8★
破壊力は抜群だった。
──シャワー浴びてきて
──あなたの着替え、買っちゃったの。だって、これからずっと、会いに来てくれるんでしょう?
──明日の夜も一緒にいたいの
──こうやってギュッてしてて、お願い。
彼女の言葉が脳内で変換され、さらに威力を増す。腕の中に抱きしめた細い体。その先に進みたくなるのを全力でがまんする。
会えない間のメールのやりとりで、「好きだ」「会いたい」と何度もささやいたのが効いたのか。彼女も「契約」を越えた気持ちを持ち始めてくれたんじゃないかと、勝手な期待をしてしまう。
俺の勇み足は、カナさんのストッパーを外したらしい。カナさんのほうからくっついてくるようになった。それまでテーブルを挟んで向かいに座っていたのが、ピタリと横にくっつく。ちょ、体育座りとかヤメテください。威力ありすぎ。
「ほんとはね、何にもシないでただくっついてるだけ、っていうのがしてみたかったの」
その過去形は、俺との経験談ではなく。
「前の彼とは、できなかったんだ?」
「…あの人は、うちに来るときはそういう目的だったから。近寄れば即始まっちゃったし」
「何が」の部分を言えないカナさんの恥じらいをかわいいと思う一方で、そんなカナさんを抱くためだけに部屋を訪れたという元カレに、違和感を覚える。
「わたしからくっつきに行くとかできなかったなー…拒否されるのがイヤで、いっつも向こうが求めてくれるのを待ってた」
それって、カナさんの自信の無さっていうか…そんなふうに思わせる彼氏のほうにも問題ねえ? 遠慮しすぎだろ。いったいどんな不幸な恋愛してたんだか。
「あ、ごめん。こんな話」
「その人は知らなかったんだな」
「…何を?」
「ほんとに好きだったら、エッチ無しでもこうやってくっついてるだけで幸せってこと」
言外に含んだふたつの意味。
「俺も今日知ったけど」
「……」
きっとカナさんも気づいたから、返事が無くなる。
元カレはカナさんのこと、“ほんとに好き”じゃなかった。
俺はカナさんを“ほんとに好き”。
今、彼女をうつむかせているのは、どちらの意味を気にかけてのことなのか。少しでも後者が含まれていたらいいのに。
「ね、カナさんさ、夏休みいつ?」
空気を切り替えるように、話題を変えた。
「夏休み? ああ…そういえばまだ申請してなかったな」
「8月中に取れる?」
「んー…お盆に合わせるのがいちばん休みやすいかなあ…暑いし混んでるし、ほんとはそこ避けたいけど」
「予定まだ決まってなかったらさ、俺も休み合わせるから。どっか旅行しねえ?」
そう言うと、カナさんはまんまるな目をさらにまんまるに見開いた。
「それって…オプション?」
またそんなことを!
「契約内。追加料金なんて取らないから安心してよ」
「旅行かあ…ソウタくん、運転できる?」
「免許持ってるよ」
カナさんの顔がパァーっと輝く。
「ドライブしたい!……って、お盆にドライブとか、死にに行くようなもんか」
「俺、カナさんとだったら渋滞大歓迎」
「どうして?」
「だって渋滞中って、狭い密室にカナさんと2人っきりでしょ」
出た。カナさんのハニカミいただき。じゃあ行きたいとこ考えるね、と言って、うれしそうに笑う。と、それがいたずらっ子みたいな“ニヤリ”に変わった。
「カップルが一線を越える定番って、“旅行”だよね」
「へえ、そうなんだ。俺、一線越えてからカップルになるしかしたことないから」
ギロリとにらむカナさんもかわいい。
「妬いた?」
「妬いてないよ。引いただけ」
「カナさんだけだなー。カラダ目的じゃなく一緒にいたいのって」
「そうだね、お金目的だもんね」
カナさんの声がだんだん固くなる。内心しくったと焦りながら、賭けに出てみた。
「やっぱ妬いてんだ」
「……」
ビンゴ。低い声で、「うん」と聞こえた。ヤバい。ヤバいよカナさん!
「じゃあ、その旅行で、一線越えちゃう?」
けれどそう言った俺に、カナさんはニヤリと笑って「さあそれはどうでしょう」と楽しげに応えた。
本当はカラダなんてどっちでもいいんだ。いや、うそ。そりゃあ心身ともにもっとカナさんに近づきたいのが本音だけど。カナさんが望むまでは待つつもりだ。人の体温が恋しいくせに臆病になっているカナさんを、俺が安心させてあげたい。
……にしても。カナさんをそんなふうにした元カレってヤロー、いったい何をしたんだか。よっぽどヒドいことしたんじゃねえの? 目の前に現れたらぶっつぶしてやりてえ。
──その機会がすぐそこで待ってることを知るはずもなく。俺の思考を遮ったのは、本日いちばんの破壊力を持ったこんな誘い。
「…今日は、こっちで寝ない?」
「え……?」
「やっぱり、ゆかで寝かせるのって悪いし…」
「カナさんのベッドで、一緒にってこと?」
彼女は不安げな表情で目を泳がせている。嫌がられたらどうしよう、なんて考えているのだろうけど。とんでもない! 俺はブンブンと勢いよく頷いた。
電気を消して、ベッドに上がる。カナさんの寝間着はTシャツに短パン。白い太ももを見たいけど見れない。いろんな意味で。
「ごめんね、ソウタくん。わたしワガママ言って」
「…いつワガママ言った?」
むしろもっとワガママになってほしいとさえ思っているというのに。
「だって…一緒に寝たいとか、でもその先は待ってとか…男の人にはつらいでしょう?」
それは、まあ、今夜は眠れない自信はありますが。
「いいよ、こうしてそばにいられれば。それに俺、カナさんが主張してくれるの、すげえうれしい」
そう。元カレには言えなかったワガママを、俺には言ってくれる。だって30万も払うんだもん。カナさんはそう言うだろうか。
「もう一個、ワガママ言っていい?」
「喜んで」
「…くっついて寝ていい?」
もぞもぞと身じろぎ、俺の体側にぴったりとくっつく。ああ、だから太ももが。
暑いね、と笑いながら、カナさんが俺の胸におでこを乗せる。いやもうマジハンパないっす。
「カナさん、俺…カラダが変なことになったらごめん」
すでに自覚はありますが。
「そしたら、わたしが責任を持って、イタっ」
俺のデコピンをまともにくらい、カナさんがおでこを押さえる。責任持って、どうするって? 手をわきわきさせるんじゃない!
「スミマセン、調子にのりました」
「気をつけなさいよ? ほんとシャレになんないから」
しばらくすると、カナさんは寝息を立て始めた。へえ…俺の胸で寝られるんだなあ。悶々と眠れずにいた俺も、その波が去ると、腕の中に彼女がいること、彼女が自分を信じていることにしみじみと満ち足りた気持ちになり──自分でも意外なほど、心が落ち着いて。彼女を追いかけるように、眠りに落ちたのだった。