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第20話 エレノア・クロムウェル

エレノア・クロムウェルは帝国と国境を接する、クロムウェル子爵領で生を受けた。


父は子爵。だが母は正妻ではなく、帝国の血を引いていると噂される女性であった。

父の愛を知ることはなく、出自の噂を理由に他の令嬢たちから虐げられ、暗い部屋に引きこもる日々を過ごす。


華やかな貴族社会に、彼女の居場所はなかった。

彼女はセレスとはまた違う切実さを抱え、士官学校の門を叩いた。


そこは彼女にとって、まさに天職だった。

ここでは、持て囃されるための「華」など必要ない。ただ己の実力さえ示せば、誰もが自分を認めてくれる。


成績は常に群を抜き、陰のあった性格はいつしか明るく快活なものへと変わった。教官からも次代を担う逸材と期待され、他の候補生たちからも慕われる。


仲間たちと切磋琢磨する日々。

エレノアは、生まれて初めて見つけた自分の居場所に、心からの充足感に満たされていた。


卒業を控えた最後の大演習グラン・トールノワ

ライバルたちが経験豊富な上級生を揃えて盤石の小隊を組む中、エレノアはあえて、目を付けていた後輩たちを指名した。


カイル、ミリア、そしてフェリックス。


「エレノア先輩。カイルはまだ分かりますが……俺やミリアで本当にいいんですか?」


不安げなフェリックスの問いに、エレノアは悪戯っぽく笑って答えた。


「カイルは優秀だけど書物からの知識に偏りがちだし、貴方たち二人は粗削りだけど、誰よりも伸びしろがあるわ。……ただの勘だけどね」


彼女はそこで一度言葉を切り、自信ありげに指を立ててみせた。


「でも私の勘、結構当たるのよ?」


彼女は三人の顔を見渡し、慈しむように言葉を継いだ。


「実際、勝てるとは思っていないわ。私はね、勝利よりも貴方たちに今後の糧となる『経験』を積んでほしいの。きっと、一生の財産になるはずだから」


結果、エレノア率いる部隊は善戦虚しく、あと一歩のところで優勝を逃した。


勝利を捨てて後輩を育てたため、卒業順位は首席ではなく次席。

だが、彼女に後悔の色は微塵もなかった。


「ね、良い経験になったでしょ?」


学校を去る日。

彼女は残される後輩たちに満面の笑みを見せ、晴れやかな足取りで士官学校を巣立っていった。


その背中を、三人はいつまでも見送り続けた。



卒業後のエレノア・クロムウェルは、派手さはなかったが、極めて堅実だった。

小隊長、中隊長と順調に昇進を重ねていく。


士官学校時代の校長であり、当時は軍務尚書の地位にあったリヒテン・フォン・クラウスの信頼を得た彼女は、一万の兵を率いる将軍の副官にまで登り詰めた。

その傍らで数千の兵を直接指揮する機会も与えられ、彼女の才能はさらに開花していった。


だが、その活躍に「嫉妬」という影が忍び寄る。


同期のある男が、彼女の目覚ましい出世を快く思わず、ついに帝国軍の密偵へ部隊の正確な位置情報を流したのだ。

男の目的は、エレノアに屈辱的な撤退を強いて面目を潰すこと。だが、帝国軍はこの機を逃さず、万全の包囲網を完成させてしまう。


罠に嵌まったエレノアの部隊は半壊状態に陥った。それでも彼女は諦めず、兵士を一人でも多く生還させようと、最後まで指揮を執り続けた。


しかし、奮戦も虚しく。彼女自身は敵の猛攻に晒され、片目を失い、左手も不自由な身となってしまう。


ボロボロになって王都へ帰還した彼女の姿は痛ましく、心は失意のどん底に沈んだ。

内通した男は発覚後に当然死罪となったが、彼女の傷が癒えることはなかった。


カイル、ミリア、フェリックスは、それぞれ見舞いの手紙を書き、あるいは直接面会を求めた。だが、エレノアからの返事はいつも同じだった。

「今は誰とも会いたくない」という、簡素な拒絶。


彼女が殻に閉じこもっている間、世間の風向きは驚くほど早く変わっていった。

戦場での勇姿を讃えていた人々は、やがては話題にすることさえ忘れていった。


恩師クラウスのみが、繰り返し彼女を励まし続けた。

「エレノア。君の才幹は、こんなことで潰えていいものではない。もう一度立ち上がってみなさい」


クラウスは彼女の心の回復を最優先に考え、前線での激務から遠ざけるため、「王都の治安維持や儀礼・式典の警護を司る」聖騎士団の副団長という役職を打診した。

本来、聖騎士団には「副団長」という役職は存在しない。

だが、老齢な団長に代わって彼女に実務の全権を握らせたいと考えたクラウスは、あえてその特例の地位を用意したのだ。


派手な戦果を挙げるような仕事ではない。だがクラウスは、それこそが今のエレノアにとって最も適した復帰の場だと考えたのである。


当初は迷いを見せたエレノアだったが、やがてクラウスの温かい思いに応えたいという気持ちが勝り、再び軍務に就くことを決意する。


聖騎士団の「副団長」として、彼女は着実に成果を上げた。

王都の治安を乱す盗賊団を根絶やしにし、時には巧妙な犯罪組織の壊滅にも貢献する。その辣腕は、正当に評価されていった。


やがて、長年団長を務めた老将が勇退を申し出たとき、クラウスは迷わずエレノアを次期団長に推挙した。

「君こそが、聖騎士団の未来を担うに相応しい」


その言葉に、彼女の胸は熱くなった。

一度は挫折したが、これまでの苦悩と努力が報われる瞬間がついに来たのだと。


しかし、現実は非情だった。国王による承認は、得られなかったのである。


本来、聖騎士団の人事は軍務尚書に委ねられており、王の承認は形式的なものに過ぎない。前例のない事態に、エレノアは激しく動揺した。

自分が帝国人の血を引くという悪評が影響したのではないか。彼女はクラウスを問い詰めた。


「……陛下と、ランカスター公爵のご意向だ」


クラウスは苦渋に満ちた表情で、絞り出すように答えた。


王都ローゼリアを守る初の女性団長が、隻眼・義手では……。民衆や貴族の求める『華』や『彩り』に欠ける、というのだ。そして……既に別の者が内定しているとの仰せだ」


その瞬間。

エレノア・クロムウェルの心の中で、何かが音を立てて崩れ落ちた。


――セレスティーヌ・フォン・ランカスター。


就任前から王国の新たな希望として祭り上げられた公爵令嬢の肖像画やビラが、王都の街角を埋め尽くしていた。

凛々しい銀髪に涼やかな瞳。その完璧なまでの美しさと「戦女神エイリーン」という異名は、王国の人々に新しい英雄の誕生を強烈に印象づけた。


路地裏で、その一枚のビラを拾い上げたのは、眼帯をした隻眼の女だった。

彼女の左手には、金属製の義手が鈍い銀光を放っている。


エレノアは何か呟きを漏らし、くしゃりとそのビラを握りつぶした。


彼女はその足で、軍務尚書リヒテン・フォン・クラウスの執務室へと向かった。

「クラウス様……私は、聖騎士団副団長を辞めさせていただきます」


エレノアの口から出たのは、クラウスにとって予想していた通りの言葉だった。


「そうか……」

クラウスは深く、深く溜息をついた。

「他に、何かやりたいことはないかね? 可能な限り、君の希望を叶えようと考えている」


「……東のバルガ砦にて、裏方の任務に就きたいと思います。戦闘とは、もう離れた場所で」


王都の喧騒から離れて過ごすには、辺境の地は悪くない場所かもしれない。

クラウスはその悲痛な意図を汲み取り、無言で頷いた。


「分かった。辞令はすぐに発行しよう」


数日後。エレノアが正式にバルガ砦へと赴任するのを見届けたクラウスは、自らの執務机の引き出しから、一通の書類を取り出した。それは「軍務尚書辞職届」だった。


彼は静かにペンを執り、自らの名を署名した。愛弟子一人守れぬ今の地位に、もはや未練など微塵もなかった。


エレノアはバルガ砦でしばらくの間、城壁の修繕作業の監督や兵站の管理といった裏方の仕事に、ただ黙々と従事していた。

王都での出来事を忘れ、静かに日々を過ごしているように見えた。


しかし、それから数ヶ月後のことだ。

彼女は突然「母が亡くなったため実家に帰省する」とだけ言い残し、砦を後にした。


そして――。

その日以来、エレノア・クロムウェルが王国へ戻ってくることはなかった。



約一ヶ月前、王都ローゼリア陥落の日。


王都の西、ウィンドル平原は薄い朝靄に包まれていた。


風一つない静寂の中、一万のグランゼイド帝国軍が悠然と隊列を敷き、東へ向けて陣を構えている。

対するローゼンベルク王国軍は約一万二千。兵力的には、ほぼ互角といえた。


その先頭に立つ総大将ディートハルト将軍の傍らには、一人の女性士官が音もなく佇んでいる。

顔の半分を覆う黒い眼帯と、鈍い銀光を放つ左手の義手。その異様な姿は、帝国の精鋭たちの間でも一際異質な殺気を放っていた。


「……皇帝陛下の直命ゆえ、今回は貴様の策に従った。だが、勘違いするなよ。俺は国を売るような輩は、反吐が出るほど嫌いだ」


ディートハルトが、忌々しげに吐き捨てる。

その刺すような視線を受けても、エルム・クロウの表情は一片の揺らぎも見せなかった。


「私は、正当な手続きを経て亡命いたしました。今は帝国軍士官として、ここに立っております」


「屁理屈を。……それで、本当に大丈夫なのだろうな。相手はローゼンベルク士官学校創設以来の逸材。『戦女神エイリーン』とまで称えられる聖騎士団長だぞ」


将軍の懸念を、エルム・クロウは冷ややかな微笑で切り捨てた。


「その虚像も、今日の戦いをもって地に堕ちます。……王都ローゼリアの民衆は、泥にまみれた『華』を見ることになるでしょう」


「……報告! ローゼンベルク王国軍、接近中!」


伝令の叫びが本陣に響き渡る。

ディートハルトは腰の長剣を鳴らし、最後に彼女を睨み据えた。


「まあよい。小賢しい用兵で帝国軍に無用な損害が出れば、その時は……首はないと思え」


「――承知しております」


エルム・クロウ。


名前を変えたエレノア・クロムウェルは、静かに一礼した。

残された右目は冷たく光り、かつての慈しみは氷のように消え失せていた。

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