03/佐藤一
「あ、あ……」
完全に、思考が焼け落ちた。
終わった。ここまでか。そんな言葉が脳裏をよぎり、飲み込まれる事もなく霧散していく。
……視線の先にある人影。少年ホルダーA。その存在その一挙一投足を、星弥は噛み締めるように見入る。
そうして思考停止していた星弥の耳に、不意に声が届く。
「日月先輩、ですよね?」
「……!?」
歩み寄ってくる少年。
素性もわからない敵を前にして動けずにいた星弥の思考を再起動させたのは、日月先輩、という名指しであった。
……アパートの出先、突然の遭遇。目の前に現れた"敵"に名前を呼ばれ、星弥は混乱に陥る。
狼狽える星弥を意に介さず、少年は言葉を続ける。
「あれ、でもさっきエンカウントは……いや、でも先輩の方が鳴ってるもんな……ってことはやっぱり先輩、ホルダー、ですよね?」
「……! いや、ま、待て! 話を……!」
咄嗟に口を衝いて出た言葉がそれだった。
とにかく、いきなり斬り込まれればおしまいだ。なんとか時間を稼いで……いや、稼いでどうする!? 逃げられるのか?! どうやって!?
すさまじい勢いで回りだした思考の中で、星弥はとにかく逃げ延びる事だけを考えた。
しかし、その考えをも打ち消すように、その混乱の元凶であるはず少年が笑ったようにして肩をすくめる。
「っはは! 先輩もそんな風にビビるんですね。中学の生徒会にいた時はそんな感じはしなかったんですけど」
「な……え、生徒、会?」
少年は言葉を続ける。言葉を続けるという事は、少なくとも今は戦う気はないという事だ。
それとも、完全になめられているのか……いや、そんな事より、まずこいつに聞くべきことがあるだろう。
「お前、俺を知ってるのか……?」
歩み寄ってくる少年の顔が、アパートに設置されたライトで徐々にあらわになる。
小柄な少年の顔立ちは、体格に似合った愛らしいものだった。少し太めのまゆが印象的な少年の顔に星弥は少しだけ見憶えを感じるが、はっきりとは思い出せない。
目の前まできても答えを見出せない星弥に呆れたのか、ふぅ、と一息ついた少年が苦笑して答えた。
「忘れちゃいました? ってまあ無理もないか。……オレ、佐藤です。佐藤、一。先輩が生徒会を引退する一月前くらいに生徒会に入ったんですけど」
「…………佐藤?」
微かな記憶に楔が打たれ、その思い出が浮上してくる。
「ほら、新選組がどうのこうのって」
「……あ」
――なんかお前、あれだな。新選組みたいな名前だな。
――いっそ斎藤だったらカッコ良かったんですけどね苗字がハンパに庶民的で……。
「佐藤一、佐藤か! いや、覚えてる! 名前を聞いて、俺が新選組みたいな名前だって言って話しかけた!」
「思い出しましたか」
頬をぽりぽりと掻いて、少年……佐藤は笑う。
そうだ、この笑顔が絶えない少年を、俺は知っている。
星弥は、忘れていたとはいえかつての知り合いだった事に安堵し、同時にそんな相手に気づかずにさんざんつけ回っていた事を恥じた。
「いや、忘れられてたらどうしようかと思いましたよ」
そう言って佐藤は手をすっと星弥に差し出す。
同時に、冷たい鉄の感触が星弥の首筋にあてられた。
「……え?」
「ああ、すみません。動かないで下さいね、先輩。オレ、この状態から手首のスナップだけで、あなたの首きれるんで」
一瞬、握手か何かだと思った星弥は、全神経を首筋に集中させた。
刀だ。佐藤が手を伸ばした瞬間、すでに手の中に刀があり、刃が首筋に置かれていた。
あまりに自然な動作で、あまりに唐突な出来事で……。
いや、唐突ではない。忘れたいと、その可能性はないと、知った名前だと思った瞬間に、そう逃避しただけだった。
「……おい、嘘だろ……」
ついで出た言葉はそれだけだった。"貼り付いたような"笑顔のまま、佐藤が続ける。
「口答えはなしで。あんまり先輩にはこういう事したくないんですけど、なるべくオレの質問に答えて下さいね。オレが指示しない限りは、イエスかノーで。オーケー?」
「……イエス」
「さすがです。今もきっと頭いいんでしょうね、日月先輩」
ニコッと佐藤が、笑顔を上塗りするように笑った。
「じゃあ、まずは第一の質問。ホルダー、ゲーム、クラフトという言葉に聞き覚えはある?」
「イエス」
「なるほど、じゃあ参加者で確定ですね。次、今日オレのこと尾けてたの、先輩ですよね?」
「……!」
心臓がはねる音を、星弥は生まれて初めて耳で聞いた。
気づかれていた……相手は素人だと高を括っていた星弥は、内心で自分の頭をハンマーで殴る。
何が素人同士、ばれはしないだ。見事にバレバレじゃないか……!
「……? 答えは?」
佐藤に促され、星弥は我に返る。
「い、イエス。だけど、あれは」
「言い訳もなし」
「…………」
「まあ、別に尾行したのに怒ってるわけじゃないんです。気づいた上で色々ぶらついてたのはオレでしたし。それに、最初の方はマジで尾行されてるのわからなかったんで、気づいてからは結構楽しかったです」
「…………」
「次。これは具体的にお願いします。あなたのクラフト能力は?」
「……クラフト能力……」
思わず、オウム返しになる。
クラフト能力を教えろ。それはつまり、敵に情報を与えるという事だ。
どうする。素直に言っていいのか? いや、まずい。こちらに戦闘能力がないのがバレてしまう。
なら、嘘をつくか……?
それがバレない保証は?
「クラフト能力、言えませんか?」
「……仮に俺がそれを説明したとして、お前はそれが本当かどうかわかるのか?」
「ええ、わかります」
再び心臓がはねる。
「――って言ったら、どうします?」
言葉をかみ殺すように笑う佐藤。その笑いに応じて、星弥の首筋にあてられた凶器もまた、かすかにわらう。
「"あなたが嘘を言ってるかどうか"、それを"オレがわかるかどうか"、日月先輩にわかるんですか? イエスかノーで」
「……ノー」
「その言葉はまあ信じるとして、そうやってイタチごっこじみた裏の裏を探ってても意味ないって事ですよ。現に、オレがその気になれば先輩はこの場でクビ飛ぶんですよ? なら、オレは先輩が誠意をこめた対応をする方にかけます。先輩は、"あたまいー"ですから」
「……なるほどな、わかった。俺の参加証の画面を見せよう」
口頭説明よりも、最も確実な方法だろうと星弥はそう提案する。
「いえ、それじゃダメです」
「? だめ?」
「ああ、先輩は……ってまだ一日目だもんな、そりゃそうか。あーまー、オレは確認したんでわかってるんですけど、他人のカードって画面の内容が見えないんですよ」
……?
「そうなのか?」
「はい、そうなんです」
本当にそうだったか? 星弥の中で疑問が生じる。
――それはすぐに確信に変わる。そんなはずはないと星弥は内心で否定する。
少なくとも、今日の尾行の際には佐藤のクラフトカードを星弥は盗み見る事ができた。だからこそ、エンカウントの存在を察知できたんだ。
それが出来たという事は、星弥は他者のクラフトカードを見る事が出来たのに、佐藤は出来なかった、という事になる。
「はい、じゃあさっさとクラフト能力、説明してください」
「……! わ、わかった……」
疑問を追求する余裕を、佐藤は与えてくれなかった。
とにかく、今は佐藤の言う事に従うしか無い。
どの道、佐藤の気が変われば一瞬でお陀仏だ。なんとか、この場を凌がなければどうにもならない。
「……俺のクラフトは顛帯観測。カテゴリーは魔眼だ。目で見たものを単語一つで確認する事ができる。それが何か俺がわからなくても、言葉そのものを知っていればそれとして視認する事ができるんだ。それと、数百メートル先まで望遠鏡のように遠くのものを見れる」
「へえ、面白い能力ですね。飴はぶどう味でしたか?」
「すまん、よく確認せずに舐めた上に飲み込んじまって、味は覚えてないんだ……ほ、本当だッ!!」
味は覚えていない、のくだりで首筋に刃の腹が食い込んできて、慌てて星弥はそう叫ぶ。
「…………。まあ、クラフト能力を説明して、わざわざ味を隠す理由も特にないですしね。それはいいでしょう。それで、他には?」
「……他にってのは?」
「いや、だからその"天体観測"ですよ。目からビームが出るとか、そういうのは無いんですか?」
目からビームって……何いってんだこいつは。
「そんなアメコミみたいな能力はない。本当にこれだけだ……本当だぞ?」
すっと、佐藤の笑みが消えて行くのがわかり、星弥は念を押した。
こればかりは信じてもらうしか無い。……というより、ここまで言って確信に至っていないという事は、おそらく佐藤には心を読むような力はないのだろう。
クラフトカードに記載されていたデータにもパワー系ではないかとの推測があった。
おそらく、こいつの能力は戦闘に特化しているはずだ。
「でも……それじゃあ先輩、このゲームどうやって戦う気なんですか? 参加証、破壊できませんよね? ホルダーの方を殺すんですか?」
「な、殺すって、お前」
「あれ、知りませんでした? ホルダーが死んでもリタイアになるんですよ、このゲーム」
「……!!」
「あ、ホントに知らなかったんだ。手紙読みませんでした? 『こちらが想定している反則・違反はできない』みたいな記述。逆に言えば、殺せるんだから……反則じゃないですよね?」
「……試した、のか?」
「ああ、先輩は見てなかったのか。オレがさっき、対戦相手に"なにをしたのか"」
――どうかしてる。
星弥は目の前の佐藤一という存在に対して、何度も何度も修正を加える。
一日目にしてこの周到さはなんなんだ? 対戦相手になにをした? つまりそれは、ころしたということか?
ころせるのか? そんなかんたんに? あっさりと!
「殺したのか?」
沸々とわいてきた感情を、星弥は抑えきる事ができなかった。
「顔も見られましたし、逆恨みでつけねらわれても迷惑ですよね」
「そんな理由で! 簡単に……!」
星弥の首筋にあてられた刃が、改めて刃の側を星弥へと向ける。
だが、ついてでた言葉は止まらない。
「なんで……お前、このゲームが何かわかってるのか? 本当に願いが叶うって信じたのか? だから殺したのか!? お前頭おかしいんじゃないのか! あんな手紙一枚で、あっさりと、殺したとか! 殺すとか!」
それは、怒りではない。
正義感でも、ない。
純粋な、疑問だった。
手紙を受け取った時点ではにわかに信じられず、ラヴクラフトを舐めてクラフトを手に入れた今でも、半ば夢のような、この現実。
星弥が求めたのは、謝罪でも、反省でもなく、解答だった。
はっきりいって、星弥にはまだ実感がなかった。
超常的な力を使い、お互いの参加証を狙い……あまつさえ、命すら奪っても構わないゲーム?
そんなもの、実在しているのか?
いや、確かにそれは実在しているのだろう。だが、実感がない。星弥には実感がなかった。
誰が敵で、誰がそうでないのか。誰が主催者で、なぜこんなゲームをするのか。
それこそ、一度参加者を一箇所に集めて、自己紹介をさせてほしいくらいだった。
だから、今現実として、後輩の少年に日本刀をつきつけられている……その実感が、希薄なのだ。
――本来なら、星弥は刃物を突きつけられ、平然としていられるような少年ではない。
彼が高等部一年だった時に、いわゆる不良たちとトラブルになった時も、毅然とした態度をもちながらも彼は最後まで体の震えが止まらなかった。
終わってみれば、教師の前で泣き始めてもいた。
……彼を優秀で聡明な男だと評価する人間がいるが、それは間違いだと、もうわかっているだろう。
彼は臆病で、常にどこかで算段を立てていて、感情の奔流を抑え切れない、そんな、ただの少年なのだ。
「……百億」
「……!?」
不意に、佐藤がそう呟き、星弥は感情が収まらぬまま、その言葉に耳を傾ける。
「前回の優勝者が獲得した金額です。人としての夢を叶える……それ相応の金額だと思いませんか?」
「ひゃく、おく……?」
反芻する星弥の首筋から、ふいに金属の感触が消える。
佐藤の手から、いつのまにか刀は消えていた。
「……ま、先輩の言うことが本当ならそのクラフト能力は今のところ無害……か。いいでしょう、話しますよ。"前回のゲーム"について」
佐藤は手に持ったクラフトカードを見つめながら、そうして星弥を促した。
*
コンビニで弁当を買ってから、星弥は佐藤を自室に招き入れた。
つい先ほどまで刃物を突きつけていた相手と行動を共にするのは気が引けたものの、"前回のゲーム"というキーワードへの好奇心がそれを抑えつける。
……室内に入ってからすぐに行われたのは、二人揃ってのホルダーサーチだった。
「じゃあ、先輩はオレに背中を向けて。これでほぼ全周囲を調べられますから。頭の中でサーチとだけ念じて下さい」
「あ、ああ」
そうして佐藤と背中合わせに立ち、星弥は念じる。
――サーチ。
瞬間、太陽光を浴びたかのような熱が手元で発生し、それが前方へと広がっていくのを感じた。
クラフトカードの画面が起動して、サーチ中という文字が現れる。
それからしばらくして、電子音と共に『ホルダー反応はありませんでした』という記述が現れた。
「どうです、先輩」
「反応なし」
「こっちもです。それじゃあ、改めてお邪魔しますね」
そう言って、ベッド脇の小さいテーブルの前に佐藤は座り、星弥は電子レンジで弁当を温めてから、佐藤の対面に座った。
「……前回のゲームの優勝者は、俺の叔父でした」
星弥が座り込むなり、佐藤は話を切り出した。それ無言で耳にしながら、星弥は緑茶のペットボトルをあけて飲む。
――丁度中学に入る頃です。両親を事故で失ったオレは、叔父の資金援助を受けながら生活をしていました。
僅か一代で巨万の富を築いた富豪。親戚の間でも叔父の事は有名で、親戚中どこを見渡しても、叔父の足元にすら届くような人はいなかった。
親戚の叔母はよく彼について裏では汚い事をしていたに違いない、とオレに言ってはいましたが、引き取り手がいないとわかった途端に手のひらを返して叔父の事を褒め始めたのを覚えています。
そうして叔父の所へ行くことになったオレでしたが、実際の所、彼がしてくれたのは身元の保証と資金援助だけで、あとは勝手に暮らせと使用人づてに伝えただけ。
忙しい人なんだろうとは思ってましたが、まあ、冷たいと思いましたね。
それでもガキだったもんですから、名作劇場の悲劇の主人公……ちょっとそんなのを想像してました。
まあでも、毎月子供相手にその辺のサラリーマンより大きい額を渡してきてくれる存在でしたから、オレとしてはそれでいいかなって部分はありました。
幸い、オレは金に溺れるタイプじゃなかったし、変にすれてる所があったんで、遊び呆けたり無駄遣いしたりって事はなく……まあ贅沢はしましたが、普通にやってきました。
「それが、つい先月までの話です。本題はここからです」
「その叔父が持ってた金ってのが、ゲームの賞金だったって事だろ?」
星弥は弁当の蓋をあける。ほかほかに温まった焼豚と麦飯の香りがふわっと広がり、鼻腔をくすぐる。
「はい、そうです。でも、叔父は先月自殺しました」
「自殺……?」
話が飛躍して、星弥は思わず聞き返す。
「会社の経営が悪化して、借金まみれになったらしいです。事実上の倒産ですね。叔父とはその時はじめて……ってわけじゃないですが、それに近い状態で出会いました。叔父は抜け殻のようになってましたが、そこで、オレにゲームの話をしてくれたんです」
――上を向いても頂上が見えないような高層ビルの一室にオレは呼び出されました。
叔父の会社が倒産したという事は聞いてましたが、オレとしてはその時は、これからどうやって暮らせばいいかで頭がいっぱいだったんです。
なので、叔父と会った時はその事について話してくれると思っていました。
そうして、叔父が話し始めたのは未来の話でした。
「……一ヶ月後、お前の暮らしている此咲市で、"ゲーム"が開かれる」
「ゲーム?」
「わたしがかつて優勝したゲームだ。わたしはその賞金として百億の金をもらい、それを元手に会社をたてた」
「……えっと……」
「信じられないのも無理はない。だが、聞け。わたしは、"お前を選んだんだ"」
叔父はオレ達以外にも何人か身寄りのない子供を養っていて、一番ゲームに向いていそうな子供にだけこの話をする、という話があったそうです。
そして、話を受けた子供の所には必ず招待状が届き、ゲームに参加する権利が与えられる、とも。
にわかには信じられない話でしたが、叔父は色々とゲームについて話してくれました。
「あれは、ゲームなんてのは名ばかりの、殺し合いのようなものだった。だが、優勝者には莫大な力が与えられる。わたしもそうして力を得た。わたしが勝てたのは偶然だったが……それでも、あの場でわたしはいきのこり、こうして今日まで生きてきた」
「……そのゲームってのは、いったいなんなんです? 誰がそんな事を?」
「わからん……だが、かなり大規模な組織……それこそ、国家レベルでのプロジェクトであってもおかしくはないだろう」
「国家って……そんな、まさか」
「わたしだって信じたくはないさ。だが、ゲームに付随して現れる様々な技術、この世のものとは思えない現象、完全に整備された街一つ分のゲームフィールド。全てが現実で、全てが非現実的な光景だった。……もしもあれが国の仕業ではないのなら……」
「――神か、悪魔の所業だと。そう言っていました」
「……なるほど、それでお前は妙に手際が良いっていうか……」
「いや、でも実際にこうしてゲームが始まってみて、叔父の助言はほとんど役に立ちませんでした」
「そうなのか?」
「ええ。叔父から聞いたものから、インターフェースも大分変わってて。叔父の代では参加証はカードではなく、PDAのような携帯機器だったようです」
「神様だか悪魔様だか知らないが、そいつらも進歩してるってことか……」
星弥は改めて、ポケットからカードを取り出した。
妙に重量感のある、薄い一枚のカード。そうして佐藤の話を聞いてから見るそれは、国家の陰謀が見え隠れするような気もした。
「このクラフトカードも、確かに国家レベルの技術で作られたもの、っていわれると確かにそれっぽくなってくるよな」
「……? クラフトカード?」
「え? ああ、俺が勝手にそう呼んでるだけだ。ただ参加証っていうのもなんだかな」
「まあ、確かにそうですね。……オレ個人としては、いや、叔父がそう呼んでいただけなんですが、こいつの事はネクロノミコンと呼んでいます」
「ネクロノミコン?」
どこかで聞いたことがあるような名前だ。星弥は自分の記憶を探り、それがRPGか何かに登場した名前である事を思い出していた。
「ネクロノミコンっていうのは、クトゥルフ神話に出てくる……いわゆる魔導書っていうか、そういう感じのもの、らしいです」
「クトゥルフ神話……? そういう伝説があるのか?」
「ええ。まあ正確には創作物で、元はハワード・フィリップス・ラヴクラフトっていう小説家が書いていた作品群を、友人らが手直しして作ったものらしいですけど」
ハワード・フィリップス……ラヴクラフト?
「……ラヴクラフト。もしかして、その神話ってのがこのゲームの?」
「はい、モチーフで間違いありません。招待状として届いた手紙にあるナイアーラトテップというのも、そのクトゥルフ神話に登場する神の名前です」
「……ちょっと調べてみていいか?」
「はい」
ベッド脇に追いやられていたノートパソコンを取り出して、星弥はクトゥルフ神話について調べた。
佐藤の説明の通り、クトゥルフ神話は、小説家『ハワード・フィリップス・ラヴクラフト』の小説の世界観を、ラヴクラフトの友人、オーガスト・ダーレスたちがその後書き継ぎ、体系化されていった架空の神話の事らしい。
そのクトゥルフ神話に登場する異形の神、それがナイアーラトテップ。
神のメッセンジャー。
無貌の神。
狂気と混乱をもたらす存在。
「あんまり良い神じゃないな」
「ええ。まあ、このゲームがクトゥルフのネーミングを流用しているにしても、悪趣味ですよね」
「ラヴクラフト、ナイアーラトテップ……それに、ネクロノミコンか。確かにそう考えると、クラフトカードって呼び方よりはそっちのがらしいな」
まあ、ぶっちゃけ会話の中で使うのは恥ずかしい。星弥はそう思いながらも、口には出さない。
……口にしたら、その場で切り捨てられるかもしれないな。バッサリと。
今更ながら、随分と佐藤に心を許してしまっているじゃないか。そんな自分に気づいて、星弥は少しだけ自虐的になった。
「……叔父は、ナイアーラトテップの破滅がやってきたんだと言っていました」
「ナイアーラトテップの、破滅?」
「ナイアーラトテップは、この世に混沌と死がやってくる先触れで、そいつに力を与えられたものは、必ずといっていいほど破滅の道を辿るっていうのがその神話での"お約束"らしくて」
「……ああ、それはまた」
随分とした皮肉だ。巨万の富を手に入れながらも、次のゲームが始まるという時に破産して全てを失う。
確かにそれは、ナイアーラトテップがもたらした破滅と捉えても遜色はないだろう。
「でも、オレはそうは思いません」
「……というと?」
「仮に、の話ですが。もしも、本当に叔父に対して、破滅をもたらす存在がいたとしたら……?」
「……? 実際にナイアーラトテップって神がいるってことか?」
「いえ、そうじゃなくて……。だから、もしも国がこのゲームに関わっているのだとしたら、ゲーム開催に先駆けて、意図的に叔父の会社を……潰したとしたら」
「……!」
背筋に寒気が走った。
神の天罰だとか、ナイアーラトテップの呪いだとか、そんな小説の中の話では言い表せない、ほんの少しだけリアリティに歩み寄った説。
「つまり、ゲームの主催者は佐藤の叔父に金を与えておいて、最終的には潰すつもりでいたって事か……?」
「あくまで、オレの推測です」
「だけど、実際にその小説のナイアーラトテップって神が実在するとか、そういう話よりは遥かに現実的だ」
「ええ。あくまでそれに比べれば、ですけど」
…………。
少しの沈黙が訪れて、星弥はいつの間にか食べ終わっていた豚焼肉弁当をキッチンで片付け、戻ってくる。
「……それじゃあ、どうしてお前はゲームに参加したんだ?」
星弥は、戻ってきて、ベッドに腰を下ろしながらそう尋ねた。
「…………端的な話、叔父がゲームに勝利したのは二十年前の話。つまり、仮に勝利したとして、もしも最終的に死ぬような事になっても、少なくとも二十年は保証されている、と踏んだから」
「……そんな無茶苦茶な」
「冗談ですよ」
「…………」
ははっと笑う佐藤に、若干星弥はイラッときた。
「どうしても、叶えたい夢があるからです。ただそれだけの為に参加しました」
「その夢ってのは?」
「言うほどのものじゃありません。人としての、ありきたりな夢です」
そう言いながら、佐藤はゆっくりと立ち上がる。
「……日月先輩。あなたにはありますか。夢」
夢。
その言葉が、妙に室内に残留した。
「……夢……」
「オレには叶えたい夢があります。二十年かけても、五十年かけてもかなわないかもしれない夢がある。だから、オレは叔父の言葉を信じてゲームを待ち望み、そして、今日という日が来ました」
叶えたい、夢。
「先輩、あなたのクラフトに戦闘能力がないのはわかりました。……先輩ならもうそのつもりだとは思いますが、戦いには参加しないんですよね?」
「……いや、それは……」
……確かにここまでの話を聞いて、星弥はゲームを続行する気力が薄れてきていた。
純然たる事実として、戦闘能力のないクラフト。
これだけでも実際のクラフトカード争奪戦は不利だ。それに加えて……。
星弥は、佐藤を見る。
こいつの夢。それが何かはわからないが、それを乗り越えてなお叶えたいような夢が、俺にはあるか……?
「……どの道、そんな弱々しいクラフトじゃあ敵と正面切って戦うのは無理です。ホルダーサーチをしながら日々怯えるくらいなら、その気になったらすぐにリタイアしてください。わかりましたね?」
「…………」
星弥は、答えられなかった。
それは、佐藤が星弥の身を案じての発言だったと、なんとなく星弥は悟った。
だからこそ、言葉にできなかった。
言葉にも、感情にもならないなにかが胸の中で渦巻いて、もやもやとしたものが心を締め付ける。
「……先輩なら、"あたまがいー"から、わかるはずです。それじゃあ、オレはこれで」
そうして、佐藤はリビングから消え、玄海へと消えて行く。
「……先輩。次に出会った時は、オレはあなたを斬りますよ」
そんな言葉を残して、ドアの閉まる音と共に佐藤は出ていった。
それから星弥は、ベッドに横になって、ただ天井を見つめ続けた。
このゲームで何ができるのか。
このゲームで何をするのか。
このゲームで、俺は何者になるのか。
何者でもない、ただ日月星弥であるがままだ。即座に心のどこかで星弥が答える。
でも、クラフト能力は、今までの俺じゃない。俺ではない何かを与えてくれる気がする。都合のいい発想はやめろ。
夢なんてない。夢なんてないけど、それを探すためにこの戦いに参加するのもいいかもしれない。主人公気取りか、日月星弥。
もっと素直になれ。日月星弥が言う。
お前はただ、楽しみたいだけだろう?
クラフトっていうおもちゃを与えられて、今日一日夢中になっていた、ただの子供だろう?
夢は終わりだ。
おもちゃは、別の子供が持ち歩いていたもっとすごいおもちゃを前にして、色あせ、錆び付き、陳腐なものになったんだ。
だから、もうそのおもちゃは捨てろ。
そうするべきだ。
恥ずかしいだけだ。
命に関わる。
逃げろ。
逃げたほうがいい。
逃げたい。
勝てるわけがない。
勝てない。
勝つ気がないだけだろ。
怖いじゃないか。
そうやって怖がってるから、お前は日月星弥のままなんだ。
そんな事はわかってる。
ああ、わかってる。
だけど、人間はそう簡単に、変われはしない。
だけど、人間はそう簡単に、変われはしない。
――強烈な電子音を耳にして、星弥はベッドから飛び上がった。
「!? なんだ?!」
いつのまにか寝ていたのか? いや、それよりも、今の電子音は!? エンカウントか?!
背筋が凍る思いで、星弥はクラフトカードを確認する。
『一日目が終了しました。経過報告を開始します。▽』
……メッセージを確認して、少し力が抜ける。
そういえば、日付変更線と共に報告がある、という記述が手紙にあったな、と星弥は思い出していた。
時計を見る。丁度日付が変わったところで、その推測が正しいことを裏付ける。
『今日の一言:一日目は静寂の日、二日目は嵐前の日。今日は事が動き出すかもしれません。▽』
…………。
『二日目を迎えたプレイヤーは二十人。一日目のリタイアは三名となりました。▽』
三人……か。
これが少ないのか、多いのか、星弥には判別がつかない。
『リタイアされた方のお名前、リタイア原因は以下のとおりです。▽』
そんな発表があるのか? 晒し者じゃないか。
『【すずきなおゆき さま】
ホルダーと戦い、名誉の戦死を遂げました。
自信満々で挑み、真正面から切り伏せられる、素晴らしい活躍でしたね』
……これは、佐藤が戦ったあのホルダーのことか?
戦死……佐藤が斬ったんだったな。
『【ひのまさこ さま】
ホルダーの襲撃を受け、気づく間もなくリタイアとなりました。
タイムセールスの誘惑に負けず、慎重に動くべきでしたね。 』
……はは。なんだこりゃ。本当にただの晒し者じゃないか。
すずきなおゆき……鈴木直之か? そいつはまだ死んだだけ恥を知らないから……マシ、ってわけじゃないな。
乾いた笑いが室内に響く中、星弥はメッセージを送る。
『【さとうはじめ さま】
ホルダーと戦い、名誉の戦死を遂げました。
最終撃破人数:一名
初戦に勝利した戦果と共に、若きサムライ、ここに眠る。』
「――――え?」
星弥の口から、知らず、そんな声が漏れた。
震える手が、意図せずにメッセージを送ってしまう。
『それでは、ゲームは二日目へと突入します。
残りの参加者の皆様に、ナイアーラトテップの微笑みがありますように▽』
クラフトカードは、それを三秒だけ表示して、元のメニュー画面へと戻る。
……時刻は、七月二十三日。午前零時三分。
夏のうだるような湿気に促され、星弥は一滴の汗を落とした。
『ナイアーラトテップの微笑み』
ゲーム続行 二日目