9-10*
The 4th year
Side:Silva
『ならば私は、君から逃げよう』
狂気の陰がちらつく紫暗の瞳。
伸ばした俺の手は、なんでもないように払われて。
『もし私を愛し、そして変わらずに私に共にいて欲しいと望むのなら私を追っておいで。
君が私を捕まえることが出来たなら、私は真に君のもの。
命が消えるその時まで私は君の望みを叶えよう。
君が諦めても構わない。諦めず、けれど私を捕まえることが出来なくったって。
だってシルヴァ、私は君を愛しているから。そして同じくらい、憎んでいるのだからね』
ゾッとするほど美しい微笑みを一つ、俺の脳裏に焼き付け。
彼女は、俺の前から消え失せた。
「……っ!」
最悪な気分で目を覚ます。
すぐにベッドの上、自分の隣のスペースを確認するのは最早体に染み付いてしまった癖だ。
誰もいないと分かっているのに、それでも落胆し夢は現実だったのだと絶望する自分に嫌気がさす。
もう、三年もたったというのに。
「……まだ、夜も明けてない」
鬱屈した思いを振り払うように頭を振って時計を見れば早朝とも呼べない時間。
だが眠りについたのは午前0時のことだったはずだから、いつもと比べれば眠れた方だ。
それに今日は、ヒルルクから招集がかかっていたはず。
ノロノロと起き上がり、ともかく顔を洗って少しでもスッキリしようと、俺は寝室を出た。
午前5時、ようやくギルドが開く時間。
行き慣れたオルドのその場所はこの数年間入り浸るようにして過ごしているため、俺が室内に入ればすぐに周囲がざわめき始める。
だがそんな何時までも俺に慣れない周囲に俺が慣れた。
すたすたと周りを気にせず歩けば勝手に人が動き道が出来るのだから、むしろ楽なものだ。
階段をのぼり、二階にあるヒルルクの部屋の扉を開く。
相変わらず室内を漂う煙管の香りが鼻につき少し顔をしかめた。
「……なんじゃ、相変わらず無礼な小僧じゃな。ノックもせんとは。
そんな礼儀作法も知らんなどと、お前を教え導いた師匠とやらの程度も知れるぞ」
「あまり俺をからかうな。
……それに、その事を口に出すな」
大分落ち着いてきたとは言え、まだ自分でも何をするか分からないのだから。
殺気を飛ばした俺にヒルルクは動揺を欠片も見せず鼻で笑うと、ツ、と部屋を見回す。
「ふん、何を言おうがわしの勝手じゃろう。
――さて、これで皆揃ったな」
室内には俺以外にランクSSを持つ氷雨と煌炎の姿があった。
そしてそれと一緒に一組の男女も。
あれらも今回の討伐に参加するメンバーの一員なのだろうか。
ともかく扉を閉ざし、結界を張る。
SSが関わる依頼は危険度や秘匿度が他とは比べ物にならない程増す。
従って普通はギルドの一階の掲示板にて内容を選び、それを受付に申し出て説明を受ける形をとるが、SSランクの依頼はその選択、説明を全てギルドマスターの部屋で行うのだ。
ヒルルクからの目配せを受け、手に持った書類を氷雨が読み上げ始める。
「今回の依頼は魔物の討伐。
その中で確認されている個体はドラゴン五頭、ワイバーン十頭、キングオーク三体、その他雑魚が数体だ。
討伐に参加するメンバーはランクSS煌炎、明星、氷雨、ランクA+帷、彩花の五名」
ランクA+。現在ギルドに在籍している高ランクの人間は11名。
そのうちランクSSが俺を含め3人、Sは剛毅と風音、そして焔火の同じく3人、そしてA+が5人だったか。
SSが三人揃っている今、本来なら必要のない人員だが――下のランクの実力を底上げさせるつもりかもしれない。
高ランクは実力者が揃ってはいるが、その分依頼も危険度が高く命を落としやすい。
特にそれは高ランクに入ったばかりのランクA+で顕著だ。
「帷は戦闘中魔物の逃走と一般人の戦場への侵入を防ぐため結界を張りながら、彩花は付加魔術と治癒魔術でのサポートを行いつつで魔物の殲滅にあたってもらう。
SSはその補助と全体的な駆除だ。
場所は“帝国”東に位置する岩山。
出発は三十分後、この場からの転移。以上だ」
ドラゴン、ワイバーン、オーク。
どれも特に準備するものは必要なさそうだ。
元々道具は戦闘中殆ど使わないし、彼女が誂えてくれた剣で斬れないものはない。
レナードの服もドラゴンの炎程度では焦げ付きもしないだろう。
つまりこれから三十分、特にすることはないわけだ。
「ヒルルク、ソファーを借りる」
「お前、準備はいいのか?」
「特に必要ない」
「ここはわしの部屋じゃが。
そしてわしはまだ仕事がある」
「今回俺が狩る素材、換金は半額で構わない」
反論がないということはそれで了承を得られたということだ。
二人がけのそれに半分寝転ぶように座って、目を閉じる。
「……こういう所ばかりどこぞの誰かからしっかり教えられたようじゃな」
「五月蝿い。口にするなと言った」
「ふん」
俺とヒルルクのやり取りを見守っていた面子も準備のためか部屋を出ていく。
ようやくいくらか気が抜けるというものだ。
「……それで、情報はないのか」
「はて、何のことじゃ?」
とぼける声に思わず舌打ちした。
俺が聞くことなんて、決まっているだろう。
「何かないのか。些細なことでも、何でもいい」
「………まだ、諦めておらんのか」
「お前には関係ない」
どうしようもない子供を見るような、そんな目が癪にさわる。
苛立つ心を宥めるように、首からさげたギルド証がチリリと鳴った。
「……真実かどうか、確かではないが。
最近“帝国”でフードを目深に被った人間が目撃されておる。
声からして若い女らしい。
それもフードからこぼれる程長い黒髪をもった、な」
「………」
「わしはな、今回ちと心配しておる。
もしかしたらだが……あれも望まれ、討伐の場に姿を現すかもしれん。
そうなった時、お前が我を失わないかどうか」
確かに、彼女が魔物の殲滅を望まれる可能性は十分にある。
“帝国”皇帝は彼女と親しく、また東側と言えば“王国”との国境だ。
……“王国”は、セイルートの国だから。
もしかしたら、望まれずとも彼女は来るかもしれない。
「シルヴァ………いや、明星。
お前は今やギルドランクSSの“明星”じゃ。
師であるあれのいた地位に立つことを許された者。
その位置にはそれなりの重みがあることを忘れるな」
「………」
確かに俺は今、シルヴァではなく明星なのだろう。
けれどその言葉は今の俺にとって何の枷にもならないものだ。
俺をそうして重く鎖に繋ぐことができるのはただ彼女の与えてくれるものだけ。
答えずにただ目を閉じる俺に、ヒルルクもそれ以上は何も言わなかった。
そして三十分後、俺達は無事に目的地へと転移した。
「……ったく、他人の転移はどうも慣れないな」
今回のチームリーダーに任命された氷雨は着いて早々愚痴をこぼしている。
四十代程に見える外見や咥えた煙草も相俟って、文句の多い中年親父という様相だ。
戦闘へ用いる魔力を少しでも多くするため、このような大掛かりな討伐依頼ではギルドがメンバーを現地へと送ってくれることになっている。
彼の言う通り、他人、それも格下の相手の転移術は荒く、少々不快になるのは確かだ。
彼女の転移はもっと優しかった。
まるでふわりと飛んでいるかのような一瞬の浮遊感の後には、気づいたら術は全て終了しているのだから。
何度か俺も彼女を転移で運んだことがあったけれど、あの頃の自分の術はきっと彼女にとってとても拙く、粗削りなものに感じられていただろう。
「折角の厚意です、文句を言うものではありませんよ。
さて、氷雨。これからの行動は?」
やんわりと氷雨をたしなめたのは煌炎だ。
相変わらず荒々しい炎を扱う者とは思えないほど平素は穏やかな立ち居振舞いをしている。
「あぁ、そうだったな……
魔物が俺達の今いる場所まで辿り着くのに、あと一日程という予測が出ている。
それまでにきちんとここへ追い込めるよう、準備をするつもりだ」
「…そんなにあるのか?
すぐに戦闘に入ると思っていた」
「明星はそれで問題ないだろうが、俺達――少なくとも俺とそっちの二人はそうもいかない」
「あぁ、岩場が悪いと言うことか」
足場が悪いこと、そして全く水気がないこと。
二つ名の通り氷と水を操る氷雨に、この乾燥した場所は確かにやりにくいかもしれない。
別に神喰らいなどの伝説級の魔物を相手にするわけでもない単純な討伐では特に気にする程度ではないはずだが、今回はお荷物が二人いるから気を遣っているんだろう。
反対に煌炎は思いきり暴れられる場所だ。
何しろ岩山で木が殆どないから、山火事の心配がない。
「それでは必要な準備としては魔物の追い込み、そしてある程度の足場の安定を、氷雨は自分の術の用意をする訳ですね。
頑張って戦闘でも役に立って下さいね、氷雨」
「雨は降らせるなよ。
煌炎の威力が弱まるし、俺も濡れるのは嫌だ。
やるなら自分の上だけにしろ」
「お前ら鬼か……」
がっくりと肩を落とす彼を慰める気は起きない。
取り敢えず放置して話を詰めなければ。
「魔物の追い込みだとか、そういう作業は俺はあまりしないから向いていない。足場の安定をする」
「分かりました、では俺が追い込みの方の指揮をとりましょう。
氷雨は自分の事をやってもらいますから、使えそうにありませんし。
……あなた方は、どうしますか?」
すっかりいるのかいないのか分からない状態だった残りの二人が反応する。
帷という名の、恐らく結界術師と彩花という治癒と補助の魔術師。
「あ、俺は追い込みの方を手伝わせてください。
あと、挨拶が遅れましたがランクA+、“帷”の名をいただいている結界術師です。
今回はこの地を結界で封鎖することをメインに、群れ規模の魔物への実戦経験を積むため参加させて頂きました」
やはり結界術師。
結界術師というのは結界を張ることを専門的に行う魔術師の総称だ。
彼らは結界を様々な形として展開し、それによる攻撃、防御、戦闘のサポートを行う。
中でもただの魔術師とは比べ物にならない結界への条件付けは、戦闘でかなりのメリットになるとギルド間でも話題になっていたはずだ。
俺のランクがSだった時には名前を聞かなかったから、期待の新人ということだろう。
それに続いてもう一人の女術者もペコリと頭を下げた。
「付加魔術によるサポートと治癒を主に担当させていただきます、ギルドランクA+、彩花です。よ、よろしくお願いします!」
尖った耳、治癒と付加魔術と言っているから、精霊族なのだろう。
脳裏に桃色の髪と胡桃のような瞳を持った、ひとつ年上の夜の精霊族が浮かび上がる。
……正直、あまりいい思い出はない。
ただ彼には一年ほど前の中ぼすへと続く四天王としての戦いで勝利をおさめているためそこまでではなかった。
現在俺は四天王のすべてを降すことに成功しており、だから精霊族や緑の髪を持つ女や研究者肌の老人や竜族に対して妙な逆恨みと言うか言いがかりを持つことは無くなっている。
「あぁ、二人ともよろしく。
そう言えば挨拶もしてなかったんだよな。
俺達はある程度顔見知りだから忘れてたよ」
「いえ、皆さんのことは色々と伺っていますから」
「……そういうことなら必要ないだろう。まずは準備だ」
「相変わらず冷たいですね、明星は。
ですがまあいいでしょう。
では帷は俺と誘い込みの方を、明星は足場を、彩花は氷雨を手伝ってあげてください」
そう言われても、馴れ合う気はないのだ。
だから煌炎のふりわけは助かる。
だが彩花は戸惑ったように俺と彼を見つめた。
「あの、明星様のお手伝いはいいんですか?」
「……様?」
慣れない呼称につい眉がよる。
そう言えば彼女も、いつだったか依頼主から様付けされて嫌そうな顔をしていたっけ。
「……あっ、いえあの!
その、私、明星様に憧れていまして、様付けして呼ばせて頂いてます…」
「あははっ、こいつにか?」
「明星に失礼ですよ、氷雨。
それで彩花、はっきり言って足場の安定はすぐに終わるんです。
なので彼に手伝いはいりません。
……なんなら、今やってもらいますか?」
「えっ」
「……俺は構わない」
意味深な煌炎の微笑みは、一体何を考えているのか。
だが彼の提案に否があるわけでもなく、俺は腰に差した剣を鞘から抜き放ち、いくらかの魔力を込めながら地面に突き刺した。
そうすれば剣を中心に地面が盛り上がり、ゴツゴツとした岩肌は半径一キロ程の範囲で滑らかな地面になる。
「すごっ……」
「彼は後輩ですが、実力は今や俺達よりあります。
今までの経歴を考えればこの程度のことは朝飯前ですよ。
これで足場作りは終わりましたし、明星は俺の方の手伝いをしてください」
「……煌炎、人手が欲しかっただけだろう」
あの笑みはそういうことか。
そう言えば彼は、穏やかな物言いで他人を動かすことが得意な人間なのだと彼女もボヤいていた。
「そんなことはありませんよ?
ただまあ、貴方に比べれば俺はもう年寄りなので、若い人により多く働けてもらえると助かるんです」
「竜族なんだから、俺より老いているのは当然だ」
「聞こえませんね。
では彩花、この通りですので貴女は氷雨の手伝いを――彩花?」
訝しげに見る煌炎の目を追えば、こちらを見つめる彩花の目線とぶつかった。
……この目には、見覚えがある。
俺が昔彼女を見ていた目にそっくりだ。
そしてそこから導き出せる答えに頭痛がした。
「……先に行く。帷、魔物を誘い込むためにはたぶんお前が殆どの術をかけることになる。
飛ぶからいいポジションを上から探して言え」
「え、ちょっと、明星さん、うわっ!」
帷を小脇に抱え飛び立つ瞬間。
「ったく。何でもかんでも師匠に似てきたな」
そんな呟きが聞こえて、拳を握った。
結局あの後幾つかのポイントに帷が魔術を仕掛け、おかしな方向に魔物が進まないよう魔物が嫌う香りの香や魔具をおいて準備は終了した。
氷雨の方も彩花に水系統の付加魔術をいくつか重ねてかけてもらうことで解決したらしい。
夜も更け、見張りの当番を終えた俺は次の担当である氷雨に断りを入れて、夜営地から離れた切り立った崖の縁に座り込んだ。
久しぶりに他人と長時間過ごして、息苦しささえ感じる自分に苦笑が漏れる。
あの頃はその自分の言う他人と、少しでも離れることを嫌がっていたくせに。
彼女と過ごした日々、その片鱗でさえ思い出せば止まらなくなる。
次第に苦笑すら歪み、ただ苦しさだけが残った。
「……っ、会いたい…」
貴女は今、どこにいるのだろう。
首から下げるギルド証、以前は彼女の胸元で揺れていたそれを取りだし握り締める。髪を結っていたリボンも解いた。
もう、俺にはそれしか縋れるものがないから。
あの時以来切ることもせず伸ばしっぱなしで、適当に編まれていた銀髪が背に広がる。
どちらも彼女の色を持つ大切なものだ。
リボンは三年前“王国”での依頼の際に本人から貰ったが、ギルド証はSSになったとき無理を言ってヒルルクから半ば奪うように手にいれた。
今ではこれが俺のギルド証になっている。
彼女は俺の前から逃げてすぐに、ヒルルクの元へギルドを辞めるとだけ言ってこれを置いていったらしい。
この二年の間、彼女を見つけ出したのは十回程。
けれどそのどれも声を聞くこともなく容易く指先から逃れられてしまう。
力でも魔術でも策でも敵わない彼女が、遠い。
そのたび絶望し、這い上がり、そしてまた苦しんで、それでも彼女を求める自分を止められない。
それは依存だと言われたこともあった。でも―――
「……明星、様」
静かな闇夜に今回のチームメンバーの一人、彩花の声が響いた。
気配で近づいて来ていることが分かっていたから動揺はしない。
ただ他人が近づいて来たことが不快で、振り返る事はせずに直ぐ様立ち上がりリボンとギルド証を仕舞い込む。
本当はどちらもあまり他人に見せたい物ではなく、けれど同時に俺はずっと彼女のものなのだと、そう周囲に知らしめたくもあった。
「何の用だ」
「すみません……お邪魔、でしたよね?」
「分かっているならさっさとどこかへ行け」
にべもなく言い放った俺に対し、彩花は怯みながらもその場に居座り続けた。
邪魔だ。せっかく一人になりたくてあの場から離れたのに、これでは意味がない。
だが彩花はそんな俺の心境も知らず、勝手に口を開き勝手に己の心のうちを吐露し始めてしまった。
「私、ずっと貴方と一緒に仕事をするのが夢だったんです。
五年程前にオルドのギルドで明星様を見かけて、最初はただ外見で一目惚れしました。
それから貴方のことを噂で知って、その強さに惹かれました」
「………」
「明星様にとっては、会ったばかりの女が急に何を言っているんだと思うでしょうけど……私は本当に、貴方に憧れて、貴方が本当に、好き、なんです…」
予想は当たっていたらしい。
いつかの俺が彼女を見ていた時と同じ温度の目。
それに誰より俺が、気づかないはずもなかったのかも知れない。
そして今俺はかつての彼女の位置に立って、少しだけあの頃の彼女の思いが分かるような気がした。
自分が余計なものを削ぎ落として見せている表面上のものに惹かれたという人間。
自分の中にある闇も狂気も、この人間は何も知らないのだ。
そんな相手にどう応えろというのか。
「お前がどう思おうと、俺はお前に興味はない」
「分かっています。
……三年前まで明星様の隣にいた綺麗な女の人のこと、知っていますから。
その女の人と一緒にいる貴方は、それだけでとても幸せそうでした」
「……」
「一つだけ、聞かせて欲しいんです。
あの女性は明星様の、恋人、ですか?」
「……違う」
彼女は、そんなんじゃない。
友人より重くて、恋人より甘くて、伴侶よりも大切な、ただ一人のひと。
いつだったか、彼女は言っていた。
友人も恋人も伴侶もどれも同じだと。
その気持ちも今の俺になら少しだけ分かった。
たぶん、そんな風に名前をつけられる存在ではないのだ。
唯一というのはただそれだけで価値があるもので、それに対する呼び名など必要としない。
ただ彼女が彼女であるだけで俺は―――なんて、どう心で叫んでも彼女を独占したい気持ちは止まないのだから、きっと俺は彼女に“恋人”や“伴侶”という立ち位置を求めてしまうのだけれど。
「なら……!」
苦いものを呑み込んで、どうにか絞り出した答えに彩花が反応する。
場所が崖だったのがいけなかった。
危険性を考えれば避けることも振り払うことも出来ず、ただ体にまわさせる腕の感触に耐えた。
彼女のものじゃないというだけで、すぐにでもまとわりつく腕を斬り落としたい激情に駆られた。
「離せ」
「好きです。好きなんです。
あの人と、そういう関係じゃないのなら……私を、見てはくれませんか?
お願いします……シルヴァ、様」
「っ、呼ぶな!」
限界だった。
耳に残る彼女の声を上書きするように呼ばれた名が、力を増す女の細い腕が。
全てが俺の思い出を穢すようで、汚いものを振り払うように彩花の体を押し退ける。
「俺の名前を、呼ぶな。
そう呼んでいいのは、お前じゃない!
俺に触れるのも、俺の名を呼ぶのも、俺が想うのも、ただ―――っ、」
感情が、爆発する。
けれど彼女の名前をこんな風に口にはしたくなくて、他人になど触れさせたくなくて、血が滲むほど唇を噛み締めた。
そんな俺を彩花は怯えたようにへたり込みながら見上げている。
彼女だったら、きっと微笑んでこんな俺をたしなめた。
女の子には優しくするものだよ、と。
でも、貴女の言う通りになんて、もう俺には出来ない。
「……近づくな」
そう吐き捨て、夜営地に戻る。
着いた先で氷雨が興味深げにこちらを見ていても黙殺した。
手引き、若しくは後押ししたのは彼のはずだ。
やはり他人と依頼をするべきではない。
こんな不愉快な面倒事が起きるなら一人でやっていた方が余程楽だ。
これ以上煩わさせる事のないように念入りに自分だけを囲む結界を張り巡らせ、俺は例え悪夢だったとしても確かに彼女と出会える眠りに落ちた。




