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3 距離

 青空に緑の眩しい五月はあっという間に過ぎて、気づけば季節は初夏になっていた。梅雨入り宣言はまだされていないものの、曇りがちでぱっとしない天気が続いている。

 まるで自分の心を表しているみたいだ――なんて言うつもりはないけれど、俺自身、どこかすっきりしないものを抱えていることは事実だった。


 豊夏ゆたかとの関係は、あれからほとんど変わらない。離れた距離は変わらないはずなのに、不思議と前よりも遠ざかった気がした。

 相変わらず豊夏はすれ違えばあいさつしてくるし、用事があるときには話しかけてくる。けれど、あくまでそれだけで、それ以上の触れ合いはない。「おはよう」から昨日見たテレビの話に発展することもないし、プリントや提出物を集め終わればさっさと俺の元を去っていく。もっとも、それは俺も同じで、係の連絡なんかの用がない限り、自分からあいつに話しかけることもない。同じクラスだから毎日顔を合わせてはいるけれど、まるでお互いの間に見えない壁があるようだった。

 それでも、一定の距離を取り続けていれば、いつしかその遠さにも慣れていくものだ。前は一緒だった休み時間や教室移動も別行動をとるようになったし、それがひと月も続けば、まるでずっと前からそうしていたような気にさえなってくる。

 心の底に沈んでいるモヤモヤは相変わらず消えないままだったけれど、このよどんだような気持ちも、きっと時間が経てば薄れていくんじゃないか。持て余す気持ちをごまかすように、そう思っていた矢先の出来事だった。



 放課後、俺は人気の少ない廊下を急いでいた。委員会の集まりが長引いたせいで、部活動に向かうのが遅れていたためだ。

 小さい頃からスイミングを習っていたこともあり、俺は泳ぐのが好きだった。何か悩みがある時でも、水の中で泳ぎに集中すれば無心になれる。そんな単純な理由から水泳部に入った俺は、授業以外でも部活で泳げるのを楽しみにしていた。けれど、最近は曇りで気温が上がらない日が多く、せっかくプール開きを終えたのに、部活の時間は室内での筋トレ三昧だった。珍しく朝からカラッと晴れた今日は、プールに入る許可が久しぶりに下りた待望の日だったのだ。

 それなのに、委員会の話し合いが今日に限ってなかなか終わらなかった。やっと話し合いが終わって、すぐにでも部活に直行したかったけれど、プールに行く前に、教室に置いてある水着入れを取りに行かないといけない。こんなタイミングで集まらされた委員会の存在を心の中で呪いながら、周囲に教師の姿がないのを良いことに、駆け足に近い早歩きで廊下を進んでいく。

 ようやく自分の教室にさしかかり、いざ中に入ろうと扉に手をかけた時だ。少し開いた引き戸の隙間から、誰かの声が漏れ聞こえてきた。


「だからさ、なんで芳野よしのがそこまでやんなきゃなんねーんだって」


 急いでいたにもかかわらず立ち止まってしまったのは、耳に飛び込んできた声に聞き覚えがあったからじゃない。

 ――『芳野よしの』。その苗字が、よく知った幼馴染――芳野よしの 豊夏ゆたかのものだったからだ。


「その仕事だって、べつにお前一人でやる必要ないだろ。委員は二人いるんだから、委員会で言われた仕事だったら一緒にやればいいじゃん」

「でも、今日の放課後は用事があるって言われたから……」

「そんなの、さぼりの口実じゃねえの? 『芳野が何でも一人でやってくれるからラクだ』って、あいつ言ってたぞ」


 和気あいあいとは言いがたい雰囲気に、ずけずけと入っていくのは少しはばかられる気がして、入ろうとしていた教室後方の扉に付いている窓から、そっと中をのぞいてみる。

 黒板に背を向けた格好で、教室の前の席に腰かけながら話しているのは、同じクラスの男――道島みちしま たけるだ。男女ともに友人が多く、明るいムードメーカー的な存在で、豊夏とも度々話しているのを見たことがある。だが、今の彼は普段のほがらかな様子とは違い、心なしか低く聞こえる声や笑いのない表情からも、なにか深刻な話をしているように見えた。

 一方、道島に向かい合うようにして机の間に立っている豊夏は、ちょうど教室の後ろ、つまり俺の見ている側に背を向けていて、その表情はわからない。ただ、さっきのやりとりや声を聞いた限りでは、道島に言われたことに対して戸惑っているというか、困惑しているようだった。


「さぼりとか……そんな風に決めつけるのはよくないよ。誰にだって、忙しい時はあると思うし」

「確かに、さぼったって確実な証拠もないけどさ。俺が言いたいのは、芳野が無理してんじゃねーのってことなんだけど」

「え……?」


 しん、と沈黙が降りる。顔は見えないけれど、豊夏の驚いている表情が目に浮かんだ。


「お前、このごろおかしくね? お人よしなのは知ってたけど、最近やり過ぎっつーかさ。自覚してるかわかんないけど、どっか無理してるように見えるんだよ」

「あはは、おかしいってひどいなあ。確かに、昔から『お前はお人よしだ』ってよくバカにされるけど、べつに今に始まったことじゃないし」

「あー、おかしいって言い方は失礼か、悪い。別の言葉で表すなら、最近の芳野は、前までとなんか違う気がするんだよ」

「……違うって、何が違うの? そんなこと言われても、自分ではよくわからないよ」

「じゃあ、具体的に言ってみっけどさ。前までの芳野は単なるお人よしって感じだったけど、今のお前はお人よしを超えてるっつーか、奉仕の精神溢れすぎって感じなんだよな。たとえば、自分の仕事でいっぱいいっぱいに見える時も、頼まれれば人の仕事までやろうとしてるし。しかも、相手が別に本格的に困ってるわけでもない、そのままやらせときゃなんとかなるような仕事まで進んで引き受けてるように見えるし。――前までは、そんなことなかったよな?」

「……そう、かなあ。別に、いつも通りだよ。いつも通り、普通にしてるだけで……」


 教室の中の妙な緊張感がこちらにまで伝わってくる気がして、思わず息をひそめた。さっさと荷物を取って部活に行きたかったものの、この空気の中に入っていくのは気まずく感じられる。

 それに、道島が話している内容に対しての驚きもあった。確かに最近、豊夏あいつの姿を見かけることが少なくなった気がしていたが、それもお互いの距離が離れたせいだろうと思っていたし、道島が指摘したような変化があったなんて気づかなかった。

 道島は、周囲の空気が読めるだけでなく、それに対処するのが上手い。クラスの中で小競り合いがあって空気がおかしくなりそうな時、それにいち早く反応して気の利いたことを言ったり、周りを笑わせて場の雰囲気を和ませるのはいつも道島だった。そんな風に周りをよく見ているやつだからこそ、人付き合いも上手いしムードメーカーになるのも納得だとは思っていたけれど、まさか、豊夏のことをそんなに詳しく見ていたなんて……そこまで、あいつの変化に気づいていたなんて知らなかった。

 豊夏の反応から推測するに、道島の言っていることは全くの的外れでもないようだったけれど、それが間違いなく本当なのか確かめたい。そんな思いに後押しされるように、俺は扉の陰に身をひそめた。中の二人から見えないよう、扉に寄り添うようにして廊下側に向き直り、耳をすます。


「……ま、ホントに芳野が気にしてないならいいんだけど。なんかいっつも忙しそうにしてるし、単純に大変じゃないかと思ってさ。おせっかいなのはわかってるけど気になっちまって。ホント、気ぃ悪くしたらゴメンな」

「そんなことないよ、心配してくれてありがとう。……でも、本当に大丈夫だよ。別に無理とかしてるわけじゃないし、何かあったら道島くんとか周りの人にも相談するから」

「なら、いいんだけどさ……ホントに遠慮とかすんなよ? お前、マジでお人よしだからな」


 真剣に豊夏を気遣っていることが伝わる道島の様子に、豊夏の口調も少しほぐれ、雰囲気もやわらいだようだった。

 わざわざ隠れたばかりなのに、早くも会話が終わりそうで拍子抜けしたが、これならロッカーから荷物を取ってくるくらいは出来そうだ。今がチャンスと踏み出そうとした俺の足を、しかしまたもや引きとめたのは、独り言のようにつぶやかれた道島の言葉だった。


「そんなお人よしなのに、なんでいまだに『あいつ』とケンカしてんのか、俺としては不思議なんだけどな」


 何気ない一言が、割れたガラスの破片のように心に突き刺さり、俺の動きを止める。

 道島は名前を出さなかったけれど、誰のことを言っているのかは嫌でもわかった。俺と豊夏の様子が以前とは違っていることを、同じクラスで人間関係も広い道島も、当然のように気づいていたらしい。


「別に、紘ちゃんとはケンカしてるわけじゃないよ。……前にも言ったよね? なんでもないって」

「それは聞いたけど、でも何かは確実にあっただろ。お前ら幼なじみだって言ってたし、すっげー仲良かったじゃん。なのにある日突然つるまなくなって、それ、外から見ればかなりの違和感よ? それでなんでもないって言われても、悪いけど外野としては納得できねーんだよなー」


 再び声の硬くなった豊夏に対して、道島はあくまで軽快な調子を保ってはいるものの、言っている内容はズバリと核心に触れていて、その言葉には刃物で切り込むような鋭さすら感じられた。大きい声を出したり口調を荒げたりして相手を責めているわけではないけれど、自分が納得する答えを聞くまでは決して引かない手強さを感じさせる。人好きのするただの明るい奴かと思っていたけれど、なかなかどうして喰えないところもあるようだ。

 そんな道島に対して、豊夏はどう答えるか迷ったように押し黙った。

 沈黙が続いたあと、かすかな声が空気を揺らす。


「…………ケンカなんかじゃないんだ」

「え?」

「……ケンカなんかじゃないよ。紘ちゃんは、悪くない……悪いのは全部、僕だから」

「芳野、それってどういう――」

「ごめん、僕そろそろ職員室に行かないと! 先生のところに課題のノート提出にいかないといけないの忘れてて……悪いけど時間ないから、また明日ね!」


 強引に打ち切られた会話のあとに、バタバタと荷物をまとめるような音が聞こえてきて、俺は今更ながら焦った。

 このまま豊夏が出てきたら鉢合わせになってしまう。――逃げるか? それともいっそ今来たふりで堂々と中に入っていくべきか――どうするか決めかねているうちに、俺のいる教室後方ではなく、前方の扉がガラッと開く。

 飛び出してきた豊夏は、固まっている俺とは反対の方向へ一目散に駆けていき、廊下の端の階段を下ってあっという間に見えなくなった。職員室は一階にあるし、走っていく後ろ姿に鞄を持っているのが見えたから、少なくともすぐにこちらに戻ってくることはないだろう。

 とりあえず、豊夏が急いでいたおかげで見つからずに済んだことにほっとして、思わず息を吐き出した。そもそも、元はと言えば隠れて話を聞いてしまった自分が悪いのだが。あくまで成り行き上での出来心のようなものだったけれど、結局話を聞いてしまった以上、後ろめたさはやっぱり残る。

 やましいことはするもんじゃないと反省しながら、今度こそ本来の目的を果たそうと扉に向き直った瞬間だった。目の前の戸が勢いよく開き、俺は三度足を止める羽目になってしまった。


「人の話を盗み聞きするのは感心しないなあ、『紘ちゃん』?」


 開いた扉の向こうに立っていたのは、さっきまで豊夏と話していた張本人。

 人好きのする顔に、喰えない笑みを浮かべた道島だった。


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