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第29話 アルテール平原の戦い(1)

領都ルミナリア近郊。各軍団の宿営地から、グランゼイド帝国軍を迎え撃つべく王国軍約六万の軍勢が出立しようとしていた。


その出陣の数刻前、セレスティーヌ軍の宿営地の本陣であるコテージに、一人の気品ある壮年の男が数名の護衛を連れてやってきた。

男は並び立つ面々を見回すと、懐かしげに口元を綻ばせる。


「ミリア、カイル、フェリックス。久しぶりだな。――お前たちが士官学校を卒業して以来か?」


その声を聞いた瞬間、三人の顔に驚きと喜びが走った。

「「「マーロンド先生!」」」


ギルベルト・フォン・マーロンド伯爵。

大貴族でありながら、かつて王立士官学校で教壇に立ち、カイルたちに軍人としての基礎を叩き込んだ元教官――彼らの恩師であった。


カイルは親愛の情を込めて、笑顔で挨拶を交わす。

「お久しぶりです、先生。……あれ? 先日の軍事会議には出席されていませんでしたよね?」


「ああ、あれか。急な病気でな。代わりに息子を出した。――ロシュフォール侯爵の顔を見ると、全身に蕁麻疹じんましんが出るという極めて重い病だ」


「はは、仮病ですね」

カイルは思わず苦笑する。相変わらず政治の泥沼を嫌う恩師らしい世渡りだった。カイルは表情を引き締め、実務的な問いを重ねる。

「ところでマーロンド先生。此度の再編成において、先生の軍には無事に増援兵が割り当てられたのですか?」


「まあな。先日のベスティア領の防衛戦では、我が領には元々兵も少なく、自領が遠いこともあって招集されなかったが……もう国がそんなことを言っていられる状況ではないからな。自領の軍と掻き集めた増援兵を合わせて、我が軍勢は一万近くにはなった。その分、練度は目に見えて落ちるがね」


マーロンド伯爵はそこで一度言葉を区切ると、呆れたように肩をすくめた。

「しかし、その割り当てられた増援兵がまた問題でな。使い物になりそうにない若年兵や、老兵の予備役といった質の悪い兵のほとんどが、我が軍の指揮下に押し付けられた。まともな精鋭は、おそらくロシュフォール派の連中の元へ配属されていることだろうよ」


恩師の言葉を聞き、カイルは内心で冷ややかな怒りを覚えた。


(今回の再編成では、各地の守備用に残しておくべき最低限の兵まで、文字通り限界まで毟り取って前線へ投入した。此度の合戦で大敗するようなことがあれば、ローゼンベルク王国そのものの存亡に関わるというのに……。上層部の奴らは、まだそんなやりたい放題の派閥争いを続けているのか)


そんなカイルの懸念を察したのか、マーロンド伯爵は不敵に笑い、彼の肩を軽く叩いた。


「まあ、そう心配するな、カイル。どのみち誰かが率いねばならん兵たちなのだ。――士官学校時代に戻ったつもりで、少しばかり出来の悪い生徒たちを戦場で直接指導して見せるさ」


カイルたちがその恩師の後姿を見送った直後、それと入れ替わるようにして、セレスティーヌ軍の本陣コテージへと一人の男が足を踏み入れてきた。


衣服に『勲功記録騎士インジケーター』の紋章を刻んだ、酷く無愛想な男であった。


まあ、こちらのあらを躍起になって探す目付け役なのだから、愛想が良くても困るわけだが。男は周囲を品定めするような目つきで 、形式ばかりの挨拶を口にした。


「セレスティーヌ卿、ヴァルデン卿。此度、皆様の勲功記録騎士として同行を命じられました、バス・ドゥと申します。……私の果たすべき役目についてですが」


「知っている。説明は不要だ。問題ない」

カイルは男の言葉を遮り、短く返した。

バス・ドゥは僅かに眉をひそめたが、すぐに平然と頭を下げる。


「――は。ならば以後、お見知りおきを」


バス・ドゥは幹部一同に礼すると、コテージの外にいたルナたちエレフィン族の長弓部隊へと、蔑むような視線を向けた。

「ところで。噂には聞いておりましたが、まさかこの王国軍に、森の『蛮族』までが編入されているとは……どうやら、本当だったようですね」


「てめぇ、なんつった!!」

激昂したフェリックスが男へと飛びかかろうとした、まさにその刹那。


キィン、と。

天幕の空気を切り裂くような鋭い金属音が響き、フェリックスの動きすら完全に置き去りにして、白銀の閃光がはしった。


気付けば、バス・ドゥの喉元からわずか数ミリの場所に、セレスの剣がピタリと突きつけられていた。

あまりの神速の抜刀に、バス・ドゥの顔から一瞬で血の気が引き、その視線がセレスティーの目の前のへと釘付けになる。


セレスは顔を上げ、冷徹な瞳で男を真っ直ぐに見据えて言い放った。


「――私の大切な友人や、命を懸けて戦う部下たちを、侮辱することは決して許しません。二度とその言葉を使わないでください」


バス・ドゥは額から冷や汗をだらだらと流しながら、恐怖に声を震わせて答えた。

「……承、知いたしました」


首筋に突きつけられた刃が静かに引かれると、男はそれ以上の言葉を濁したまま、逃げるようにコテージの外へと消えていった。


それを見送ったルークは、深く納得したように小さく呟く。

「なるほど……確かに、カイル殿の言う通り『やから』ですな」


すると、それまで黙って推移を見守っていたエミールが、場の空気を和らげるように声を上げた。

「出陣前に、すっかり水を差されてしまいましたね。……皆さん、口直しに川魚のハーブ串焼きでも買ってきましょうか?」


「おお、エミール! ついでに美味い酒も頼むわ!」

フェリックスが我が意を得たりとばかりに豪快に笑い、便乗する。


すかさずミリアが冷ややかな視線を向け、呆れたように釘を刺した。

「何を言っているのよ、フェリックス。出陣直前だというのに、そんなに緩んでいてどうするの」


「ふう……。フェリックス、今回だけは特別に許可します。エミール、皆の分をお願いね」

セレスが小さく息を吐き、悪戯っぽく微笑みながら許可を出す。


「だろ? 聞いたか、ミリア」

フェリックスが勝ち誇ったように鼻を鳴らすと、ミリアは一瞬だけ悔しそうに口元を尖らせ、すぐに視線を泳がせた。


「……だったら、私は白ワインが良いわ。冷えているものをね」


手のひらを返したミリアの注文に、コテージの中が一気に柔らかな笑いに包まれる。

生真面目なルークだけが、頭を押さえて「はぁ……」と深い溜め息をつくのだった。



アルテール平原。

朝、ベスティア領とロシュフォール領を跨ぐ大平原を舞台に、ローゼンベルク王国軍五万、グランゼイド帝国軍六万の軍勢が、不気味な静寂を挟んで対峙していた。


純粋な兵数だけを見れば、帝国軍が優勢であることは間違いない。だが、大陸の長い戦史を紐解けば、この程度の数差をひっくり返して逆転勝利を収めた例など、いくらでも存在した。


セレスティーヌ軍およそ八千は、その主戦場から遙か後方――およそ十キロメートル離れた街道筋に陣を敷き、静かに待機していた。


カイルは前線から引き揚げてきたばかりの伝令兵を呼び止め、戦況の様子を問いかける。

戦場のように膨大な数の人間が殺気を放ち合う場所では、繊細な生き物である伝信竜レグートが地上に降りるのを嫌うため使い物にならなくなるからだ。


「――前線の様子はどうだ、兵の配置は終わったか?」


「はっ。両軍ともに陣形を整え、そろそろ戦端が開かれるかと。……これほどの大軍勢です、十一万の人間が激突すれば、この距離にいても地鳴りのような気配が伝わってくるかもしれません」


今回、カイルにしては珍しく、その胸中に微かな迷いが生じていた。


王国軍の混成部隊ゆえの練度の低さ、連携のなさ、そして何より手柄を優先する将軍たちの醜い足の引っ張り合い。

それに対して、迎え撃つグランゼイド帝国軍は、先日の勝利によってベスティア領を占領し、士気は高い。


「――敵味方の、正確な布陣は分かるか?」


「はい」

伝令兵は、地図上の兵棋へいきを最新の配置に変え、指を指しながら布陣を伝えた。


── ローゼンベルク王国軍:総兵力 約60,000 ──


■ 前線(左翼から順に配置)

・キース伯爵軍:12,000(大将:リカルド・フォン・キース伯爵)

・マーロンド伯爵軍:9,000(大将:ギルベルト・フォン・マーロンド伯爵)

・ロシュフォール侯爵軍:12,000(大将:ライネル・フォン・ベルガー子爵)

・ミラージュ侯爵軍:10,000(大将:フェルナン・フォン・ユリウス子爵)

・エーベルバッハ子爵軍:9,000(大将:ウルリッヒ・フォン・エーベルバッハ子爵)

■ 後方

・セレスティーヌ軍:8,000(大将:セレスティーヌ・フォン・ランカスター公爵令嬢)



── グランゼイド帝国軍:総兵力 約65,000 ──


■ 前線(王国軍から見て左翼側から配置)

・ダグラー第五騎士団:11,000(大将:バスク・ダグラー将軍)

・シューマッハ伯爵軍:12,000(大将:ギジェ・フォン・シューマッハ伯爵)

・ケストリッツ第六騎士団:11,000(大将:ヨアヒム・ケストリッツ将軍)

・ベルクマン第二騎士団:12,000(大将:エルンスト・フォン・ベルクマン将軍)

・ザイデン第三騎士団:11,000(大将:ブルーノ・ザイデン将軍)

■ 後方

・不明(未偵察)



伝令の報告を聞き終えたカイルは、地図をじっと見つめ、拳を固く握りしめた。


「――王国軍の右翼側が心配だな。相対するのは、帝国軍の宿将ベルクマンと猛将ザイデンだ。実力も兵数も、我が方の右翼とは比べ物にならない」

カイルが苦々しく呟く。

戦端が開かれれば、右翼が帝国の二大巨頭によって真っ先にすり潰されるのは火を見るより明らかだった。


(――兵站の防衛は最重要。だが、前線の主力五万が完全に崩壊してしまえば、すべては無意味と化す。王国軍の命運が分かれる真の局面に至ったならば……私は王太子の命令を無視してでも、この八千を前線へ動かすべきか……?)


その時。大気を震わせる微かな地鳴りが、十キロメートル後方の街道にまで響き渡った。

ぴり、と肌を刺すように周囲の空気が変わる。十一万の人間が放つ敵意が火花を散らし――こうして、王国の命運を懸けた『アルテール平原の戦い』が、静かに幕を開けた。

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