3-3*
Side:Silva
「この時を待ちわびたぞ、ルナ」
「ふふっ、まるで大魔王の発言だねぇ。
分かっているとも。君の数年越しののストレスを存分に発揮してくれて構わないよ」
透明なこちらとあちらを遮る壁の向こうで、ルナはそう言ってジョーカーに応えた。
事の始まりは俺達(と言うか俺)がどうにかキングから逃れ、幹部部屋に戻った後。
その場に居合わせたジョーカーに、銀狼の儀式のこと、村を探すため一月ほどここに滞在した後旅に出ることを告げた時だ。
「一月、か。ルナは寒さが苦手だろう。
もっと長く滞在しても構わぬのだぞ?」
「あはは、まあ寒いのは嫌いだけど、別にいいんだ。
それに寂しいならそんな理由をつけたりなんかせずに、ただ寂しいと言ってくれた方が私は嬉しいな」
満面の笑みで小首を傾げるルナの催促に否を返せないのは、例え闇ギルドのマスターであっても変わらないらしい。
彼女は否定せずに顔を背け、ふんと鼻を鳴らした。
「ふふっ、君は相変わらず嘘がつけないなぁ。
一月というのはもう決めたことだから覆さないけれど、その期間どうやって過ごすかは決めていないんだ。
だからこちらの依頼だって受けるつもりだし、ジャックに魔術を教えないといけないし、エースと手合わせしないといけないし、クイーンとは買い物かな。
あ、シルヴァにも稽古をつけないとね。
ジョーカー、君とは何をしようか?」
「………妾とも、手合わせや買い物をするに決まっておろう」
未だ顔を背けたままのぶっきらぼうな言葉にも、ルナは言うと思ったとくすくす笑う。
それに途中から部屋に入ってきたエースなどは、素早く彼女に近づいて瞳を輝かせた。
「姫さん、手合わせってマジか!
よし、やろう!今すぐやろう!!」
「もうすぐ食事の時間だって聞いた。その後の方がいいと思う」
ルナはよく腹が減っては戦ができぬと言っているから、絶対に何かするなら食事の後だ。
意味を聞いたらどんなことも空腹だとろくにやる気も起きないし力が出ない、ということらしい。
それにエースの言葉に反論したのは俺だけではない。
「弟子の言うことも尤も。
何より、そなたよりも妾が先と決まっておろう」
「マジでか………」
ガクリと膝をつく様は大袈裟だと思いはするけど少し可哀想だ。
だが落ち込む彼を誰も慰めることはなく、ジョーカーとルナの間では素早く話が纏まっていく。
「ではルナ、今宵食事の後、エースではないが相手をしてくれるか」
「あれ、今日?」
不思議そうなルナにジョーカーは真顔で大きく頷いた。
「善は急げ、と言うであろう?」
そしてその言葉通り食事の後、戦いを見学できないことを渋るクイーンとキングを(半強制的に)見送り、ギルド内に設置されている訓練室で二人は向かい合っている。
俺と仕事が入っていないエース、ジャックは同様に設置されている見学室でそれを見守っている最中だ。
特にエースは訓練室に入る前のルナから解説ともしもの対処をよろしくと言われていたから、俺とジャックの間で真剣な表情をして二つの部屋を隔てる透明な壁の向こうを凝視していた。
「ねぇエース、僕はジョーカーが戦うところを初めて見るけど、実際あの二人はどっちが強いの?」
最初に言葉を交わして以降、なかなか動かない状況に焦れたのだろうか。
ジャックはそう言ってエースを見上げる。
俺としてはやっぱりルナが勝つと思っているけど、闇ギルドのメンバーはどうなのだろうか。
「ん?あー……どうなんだろうな。
あの二人、ここでは本気でやらねぇし」
「何でだ?……もしかして、部屋が壊れるから?」
思わず問い返した俺にジャックはまさかと笑い、エースは一度大きく目を瞬かせてから同意を示した。
「お、よくわかったな。
まあ姫さんの弟子してりゃ、そのくらい分かるか…」
「え、冗談でしょ?」
「冗談じゃない」
「そうそう、大真面目だ。
あの二人がマジで本気出したらここら一帯何も残んねぇぞ?
で、どっちが強いかだったか…」
信じられない、という顔でルナとジョーカーを見るジャックはまだ半信半疑の様だ。
確かに俺も弟子になったばかりの頃はそうだった。
何でも笑って飄々とこなすルナに、真剣にやらないのかと思いもしたし。
「姫さんじゃねぇか?
あの二人、初めて会った時遠慮も何もないガチの殺し合いしたらしくてな。
その時勝ったの姫さんだったらしいし。
それ以降は親しくなったからそんなことしねぇし、過去の結果だけ見て判断すんなら姫さんだな。……嬉しそうだな、弟子」
言われて表情を改める。
顔に出ていたのだろうか。
「……つい」
「ん、まあ構わねぇよ。
俺らにとっちゃどっちも大事なジョーカーだからな。
お、そろそろ動くぜ?」
壁の向こうに注目すれば、ジョーカーが片足を引き、体勢を低くしている。
そしてその背から――翼が生えた。
「あれが魔族の翼…」
「すごっ、カッコいい」
ジャックが顔を輝かせているということは、彼も初めてみたらしい。
見た限りあの翼は鳥類などの羽毛に包まれたものではなく、薄い皮膜に覆われただけの蝙蝠などが持つものに近い。
だが大きく黒く、翼でも攻撃を与えられるようにか鋭い角が両翼に一本ずつついていた。
ルナの笑みがひきつる。
「あれ?ジョーカー、君、今回どれくらいの力でやるつもり?」
「妾の八割だ」
「えー、聞いてないんだけど…」
「文句は聞かぬ。ゆくぞ」
「はいはい……っと」
一瞬の後には二人は超至近距離で互いに見つめあっていた。
いや、ただ暢気に見つめ合っているだけではない。
身を裂こうとふるわれたジョーカーの爪を片手で掴みながら、同じくルナの手刀も片手で防がれ、互いの力がギリギリで拮抗しているのだから。
ただ接近時のジョーカーの動きがただの線のようにしか感じられなかったのがショックだ。
目に捉えられないなんて。
「お前ら見えたか?」
「線だった」
「僕も線だった」
「だろうな……」
ちなみにエースは一応見えたらしい。
「ルナ、そなたも受けてばかりおらずに妾を楽しませよ!
この長い年月、妾は退屈しておった!」
「っ、もう、引っ張らないでくれるかな?
愉しくなっていき過ぎると困るのは君だろう」
「ふはは、それでよい!
そうなれば妾も全力で楽しめるのだしな!!」
「……っはは!君も大概イッちゃってるね」
ニィッと凶暴に笑んだジョーカーと凶悪に笑んだルナ。
互いから発せられる威圧に、壁越しだというのに冷や汗が出る。
両手は互いに放さないまま両者の背後におびただしい魔力が集中する。
「おいおいスイッチ入っちゃってるじゃねぇか。お前ら平気?特にジャック」
「か、過去のトラウマが…」
「?」
「あぁ、弟子は操られてたから…
どっちかっつーとお前のがトラウマものなんだけどな」
「うん、僕もすごいと思う」
俺が操られている間に何があったのだろうか。
二人から同情の目線を送られている。
「【爆ぜよ!】」
「させると思うかい?」
爆発のために限界まで凝縮されたジョーカーの魔力が蠢くが、それは同じくルナのそれで相殺された。
同時にルナが動き、魔術に集中していた彼女を空高く蹴り上げる。
すぐにルナも地を蹴って跳び上がり、空中で勢いよく踵を降り下ろされたジョーカーは地面に叩きつけられた。
もうもうと土煙があがる。
「うわぁ……」
「初っ端から激しいなー」
だがその土煙から黒い影が飛び出し未だ空中に留まったままのルナへと向かう。
弾丸のようなスピードで突撃され、たまらず彼女は壁へ吹っ飛んだ。
「ルナ、そなた弱くなったか?
あれしき以前のそなたならばかわすなり受けるなり出来たはずであろう?」
優雅に翼をはためかせ空中に留まるジョーカーの声に、ガラ、とルナと壁が衝突したことで出来た瓦礫が動く。
ふらりとそこから立ち上がった彼女は長い髪を耳にかけ、何度か頭を振った。
「いてて……酷いね、攻撃しておいてそんな言い草。
まあ確かに避けられたし受けられたよ、アレ。
でもさぁ、イッちゃってる君には、同じくイッちゃってる私じゃないと駄目だろう?
スイッチ、入れたかったんだよね」
くつり、と笑んだルナから発されるプレッシャーが倍になった。
ピリピリと肌を刺すような空気、なんだか呼吸すらしにくいような感覚がする。
「……っあー、姫さんまで。
お前らほんと大丈夫か?椅子座る?」
「なんか空気薄い…」
どうやら息苦しさを感じているのは俺だけではないらしい。
エースの気遣いもありがたいが、それよりも。
「これがルナの本気…?」
最早両者とも目で追うことの出来ないスピードで室内を縦横無尽に駆け回り、近づけば肉体で、離れれば魔術でぶつかりあう様は次元が違う、としか言い様がない。
半ば呆然とその情景を目にうつせば、隣に立つエースが否を返してきた。
「いや、あれがジョーカーの言う八割。
二人ともあんなんでもここが訓練室だって忘れてねぇはずだし、理性も振り切れてない……はず、だ。たぶん。あんなんになってるけど」
「あれって魔族の最終形態じゃ…
話には聞いてたけど、あんな感じなんだ」
今やジョーカーの体は金に発光する紋様に隙間なく包まれ、感じる魔力も桁違いに膨れ上がっている。
口元から牙を覗かせながら笑む様は魔族という名も納得の姿だ。
「ふははははははははっ!
よいなぁ、愉快でたまらぬ!やはり戦とはこうでなくては。
妾と同格、それ以上の相手と殺しあってこそ血が沸き立ち心震えるというものよ!!」
「えっ、ジョーカー殺し合いって言ってるけど、本当に大丈夫?」
「………」
エースは沈黙している。
対するルナは漆黒の髪を靡かせ姿こそ何一つ変わらないが、その圧倒的な威圧感、そして触れれば切れてしまいそうな彼女の周囲に漂う濃密な魔力。
紫の瞳を煌々と輝かせ艶然と笑めば、情欲と殺意が混ざり絡まる様だ。
「んふふふふふ、私もとても愉しい。
だから君も、もっともっと愉しくなろう。
限界ギリギリ、死の更に奥まで。二人で愉しもうじゃないか。
そして最後には君のその笑みを、苦痛の表情に変えてあげるね……?」
「ルナもなんか危険なこと言ってない?
え、いいの?あれ放っておいていいの?」
「………」
そして俺も沈黙した。
ジャックの二人に対する意見は尤もだったが、それを俺達に言われてもどうしようもない。
と言うか、この壁の向こう側に死んでも行きたくない。
たぶんこの気持ちはエースも一緒だ。
沈黙で誰かと共感するなんて思わなかった。
「ちょっと二人とも僕の話聞いてる?」
「じゃあお前止めてこいよあの二人」
「え……?」
「俺はここから応援してる。頑張れ。
でもルナは楽しみを邪魔されるのが嫌いだから、気を付けた方がいいと思う」
「ジョーカーも今数年分のストレスを発散中だからなぁ……
それを邪魔して、今度は罰掃除ですむのかどうか。
もう無事にあの二人止められたらお前がエースの位階でいいよ」
「ちょ、それ助言でもなんでもないよ!?
要は死亡確率が跳ね上がっただけじゃん!」
折角教えてやったのに、文句をつけられて終わってしまった。
聞かないで突撃するより絶対にマシだと思ったのだけど、違うのだろうか。
首を傾げながら(その間もジャックは何か騒いでいた)それでも壁の向こうを見ていれば、次は互いに大きな魔術をぶつけ合うらしい。
「【大気よ、震えろ。
妾の求めに応じ、魔の真髄をこれへ】」
「【私に従え、私に首を垂れよ、総ては私の手の中に】」
どちらの詠唱もかなり長引きそうだ。
ただその間にも肉弾戦や無詠唱で魔術を互いにかけあっているのだから、最早この自分の実力とはかけ離れた戦いに悔しがればいいのか感心すればいいのか呆れればいいのか分からない。
「うっわ、あの二人がちゃんと詠唱してるとこ俺二十年ぶりに見た。
弟子はどうだ?ルナって旅の間やっぱ全部無詠唱か短略化?」
「そう。この間はドラゴンを倒したけど、やっぱり無詠唱で片付けてた。
今ルナが詠唱してるのは古代魔導術式の終章三節の改良型だと思う」
俺は魔力不足で実際に使うことはできないけど、ルナに勉強になるからと教えてもらったのだ。
確か全部で十三章構成で、最後の方であればあるほど威力が上がった気がする。
昔はこれひとつで一国を滅ぼすことが出来るから“国落ちの魔術”と恐れられたのだとルナは笑っていた。
「へぇ、弟子も古代魔導術式っての覚えてんのか。
俺は魔力が無いから知らねぇけど、すごい術なんだろ?
ジャック、ジョーカーはどんなのやろうとしてんだ?」
「んー、僕聞いたことないし魔族に伝わる術なんじゃないかな。
魔族って元々“魔に秀でた種族”ってことで、魔術が得意だったんでしょ?
たぶん独自の魔術体系があると思うんだよね。
………それよりさ、僕心配なことがあるんだけど」
ジャックの言葉に、俺もエースもピクリと反応した。
その間も向こう側の二人の詠唱は続き、俺達三人は競うように、同時に牽制しあうようにじりじりと壁から離れていく。
「【妾が座すは古より続く魔の血統。
この血へ集え。あまねくものを掌握せよ】」
「【私の前に人はなく、私の後に続くのみ。
私を阻む総てを焼き尽くせ】」
「ははは…………奇遇だな、俺もだよ。
弟子はどうだ?」
「さっきからずっと心配してる。
でももしもの対処を任されたのはエースだから、いざとなったら俺は転移する」
「あ、それいいね。僕もそうする」
「おいぃぃぃぃい!!
俺は魔術使えねぇんだっつぅの!!
ここから逃げられねぇんだけど!?
あんないかにもヤバそうな魔術がぶつかり合ったらこんな壁ぶち壊れんだろ!」
そう言われても、この中であの二人をどうにか出来そうな可能性が高いのは悔しいけれどエースだ。
だからここは彼に任せるしかない。
決して死にそうだからとか、危ないから一刻も早く逃げたいからだとか、そんな理由ではない。
「応援している。ちなみにルナの詠唱はあと一文で終わる」
「僕もセンパイの無事を心から祈ってるから。
あ、ルナに合わせるだろうから、ジョーカーの詠唱もそれくらいで終わると思うよ」
「すげぇ助言でも何でもねぇし今更手遅れだし俺にどうしろって言うんだよ………って、そうだ、これだ!」
何かを思い出したらしいエースが凄まじい速さで見学室内の壁へ急ぐ。
そこに設置された箱を開き、幾つかの暗証番号を入力し―――
「【紅き葬送】」
「【神を灼く焔】」
「……っ、間に合え!!俺はまだ死にたくない!」
なんとも情けない発言とともに、真っ赤な非常用ボタンが押された。
「………?」
「………?」
衝撃がこちらに及べばいつでも転移できるように身構えていた俺とジャックは顔を見合わせる。
「……っしゃあ!間に合った!!俺、頑張った!!」
喜ぶエースの声に恐る恐る訓練室の方に目を向ければ―――何故か、ルナとジョーカーはずぶ濡れになっていた。
今にも発動しそうだった魔術は突然の事に使用者二人の注意が逸れたためか不発となっている。
わけがわからない。
「どうだ!これがこの見学室に設置された特別ボタン、名付けてお前ら頭冷やせボタンだ。
その名の通りこれを押すと訓練室にまんまバケツをひっくり返したような勢いの水が降るんだぜ、すごくね?
いやー、いつかこんな日が来るだろうと思ってキングとクイーンに作っといて貰ったんだよな。
おかげで命拾いしたぜまったく」
「………」
エースは晴れ晴れと言うけれど、それに同じ様に笑顔を返すなんて出来なかった。
固まったままの俺達を不審に思ったのか、彼は首を傾げて問いかけてくる。
「ん?お前らどうしたんだよ?
顔真っ青だぞ?そんな怖かったのか?」
「……え、エース、その」
「なんだよ?」
ジャックは何と言っていいのか分からない様子で言葉を濁している。
俺だってわからない。
だが何も知らずにその瞬間を迎えるよりは、きっと心の準備をしてからの方がいいはずだ。
なけなしの良心を振り絞って、どうにか口を動かす。
「……後ろ、振り返った方がいい」
「後ろ?なんだよ、何があ………」
何も知らずに振り返った彼には、どちらにしろ恐怖しか待っていないのだけど。
「……ほう?頭を冷やせ、か。
妾より格下の分際で、笑わせてくれる」
「君のお陰で、確かに冷えたよ。
心も体も、凍えてしまいそうだな」
「……あれ?ジョーカーも、姫さんも、いつの間に?」
未だそこかしこから滴を垂らす二人は先程まで放っていた重圧感を維持したまま、見ているとうすら寒くなるような笑みを浮かべている。
確かに訓練室にいたはずの二人は、自分達をずぶ濡れにした元凶を引き取りに来たのだ。
「ねぇ、エース?君のせいで冷えてしまった。
私が寒がりなの、知っているだろう?君で、あたためてよ」
普段なら嫉妬に狂いそうなルナの意味深な発言や吐息がかかりそうな距離も、何故だか今日ばかりは自分に向けられなくてよかったと心から思える。
「そう言えば、ここ最近そなたの相手をしておらなかったなぁ?
今宵は存分に相手をしよう。
ジョーカーの位階にある妾達から直々の鍛練だ、そなたも嬉しかろう?」
「え、いや、その……」
「遠慮はいらぬ。ゆくぞ。
――ジャック、弟子。そなたらは先に戻っていて構わぬ」
「そうだね。たぶん長くなると思うから、シルヴァ、先に寝ていて」
美女に両脇を挟まれ連れていかれる様は羨ましくも何ともない。
俺とジャックは目を見合わせ、素早く二人の指示に従おうと見学室を後にした。
……背後からエースの悲鳴が聞こえてきたのは、たぶん気のせいだと思う。
部屋で荷物の整理をしていた俺は、扉が開く音に顔を上げた。
予想通りそこから顔を覗かせたルナはまず部屋が明るい事に不思議そうな顔をし、ついでベットの上で胡坐をかきながらバックに手を突っ込んでいる俺を目に留めて苦笑する。
「先に寝ていて構わないと言ったのに、まだ起きていたのかい?
もちろん夕食は食べたんだろうね?」
「荷物の整理をしていただけ。食事もちゃんととった。
ルナ、すぐに寝る?」
「……そうだね、簡単にシャワーを浴びてしまうよ。
たぶんそれくらいなら起きていられると思うし」
「わかった。ならそれまで待ってる」
そう答えれば、彼女はもう一度苦笑して何も言わずにバスルームへ消える。
これまでの経験から俺が何と言われても絶対に意見を変えないことを分かっているんだろう。
でも今日ルナは普段よりも格段に本気に近い状態で戦ったはずだから、そんな彼女をおいて先に眠るなんて出来るはずがなかった。
本当に同じ部屋で寝泊まりができてよかったと思う。
昨日の時点でルナは自分の部屋で俺も過ごさせるつもりだったのだけど(ルナは一応ジョーカーと同じくこのギルドのマスターをしているから、使用する個室もかなり広いしベッドもキングサイズだ)、クイーンの猛反発にあって撤回されかけたのだ。
けれど場所が場所だけに客室など存在しないこと(闇ギルドにわざわざ泊まる人間がいるはずもない)、他の幹部の部屋では色々と危険があること、したっぱの部屋に泊める訳にもいかないことからどうにかルナとの同室をもぎ取った。
……朝は嫉妬心を剥き出しにしたクイーンが突撃してきて、散々だったが。
耳を澄ませてバスルームを窺えば、物音がするからおそらくもう出てくるのだろう。
ルナを待っている理由にした荷物整理を適当に終え、用意されているタオルを数枚手に取る。
丁度いいタイミングでバスローブ姿の彼女が戻ってきた。
「……至れり尽くせりだねぇ」
「俺がしたいから。ルナ、座って」
「はいはい、ありがとう」
ベッド近くの椅子にルナを導いて、いつかのようにその黒髪の水気をとっていく。
ゆったりと背もたれに体を預ける様はリラックスしているようで嬉しい。
「さっきの、君は見えたかな?」
さっきの、というのは彼女とジョーカーの戦いを指しているのだろう。
「見えなかった。軌道を追うのが精いっぱいで」
「そう。エースは見えたみたいだったね。
たぶん実力的に、見えるのはエースとキングかな。
クイーンはたまに目で捉えられるかもしれないけれど、全部とはいかないだろうねぇ」
「………」
「落ち込んでいるのかい?」
やわらかく響く笑い声に頷いて、慌てて声に出して付け足す。
今ルナは後ろを向いているんだから、頷いても分からないんだった。
「なかなか俺は強くなれない」
「うーん、比べる相手が悪いような気がするけど…」
確かに自分の実力はそこらの冒険者では及ばないものではあると分かっている。
これでもギルドランクA+という自負もあるから。
でもそれだけでは足りないのだ。
「俺はルナに本気を見せて欲しいって、城で言った」
「あぁ、そう言えばそうだね。
それで私は、君に、何と答えたんだっけ?」
「今の俺じゃ相応しくないって」
「ふふっ、我ながら偉そうだねぇ」
ルナはもう、半分寝ぼけているのだろう。
言葉の区切りが多くなっているし、言葉尻も間延びしているから。
戦いの後、それが激しければ激しい程、彼女はこうして睡眠を必要とする。
以前ドラゴンを五頭連続で討伐した後どうしても外せない用事があって半日ほど街を歩いたことがあったけど、その時などはギルドへの道の途中で急に倒れたことがあった。
すぐに寝ているだけだとわかったけれど、あれほど心臓に悪い出来事はない。
それ以来は彼女自身も反省して大きな討伐系の依頼の後には何も予定を入れない様にしたし、俺もルナがいつどこでどんな状況で眠ってしまってもいいように気を付けているつもりだ。
実は今日もバスルームでそのまま眠ってしまうのではないかと戦々恐々としていた。
「でも仕方ないかぁ。きっと、私はそうしていいはずなんだ。
だっていきなり、全部なくして、一人きりにされてしまったんだから、それくらいの傲慢も、被害者意識も、持っていていいはずだよね……」
「……ルナ?」
けれど今日の彼女は少しおかしい。
今まではこんな風に饒舌になることも無く、すぐに眠りに落ちていたのに。
久しぶりの全力に近い戦闘で気が高ぶっているのだろうか。
そんな姿は一度も見たことがないけれど、まるで酒に酔っているようだ。
「大事な大事な、一生、死ぬまで一緒だって約束、していたのになぁ……
きっと、怒ってる…。謝れたら、それが許されるなら、どんなにいいか…
でも私だって、こんな風に約束を破る、つもりはなかったんだ」
「約束……それをした人が、ルナを怒っている?」
「そう。彼は他人の前だと、いい人みたいに振る舞うけど…
私と二人の時は、すごく、正直だから。
私がいなくなって、きっと、怒って、泣いてる」
「彼……」
どうしてだろう。
今まで聞いたこともないような声音で、甘く、ゆったりと紡がれる言葉は、それだけでその“彼”に対するルナの惜しみない愛情や信頼、甘えや独占欲が感じられる。
感じることが、出来てしまう。
「もちろん、私も怒っているし、涙が涸れるほど泣いたし、憎んでいる…
でも、やっぱり心配なんだ…。
彼は、他人のために、自分を殺すのが上手いからねぇ。
私は隣でいつも、私と同じくらい、もっと身勝手になればいいのになぁって、思ってた。
いまだからわかるけど…私以外の大多数に、嫉妬していたんだよねぇ」
「嫉妬……ルナが?」
「そう。私だって、そんな感情も持っているさ。
なんてったって、他に比べることができない私の、唯一のひとのことなんだから」
唯一。
一体ルナの言う“彼”とは、どんな人間なのだろう。
この口ぶりから言ってセイルートではないことは確かだ。
けれど出会って五年も経つというのに、彼以上にルナと親しいような相手も思い浮かばない。
つくづく俺は、彼女の事を何も知らないのだ。
「その、“彼”って…」
そこで振り向いて、ルナは微笑んだ。
その笑みは今まで俺が見たどんなものよりも輝いて、甘やかで、そして切ない。
「私の、太陽なんだ。
私は彼の月だから、反対に彼は私の陽の光。
彼がいないと、私は輝けないんだよ……」
「え……?」
それは一体、どういう意味なのだろう。
抽象的すぎて何もわからないし、どう受け取ればいいのか。
だが、もう時間切れのようだった。
カクン、と彼女の体が力を失う。
眠ってしまったらしい。
まだまだ聞きたいことはたくさんあったのに。
「……こんな、中途半端で眠るのは、ずるい」
つい口から恨み言がでてしまっても、仕方がないと思う。
けれど思っていたよりも(少なくともこうして愚痴を吐けるくらい)ショックが少ないのは、“王国”でセイルートに踏ん切りをつけさせられたからだろう。
あそこで俺は自分なりの決心がつけられたから、今こうしてルナから唯一の存在を聞かされてもしっかりと自分を保っていられる。
「……くやしいけど、セイルートには感謝すべきか」
今度、菓子折りでも持っていこう。
喜ばれたら苛々するので表向きはジークへの土産にすれば、たぶん彼は自分の主であるセイルートにも菓子を与えるはずだ。
使い終えたタオルを仕舞い、部屋の明かりを消して眠ったままのルナを抱き上げベッドに運ぶ。
寒がりな彼女が凍えない様にしっかり腕の中に閉じ込めれば、もう寝る準備は完璧だ。
冬はいい。これで夏になると体温の高い俺は一切近づけてもらえなくなるけれど、秋や冬、そして春の間はなにかとくっついても問題なく受けいられるし、時折彼女から触れられることだってある。
だから反対に夏は大嫌いだ。
そっと起こさない様に腕に力をこめて、眠るルナに囁く。
この声が彼女に届いて、真実のものとなればいいのに。
「昔のことはもう関係ない。
今のルナは俺と一緒にいて、俺の望みを叶えているんだから、俺のものだ」
気づかれない様に耳に口付けを落とせば、後はもう眠るだけ。
開き直ってしまえば簡単だ。
だって、俺を男として見ることもせずに警戒しないルナが悪い。
あれだけいつも分かりやすく行動しているのに。
だからもう俺は、俺にできる限界まで遠慮したりなんてしないのだ。
シルヴァの無意識的なルナへの睡眠学習。
ちなみに彼が遠慮せず出来る限界=告白の一歩手前まで。
告白はルナと同じくらい強くなってからと決めているので今するのは彼的にNG。
オマケ:とある昼下がり、道の上で
「……ルナ、大丈夫?」
心なしかフラフラと足取りもおぼつかない彼女に声をかければ、いつもとは違うフニャッとした返事が返ってくる。
「うぅーん?平気だよ、きっと。ギルドまでもうすぐだしねぇ」
「でも、ふらふらしてるし、目も瞼が落ちかかってる」
「あはは、だいじょうぶでしょう」
不安だ。とてつもなく不安だ。
でもだからと言ってこんな状態のルナに転移の術を使わせたら途中で意識を失って変なところに飛ばされそうでそれも出来ない。
俺が転移の術を覚えていればよかったのだが、急激に伸びた身長だとかに慣れることに精いっぱいで最近は魔術より体術方面の修行に重きを置いていたのが仇になった。
……いや、でも大きくなったから今の俺ならルナを抱き上げることだって出来るはずだ。
いっそここからギルドまでその状態で行けばいいんじゃないだろうか。
そうすればルナがいつ眠っても安心だし、俺も嬉しい。
よし、そうしよう。
「ルナ、俺が―――」
横を向いても、そこには見慣れた姿は見当たらなかった。
「ルナ!?」
慌てて来た道を振り返れば少し後ろで地に伏す彼女が目に入り、体中の血が一気に下へ落ちた気がした。
急いで駆け寄って抱き起す。
「ルナ、ルナ!?」
「………くー」
………寝ている。
崩れ落ちそうになるのをどうにか堪えた俺は、とても頑張ったと思う。
これも修行の賜物かもしれない、なんて思う程度には現実逃避したい気分だ。
まさか歩いている間に眠ってしまうなんて夢にも思わなかった。
「……とりあえず、ギルドに戻らないと」
そう、俺達はギルドに向かっていたのだ。
疲れと精神的なダメージからくらくらする頭をどうにか落ち着かせ、俺はルナを抱き上げ再び道を歩き出した。
それに、まあ、悪いことばかりではない。
こうやって彼女を腕の中におさめることが出来るんだから。
シルヴァの抱っこ癖はここから始まる。