15/姫乃城晶、後
目が覚めたら、視界が白に包まれていた。
星弥は顔にかかっていたそれ……スカーフをどけて、重力に逆らうようにして起き上がる。
なんで自分の部屋にいるんだ? などとは思わない。
前にも似たような事があったからか、それとも気絶慣れでもしてしまったのか。
星弥は自分がどうやって意識を失ったかを思い返しつつ、ひとまず無事に逃げられたのことを理解した。
もっとも、ジェットコースターが裸足で逃げ出すようなアトラクションを思い出して、背筋を凍らせもしたわけだが。
それから逃れるように体をほぐして、疲労をうったえる足を引きずりベッドから出る。
窓の外は薄暗く、室内には電気が灯っていた。
しかし、部屋の中は静かで星弥以外には誰もいない。
星弥をこの部屋に運んできたであろう張本人……晶はどこかへ出かけてしまったようで、さてどうしたものかと星弥は考える。
洗面台に向かって顔を洗い、歯を磨いてから時計を確認すると時刻は午後七時過ぎ。
日の長い夏でもようやく空が薄暗くなりだす時間帯だ。もしかしたら、晶も気を使って自分の本拠地なりに帰ったのかもしれない。
そう思いつつも、とりあえず起きた星弥が真っ先に考えたのは食事だった。
全身が気だるく、はっきり言って疲れが溜まっている。意識を失ったとはいえ多少は眠っていたと思ったのだが、それでも全身に残る疲労が消え去ったわけではなかったようだ。
思えば夏の猛暑の中、買い物に出てきて帰ってくるなり南此咲へ。その後もホルダーサーチを使って此咲中央街を練り歩き、そしてあのモールでの一件である。
インドアの自分が疲れないわけがない、というのが星弥の結論であった。
よって、当然の帰結として星弥の心も体も栄養補給を訴えていた。
腹も空腹のあまりに今にも鳴き出しそうなので、とりあえず星弥は冷蔵庫の中を開けてみる。
ロクな食材がない。閉じる。
つまり、選択肢はコンビニにある。
住宅ばかりの西此咲にも、もう少し足を伸ばせば星弥たち住民をターゲットにした食事処や商店がそれなりには存在するが、それでも徒歩だと十分以上かかってしまう為、星弥のような若者は徒歩三分で済むコンビニに行きがちである。
ましてや寝覚めの悪い中途半端なゴールデンタイム。
疲労が目に見える星弥の中に、コンビニ以遠の場所へ足を運ぶ気力はほとんど無いのだった。
……………………。
「ありがとうございましたー」
よって、店員の声に送り出されるなり、星弥はシーチキンマヨネーズのおにぎりを頬張った。
海苔の芳ばしい香りと、マヨネーズとシーチキンの味が口の中に広がって、胃の中を満たしていく。
合わせて購入した烏龍茶のペットボトルを開けて飲みながら、再び自宅へと戻る。
……途中で、星弥はふと思い立った。ここ数日、まともな食事をしていないと。
いや、こんな異常な状況下ならある意味仕方ないのかもしれないが、そうはいってもコンビニで食べてばかりでは浪費である。
「……買い物、いくか」
そう小さくぼやいて、星弥はそのまま西此咲の中央にある商店街へと足を向けた。
「お」
「ん? なんだ、君か」
だから、向かった先で晶を見つけたのは全くの偶然だった。
この辺りの住民が一手に集うスーパー『くれない丸』は今日も繁盛しているらしく、仕事帰りのサラリーマンや買い出しの主婦、その他大勢で賑わっている。
特にこの時間は弁当などの惣菜類が半額のセールスタイムに突入するため、腹をすかせたご近所の狼たちが獲物を狙ってやってくるのだ。
かくして、すっかり夜になったスーパーの店先にいるのは、そんな狼の一匹であろう、スーパーの袋を下げた晶であった。
なんとなしに星弥が目を向けると、袋の中にはカップラーメンが二個と惣菜の弁当らしきものが二個。実に男らしい満腹チョイスである。
「いないと思ってたらこんな所に弁当買いに来てたのか」
「僕だって腹は減るさ。"眠り姫"は起きないし、なら今のうちに食べ物でもと思って」
「……いや、その節はどーも。助かったよ……」
眠り姫は後頭部をかきながら、そっぽを向いて感謝を述べる。
その反応が気に入ったのか、くすっと笑った晶は手に下げた袋を胸元まで掲げる。
「もちろん、姫君の分も購入してある。君も腹が減ったからここに来たんだろう?」
「それもあるけど、本命は食材調達だ。最近料理しないでコンビニばっかだったから、適当に何か買おうかなと思って」
「……料理、できるのか?」
何でもない風に星弥がいうものだから、少し沈黙して晶は訝しげにそんな事を聞いてきた。
星弥にとってそれは心外だったが、同様に何度か似たような展開はあった為、特に感慨もなく頷いてしまう。
「まあ人並みにはな。ほら、俺一人暮らしだろ? だから自然と身につくんだよ」
「なるほど……あの部屋をみれば親と仲良く団欒という風ではないとは思っていたが、既に自立していたとはな」
「仕送りだから金はあるんだよ。バイトもしてないし、こういうのは自立って言わないさ」
「それでも自炊はできるんだろう? 仕送りの額にもよるが、万年外食とかレトルト暮らしっていう人間だって多いよ。特に男はね」
そういって腕を組みうんうんと頷く晶はどこかおもしろく、仕返しとばかりに星弥は笑う。
「ははっ、まるで自分の事みたいだな」
「僕に当てはめようとするな……と言いたいところだが、どうにも家事は苦手でね。君が料理をするとなると流石に引け目を感じるよ」
「そんなことで引け目を感じる必要もないだろう?」
自分で言ったばっかりじゃないか。そう思いながら、むむむとうなる晶をよそに星弥はスーパー入り口へと向かう。
「晶は先に帰っててもいいぞ?」
「また鍵はかけてないのか?」
「ああ。誰かさんが不法侵入できるように、開けっ放しだよ」
「無用心だな」
「お前が言うなよ……」
「それもそうか。なら、先に戻って部屋の警備ぐらいはしておくよ」
「わかった、じゃあまたな」
そう言って星弥が手を上げると、晶もそれにならってから踵を返した。
……最初は本当に不法侵入だったわけで、それが今日一日であっという間に軽口を言い合えるほどに砕けているのだから驚きだ。
まあ、きっかけがあればそんなものか。などと星弥は考えながら、明日以降のメニュー選びを始めるのだった。
野菜、肉、それと牛乳。
魚はめんどくさいから許否。
黙々と買い物カゴに品を放り込んでいく。その過程を繰り返せば買い物なんてものはあっという間で、十分と経たずに星弥は買い物をし終えてしまった。
これは明日の食材にするとして、今日のところは晶が買っていった弁当か。
そんな事を考えながら帰路についた星弥は、部屋のテーブルに鎮座するカップラーメンと、ゴミと化した弁当×2アンドカップラーメンその2を目にしたのだった。
「…………」
おかしい。
何がおかしいかって、計算が合わないのがおかしい。
別に、空っぽになっているカップラーメンが緑のやつで残っているのが赤だとか、そういう選り好みの話ではない。
晶が平らげたと思しき、天ぷら御膳と山菜おこわ弁当の残骸、これは一体どうしたことか。
「俺へはカップラーメンだけかよ!」
そう一人つっこみを入れる星弥に反応する影はなし。室内にいない食いしん坊を探して辺りを見渡すと、ベッドの上に見覚えのある服が綺麗にたたんであった。
黒いシャツに青いジーパン。これは晶の服である。
――そういえば玄関前にきた時、ドア左手の窓……風呂場の方から暖色の明かりが漏れていたような……?
「先に食った上に風呂かよ……」
二度目の突っ込みも虚空へと消え去り、同時に聞こえてきたのはシャワー音。
晶は満喫している。しきっている。勝手知ったる他人の家とはこの事か。
たらふく食べて風呂に入って、出てきたところでベッドにダイブ、おやすみなさいのフルコンボまで決められかねない。
……そういえば、自分は住所が割れているが、晶のそういった情報は見聞きしていない。何となくそんな事を思う。
しかしそれも当然だ。拳一発か何かでのされた日を勘定しても二日。共闘を申し入れられ、受け入れてからでは僅かに半日である。
日月星弥は姫乃城晶を何も知らないように、姫乃城晶も日月星弥を何も知らないだろう。
そうして振り返って、星弥は普段の何十倍も濃い記憶として、今日一日が記憶されているのを実感した。
あまりにも手にした情報が多すぎた。
左月菜月。約束。
姫乃城晶というホルダー。共闘。
モールでの包囲網、新手のホルダー。
そして……黒い霧となって消えた……あの……。
「……っ!」
今まで忘れていたそれを思い出して、星弥は背筋を凍らせた。
気絶していたから忘れてしまったのか、それとも忘れるべくして忘れていたのか。
目の前で霧散し、文字通り消滅した一人の少女の事について、星弥は晶に相談を持ちかけるか判断しかねた。
そうしてシャワーの音だけが聞こえる部屋の中で、星弥は一番手っ取り早い連絡先を思い出した。
冷蔵庫に買い物袋の中身をしまって、ポットでお湯を沸かしながら星弥は携帯を取り出す。
少々の緊張を感じながら、星弥は通話ボタンを押す。呼び出し音が鳴って、数秒してコールが始まった。
「――――」
『はい、もしもし?』
数秒後、星弥の面持ちとは裏腹の明るい声が耳に入ってきた。
「……左月さん?」
『もう、なに言ってるの? この番号には左月菜月しか出ませんよー』
拍子抜けするほどの口調で、電話の相手である左月はそうして笑った。
『それで、どうかした? って、まあ日月君の事だし今日の事を心配してって感じなんだろうけど』
「あ、ああ。そう、それ。あのあと結局はぐれちゃっただろ? 大丈夫かなと思ってさ。電話番号の確認もかねてな」
『それじゃあ、どっちもオッケーだね。私はこうして電話に出てるんだし、家で日月君とおしゃべりできてるもの』
「そうだな。それと……」
……それと、友達の方は大丈夫だった?
そんな間の抜けた質問をしようとして、すんでの所で踏み止まる。
しまった。左月に友人が無事かどうかなんて聞くのは不自然すぎる。星弥は口に出かけた言葉を飲み込んで押し黙る。
――そもそも、東雲という少女と日月星弥に交流はなく、少なくとも星弥は彼女を知らなかったのだ。
こんな電話越しに突然ふるような話題ではないし、そして何よりも、東雲さんは無事ですか? などと何も考えずに左月に聞いていたなら、星弥は全力で自分を殴っている。
東雲という少女が消えたのを見届けたのは、星弥ただ一人。
その事実を受け入れて、飲み込まねばならない。
もしかしたら、左月は避難時にはぐれてしまった友人を心配しているかもしれない。
連絡しても繋がらず、家にも帰っていない親しい少女を考えれば不安にもなるだろう。
だが、彼女はそういう事を表に出すタイプではないはずだ。
知り合った頃から、左月菜月という少女の笑顔以外の表情など、星弥は一、二度しか見たことがなかったのだから。
『それと、なーに?』
言葉に詰まった星弥に助け舟を出すように、左月は変わらぬ声色で聞き返してくる。
「いや、その……」
だが、こんな時に限って星弥は二の句が続かなかった。
それは、真実を伝えないという事実からか、それとも単に同年代の異性との通話のせいか。
飲み込んだまま喉に詰まってしまったそれをどうしようもできずに、星弥はただ沈黙する。
『大丈夫だよ』
「……え?」
だからだろうか。それを振り払うように、小さくもはっきりと、左月はそう星弥に告げた。
『日月君、大丈夫』
「な、なにが?」
『さあ、何かはわかんないけど』
「……なんだそりゃ……」
『でも、何か不安そうだったから。だから気休めだけど、大丈夫』
大丈夫、大丈夫。左月はそう何度も繰り返す。
星弥はその言葉に安息を覚える事無く、ただただ焦燥感に襲われた。
彼女は何もかも知っているんじゃないか。
それを知った上で、大丈夫と言ってくれてるんじゃないか。
今なら、全てを吐き出してしまえば、どれだけ楽になるか……。
左月、俺は、お前の友達を、
「……ありがとう、左月。おかげでちょっと安心した」
そんな妄言を、言葉とともに切り捨てる。
『ん、そっか。それなら本当に大丈夫そうだね』
「ああ。本当に……ありがとう」
『そう思うなら約束も忘れないでね。それと、別に用事がなくてもこういう風にかけてくるよーに』
「…………。まあ、機会があればな」
『つまり、ほぼかけてこないと』
「そりゃそうだろ」
彼氏彼女じゃあるまいし。珍しく思ったことを口にせず、星弥はお茶を濁した。
『じゃー約束の方だけ期待しておくとしますか。それで、お話はそれだけ?』
「ああ、そうだな。それだけだけど」
『あっさりしすぎだよ?』
「え?」
『ううん、じゃあ、おやすみ日月君』
「あ、おい」
……星弥が返事をする間もなく、左月側から電話が切られる。
声そのものは明るかったが、その前の一言は何というか、とても批判的だったような。
「…………」
もしかして、もうちょっと話をした方がよかったのか? そう思う星弥は、恋の駆け引きなどロクにしたことがない普遍的男子であった。
*
そんな小さな一大イベントが終了し、赤いカップラーメンをすすり終えた星弥は一息ついた。
思えばコンビニでおにぎりを一つ食べていた為、カップラーメンだけという晶の判断は結果的には良好に終わった。
睡眠欲は目が覚めて動いたせいか全くなく、そうなってくると星弥が次に気になるのは肌のべたつきである。
今日一日、猛暑の中を山やら中央街やらモールやらを駆け巡り汗だくだ。
次からは水筒でも常備して動くか? そんな遠足じみた算段をつけながら耳を傾けると、風呂場からはシャワーの音が消えていた。
そろそろ俺も汗を流したいといった心持ちの星弥だが、未だ立てこもりを続ける犯人は出てこない。
星弥はそっと立ち上がり、風呂場の前へいく。
シャワーの音はしない、だが水が跳ねる音を確かに星弥は耳にした。
つまり今度は、篭城策からの水攻めへと切り替わったのである。
「おい、晶」
「……ん? なんだ、もう帰ってきていたのか」
「だいぶ前にな。随分満喫しているようだな、我が城の設備を」
「なんだその言い回しは。まあしかし、アパートにしてはバスルームも悪くない。作りからして海外のものじゃないか?」
思いの外反応が返ってきたので、星弥はいつ風呂がでるのかという質問を一旦隅にやって、晶に応じて廊下に座り込む。
「そうなのか? まあ、入る時に新築だとは言われたけど。俺が高一の時から使ってるから築一年ちょいってところか」
「なるほど、でもその割には小奇麗だな。掃除も好きなのか?」
「むしろ苦手だけど、カビとか生えたらもっと面倒だろ? だから最低限はな」
「良い考えじゃないか。先を見越して行動するのは良いことだ」
少し笑いを含んだような落ち着いた声が、バスルームで反響する。
「そういうお前はどこに住んでるんだ? 地元はここか?」
話のついでだと、星弥から手っ取り早く核心から切り出した。
それに数秒だけ沈黙をおいて、湯船が揺れる音に合わせて晶の声が聞こえ始めた。
「いや、地元はここじゃない。僕はゲームの為だけに此咲市にやってきた。だから今はホテル暮らしだ」
「……ゲームの為にって、じゃあ、お前もこのゲームが始まるのを知ってたのか?」
「その通りだ――ちょうどいい、昼間の話の続きだな。情報共有……というより、身の上話になるが」
そう前置きした晶が語り出した話に、星弥は耳を傾ける。
「まず始めに告白してしまうなら、僕はこのゲームに復讐をしに来たんだ。お父様を殺された、復讐にね」
「お父様を……殺された……?」
「ああ。僕の父親はゲームの参加者だった。そして母親もだ」
「それはつまり……ゲームで知り合って?」
「そうらしい。二人は共闘関係にあったようだ。丁度、今の僕たちのようにね」
そう語る晶の声は、穏やかながらにどこか静かな色をもっていた。
――十七、八年前の冬。
母親曰く、此咲市ではない別の街でゲームは行われたらしい。
その頃はまだ手紙なんてアナログなものが普及していた時代だったから、手紙を受け取って素直に読んだ人は多かったらしく、ゲーム参加者も五十人近くに及んだとか。
そのゲームに偶然の一致で同じ日、同じ場所、たまたま居合わせた父と母は、手紙の内容をお互いに話し合った上で、興味本位から飴をなめた。
それが、二人の戦いの始まりだったらしい。
そこからはあっという間。そういう時代だったのか、人数が多いからそういう輩もいたからか。
初日から散発的に始まったゲームは、翌日、翌々日とその勢いをまして、次々とリタイアするホルダーが出た。
当然、死人も出たらしい。最初は文字通りゲーム感覚だったホルダーもその危険性に気づいて、守りに入る者、危険だからこそ攻めに転じる者、色々でたとお母様は言っていた。
両親に関して言えば、母は前者、父は後者だったようだ。特にお母様はゲーム日程の半分を過ぎた段階で、最善策としてリタイアを選んだらしい。
「じゃあ、父親の方はお前の母親が降りても戦い続けたのか?」
「そうらしい。そして、それをお母様も止めなかった。お父様が勝つと信じていたからなんだろうが、実際は、前述した通りだ」
「…………」
ゲームの終盤までお父様は生き残りたくさんのホルダーを"リタイア"させてきたらしいが、それも最後までは続かなかった。
お母様との関係が発覚し、それを踏まえた上で襲撃されたお父様は、お母様を守るために戦って死んだそうだ。
「最後の最後に、お母様をかばってお父様は死んだ。これは何度も何度もお母様本人から聴かされたよ。……そう、何度もね」
「……つまり、復讐を望んでいるのは、お前の母親なのか?」
「一ヶ月前まではそうだった。でも、お母様も先月亡くなったよ」
「……!」
言葉を返さない星弥に構わず、晶は言葉を続ける。
「お母様は最後の最後まで、お父様の死を悔やんでいた」
それは、まるで。
「だから、僕はお父様に代わって」
幾度と無く浴びせられた呪いを胸に。
「お母様の願いを継いで、ここに来たんだ」
それを運命と信じて、ここにやってきたかのような、確固たる意志。
「晶……お前の願いは、なんだ?」
「……ゲームの終了、二度と開催しないという契約」
「!?」
「――と言いたいところだが、叶うかどうかはわからない。だからそれ以外なら、両親を生き返らせるとか、そういう漠然とした事なら考えている」
「……できると思うか?」
星弥の問いに、晶はん? と生返事をあげる。
「どういう意味だ?」
「例えば、人を生き返らせるとか。病をなおすとか。怪我をなおすとか」
願いを一つだけ叶える。それは本当に真実か?
「俺は晶ほどはっきりとは決められない。それに、それ以上に、本当に願いを叶えるなんて夢物語がこの世にあるのかってのも信じ切れない」
現実的だな。そう晶は言いつつも、だけど、と返す。
「だからこそ、クラフトという現実を前に、信憑性も感じている……違うか?」
「……その通りだ。こんな魔法みたいな力、SFみたいなクラフトカード。これだけ見せられれば、夢だって見たくもなるさ」
「僕だってそうだよ。実際に手紙を読み、参加証を受け取るまでは半信半疑だった事は間違いない。でも、だからこそ、手にした今は信じられる。何より……」
「何より?」
お湯の流れる音。晶が湯船に体を沈めたのか、ザァーという音が流れて、数秒して静まっていく。
「……何よりも、僕が手にしたクラフト、レジェンドカレイドカルサイト。これこそが、僕の運命を決定づけている」
「お前の、運命……?」
それを問いと捉えなかったのか、晶から次の返事がくる事はなかった。
「……夏場に長風呂をしすぎた。そろそろ上がりたいんだが、いいか?」
「ん? ああ……」
そう促されて星弥は立ち上がるが、そもそもこの一人暮らしの部屋に脱衣所などというものは存在しない。
横棒が長いT字路構造であるキッチン兼バスルーム兼トイレ兼玄関のこの空間において、バスルームは縦棒の短辺右手にあたる部屋である。
これを出るとそこにあるのは廊下。対面する左手にはトイレ。その廊下で正面を向けば、長辺にあたる台所が広がっているというわけだ。
つまり脱衣場所とはすなわち星弥が座り込んでいたここであり、バスルームとトイレに挟まれた廊下の突き当りには、洗濯機とバスタオルが置かれることで事実上の脱衣所と化しているのである。
「バスタオルは風呂場からでたら洗濯機の上な。マットも敷いておくぞ」
「ああ、悪いな。ついでにベッドの上にたたんである服をもってきてくれると嬉しいが」
「はいはい、承りましたよ、神様仏様晶様」
「……別に僕は裸で室内を闊歩しても構わないんだぞ?」
星弥の軽口が気に入ったのか気に入らなかったのか、そんな謎の脅迫を晶がしてきたので星弥は笑う。
「HAHAHA、じゃあバスタオルで体をふいたら全裸で着替えにくるがよい」
「言ったな?」
すっかり調子にのった星弥は、食べられるとやや期待していた山菜おこわか天ぷら御膳の恨みといわんばかりにリビングへと戻った。
そうしてベッドに腰を下ろしてから、そういえば俺も風呂に入りたいんだったと思い返す。
汗をかいたし服の洗濯もしないと。そんな事を考えて、晶の服にも目がいった。
試しに触ってみると、似たり寄ったりの湿り具合。晶も同じ環境にいたのだから、当然といえば当然だが。
……仕方ない、多少ぶかぶかだろうけど俺の着替えでも出してやるか。
そう思いながら晶の着替えを持ち立ち上がると、着替えの間に挟んであったらしいピンク色の布がベッドにこぼれ落ちる。
「おっと」
なんだこりゃ? そう思って拾い上げた星弥に、戦慄が走った。
硬直する肉体と精神。それをよそに、背後からドアの開く音がして、ぺたぺたという足音がやってくる。
「……? 何をやっているんだ、君は」
「!? え、あ、いや!」
振り返った星弥の手には晶の服。それを見ても特に表情の変化がないバスタオル姿の晶は、星弥が手にしていた服を取り上げる。
「なんだ、本当に全裸できてほしかったのか?」
「い、いや、そうじゃなくて、お前の服も洗濯しようかなと思って……」
「なるほど、それは名案だ。ホテルに着替えを取りに行ってもいいが、時間が時間だしな。今日はこのまま0時を迎えて作戦を練るつもりだったから、それまでにおわない服を着せてもらえるのは助かるよ」
「俺のだから、多少ぶかぶかかもしれないけど」
「それは仕方ないだろう、君と僕では体つきが全然違うからな。Tシャツだけ頼むよ、ジーパンは面倒だろう?」
「あ、ああ、そう、だな……」
「でも、流石に下着はないだろう? 君は男だからな、最近は男性用の女性下着なんてものもあるらしいが…………それとも、そのアイドル顔にして女装癖でもあるのかい?」
「……いや、別に……」
「なら下着はこれで構わないよ。服はクローゼットの中だろう? 適当に見繕っていいか?」
「……ああ」
「そうか。じゃあ君もシャワーを浴びると良い。僕がいうのもなんだが、君もかなり汗臭いぞ」
「……そうだな、そうする」
そうして晶のTシャツを手に、星弥はリビングを後にした。
風呂に入る前には珍しく、リビングと廊下とを区切るドアをバタンと閉める。
入浴中にここを閉めると、とても通気性が悪い。換気扇をまわして、リビングの窓を通して空気を入れ替えないとあっという間に熱がこもるのだ。
だがしかし、今の星弥はリビングを開けっ放しにできるような精神状態ではなかった。
晶のTシャツを洗濯機に放り込み、自分の服も放り込んでバスルームに入る。
そうしてとりあえず湯船に飛び込んでから、星弥は風呂に顔をつけてぶくぶくと息を吐き出した。
……その表情は揺れる湯船と湯気にかき消され、本人ですら確認する事はできなかった。