく見える。そしてそれは逆も同じだ。
「セイル様」
じっと窓の外を見つめたままの俺の背に、侍従長は努めて普段と変わらない穏やかな声音で話しかけてくる。
「何?」
「少し休まれませんか?使用人に準備させてございます」
「じゃあそうするよ」
また昼寝か。
あれから周囲は俺によく休養を勧めてきて、だから今では昼寝が俺の生活リズムの中に組み込まれてしまっている。
ただまたかと思いはしてもそれに抗う気力も起きずに、俺は頷くのだけど。
「では、セイル様……」
「うん」
促されても動くことなくその場に居続けた俺のもとに、遠くから銀に輝く物体。
やっと来たんだ。さっきから狙いやすいように窓際に立ってあげてたのに、なかなか仕掛けてこないから流石に立ち去ろうかと思ってた。
ガシャン、という耳障りな音と共に割れる窓ガラス。
それを為した銀の刃は真っ直ぐに俺の左胸へと向かって伸びる。
けれど降り注ぐ硝子の破片も、明確な殺意をもって迫る刃も、俺の身体を一切傷つけることなく弾かれてしまう。
俺を囲う薄い黒紫の守りの壁と、感じる微かな彼女の気配。
「………っ、セイル様!」
一拍遅れて侍従長が俺を窓辺から引き離したことで、それはすぐに掻き消えてしまったけど。
名残惜しげに目を細めてそれらがあった場所を見つめていれば、ジークが俺の視線を遮るように正面に立った。
「セイル様、また……一体何を考えているんですか!?」
「別に、なにも?」
俺がああして自ら抵抗せずに命を狙われにいくことは、最近では珍しいことでも何でもない。
だってああしていれば彼女の存在を感じとることができるんだって気づいたから。
あの時彼女は新しい術を俺の体にかけていったらしく、それは毒や魔術だけでなく物理的な力にも反応し全てから俺を守った。
それが嬉しいような悲しいような、そんな複雑な感情を持ったことは内緒。
ただそんな行動の理由を誰かに言うつもりは更々なかった。
だからヘラリと笑ってみせたけど、ジークは悔しそうな悲しそうな怒ったような、よく分からない顔をする。
「セイル様………!!」
「感心しないな、自分からああして刃の前に立つなんて」
でも様々な感情がない交ぜになったジークの声より、それに続いたやわらかな音の方が余程俺の心を捉えた。
すぐに振り返りたくて、あぁでも、空耳だったらどうしよう。
ついに限界を迎えて、俺が壊れてるだけだったらどうしよう。
「その理由は少し嬉しかったりするけれど、それがまた私にとっては複雑だ。
ねぇ誠、あまり悲しいことをされると私、泣いてしまうよ?」
「………っ、」
でもそれでもいいのかもしれない。
壊れていたとして、それで貴女に会えるなら。
「月さん……!」
振り返った先にいた彼女は少し悲しそうに微笑んで立っている。
確かに彼女は、ここに、俺の傍に存在している。
それがおかしくなるくらい嬉しくて、俺の目から何故か涙が次々と零れ落ちた。
「ごめんね、遅くなった」
俺の目の前にしゃがみこみそう囁く月さんに縋りつく。
勢いよく首を振った。いいんだ。
ただ貴女が今こうして、俺の傍にいてくれるなら、いいんだ。
それを伝えたくて、でもそんな言葉も紡げないほど体は涙を流し続けて。
あの時と同じ様に安堵の息を吐いた月さんは俺を抱き上げた。
「私とセイはしばらく寝室にでも籠るよ。
庭にさっきの暗殺者を転がしておいたから、そっちで回収しておいてくれるかい?」
「畏まりました。
宵闇の御方、セイル様をよろしくお願いいたします」
「君達にそう言われる筋合いはないな。
全部セイのためで、同時に私のためにしていることだ」
与えられる言葉に安堵する。
――俺だってそうだよ。でも、今はただ甘えさせて。
溢れる感情も上手くおさえられない、こんな俺だけど。今だけは、ただ。
転移の瞬間、普段と違って文句の一つも発する様子もないジークに心の隅で首を傾げたけれど、すぐにそんな思考も消えて俺はただ月さんだけを感じ続けた。
先程までの部屋とは違い、シンと静まり返り他の気配が感じられない室内で、月さんは俺を寝台の上に下ろし目を細めた。
自らもその端に腰掛け俺の靴を脱がし自分も同じ様にする。
俺はそれらの行動を相変わらず馬鹿みたいに涙を流しながら窺っていた。
「さて、話の準備も整ったかな」
まるで遊ぶように俺の手をゆるく握った彼女は、そう言って苦く笑った。
「……ねぇ誠、君は気づいてしまったんだね。
私がずっと君を騙し続けてきたこと」
その断定に首を振る。確かに俺は気づいた。でも。
「違うよ…月さんは騙したんじゃない。
黙ってたんでしょ?俺のために」
ずっと思い出さないようにしていて、けれど眠るたびに夢に見る光景を敢えて脳裏に浮かべ目を閉じる。
今でも血と肉の赤さが傍にあるようで、繋がれた手をギュッと握り締めた。
「あの時、俺は初めて何かの命を奪った」
俺の言葉に何の反論もすることなく、ただ黙って耳を傾ける彼女の気配。
それだけでなんだか救われるって、きっと誰に言っても分からないだろう。
「本当に初めてだった。
俺にはあっちの世界での記憶もあって、こっちで生きてきた十年間もあって。
でもあんな風に明確に、自分が何かを殺したんだって確信するような経験はしたことがなかった」
例えば俺が食べるものは全てそのために殺されているけれど、直接それをしたのは俺じゃない。
例えば知らない間に虫を踏み潰していたとして、ここまで強い命を奪う感覚は得られない。
「硬い刃が肉を断って、手が生温く濡れて。
全部が、すごくリアルだった」
「……そこで君は気づいてしまった。この世界が、現実だって」
―――嗚呼、やっぱり貴女は俺以上に俺を知っている。
「そう。そうだ。……そうだよ。
俺はずっとこの世界での出来事を、まるでゲームか何かのように捉えてた。
傷つけば痛みがある。
周囲の人間にそれぞれ感情があって俺につながる関係性がある。
でも、その全てを理解していても、俺は、世界を幻想か何かのように思ってた」
化け物と思われて悲しかった。
でもそれでも絶望することなく生きていけた。
それはこの世界を現実だと捉えていなかったから。
虚構に何を言われたとして、結局のところ平気だと心の隅で思っていたからだ。
でも違った。ここは夢でもゲームでも何でもなくて、全てが正しく生きている現実の物質で構成されていて、けど、だったら。
「ここは現実だ。痛くて悲しくて辛い現実。
俺があの世界で死んじゃったのも、二度とあの世界の大切な人たちに会えないのも、もうあの時に戻れないのも、ここで生きていかなきゃならないのも、ここに俺の居場所があることも、ここに俺の新しい家族がいることも、俺が人殺しをしたことも、みんなみんな、全部現実なんだ……!!」
それを、どうしたら俺は、耐えられるかな?
ねぇ、教えてよ。貴女にこうして縋ることは、同時にずっと昔に同じ思いを味わった貴女の苦しみを呼び起こすことだったとしても、でも、このままじゃ耐えきれないから。
貴女の傍にあり続けるために、どうか。
「君が、ずっと気づかないままなら良かったのに」
泣きながら見上げる俺に月さんはそう呟いて、ゆるくこの小さな身体を抱き寄せた。
この世界は現実だ。
辛くて痛くて、喪ったものをまざまざと感じさせる。
でもこの温もりも同じ様に現実で、それだけは本当に良かったと心から思えた。
「君の精神は現実に耐えられなかった。
だから自分で自分を誤魔化して、この世界の事象をどこか他人事のように捉えて、自分は特別な力を持っているからなんでも平気なんだって、ずっとずっと君は君自身のために嘘を吐いていたね」
その通りだった。
でも現実を知った今では分かる。
俺は、本当は。
こんな異常な力なんか一欠片だっていらなくて、転生なんてしたくなくて、すぐにでも全部捨ててしまいたかったんだ。
「強すぎる、人間には過ぎた力は同じくらい人間じゃないことの証でもあって、同時にあちらの世界とどこまでも引き離されてしまった証明でもある。
褪せないあの世界の記憶とこちらの世界との落差はきっといつだって君の精神を蝕んだ」
自分にあり得ない力を感じるたびに俺はもうあの世界の草薙誠司じゃないんだって、悲しかった。
全てがあちらと違いすぎるこの世界での日常が、日々が、人生が、俺はもう死んでいて、あっちにはどうやったって戻れないんだって辛かった。
「だから私は君の嘘にのった。
本当は会ってすぐに気づいていたよ。
君が嘘をついていること。
酷く壊れかけてしまっていること」
君が、なんにも気づかなければよかった。
月さんはもう一度そう呟いて、俺の肩口に顔を埋めた。
黒髪が肌を滑り布地を滑り、光沢を放ってシーツに広がる。
それが酷く幻想的で、やっぱりこの世界は夢なんじゃないかと性懲りもなく俺の精神はぐらぐらと揺らいだ。
「君は酷く繊細で、だから私は君に何をすることも出来なかった。
私の些細な言葉が、行動が、思想が。
それら全てが君を簡単に壊すかもしれない。
そう思えばどうすることが正解なのかもわからなくなって、でもその私の迷いやどちらともつかない態度が今回の件を呼び込んでしまったね」
「そんな……貴女のせいじゃ……」
月さんは俺を見ないまま首を振った。
「確かに全てが私のせいというわけではない。
けれど半分は間違いなく私のせいだよ。
君の嘘にのると決めたのなら、私は君を真綿で包むようにして全てから守って、そして君が死ぬまで真実に気づかないままにしなければいけなかった。
反対に君に真実を告げるのなら、あんな風ではなくてもっと少しずつ、君が壊れないギリギリをきちんと推し量って私がそれを教えるべきだった。
無為に全てを恐れて、決断を先伸ばしにしたのは私だ」
「違う。違うよ…先伸ばしにしてきたのは俺だ」
些細な事に感じる違和感。
周囲の人間の言葉や行動で胸のうちに沸き起こる不思議な感覚。
月さんの視線に覚えた後ろめたさ。
それら全てが真実への足掛かりで、本当はもう自分に嘘を吐き続けることに限界を感じていたことを示していた。
それでも目を背けて、知らないふりを自分にも彼女にも求めたのは俺自身だ。
「俺はほんとに、馬鹿みたいに弱かった。
自分は選ばれていて強くて賢くて、そんな存在だから突然置かれたこの頭がおかしくなりそうな状況にも耐えられるんだって思わないととっくに全てを捨てて自殺してたか、この世界の人間を皆殺しにしてた。
本当はちゃんと全部受け止めていかないといけなかったのに」
大好きだった俺を選んでくれた神サマ。
本当は大嫌いで大嫌いで、憎くて仕方なかった。
どうして俺だったのか、どうして記憶を、力を持たせたのか。
問いかけたって答えなんて返ってくるはずもなく、だから俺は知らないふりをした。
「君は、弱くなんかないよ。君はとても強い。
そんな風に思いながら今もこうしてここで息をしている。熱を放っている。
それがどれだけ苦しいか、私は知っているつもりだ」
ごめんね。
耳元で囁かれる声は、とてもか細かった。
「私は君から救いを奪った。
唯一この永遠に続くんじゃないかと思えるような悲しみから逃れられる方法。
死という手段を、君から無理矢理奪い去った」
きっと去り際にかけたであろう魔術のことを言っているんだろう。でも、そんなの。
「いいよ。俺は、今こうやって月さんに触れて、よかったって思ってるから」
それにね、もうひとつだけ、分かったことがある。
「――ねぇ、俺も貴女と同じ、化け物になったね」
抱擁が強まった。
ギリッと強く彼女の唇が噛み締められて、それが痛くて指で触れる。
気づいてゆるんだそこをなぞるようにすれば美しい弧が描かれた。
「………そうだね。君も私と同じ、化け物だ」
化け物の定義。
彼女の言うそれは、異常な力を持っていることだとずっと思っていた。
でもそれだけじゃないって、俺はもう知っている。
「君がなんにも気づかなければよかった」
顔を上げて俺をじっと深い紫の瞳で見つめ、彼女は三度目の言葉を紡ぐ。
美しい笑み。妖艶な唇。狂気で煌めく瞳。
それは僅かに罪悪感に翳っていたけれど、それでも。確かな悦びを示していて。
「でも、同じくらい……君が気づいて、私と同じところに堕ちるのが、嬉しかった………」
化け物とは、人に過ぎた力を持っていること。
そして、人を殺しても何の感情も抱かないこと。
「俺も貴女も、馬鹿な化け物だね……」
人を殺したことに快感を覚えた訳じゃない。
肉を斬る感触は決していいものじゃなかったし、生温く俺を濡らした血は気味が悪かった。
でもそれは、この世界が現実なんだって気づかされるから。
自分と同じくらいの年の子供を斬ったときも、自分の親くらいの男女を刺したときも、赤ん坊や老人を殺したときも、あぁ、俺は人を殺したんだって罪悪感を覚えた。
でもそれはこんな俺はもうあっちの世界には二度と戻れないんだなって、もっと強く思ったから。
こちらの家族や親しい人を傷つけたとして心は多少痛むかもしれないけど、それだってここまでの絶望じゃない。
大切なあの場所、思い出のあたたかい場所。
あそこから引き離された絶望が大きすぎて、それ以上なんてきっとない。
もしかしたら五年前のあの時、月さんがいてくれさえすればいいんだと思わなければここまでではなかったかもしれない。
こちらの世界の家族の事を、もう少しくらいは大切に思えたかもしれないね。
でも、もう遅いんだ。俺の中にいるのは月さんだけ。
大切に大切に心の奥底に仕舞い込んだあの世界の思い出と共に微笑む貴女だけだから。
憎い。この世界が憎くて堪らない。
俺を大切な場所から引き離した。
新たに得たものもあったのかもしれない。
けれどそれでも覆すことの出来ない喪失感が俺を襲うから。
その穴を埋めるのは、憎しみでしかあり得ない。
俺はもうこの世界で誠司のようには生きられない。
誠司だったことを記憶して抱き締めて、世界と神への怒りや憎しみを抱えたままセイルートとして生きていく。
人間であることを装って、化け物の思考を隠して笑って。
今までずっと、月さんがしてきたように。
「でも、君は優しい化け物だ。あの村のことを悔いている。
例えそれがどこから起因する感情だとしても、それでも私は君を優しいと思うよ。
そして唯一と思えなかったとして、自らに関わる物事を大切に思うことも」
「………お見通しだね、月さん」
何だって貴女には知られてしまう。
知らないでいて欲しかった。
もしくは知らないふりをしていてくれれば。
「また君を壊しかけるなら、他の誰でもない私の手で。
化け物としてそう思うのは当然のことだ。
……もう、知らないふりはやめるよ」
そう言って彼女は苦く笑った。
確かにそう思う気持ちは痛いほど分かる。
自分と同じ境遇の相手をこの世界に殺されることは、また奪われるということだから。
でも貴女にそんなことはさせないよ。
「怖いの?化け物仲間がいなくなること」
「……堪らなく恐ろしいよ。
全てを呑み込んで受け入れた君は、もう並大抵の事では壊れないと知っているけれど」
そう、俺はもう壊れない。
この絶望に耐えられたなら、他のどんなことだって褪せて見えて傷ついたりなんかしないんだろう。
何だってわかっている月さん。
きっと俺がセイルートとして生きていくことだって、彼女は正しくその過程すら含めて悟ったんだろう。
当然だ。だって恐らくこれら全ては、彼女が同じ様に歩いてきた道筋だから。
出来事や時間が違っても、きっとこうして彼女は月でありルナになった。
「私はこの世界の全てを、一ミリだって大切になんか思えない。
私から大切なものを奪った世界。
私に絶望と憎しみと哀しみと狂気を植え付けた世界。
――でも、困ったことに君だけは違う」
やわく力を込められて、体が寝台に沈む。
仰向けに横たわった俺に覆い被さり、月さんは笑んだ。
ツゥと指先は子供特有の細い首筋を辿り、正確に心臓の上で止まる。
「君を殺したなら、きっと私は身も心も化け物になるんだろう。
――私は、限りなく人に近い存在だけど、でも化け物だ。
君を殺して、きっとそれから完全に人でない何かにだってなれる」
「俺を殺すの?」
「どうだろうね?」
きっと彼女がやろうと思えば、一瞬で俺の命は燃え尽きるだろう。
今も指先は心の臓を指したまま。
馬鹿な月さん。
おさまりかけていた涙がまた視界を歪ませて、溢れたそれらは眦を伝いシーツにシミを作った。
「……なかないで」
俺の言葉に月さんは一度瞬いて、困ったように笑った。
眉が寄せられ、チラリと瞳に悲哀が覗く。
でも、そこから涙は零れなかった。
「君は、とても可笑しな事を言うね。
………泣いているのは君だよ。泣かれるのは、凄く嫌だ。
だから泣かないで、セイ。ずっとずっと笑っていてよ」
「貴女に俺は殺せないよ」
言葉を半ば無視して続ける。
貴女はきっと、俺を殺せない。
俺があの世界の記憶を持っている限り。
俺が誠司の心を持っている限り。
出来ないことをわざと口に出して強がって、泣きそうな顔をする貴女。
「月さん。きっと貴女は俺が貴女に死を望んだとして、それを叶えることなんてできないでしょ?
でもそれでいいんだ。俺、貴女にそんな残酷なことを望んだりしないから、だから、泣かないで…?」
「………」
月さんは一度口を開きかけ、でもそれは何も音を発することなく閉じられた。
瞳が一瞬で潤んで、視線は惑うようにグラついて。
でもそれを一度の瞬きで消し去って、彼女は微笑んだ。
――また、そうやって俺を真実から遠ざけるんだね。
自惚れでもなんでもなく、他ならぬ俺のために。
貴女はたまに、酷く嘘つきだ。
いいや、嘘はひとつだって言っていないのかもしれない。
貴女が告げたのは“知らないふりを止める”こと。
それは本当の事を言うというものでは決してないから。
「確かに私は君を殺せない。
君だけが私の、ただ一人のこの世界での同胞だから。
ねぇ、君はあの村での出来事に罪悪感を抱いているけれど、私はそんな必要更々ないって思ってるんだ」
俺の上からどいて横に寝そべり、月さんは穏やかに言葉を紡いだ。
そうだね。きっと貴女ならそう言ってくれる。
そして俺の中に同じ声があるのも真実だ。
「私達は被害者だ。
そしてこの世界にすむ全てのものが加害者。
だから私、君のこと、ちっとも悪くないと思うよ」
これは慰めでも、励ましでもなんでもない。
ただ彼女の中にある真実の言葉。
「私は君がどんなことをしても、君を責めないだろう。
君が何をしても何を考えても、それを悪だと言わない。善とも言わない。
ただ君が選んで、君がしたこと。それだけが私のすべてだ」
「………じゃあ」
語る彼女の上に馬乗りになって、その白い首筋に指を這わせる。
さっきまでとまるで逆。
この手に力を込めれば彼女の息は止まる。
「俺が貴女を、殺そうとしたら?」
けれど状況に微塵も動揺を見せず、彼女は穏やかに笑った。
「君には出来ない。私がそうであるのと同じ様に。
でも君がそれを望むなら、私はそれを叶えよう」
「馬鹿………」
「どちらが?」
そんなの決まってる。
俺も馬鹿だけど、同じくらい、それ以上に貴女は馬鹿だよ。
不器用なひと。
そうやって自分の思いを俺に伝えて、俺はこの世界で一人じゃないって伝えて、だから貴女は馬鹿だ。
こんな長くわざとらしく遠回りしなくたっていい。
君の味方。
そう一言告げてくれるだけで、いいや、言われなくったって俺は分かってる。
貴女が俺にたくさんのものを与えてくれていること。
傍にいて手を握ってくれていること。
一人にしないでいてくれていること。
――ねぇ、だから俺も、同じだけのものを貴女に与えさせて。
あの後、君は言ったね。
限りなく人に近い存在だなんて、何だかとても悲しくて嫌だって。
でも私は自分が普通の人間だなんて思えるはずがなかったから、聞こえなかったふりをして笑った。
そんな私に、君は笑った。
仕方ないなって、くしゃりとその表情をゆるませて。
それがどんなに嬉しかったか、それにどんなに私が安心したか、君は知らないだろう。
あの日自分にできる最速で依頼を片付けて城を訪れた私が見た君の笑顔は、今にも壊れてしまいそうな、不安を呼び込むものでしかなかったんだよ。
だからまたそんな風に君が笑ってくれて、そしてそれを他ならぬ私に向けてくれて、私は、本当に嬉しかったんだ。
――じゃあ、こうしよう?
月さんは今日から、“限りなく人っぽい何か”だ。
こっちの方が、なんか可愛いでしょ?
ねぇ、君も知らないことだけど、私はその時から少しだけ心が軽くなったんだ。
なんでだろうね。
ただ言葉の響きを変えただけ。
音が意味することはまるで同じなのに、何故だか君から放たれた言葉はとても軽やかに感じられて。
なんでだろうね。
なんだかとても、泣きたかったんだ。




