2-10*
Side:Silva
苛々する。
「ね、シルヴァ。食べないの?
このお菓子すごく美味しいんだから」
わざとらしい甘ったるい声にも、触れられる他の人間の感触にも。
そして何より、ルナと引き離されていることに。
「……俺のことを嫌っているくせに、何がしたいんですか」
そう問う声は、我ながら苛立ちで素晴らしく刺々しかった。
けれど目の前の王女は怯んだ様子も見せずに首を傾げる。
でも誤魔化したって無駄だ。
一瞬寄せられた眉に、俺は気づいている。
「なんのこと?嫌ってなんかいないわ」
「甘く見ないでください。
他人からどう思われているかくらい、俺にもわかります」
幼い頃からずっと、そうして他人の顔色を窺って読み取ることができなければ生きていけなかった。
そんな俺がこんな年端もいかない(と言っても俺と三歳しか違わないが)少女ごときに騙されるはずがないのだ。
「……別に、わたくしは」
「ベル様」
まだ知らぬ存ぜぬを貫こうとする王女を止めたのは、部屋からテラスへ通じるガラス扉を開きこちらにやって来たジークだった。
その向こうにルナとセイルートの姿は見えない。
どこに行ったのだろう。
「セイルート様に休憩が必要な様子でしたので、ルナ様が気分転換をと外へ連れていかれました」
俺のルナを探す目線に気がついたジークが少しだけ申し訳なさそうに言う。
――ルナとセイルートが二人だけで行ってしまったのは気に入らないけれど、それに対して彼を恨むのは筋違いだ。
元はと言えば、俺が部屋から出なければならなくなったのもセイルートが苛々して休憩が必要になったのも、ここにいる王女のせいなのだから。
「本当!?セイル兄様、ルナ姉様と一緒なのね?」
そしてそんな元凶である彼女は、ジークの言葉にこれ以上ないという程破顔した。
「ですので、そろそろシルヴァ様に意地悪をなされるのはお止めください。
ルナ様にも呆れられますよ?」
「べ、別に意地悪なんかしてないわ。
わたくしシルヴァを気に入ったんだもの。
それにルナね、ルナに呆れられたってど、どうってことないんだから!」
一体どういう事なのだろう。
ジークは何故王女が好きでもない俺に対してこのような態度をとるかわかっているらしいが、俺には心当たりが何もない。
「おや、そうですか?」
「そ、そうよ!」
「ではルナ様にもそう伝えておきましょう」
「う……」
「ルナ様は悲しまれるでしょうね。
ベル様の事をお嫌いになってしまわれるかもしれません」
「………」
「ルナ様にこれからずっと“一の姫”と呼ばれてしまいますよ?
いえ、嫌われてしまえば声をかけられることも無くなりますので、この言葉は意味がありませんが」
「………!!
あ、貴方が悪いのよ!」
段々と語勢を無くしていった王女は、ジークのとどめとばかりの一言に顔の向きをくるりと変えて俺にそう叫んだ。
話の流れがまったく掴めない。
俺は別に王女に対して何か悪いことをした覚えがないのだから。
と言うか今回はじめて会ったのだし当然だ。
けれど顔を真っ赤にして泣きそうに目を潤ませた王女は俺が極悪人であるかのように睨み付けてくる。
「貴方がルナ姉様の弟子になってから、姉様は城に全然来てくれなくてセイル兄様はすごく寂しそうにしていらっしゃったのよ!
姉様は優しいからよく念話だってしてくれたけど、でもやっぱり兄様は寂しそうだったわ。
わ、わたくしだってすごく悲しかったんだから!
ルナ姉様はとっても綺麗で、可愛らしくて、優雅で、優しくて、わたくしの自慢の、将来の姉様なのよ!
それなのにやっと、五年ぶりに姉様がいらしてくれたと思ったら貴方まで着いてきて!
なんで二人の邪魔するのよ!
ルナ姉様はセイル兄様のなのに!!」
一息で言い切った彼女はもう近くにいるのも忌々しいと分かりやすく距離をとる。
確かにまあ、彼女の言い分は分からないでもない。
俺だってぽっと出の奴にルナがかかりっきりで、なかなか相手にされなかったらその人間を恨む。
けれどだからと言ってはいそうですかとはいかないし、王女の言葉にはいくつか看過できないものがあるのも事実だ。
「……ルナはお前の、将来の姉でもなんでもない。
それにセイルートのものでもない」
「なによ、二人がどれだけ仲がいいか知らないの!?
とってもとっても、お似合いなんだから!」
「別にお似合いなんかじゃない。
それにルナは国や権力が嫌いだから絶対にあり得ない」
「国が嫌いでもここに来るのは、それだけセイル兄様が好きだからよ!
そんなこともわからないのね」
「ルナは優しいから困ってる人間を見捨てられないだけだ」
「そうやって見捨てられていないのは貴方でしょう?
姉様は優しいもの」
「まあまあ、お二人とも……」
ジークが場を納めようと声をかけてくるが、ここで退くわけにはいかない。
お互いきつく睨みあう。
「なるほどねぇ、ベルにはそんな思惑があったわけか」
「そして私達はそれにまんまとハマったわけだね。
セイ、妹にしてやられてどうするんだい」
「別にしてやられた訳じゃないし。
ベルが何したいのかまではわかんなかったけど、企みごとがあるのはわかってたよ」
「半分本気で苛ついていたくせに」
「いーの!」
だがその視線は聞こえた声に素早く外される。
ジークと同じようにガラス扉をくぐり抜けて、渦中の二人が戻ってきたから。
「ルナ!」
「セイル兄様、ルナ姉様!」
俺も王女もすぐに駆け寄り、けれどお互いが邪魔で睨みあう。
「まあまあ、二人とももう少し仲良くしたらどうだい?」
火花を散らす睨みあいを防ぐように俺達の間に手をかざしたルナは、可笑しそうにそう小首を傾げた。
そしてその視線が王女へと向く。
「それにしても、まさかそんなことを考えていたなんてね。
シルヴァにベッタリくっついて私にあの態度をとっていたのは、私とセイを二人きりにするためかい?」
「あ………」
今までの自分の行いを思い出したのか、気まずそうに視線をそらす王女。
ルナはそれにも笑って彼女の金の髪を撫でた。
「別に怒ってはいないよ。
君のお陰でいいことがあったから。ね、ベル?」
「ね、姉様ぁ〜!」
気の抜けた声とともに王女が抱きつく。
ああ、今すぐ引き離したい。
俺の方が先に撫でてもらいたかったし、くっつきたかったのに。
あれだけ好き勝手しておいて一番にルナに触れるなんて。
「あはは、シルヴァ君すごい顔」
そして妹が妹なら兄も兄だ。
睨み付けても飄々とした表情を崩さないところがまた忌々しい。
「ね、シルヴァ君。ごめんね?」
「……?どういう意味だ?」
王女のことを言っているのか。
突然謝罪したセイルートに一瞬そう考えるが、彼がこんなことで曲がりなりにも申し訳なさそうな顔をするはずがない。
まだ数週間の付き合いだが、俺にもセイルートという男の人となりはわかってきている。
「や、俺やっぱり君の味方やめるからさ」
そんな彼は未だ王女に捕まっているルナの背後に回り、その体を後ろから抱き締めた。
「!」
「俺、どうやったってルナの味方しか出来ないし。
俺の“一番”だから。ね、ルナ?」
「君達兄妹はまったく…」
どうしてセイルートが彼女をルナと呼ぶのか。
どうしてそんな風に、当然のことのように、慣れた仕草で抱き寄せるのか。
どうして彼女は、呆れながらも優しい、安心しきった瞳でそれを受け入れるのか。
「ほら、見なさい!
兄様と姉様はとっても仲良しなんだから!!」
勝ち誇ったような王女の表情と弾んだ声が癪にさわる。
出来るなら今すぐ蹴り飛ばしてルナから離れさせたいくらいだが、ルナから女の子には優しくしないとダメだと言われているから我慢しなければいけない。
―――なら。
「っ痛った!!」
思いきりセイルートを蹴倒してルナから離れさせる。
そしてそのまま王女からも引き離すように抱き上げて、感触を上書きするように腕に力を込めた。
ルナはぱちぱちと不思議そうに瞬いて俺達を交互に見つめている。
でも、気に入らない。
今ルナは俺の腕のなかにいるんだから、俺だけを見ていればいい。
「ルナ、嫌なことがたくさんあった。
王女にたくさん触られたし、我儘も言われた」
「なっ、わたくしは別に――」
「あはは、確かにベルは少し我儘だからね。
君は苦労したかもしれないな」
お疲れさま、と頬に伸ばされる手はとても温かくてそれだけで胸のなかで渦巻くどす黒い思いが鎮まっていく。
「酷いですわルナ姉様!」
「ふふっ、数日間君に意地悪をされてしまったからね。
ちょっとしたお仕置きだよ。
さて、それでシルヴァはいつになったら下ろしてくれるのかな?」
「俺の疲れがとれたら」
「……この体勢は逆に疲れると思うのだけど」
そんなことはない。
現に今俺の活力は彼女に癒され回復中だ。
そしてそんな俺達の横ではジークが不審そうにセイルートを見つめている。
「貴方は一体何を考えているんです?」
「あはは…や、なんかルナの大切さ改めて実感しちゃって。
ベルのお陰かも。久々に二人っきりになれたし」
聞こえる内容に知らず腕に力が籠る。
一体あの数十分で何があったというのか。
王女などの言いなりになるんじゃなかった。
一応依頼主の娘だし、王女だからと気をつかっていたのが間違いだったのだ。
「……背後から刺されても私は助けませんよ」
「酷っ!」
「……シルヴァ?
何をはっとした顔をしているんだい?」
ジークの言葉に、なるほどそれは名案かもしれないと思ったのは秘密だ。
そしてその日の夜、夕食の席で。
「――そういうわけだから、近々夜会に出席しなければいけないんだ」
ルナはそう微笑んだ。
語られた内容は今回の依頼を達成するためのもの。
昼に侯爵から今回の黒幕としてある人物の名を挙げられたルナとセイルートは、その足で国王のもとへ向かい夜会を開いてほしいと頼んだ。
会場でわざと隙をみせ、そこへ食いついてきたところを捕らえる計画だという。
「でも、侯爵の言うことは本当かわからない」
もしもそれが嘘や誤解からくるものならば大問題だ。
「その点は問題ないと思うよ?
侯爵が俺らに嘘つく必要はないし、その前に十分脅したし。
それにルナと家とか調べたらやっぱ黒だったし」
「ルナ……?」
「戦ってはいないし、これは依頼だからそんな目で見ないでくれないかな?」
潜入するなんて危険なこと、何時の間に実行したのか。
何より俺には知らせずセイルートにだけ話しているのが気に食わなくて彼女をじとりと睨めば、困ったような苦笑が返ってきた。
「シルヴァ様がお怒りになるのは無理もありませんよ。
お二人とも、自由に動きすぎでは?」
「だってその方が手っ取り早いんだもん。
でまぁ、話戻すけど夜会にはシルヴァ君は俺の護衛として、ルナにはパートナーとして出てもらうから」
「何で」
別にルナがパートナーになる必要性なんて感じない。
ルナも護衛として出席すればいいはずだ。
「えー、だってルナは今兄貴の恋人として噂が出回ってるからね。
そんなひとが俺のパートナーとして夜会に出たら吃驚じゃん?
たぶん相手、滅茶苦茶怒り狂うと思うよ。
兄貴の恋人のくせにそれ捨てて俺にのりかえた悪女だーって」
「すごく不本意な見解だけれどね。
まあそういうわけで、丁度憎い相手がセットになっているんだ。
相手も溢れる憎しみというやつを抑えきれずに今までより大きな行動に出ると思うし、いい計画だろう?」
二人の言っていることは確かに正論だ。
けれど、やっぱり気にいらない。
なのに二人はどんどん話を進めていく。
「服の手配はセイに頼んでいいのかな?
それともこっちで用意した方が?」
「俺が用意するよ。
流行の最先端のやつ、注文しとくね」
「君のセンスは知っているけれど…次は期待していいのかい?
もしもまたあの紫のドレスを贈ってきた時のようなマネをしたら今度こそ引きちぎるよ」
「あはは、あれはごめんて。
大丈夫大丈夫、今度こそ名誉挽回するから。
あ、デザイン俺とお揃いにしていい?」
「構わないよ。あとフレイの方とも合わせて欲しいな。三人でお揃い。
どちらの気に入りも手離さない、とでも言いたげな態度で私の悪女感が増すだろう?」
「わーお流石。わかった、兄貴にも話通しとくね」
疎外感を感じているのは同じなのか、ジークが重いため息を吐く。
「お二人とも、少々話を急ぎすぎでは?
私達が追い付けません」
その言葉に二人は顔を見合わせて、同じ様にへらりと笑った。
それは困ったような、何かを誤魔化すようなもので自然と眉がよる。
「うーん、まだ抜けてないのかな」
「そんな感覚はなかったのだけど。
すまないね二人とも。少し気が急いてしまっていたみたいだ」
同じ種類の笑みを漏らす二人の間には確かに共通の、決して足を踏み入れることのできない強固な何かがあって。
それに歯痒い思いをしているのはジークも同じだ。
けれどきっとそれを知っても知らなくても、この二人には他の誰かをそこへ踏み入れさせることはしないのだろう。
「まあ、夜会までまだ時間はあるから残りの話は追々詰めていこうか。私はそろそろ部屋に戻るよ」
「なら俺も…」
「あ、シルヴァ君はちょっと待って」
話を打ちきり立ち上がったルナに続こうとした俺は、セイルートに呼び止められて動きを止めた。
彼は考えの読み取れない微笑みを浮かべ俺を見つめている。
その瞳がふと細められ、ルナに重なるがすぐにその考えは打ち消した。
別に、似てなんかいない。
「ちょっとさ、話したいことあるんだ。だから二人でデートしない?」
執務室で二人きりになった途端、セイルートは気が抜けたように自分のための豪奢な椅子に腰掛ける。
そのまま机に頬杖をつき、子供がするように頬を膨らませて扉の方向を睨んだ。
「ジークってば酷くない?
シルヴァ様、何かありましたらすぐに私を呼んでくださいね、この馬鹿に折檻しますから、とかさ。
誰が主なんだか。あ、どうぞどうぞ座って?なんか飲む?」
「何もいらない。話ってなんだ」
こっちはさっさと部屋に戻ってルナとの時間を満喫したいというのに、邪魔をする。
「ひっどいなー。シルヴァ君が気になってると思って二人っきりになる機会つくってあげたのにさ。
あと文句も言いたいだろうと思ったし。
ね、怒ってるでしょ?ルナさんのことルナって呼び出して、挙げ句抱き締めて、これ見よがしに君の前で彼女を一番だって言った俺のこと」
「……それがなんだ」
わざとらしく列挙されたそのどれもが俺の心を逆撫でする。
けれどここで冷静さを失えば負けな気がした。
「お、なーんだキレないの?
前の模擬戦の時みたくぶちギレると思ってたんだけど」
「別に、お前がどうしようと俺には関係ない」
「ホント?ならルナのことお嫁さんにもらっていいかな?」
「……ルナは、国が嫌いだ」
苦し紛れに吐き出した答えに、セイルートは笑った。
「あはは、確かに。
それにあの人は俺がお嫁さんになって、って言ったら首ふるだろうしね」
「………?」
自分で言い出したことだろうに、それを自ら否定する様に眉根がよる。
そうすればセイルートはその疑問が分かっているように笑みを浮かべたまま小首を傾げた。
「うん、君から見たらすごく不思議だろうね。
たぶん俺達の関係性、全然理解できないんじゃないかな。
君って滅茶苦茶真っ直ぐなんだもん」
「別に、真っ直ぐなんかじゃ」
幼い頃から世界の闇の部分ばかり見てきた。
そんな自分が真っ直ぐだなどと、何を言っているのか。
「うーん?君は真っ直ぐだよ?少なくとも俺やルナから見たらね。
たぶん君がルナに言ってない昔のこと話したって、そんなもんかって思うぐらいだと思うもん」
「そんなもんって…!!」
「あ、怒った?ごめんごめん。
馬鹿にしてる訳じゃないし、君の過去を軽んじてる訳でもないよ?
でもやっぱ俺達からしたらさ、その程度かって思っちゃうんだよね」
どこか遠く、俺達では辿り着けないような彼方を見つめるセイルートに、またルナが重なった。
「でさ、話戻すけど。
俺ってゆくゆくは王様になるから、その奥さんってことは王妃でしょ?
それってルナじゃ駄目なんだ。どっか他の国の王族か、この国の貴族じゃないと。
その事について俺もルナも異論はないし、当然だと思ってる。
だから未来の王様の俺が告白してもルナは絶対頷かないの。
勿論俺もそんな馬鹿なことしないしね」
セイルートの言うことは、理解はできる。
けれど自分が彼の立場にいたとして、きっとそんな風に納得はできない。
そしてそう思ったことも筒抜けなのか、目の前の彼はこれ見よがしにため息を吐く。
「ま、君は違うみたいだけど。
それかまあ、俺にもいくつか抜け道あるからそれ使えばどうにかなるんだけどさ。
今のところ俺がルナにできる最善ってやつがこの道だから、使うつもりはない」
結局、彼は俺に何が言いたいのだろう。
その意図がまったく伝わってこなくて、困惑する。
「話はそれだけか。なら帰る」
「――ルナは君にあげないよ」
扉に向きかけた足がピタリと止まった。
相変わらず目の前の男は食えない笑みを浮かべている。
「なーんて、ね。
君はさ、ルナをどうしたいの?ルナにどうしてもらいたいの?
自分を見てほしい?自分にだけ笑いかけてほしい?ずっと自分の傍にいてほしい?」
「………」
「ルナを守りたい?頼られるようになりたい?隣に立ちたい?」
「……何が言いたい」
「うーん?気になったんだよね。君がどうしたいのか、さ。
ルナ風に言うなら、君の望みってヤツを再確認したかっただけ」
そこで初めて、セイルートは表情を消した。
彼から発せられる圧倒的なプレッシャーに鳥肌が立つ。
ごくりと、勝手に喉が鳴った。
「君の言う、愛だの恋だのそんな軽いものをルナに押し付けるの、最初は子供のママゴトみたいで微笑ましかったけどやっぱり苛つく。
ルナのこと何も知らないで、知ることすら彼女に許されてない分際で不相応なこと望んでるけど、それって俺から見たらすごい軽い気持ちからの産物に見えるんだよ。
まあ何も知らないのも知らされてないのも当然だけど。
ルナって秘密主義だし、そんな簡単に他人に教えられるほど軽くないんだよね、ルナのことって。
君はまだ甘ちゃんの純情な腹黒気取ってるガキだし、余計にね。
つまり何が言いたいかっていうと、今の君にとってはその想いだとか望みはすごく重いんだろうけど、俺からしたら羽根みたいに軽くて吹けばすぐに飛んで行きそうなモノだってこと。
今の、怯えきってる君みたいにさ」
吐き捨てられる言葉は氷のように冷えきっている。
そしてその声も、表情も。
普段からしたら考えられない程の変貌に呑まれ、何も言い返せない。
「君じゃどうやったって役不足だ。だから俺、君の味方やめたの。
これならどっかその辺の使える駒拾ってきて俺が直接教育した方が下手にルナに何も望まない分絶対マシだし」
そこでセイルートは何かに気づいたように威圧を仕舞い込むと、わざとらしく邪気のない顔で微笑んだ。
「あぁ、ごめんね?ちょっと今日の昼嫌なことあってさ。
まだ苛々してて八つ当たりしちゃったみたいだ。
ルナので慣れてるのかとも思ったんだけど……」
ルナ、まだそんなに本気で君の相手してないんだ。
そう呟かれた言葉が何よりも心を穿つ。
「ともかく、さ。俺、前君に言ったよね?
あんまり望みを叶えられっぱなしにしないようにね、って。
あれ、君がルナに捨てられないようにっていう助言の意味もあったんだけど、実はもう一個考えてて」
何も言えない俺を意に介すことなく、彼は口を動かし続ける。
「君、ルナに甘えすぎだと思うんだよねぇ。
あんまりルナに負担かけないでよ。
軽くてどうでもいい望みばっかでルナを縛って、ほんと邪魔だし苛々する。
君の望みが彼女を傷つけるなら、ルナが君を捨てる前に俺が君を殺すよ?」
だからまあ、言動には気を付けてね?
そう締め括られた言葉は、ぐるぐると頭の中を回った。
それから自分が何時の間に執務室を出たのかすらわからない。
人気のない廊下で気がついたら壁に倒れそうな体を寄りかからせていた。
そしてふと手を見ると、汗ばんで小刻みに震えている。
恐らくセイルートはこれに気がついて、威圧をおさめたのだ。
――悔しい。
きっとルナだけではなくあの時のセイルートも本気で戦ってなどいなかった。
なのに、負けた。
そして何より、セイルートの言葉のすべてが心を裂いた。
――ルナをどうしたいの?
優しさに甘えて、望みを叶えるという彼女の生き方を利用して縛って、君は満足?
そんなことはない。
そう、反論したかった。
でもあの怒りを宿す漆黒の瞳の前では何も言えなくて、言えるはずがなくて。
「縛りつけてなんか、いない」
すべてから目を背けるように吐き出しても、結局無駄だった。
だって本当はわかっている。
ルナへ向かう、その殆どが身勝手な望みであること。
でもじゃあ、どうすればいいって言うんだ。
縋る手を伸ばさなければ彼女はすぐに俺の傍から消えてしまうのに。
「シルヴァ」
「………!」
そして、どうして貴女はこんなときばかり俺の前に現れるのか。
いつだってこうして俺の望む手をとってくれるから、いつまでも無様に縋ってしまうのに。
「君が迷子になって困っているとセイが言ってきてね。迎えに来たんだ」
本当にあの男は何を考えているのか。
ルナに甘えるなと言ったのはつい先程だというのに、どうしてこう機会をつくる?
自分で傷つけた俺を、よりにもよってルナに救わせるなんて、なんてえげつない手を使うのだろう。
それともこれすら彼の言う駒に対する教育なのか。
「セイに何か言われた?」
「べ、つに何も」
困ったように苦笑して小首を傾げる彼女に慌てて否定を返したけれど、詰まってしまった答えでは真実は明らかだった。
「……すまないね。彼は心配性なんだ。
しかもああ見えてネガティブ……いや、後ろ向きな考えばかりしてしまう人だから」
「………」
「君は何も気にしなくていいよ。
ただ自分の望みを叶えることだけを考えればいい」
魔法の呪文のように降り注ぐ優しい言葉は、けれどどこか突き放されている気がしてならなかった。
セイルートに言われた、俺は何も知らず、知る事すら許されていないという言葉が木霊する。
どうすれば貴女は俺にその心を見せてくれるのだろう。
もう何もかもわからずに、やめろともう一人の自分が止めるのも構わず口を開く。
「ルナは、いつになったら俺に本当を見せてくれる?」
「………」
ルナは笑んだまま小首を傾げた。変わらない表情、気配。
俺の問いで、彼女の何も揺らぎはしない。
馬鹿だと自分でもわかっている。
これだって、俺から彼女に向かう身勝手な望みだ。
あれだけ言われたというのに際限なくわくそれに、つい自嘲の笑みが漏れた。
「いつになったら本気で戦ってくれる?
過去を話してくれる?心を見せてくれる?
俺を、……俺を見てくれる?」
「ふふ、君は時々とても鋭いことを言うね。野生の勘というものなのかな」
彼女はそう呟いて俺の頬に触れた。
そんな顔をするものではないよと、細くやわらかな指が目元をそっとなぞりすぐに離れる。
ルナは俺に、嘘をつかない。隠し事はするけれど。
だから俺の質問に対する彼女の答えはいつだって、真実かごまかしかの二つだけだ。
「そうだね…いつになったら、か。
あり得るなら、君が相応しくなったら、かな」
「……」
「君はまだ弱い。私が本気を出せば殺してしまう。
そして弱いのは体だけじゃなく、心もだろう?
セイに言われてこんな風になっているのがその証拠だ。
そんな君に、私は自分のすべてを明かしたいとは思わない。
厳しい事を言うようだけど、君は私から見たら脆弱な子供だから。
――この答えで、君は納得してくれるのかな?」
そしてこの言葉は、間違いなく真実。
ごまかしでも何でもない、彼女の本当だ。
「……ん。ありがとう、ルナ」
答えがもらえた。
今はただ、それだけでいい。
例えその答えによって今の、今までの彼女が俺に全く本気も本当も見せていないという事実が裏付けられたのだとしても、それでいいのだ。
きっとすべてが嘘だったわけではないはずだから。
「ふふっ、よかった」
「……?」
至極楽しそうに笑うルナが不思議で、首を傾げる。
それに彼女は更に笑みを深くして唇を開いた。
「君がこれで納得しないのなら、私は君を置いていったから」
まるで天気のことでも話すような軽やかな声音に息を呑む。
置いていった、その意味は。
「君は本当の私を望んでいるんだろう?
ならば今の君に見せられる範囲の本当の私でこれからは接するよ。
そして私は、案外取捨選択がはっきりしているタチなんだ」
くすくすと、彼女は本当に楽しそうに笑う。
その仕草がセイルートと重なって、今度は否定できなかった。
「きっとこれからも、私は君に幾つかの選択肢を与える。
その回答を間違えば君を置いていくよ。
君や、他の人間に傲慢と思われても気にならない。
それが本当の私の一部だからね」
人というのは、身勝手でなければ生きていけないんだ。
そう彼女は笑う。
「私はきっと、どこまでも身勝手な人間だ。
気の向くままに望みを叶えて、それに飽いたら去って、また誰かの望みを叶える。
だから君ももっと身勝手で構わない。
私に望めばいいし、私を厭って離れたっていい。
どんなに他人を思いやっているふりをしても本質は身勝手で自分本意で傲慢。
それが、人間というものだろう?」
彼女がくつりと口許を歪める。
チラリとその紫の瞳に過る狂気。
けれどそれは一瞬で、すぐに消えた。
「さぁ、部屋に戻ろうか。そろそろ私も眠いしね」
「……ん」
俺に背を向けて歩き出す彼女を追いかけながら、俺は自分の手のひらをじっと見つめた。
少しだけ、分かったことがある。
たぶんルナは自分が望みを叶えた人間のことを何とも思っていない。
その人に同情したから、その人が好きだから、そんな理由で望みを叶えているのではなくて、ただ望まれたから、それだけで。
そしてセイルートはそんな彼女に何も望まない人間だ。
他人に感情もなく機械的に与えるばかりのルナに、何も望まないことで唯一何かを与える側の存在。
きっとルナとセイルートを繋ぐものはそれだけではないけれど、その事が彼女の心を占めていることも紛れもない事実。
――なら、俺はどうやってルナの心をこちらに向けさせる?
彼女に何も望まないというのはもう手遅れだ。
その位置には既にセイルートの存在があるし、何より俺はもう彼女に多くのことを望んだ後。
今更そんなことをしても彼女の心には残らない。
最悪もう望みは無いのだろうと傍を去られることだって考えられる。
なら、俺に残された選択はひとつだけ。
ルナに望んで、求めて、願う。
ただ永遠と彼女を求め続けて、そして彼女が心を持って望みを叶える唯一の存在になる。
望むことで彼女に何かを与える人間に。
俺にはそんな、セイルートとはまるで正反対の、対極の位置付けしかあり得ない。
きっと俺の選択にセイルートは激怒するだろう。
けれど、ルナは言った。
人間はどこまでも身勝手で、自分本意で、傲慢な生き物なのだと。
ならば俺はどこまでも人間らしく彼女を求めるだけだ。
俺は、そう決めた。もう誰に何を言われても、それが彼女からのものでも迷わないし揺らがない。
前を歩く彼女の後ろ姿に向かって手を伸ばす。
今はまだ、精一杯伸ばして握った手は何もつかむことは無いけれど、きっといつかは貴女の手を、心を掴みとってみせる。
貴女が俺に、愛しいという感情を持って望みを叶える未来を。