6★
こんなに走ったのは久しぶりだ。バイトが終わるや、俺は駅へ猛ダッシュしていた。少しでも早く、彼女に会いたかった。先週の土曜日の0時ちょうどに俺の恋人になったばかりの彼女に、一週間ぶりに会いに行く。
あの日の翌朝は、俺の存在をすっかり忘れた彼女に腕を踏まれて目が覚めた。
「ごめん! そういえばいたんだった」
「…ひどくね?」
ごめんごめん、と腕をさすってくれる彼女に、「昨日の話、なかったことにされちゃう?」と聞いたら、「したくない」と即答してくれた。
わたし、慣れたら早いの。そんなことを言って、もうずっと前からあの部屋に俺がいたかのように自然に──要するに俺の存在をまったく気にかけず、カナさんはさっさと掃除やら洗濯やらを始めた。こっちのほうが居心地が悪い。
「なー、俺もなんか手伝えることない?」
女の家で家事の手伝いを申し出るのなんて、初めてだ。見抜かれていたのかもしれない。カナさんは驚いた様子だった。
「じゃあ…お皿、洗ってもらおうかな」
「了解」
二人分の朝食だから、大した量はない。それでもカナさんは、俺の手元を覗き込んで感心してくれた。
「手際いいねえ」
「バイト、カフェバーでさ。基本的にホールなんだけど、たまにキッチンも手伝うから」
「へえ。長いの?」
「学生んときからだから、もう5年くらいかな」
「ふーん…」
あ。就職せずにいつまでバイトなんだって思われたかな。けれどカナさんは「頼もしいね」と、背中をポンと叩いてくれた。よかった。点数稼げたか。
……って。何の?
ああ、ほら、5万円アップさせるための点数だろ。そうだそうだ。金もらうんだしね、やるからにはしっかり満足させないとさ。そんなふうに、自分の立ち位置を小まめに確認し直さなければ、うっかり境界線を見失ってしまいそうだった。
そしてその境界線を放棄したのは、その日の夜だ。つまり、彼女と過ごすふた晩め。カナさんはバイト先から向かった俺を、「おかえり」と迎えてくれた。
「ソウタくんさ、お金の使い道って決まった?」
「…なんかあったほうがいいの?」
寝る支度をしながら、そんなことを聞かれた。説教でもされるのかと一瞬身構えたが、ほんとに彼女の答えはいつも想定の範囲外で。
「男に金を貢ぐと、男をダメにするってイッコーさんが言ってたからさあ。“遊ぶ金欲しさ”とかだったらソウタくんのためによくなかったかなって思って」
電気消すね、と言って、さらに続ける。
「でも、何か使い道とか必要のあるお金だったら、投資っていうかさ。支援してるみたいな気分になれて、まあ要するに自己満足?」
そんなふうに、自分のずるさをさらりと言える強さを、マネしてみたくなる。
「病気の妹の治療費」
「……」
「て、いうのだったら満足させられる?」
わざとそんな言い方をしてみせた。
「医療費だったら、月の支払い額の上限があるでしょう?」
ほらまた、予想外の答えを返すから。明かすつもりのなかったことをしゃべらされる。
「…高額療養費制度のこと? 上限超えたら補助はされるけどさ、8万は払わなきゃいけないから、それが毎月続けばやっぱりキツイよ」
「そっか…」
「……」
「ていうか、ホントだったんだ」
「カナさんこそ詳しいじゃん」
「仕事、医療関係」
「そうだったんだ…こんな話、他人にしたの初めてだ」
この、お互いの顔が見えない位置関係。暗闇の中、横並びで天井を見つめているこの空間が、するすると言葉を引き出す。
「そしたら、わたしに割く時間なくない? 付き添いとかあるなら無理しないで」
「いいんだ。もう、必要ないから」
だから普通なら絶対に言わないようなことを、話してしまう。そういえばカナさんも昨日、失恋の話を突然始めていたな。何を俺たちはぺらぺらと。
「…必要ないって…?」
「治療の甲斐あって、無事退院。それを機に母親が再婚してね、再婚相手の家に一緒に帰ってったよ」
「そう。よかった…ソウタくんは?」
「25歳で新しい父親と同居ってのもね。距離があるほうがうまくやれるよ」
「それで、友だちんちを転々としてるの?」
「家、探さなきゃって思ったんだけどさ」
「うん」
「仕事も、探さなきゃって思ったんだけどさ」
「うん…」
ここから先は、言えばきっとダメなヤツだと思われてしまうことがわかりきっていた。けれど止まらなかった。
「…うち、母さんが看護師でさ。仕事休めないから、俺が妹の面倒みるっつって。妹10コ下なんだけど、日中1人で置いとくのは心配でさ。だから時間に自由のきくバイトの身分でいようっつって」
ああ…最低だ、俺。
「……そういう理由つけて、就職から逃げたんだ」
「……」
「そしたら大義名分が退院しちゃったからさ、困ってんの。家探したり仕事見つけたりしなきゃなんなくなってさ」
「うん…」
「なのに、全然からだが動かなくってさ」
「うん」
「俺いまどこに向かってんのかさ、そもそもどこにいるのかさ、ふわふわして、わかんなくて」
やべえ…俺何言ってんだろう。そしてなぜ声が揺れてんだろう。
「燃え尽き、だね」
「…なに?」
ちょっと違うかもだけど、と言って彼女はこんなたとえ話を始めた。──部活の大会前って毎日練習があって忙しかったのに、テスト勉強ちゃんとして、点数も取れていたけど。大会終わって引退したとたん、気が抜けちゃって、時間はたくさんあったのに、テスト散々だったんだよね。
「んー…だからつまり、ソウタくんを支えてた紐がぷっつり切れちゃって、自分で立つための重心を取り戻すのに時間がかかってるんだね」
「支えって…あいつ支えてたの俺のほうだっての…」
「“妹を支えなきゃ”っていう思いに支えられてた、でしょ?」
「……」
「休んでいいと思うよ。ほんとにヤバイと思ったら嫌でも浮上するもん」
「そうかな…」
「そうだよ」
いつまでも就職をしない俺を、事情を知らない友だちは「ラクでいいよな」と揶揄する。事情を知ってる母親は、「いつまで甘えてるの」と叱咤する。元気になった妹は、「あたしのせいみたいでヤなんだけど!」と生意気なことを言う。そしてカナさんは、そのどれとも違う反応を俺にくれた。
「……いっぱい、がんばったんだね」
「……!」
「きっとずっと、ソウタくんはがんばってきたんだね」
……ああ、もう、境界線なんかいらない。金のためとか本気とか、どっちでもいい。彼女を笑顔にできるなら、それでいい。
「カナさん」
「ん?」
「好きだよ」
「…ありがと」
今からは、俺が言うことぜんぶ“本気”だって言ったら、引く?
「ソウタくん、サービスいいね」
それはあなたには伝わらない“本気”だけれど。