05/変化
階段を駆け上がった星弥は、六階の廊下に飛び出した。
視界に人影が映る。
白衣に身を包んだ医者の男と看護師の女、それに少し離れたところに窓の外を眺めるパジャマ姿の老夫が一人。
……考えろ。ここに敵はいるか?
医者と看護師は星弥とは反対方向へと歩いて行く。その仕草からして、こちらにも気づいていない。無害の可能性が高い。
ではあそこに立っている老人は? 窓の外へと意識が向いている。もしも何らかの形でこちらの場所がわかっているなら……。
星弥は慌てて動く。先ほどまで立っていた場所に音もなく槍が突き出た。
……場所がわかっているなら、俺がここにいる時点で何らかの反応を示すはずだ。
なら、彼もホルダーではない可能性が高い。来ているのを理解した上で無反応を貫いている可能性はあるが、いや……そうじゃない。
――またやっている。焦るな! 思考が空回りしてるのを自覚しろ!
星弥は自分の頭を小突く。冷静になったフリをしても、思考が正常ではないのは明らかだ。
星弥はまた動く。最小限に、早足で動いて、槍が突き出るのを確認する。
左手を顔に添えた。そう、星弥には顛帯観測がある。悩む必要はない。見たままを判断し、視界内にホルダーがいるかを知ればいい。
そうして再度、廊下を確認する。医者と看護師は既に姿が見えなくなっており、老人はまだ窓の外を眺めていた。
左目で見る。
患者の二文字……ホルダーではない。
六階の廊下にホルダーはいない。そう確認して、また少しだけ動いて槍を避ける。
槍。一文字で書かれたそれは、槍の形状までは示さない。星弥は顛帯観測を解除して、通常の視界に戻した。
――この何らかの攻撃は殺傷力があるのかもしれないが、即応性にはかなり難があるのを星弥は把握し始めていた。
遭遇時にはとにかく逃げまわってしまったが、落ち着いてみると早足程度の動きにこの槍の発生は追いつけていない。回避する。
数は必ず一つだが途絶えず出続け、地面から槍が伸び、貫いてくる。
……だが、それだけだ。
地面が歪む瞬間を確認してからでも、急いで動けば回避できる。
槍は必ず真上へと伸びる。
床が歪んでから槍が伸び始めるまでにだいたい二秒。
槍が伸び始めたら、完全に伸びきるまではほぼ一瞬といったところか。
油断していては危険だが、常に足元を確認していれば回避できる。星弥は何度目かの槍を回避する。
……この槍の発生に音がないのが救いか。もっともらしい轟音などを立てようものなら、すぐに近くの病室の患者たちが気づくだろう。槍を避ける。
まずは呼吸を整えて、体力を回復しないといけない。こんな時に、日頃の運動不足と、久しぶりの運動で筋肉痛になっている足が仇になった。避ける。
こうして見ると、この槍にはもはや脅威は感じられない。避ける。
精神的にはプレッシャーになるものの、少なくとも廊下を早歩きする程度に移動していればまず当たらない攻撃だ。避ける。
遠目から車がやってくるのがわかっていながら、急ぎ足で道路を横断してしまう。その程度の危険である。避ける。
だが、いつまでも避け続けているわけにもいかない。どこかで集中力はきれるだろうし、このままというわけにも……避ける。
――そもそも、この槍はどうやって俺を探しているんだ?
星弥は疑問を浮かべる。
その疑問を推理するには、槍の発動間隔は思考を中断させる程度には頻繁であり、もどかしい。
槍を避けながらも、老人が病室に戻ったのを確認して反対側の階段へと移動した。
槍はやはり、数歩遅れて追いかけてくる。早歩きを続ける限りはまず捕まる事はない。
このままの速度を維持して、残りの階も捜索すれば……。
星弥は足早に階段踊り場へと歩み寄った。
「おっと!」
「うわっと!」
歩み寄ったところで、階段を上がってきた男性とぶつかりそうになる。
「す、すみま、せ……!」
咄嗟に立ち止まり、目と鼻の先まで近づいた男を見上げて、そう声だけを出す。
思考が停止した。どうする。巻き込んでしまう。何か、何とかして伝えないと……!
「あ、え、と」
伝えたい危険が言葉にならない。
「いや、こっちこそごめんね。急いでたから」
そういって男……服装からして医者の男は、ゆったりと踵を返した。
そのまま背を向けて、遠くへ離れてくれれば……!
足元を見る。まだ歪んでいない。
顔を上げて、男をみる。
男は、"無音で現れた槍に貫かれていた"。
「……!!」
星弥は息を飲む。いや、単純にその殺傷力に恐怖して、声が出なかっただけだ。
先ほどの看護師の女性同様、槍に貫かれ空中に浮き上がった男は、声にならないかすれた音を出して、すぐに動かなくなった。
「先生、ちょっといいですか! 下の階で塚原さんが血まみれで倒れてて……っ!」
数秒遅れて、今度は階段を駆け上がってきた看護師の男と鉢合わせした。
看護師の男は不気味に突き立った槍に貫かれた男性医師を見て目を見開き、続いて同じく硬直して動けなかった星弥と目が合う。
先に思考を取り戻したのは星弥だった。
まずい、早くこの場から離れなければ。
そう考えながら、足元を確認して足を動かそうとする。
――床が歪んでいない。
一瞬、動き出そうとした足に、脳の全ての電気信号を使って、静止を呼びかけた。
動くな……! 待て!
「――う、うわああああああああ!!!!!」
直後、看護師の男が叫んだ。
反射的に動きたくなる自分を、星弥は必死に止める。
待て、まだ動くな。
"まだ、足元の床は歪んでいない"。
……槍が消失し、男性医師の体が床に落ちる。
べちゃ、と血の池に落ちた音がして、口元を押さえて震えていた男が今度こそ階段を上がりきって医師に駆け寄る。
看護師の男が通り過ぎた後に、無音の槍が突き立った。
「……! あなた! その場を離れて、早く!」
「……!? え、でも、相模先生が……! 君、ここで何があった――」
倒れて動かない男性医師に駆け寄った看護師は、しゃがんでいる状態から槍の餌食になった。
「あ、が……」
苦悶の声が聞こえる。星弥は震えを抑えるべく、下を向いて、拳を握った。
……まだ、足元の床は、歪んでいない……。
――星弥は数えた。槍が出てから、それが消えて、看護師の男が床に落ちるまでを数えた。
八秒。べちゃ、という嫌な音が聞こえ、血が足元まで飛んで来る。
床が歪んで起動までに二秒。
槍が発生しその形状になるまではコンマ五秒。
槍の形状を保っていられるのは、八秒。
そして、星弥の足元の床は、まだ歪まない。
星弥の中に、一つの解答が生まれた。
……震える手で、懐を探る。時間がない。悲鳴が上がってから一分。もういつ、背後の病室から患者が出てくるかもわからない。
探す。探す。探す。
……内ポケットで、クシャリ、というビニールの音を耳にした。
取り出す。ママの味と書かれた、ミルクキャンディが三つ。
包装を取り外し、目の前の床に、手首のスナップを効かせて一つ投げつけた。
カチン、というかわいた音が床に響く。
床が、歪む。
槍が出る。
眼の前に発生した槍を確認して、星弥は核心に至った。
┼―――――――――幕間
『ナイアーラトテップにほほえまれたあなたへ!』
……桂貞義は、"力"を手に入れた。
今から三日前。窓際に置かれていた不審な封筒の中に入っていた、手紙と飴。
最初は嘘くさいと思っていた貞義だったが、好奇心に負けて飴を舐め、彼の世界は一変することになった。
長らく病院で暇を持て余していた彼にとっての、最高の"おもちゃ"がやってきたのである。
ゲーム機じみたインターフェイス、自分の能力値を示すステータス、クラフトという異質な能力。
何もかもが新鮮で、何もかもが斬新だった。
そして同時に、血沸き肉踊る感覚を、貞義は抑えきれなかった。
――超能力者同士による壮絶な戦い。しかも、優勝者は願いを何でも一つ叶えられるというじゃないか。
本当にあった、漫画やアニメの中のような世界。
そして、本当だとしたらこれほどの幸福はないほどの、優勝者への賞品。
ナイアーラトテップに微笑まれた彼は、ゲームに関わるもの、それに関する事、その全てに魅了されてしまっていた。
……貞義にも夢がある。
小さくも、人として有り触れていて、誰もがもっているはずの、どこにでもある夢だ。
だが、それを叶えるための障害は、あまりにも多かった。
だから、このゲームが目の前に現れた時に、彼は歓喜したのである。
そして、待ちに待った。待ち続けた。
一日の時間が一ヶ月のように感じられるほど、長く、長く待っていた。
……彼は病院から出ることはできない。というより、出る事はできるが出ようとは思わない。
様々な都合はあれど、彼は彼なりに考えた結果、彼にとっての陣地はあくまでこの"病棟"だと定めたのである。
この建物を城として捉え、入り込んできた対戦相手で"経験値"を上げる。
そんなイメージをして過ごし続けた貞義は、ついに待ち望んだその日を迎えた。
日課を終えて病室へ帰る途中、耳をつんざくような警報が鳴り響いたのである。
貞義はクラフトを起動した。同時にホルダーサーチを行う。
何度も何度も、この数日の間にイメージトレーニングをこなしてきた。
まずはサーチで敵の場所を把握する。
そして、空中に現れたディスプレイで、改めて敵ホルダーの捕捉を始めた。
――針の夢城。
それが貞義のクラフトである。
SF映画に出てくるような光学ディスプレイが宙に出現し、様々なコマンドメニューをタッチして操作するクラフトだ。
ぶどう味のラヴクラフトから生み出されたこの針の夢城は、陣地と決めた場所をホルダーのテリトリーにし、内部で様々な力を発現させる能力がある。
弱点もいくつかあるが、敵への牽制から戦略的な陣地戦までを含めて、大局的な使用が可能なクラフトだ。
貞義はホルダーの位置を下の階だと特定するなり、とにかく距離を取ろうと上の階を目指した。
針の夢城には大まかに『召喚』『索敵』『建築』という三つのコマンドがある。
索敵のコマンドを押して敵の位置を把握した貞義は、ディスプレイ……レーダーとして表示された病棟のマップにつく足あとのマークを見て、『召喚』を使用する。
召喚するのは、『ニードル』。ニードルのアイコンがディスプレイでタッチした指先に出現し、そのアイコンを足あとがついている場所へと指で運ぶ。
離すと、ニードルが"発動"する。
それをこの距離で実際に見る事はできないが、一度試しに使ってみた際には、かなり大きな針が床から飛び出すのを確認できた。
ニードルが発動すると、そのアイコンの所でニードルの発動を知らせる波紋のようなエフェクトが発生し、赤いバツ印が出る。
――赤いバツは命中の印、撃墜だ!
そう喜ぶ貞義だったが、すぐに赤いバツ印から動く足あとを確認した。
……当たったのに生きているのか? 貞義は困惑する。
それが敵の能力なのか、それとも"クリティカル"には至らなかったのか。
……この時、赤いバツ印が出た所では看護師の女性にニードルが命中していたのだが、貞義はそれには気づかない。
そもそも、ニードルは誰に命中したのか、などという詳細な情報を出す機能が針の夢城には存在しなかった。
針の夢城のクラフトランクがC+(そこそこ!)というのもあるかもしれないが、どこか無機質で簡素なインターフェイスは、生の情報というものが伝わってこない。
だが、貞義はそれをものともしない。
今この場にあるゲーム盤を前にして、童心のままに、どこか楽しげにパネル操作を繰り返した。
『ニードル』、『ニードル』、『ニードル』!
七階に到着し、更に屋上を目指しながら、貞義はニードルを使い続ける。
召喚コマンドには有効射程があり、その射程以上の所にはコマンドを使用する事ができない。
現在敵と思われるホルダーを捕捉している位置に使えるのはニードルだけだったので、とにかく貞義はニードルを連発した。
同時にレーダーを確認し、敵ホルダーが徐々にこちらの階へ接近してくるのを確認して、『建設』コマンドを使う。
建設は発動までに時間がかかるが、それでもざっと数分で完成する代物である。
最終防衛の要としてうってつけだと判断して、貞義は笑みを浮かべて七階にそれを設置した。
数値が100%を目指して溜まっていくのを確認しながら、なおも貞義はニードルを使い続け……反対の六階踊り場で、敵が足を止めたのを確認する。
ニードルを撃ちこむ。
撃墜マークが出る。貞義は再び拳を強く握った。
足あとも出ない。当たったのか?
屋上のドアを開けながら、真昼の強い日差しを感じつつ、貞義は敵を仕留めたのかの判断に迷った。
……迷ったからこそ、階段から上がってきたその足あとに反応した。
反射的に、ニードルをドロップしてしまう。
「あっ」
思わず声が漏れる。赤いバツ印。
……やっちゃったか?
心臓がドクンとはねるのを貞義は感じたが、その赤いバツ印を避けるように動き出す足あとを確認して我に返る。
……なんだ? まだ生きてるのか!?
一体どうなってるんだ。そう思いながらも、貞義はニードルで足あとを捕捉しつづけて……。
階段の中腹で足あとが出なくなり、『ニードル』も空振りに終わったところで、目を見開いた。
「……え?」
消えた。
間違いなく、反応が消えた。
どこだ? どこへいった?
マップを上の階……七階へと移す。先ほどまで反応があった六階の階段から上がってくる足あとは……ない。
五階へマップを戻す。足あとがいくつかある。
……こいつらか? いや、違うかもしれない。というか、違うに決まってる。
完全に見逃した? そもそも、どうやって消えた?
六階にはいない。七階にも来ていない。
まさかと思った五階にすらそれらしいものはなかった。
まさか、窓から外へ?
貞義は屋上の中央にあたるフェンス際へと移動し、腰を上げて外を見下ろす。
……見下ろしたところで、誰がホルダーなのかは貞義にわかるはずもなかった。
とにかく、事実として捕捉していたはずの敵がいなくなってしまった。
貞義はわけがわからぬまま、とにかくもう一度探そうとホルダーサーチのクールタイムを確認して、
ギイ、と屋上の扉が開く音を耳にした。
まずい、誰かがきた。慌てて針の夢城を解除する。手に持ったクラフトカードを両手で握りしめて、貞義は後ろへと体を向けた。
フェンスに移動したため、大分遠目になってしまったドアから、人が現れる。
――やってきたのは、制服に身を包んだ高校生だった。
頭でも痛いのか、左手で顔を押さえていて、ゆっくりと屋上に入ってくる。
貞義は、すぐその男の違和感に気づいた。
入ってくるなり貞義に向けられた強烈な視線。
おぼつかない歩調の不審な動き。
そして……靴やスリッパを履いていない、靴下の足。
それらをただ眺めているうちに、男が先に口を開いた。
「……お前が、ホルダーか!」
貞義は、背筋に悪寒が走るのを大きく感じ取っていた。
┼――――――――――――
「……お前が、ホルダーか!」
言ってから星弥は後悔した。
見ればわかった。顛帯観測が発動している左目が、目の前の彼をホルダーと表示している。
「…………」
眼の前のホルダーの容姿に、少し戸惑ったのかもしれない。
――星弥の前に相対する、車椅子の十歳前後の少年。彼は星弥の言葉に押し黙り、ただこちらを見つめている。
その手の中にあるのは、間違いなくクラフトカードである。
なんでホルダーか確認したんだ。
どこまでバカなんだお前は。
星弥は内心で自分自身を罵る。階段からここまで槍に襲われずにこれたんだ、敵には"ここまで俺がきたのはバレていなかった"。
幸いにも相手は屋上の中央付近におり、距離もおそらく三十メートル離れているのだろう、エンカウントが発生しない。
なら、ホルダーを確認するのはいいとして、もっと普通を装い近づき、不意打ちを狙ってもよかった……。
……ましてや、相手があんな子供ともなれば、なおさら……。
「……だ、だったら、なんだよ!」
少年が、ようやくといった風に声を出す。
昼下がりの炎天下において、日差しを跳ね返すような白い肌と、少し癖のある黒い髪をもつ線の細い少年だった。
少年は車椅子に座っており、足が不自由なのがわかる。
――少年の願い――
余計な思考が混入する脳内を、かき混ぜてめちゃくちゃにして、星弥は思考を断ち切る。
「……クラフトカードを渡せ。おとなしく渡せば、痛い目を見ずに済むぞ」
我ながらあんまりなセリフだと星弥は思った。
だが同時に、子供相手ならば最も効果的であるとも考えた。
「俺はこの場から一撃でお前を"倒せる"。さあ、諦めてカードをこっちに投げろ!」
星弥は声を低く保ち、右手を少年に向けて差し出す。
「嫌だ!」
少年は焦燥しきっているようだったが、それでも従順ではなかった。
ぎゅっとカードを握りしめ、強い意志をもって星弥を睨んでくる。
怯みそうになったのは星弥だった。それでも何とかこらえて、言葉を続ける。
「……俺は本気だぞ。素直に従え」
言葉での説得は、通じないか。
実力行使をかねた威嚇でもしない限り、言うことを聞いてくれないかもしれない。
だが……星弥にはそもそも、威嚇する方法などなかった。
ここにきて初めて、星弥はなぜ敵目指してここまで走ってきたのかと自問する。
無我夢中だったから。
錯乱していたから。
気づいたら屋上にいただけだ。
言葉としてはいくつか思いつくものがあるが、おそらくそうではない。
そう、星弥は、ただ……。
「……お兄ちゃん、そんな事言って、クラフト、本当に使えるの?」
「!?」
不意に口を開いた少年の言葉の意図を汲み取れず、星弥は困惑する。
それはクラフトで攻撃できるのか、という意味か。
それとも、クラフトを本当に持っているのか、という意味か。
……正直いって、前者であってほしくはない。そこまで頭の回る子供など御免だ。
だから、星弥は後者だと判断して、少年へと歩み寄る。
それに反応して、少年は車椅子を動かすような仕草をした。
「待て。エンカウントを発動させるだけだ」
そう言っている内に、すぐに発動圏内に入ったのか、けたたましい音が鳴り響いた。
少年は思わず耳を塞ぐ。星弥も顔に当てたままの左手で、左耳だけを塞いだ。
音が止む。
「……エンカウントが作動した。これで俺がホルダーなのはわかっただろう」
「……っはははは!」
星弥の言葉を聞いてから、少年が笑い出したのをみて、星弥は不快感を抱いた。
なにがおかしいんだ?
「お兄ちゃん、バカでしょ? お兄ちゃんがホルダーなんてのはすぐにわかるよ。そうじゃなくて、クラフトカードも持ってないのにどうやってクラフトを使うんだって話だよ!」
「……?」
何を言ってるんだ、こいつ?
クラフトカードを持っていないとクラフトが使えない?
身につけていないと使用できないという意味か?
いや、それならエンカウントが鳴った時点で俺がカードを持っているのはわかっているはずだ。
なら……どういうことだ?
星弥が身動ぎしたのをみて、少年は更に声を上げる。
「ダメだよ! 今からクラフトカードを取り出しても、おれは既に"クラフトカードを持ってる"んだ。おれの『ニードル』の方が早いよ!」
「なにを……」
動機が激しくなる。目の前の少年が語る未知の情報の真偽が掴めず、星弥は混乱した。
クラフトカードを持っている……そう言って少年は自信ありげにクラフトカードをちらつかせた。
瞬間、少年のクラフトカードが弾ける。
「!?」
クラフトカードが光の粒子になり、少年の目の前に広がって、SFじみたディスプレイのような姿に変化した。
なんだ、クラフトカードが変化した……?!
その一瞬の思考が、星弥の行動を秒単位で遅らせた。
少年はディスプレイのようなものをタッチして、何らかの操作を行う。
数秒して、それが何かはよくわからないが、"よくわからないという事は、あれはクラフトだ"と判断して、星弥は少年に駆け寄った。
「来ないでよ! 『ウォール』だ!」
強気な笑みを浮かべ、少年は英語で壁を意味する言葉を叫んだ。
次の瞬間、星弥は文字通りの壁に行く手を阻まれた。
顛帯観測が『壁』と視認したのは、淡く輝く、半透明の壁だ。駆け寄った勢いでそれに衝突した星弥は、分厚いガラスに体当たりしたかのような衝撃を受ける。
「くそ!」
「よし、来るぞ! 来い……来い!!」
少年は壁越しに目を輝かせ、星弥の方を見つめていた。
こんな壁、回り込めば……星弥はそう考え、同時に別の思考が生まれる。彼が見ているのは、本当に俺か?
その疑問に大きな好奇心を抱いて……星弥はそれが、自分ではなく、自分の背後にあるのではないかと推測した。
次の瞬間、地響きのような音が背後で炸裂した。
爆発としか言い表せない轟音に振り返ると、屋上へと通じていたドアと、それらを形作っていた周辺の建造物が砕け散り、土煙をあげていた。
――白煙の中から、それは現れた。
赤い一つ目が輝く、硬質な半透明の……そう、未だ背後にある壁と同じ材質の、半透明の結晶のようなもので出来た、"頭"。
ゆらりと揺れ、頭が目測で三メートルほど上に持ち上がった所で、星弥は戦慄した。
結晶の頭。
結晶の胴体。
結晶の腕。
結晶の脚。
おおよそヒトとは似つかないながらにも、絶対的にヒトガタといえる結晶の人形が、赤い瞳を輝かせて屋上へとやってきたのだ。
星弥はそれを言い表す言葉を知っていた。
当然のように、顛帯観測もそれを表示する。
ゴーレム。
クリスタルゴーレムだ。星弥はゲームの中でしか想像し得なかった実物大のそれを前にして、心の底から感動し、同時に震えた。
「ガーディアンが完成した! これでおれの勝ちだね! 降参してももう遅いぜ!!」
背後から少年が高らかに笑う声が聞こえる中を、星弥はただ相対する巨大なそれのみを見つめていた。
赤い瞳が、星弥を捉える。
星弥は、ゴーレムと目を合った。
瞬間、駆け出した。
屋上の反対側……もう一つのドア、階段へと繋がる所だ。
「逃がすかよ!」
ウォールが行く手を阻む。星弥はまた半透明の壁に阻まれながらも、とにかくドアを目指した。
「あれ、ゴーレムが動かない……おい、動けよ! ちゃんと呼んだだろ!!」
背後から少年の怒りの声が響くが、星弥の耳には入っていなかった。
数枚の壁を避けて、なんとかドアにたどり着く。
背後からガラスを砕くような音がしたのはその直後だった。
ズンズンと重い足音が聞こえる。
振り返りたい。その衝動をこらえて、星弥はドアを開けて階段を一気に飛び降りた。
足に体重分の衝撃が走り、疲労困憊の足が悲鳴をあげる。
同時に、先程までいた背後のドアが悲鳴を上げた。
金属が物理法則にひれ伏し折れ曲がる音と、コンクリートが硬質さを保ったまま打ち砕かれる音。
それと共に粉々になったコンクリートの破片が転がってきて、星弥は踊り場から更に階段を降りる。
階段を降りる時に、斜め上が視界に入った。
ゴーレムがドアを打ち砕き、星弥を視認していた。
そこからは、無我夢中で階段を駆け降りた。
思考の渦に星弥はいる。
あれはやばい。
見た瞬間にわかるやばさだ。
逃げるしか無い。
くそ、また逃げるのか。
逃げてばっかりだな俺は。
それに走ってばっかりだ。
何で走ってばかりなんだ。
もう疲れてるだろ。
走るのやめちゃえよ。
だけど、走るのをやめるわけにはいかない。
止まったらきっと殺される。
ていうか無理だろあんなの。
どうやって勝つんだ。
あのクラフトの能力は何なんだ。
そもそもなんでクラフトカードが砕けてクラフトになるんだ。
クラフトカードを失ったら負けだろ。
という事は後でちゃんとカードに戻るのかよ。
そういえば佐藤も佐藤と戦った男もクラフトカードを手にして戦いを始めていた。
佐藤がいきなり刀を出した時も確かクラフトカードを手に持っていた。
という事は誰でも出来るのか。
誰でもやるのかあれ。
誰にでもあの機能があるのか。
そんな機能は俺のクラフトにはねえよ。
試したことすらないぞ。
そうだ、試したことすら……………………。
星弥は七階へと降りて、三つの"逃走経路"を判別する。
一つは、このまま階段。もう迷っている時間はない。
一つは、廊下の反対側へ。廊下の向こうが崩壊しているのが見える。
一つは、エレベーター。……危険か? だが乗れば一気に一階へ、病棟の外へ……。
背後から轟音が聞こえる。それに背中を押されて、星弥はエレベーターに入ってしまった。
入った理由は簡単だ。足が疲れていた、ただそれだけである。
振り返り、階数の1を押し、ドアを閉めるボタンを連打する。
踊り場にゴーレムが見えた。まずい。そう思っている内にドアが閉まる。
エレベーターが動き出す。
星弥はドア際から離れ、それからエレベーターに乗った事を後悔した。
小学校の時の担任の先生の言葉を思い出す。避難時には、エレベーターを使うのはやめましょう。
轟音と共に、エレベーターが揺れた。
「うわあ!?」
上で、ブツン、と何かが切断される音と共に、エレベーターが急加速を始める。
確信した。
落ちている。間違いなく落ちてる……!
星弥は悲鳴を上げ泣きそうになっている自分自身とは別に、冷静な視点で己を見る自分を感じていた。
その自分に従い、エレベーターの角に設置されている手すりを掴む。
体が宙に浮きそうだ。
もう落下はどうにかなるものではなかった。
星弥は強く手すりを握りしめて、信仰もしていないどこかの神に祈った。
エレベーターを激しい衝撃が襲う。
瞬間、星弥の視界はブラックアウトした。
……それが数秒だったのか、数分だったのかはわからない。
星弥は手すりに掴まったままの自分を認識し、目を開けた。
視界は暗闇に包まれていた。
エレベーターの電力が落ちたのか。
不思議と気は動転していない。
なぜ助かったのか。
おそらく非常停止装置が作動したのだろう。
なぜ作動したのか。
それは……七階できっと、あの巨大な敵が……。
即座に立ち上がり、星弥は左手を顔に添える。
身体に痛みらしいものはない。不幸中の幸いなのか、興奮していて痛みを感じていないだけなのかはわからない。
だが、ありがたい。
そう感じながら、星弥は顛帯観測で暗闇を視認する。
そうして見た視界には、しっかりと文字情報が表示されていた。
顛帯観測の視界補助能力は高く、暗闇の中でも文字情報ならば視認ができる。
右目は視力が向上しているらしいが、夜目が効かない。相変わらず真っ暗なままだ。
そうして認識できたのは、壁、ボタン、ドア、壁。
上を向く。天井。
下を向く。床。
当たり前だ。もとよりエレベーターはそれほど凝った機能や設備は搭載されていない。
エレベーター内が真っ暗な以上、電力がカットされた以外に、損傷らしきものはないようだが。
……救助隊が来るのを待つか?
そんなバカな考えが頭をよぎった矢先、天井に凄まじい衝撃音が響いた。
「うおあ?!」
思わず悲鳴を上げた。天井から火花が散る。その一瞬の光で、天井が凹み歪んだのがわかった。
エレベーターは幸いにも落下しない。だが、上から落下してきたもの、それは間違いなく、さっきのゴーレムだ!
星弥はエレベーターの隅に身を縮ませる。直後、天井が突き破られ、半透明の光をもった腕がエレベーター中央に着弾した。
凄まじい衝撃がエレベーターを襲う。その衝撃でエレベーターが落ちるのではないかと星弥は恐怖した。
だが、それどころではない。天井から僅かな光がもれる。
微かではあるが、右目だけでもエレベーター内が見渡せるようになった。
だが、だからなんだというんだ。
こんな狭苦しい部屋で何をすればいい。
何もできない。そんな言葉が漏れそうになり、振り払う。
何かあるはずだ。探せ。
懐をまさぐる。飴が出てきた。転がす。
ポケットティッシュが二つ。捨てる。
天井が軋む音がして上を見上げる。陥没した天井がこじ開けられようとしていた。
懐にものがなくなり、ズボンのポケットに手を突っ込んだ。
プラスチックのような感触のカードが一枚出てくる。
取り出すと、ディスプレイが微かに周囲を明るく照らした。
『ホルダーとエンカウントしました。』
カードに残されたシステムメッセージをタッチすると、無機質にメニュー画面に戻った。
それどころじゃない。
このカードは重要じゃない。
……いや、カードをあいつに差し出せば、終わるのか?
今度こそ終わる。
それで終わりだ。
……終わっていいのか?
天井がめくれていく。
終わる保証などない。
そもそも、あからさまにあの結晶で出来た人型は俺を殺しに来ていた。
床から出る槍も、誰も彼も関係なく貫いていたじゃないか。
……そうだ、あの少年は、既に何人もの人を殺めている。
それが、解せない。
理解できない。
無邪気にはしゃぐ姿を思い出して、星弥は心の底からふつふつと湧き上がる感情があった。
まただ。
また、この感情だ。
追い詰められるといつもこれだ……!
「このヤロォ!!!」
星弥は、天井に開きつつある穴に向けて、手元にあった飴玉を投げつけた。
それはうまいこと天井の上へと消え、カチンという乾いた音を響かせた。
「この! このぉ!」
ポケットティッシュも投げつけた。
だが軽さゆえに軌道に乗らず、天井に届く前に舞い落ちる。
何か武器はないのか!!
右手でものを漁る。暗闇で何も見えないし、そもそもエレベーターの中になど何もない!
クラフトカードはどこへいった。さっきまで右手で持っていたのに……!
くそ!
顛帯観測でエレベーターを再度見渡す。
武器になるもの。
手すり。
その文字を見つけて、それに飛びついた。
飛びつく瞬間、ゴーレムと書かれた文字が天井から飛び出てきた。
床に衝撃が走る。ゴーレムの拳でも突き立ったのか。
構わず、手すりを右手で握り、思い切り引き抜いた。
思いの外簡単に手に"鉄棒"が収まる。
驚くほど軽い。物を持っている感触など殆ど無い。
それでも確かに握られた硬質な鉄棒を掴んで、背後でエレベーター内を手探りするそれに、振りかぶった。
「くらえええええええええ!!!!!」
渾身の力で投げつけた。
鉄棒が飛ぶ。
腕と鉄棒が、ぶつかった。
「!?」
瞬間、左目で星弥は光を見た。
それは、"文字通りの光"ではない。右目で太陽を見た時に視認する、あの光だ。
その発光量に、星弥は左手を顔から離し、光を防ぐ事に専念した。
――光が消失する。
……一体、今のはなんだ?
星弥は困惑するままに、周囲を見渡した。
壁、ゴーレム鉄棒、ドア、光、壁。……ドアが僅かに開き、光が漏れている。先ほどの衝撃で開いたのだろうか。
上を見る。天井ゴーレム鉄棒穴。ゴーレムは腕を出したまま動かない。
下を見る。床。
星弥はすぐに違和感に気づいた。……ゴーレムが、動かない?
どうした? ここに来て止まったのか?
星弥はふと、屋上から逃げ延びる際に少年が動かないだのと叫んでいたのを思い出す。
なら、今の内に逃げるしか無い。そう思い、星弥はドアという文字が浮かび上がる場所へとゆっくりと回りこみ。
自分が、左手を顔に当てていない事に気づいた。
「――――」
左目の視界に存在する文字群と、右目の視界にあるいつもどおりの視界。
それらが重なりあい、そう……映像に合わせてこれはドアだ、という解説がついているような、スキャニングされたような視界になっている。
なんだ。何が起きた?
……エレベーターがぐらついた。
星弥はハッとして振り返る。
僅かな光の中で、ゴーレムが腕を動かそうとしているのが目に入った。
まずい、早くここから抜けださなければ……!
ドアに近づき、力のかぎり、エレベーターのドアを開ける。
……僅かにだが、それでも少しずつ、確実にドアは開いていった。
光が広がり、星弥は十分にあいたドアの隙間から、身体を滑り込ませるようにして外に転がりでた。
倒れこみそうになった身体を必死で支える。
全身の疲労を、身体が訴えてきていた。
駄目だ。ここで倒れるのはまずい。そう思いながらも膝をついてしまい、右手で辛うじて身体を保つ。
「……?」
星弥は、右手を見る。
――右手に、いつのまにか黒いグローブがはめられていた。
指の部分がない、いわゆるフィンガーレスグローブと呼ばれるタイプの代物だ。
気づいた途端、その肌に張り付くような、皮ともゴムともとれない不思議な感触が手に伝わってくる。
そして、グローブの甲の部分についた……かなり崩した草書体で書かれた……鉄棒、と読むのか?
これは、クラフト……なのか?
右の手に現れたグローブ。そして左目の魔眼。
その変化がもたらした力を、星弥はまだ知らない。