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「もうそろそろ閉めようか」
時刻はそろそろ18時になろうかという頃、男は窓の外を眺めながら、そう呟いた。
歳の頃は30代後半。髪はくせ毛で柔道かラグビーでもしていたのだろうか、というような大きな体躯に白衣を着てマスクを顎までずらしている。
ここ数年の異常気象で、未だにエアコンは冷房が入っており、秋を感じる気温では無くなっているが、唯一日没だけが季節が変化してることを告げるかのように外はすっかり暗くなっていた。
東京都心部へ電車1本でアクセスできるものの、特別快速、通勤快速は停まらない、こじんまりとした駅から徒歩5分圏内のこのコンクリートの建物は3階建てで、1階は貸店舗、2階は診療所、3階は倉庫と万が一の避難場所─という名の帰るのが面倒くさくなったときの仮眠室─として使用してる。建物の前の通りは駅近だというのに暗い。街灯の光が何故か遠く感じるのだ。
「そうですね。患者様ももう今日はお越しにならなそうですし、片付けを始めましょうかね」
受付嬢…というにはずいぶん薹が経っているが、白い肌にはシミ一つ無く、後ろに一つにお団子にまとめたれた髪は白髪の一本も見当たらない。釣り上がった大きな目は一重ながらはっきりとしていて、朱色に引いた紅も口角は上がっており、ややきつめの印象を持たせるが年齢不詳の美人の類に入るだろう。
今どきめずらしい紙のカルテをまとめながら、立ち上がろうとしたとき、女はピタリと動きをとめた。
「いいえ、坊っちゃん、もうお一方いらっしゃるようです」
「朔さん、いい加減坊っちゃんはやめてくれよ」と言いかけて、患者が一般内科を希望されていないことに気がついた。
「遅いですよ坊っちゃん」
朔と呼ばれた呼ばれた女性は、小さくため息をつくと、外していたマスクをつけ直し、新たにコーヒーを入れましょ、と言って裏へ入っていった。
程なくして、診療所の自動扉がゆっくりと開いてマスクをした若い女が心もとなさそうに立っていた。
自動ドアは開いたものの入るかどうか躊躇っているようだった。
「あの、まだ受付していただけますか」
締まり始めるドアに慌てて体を滑り込ませると、待合室の窓のそばに立ったままだった白衣の男に、意を決したように話しかけてきた。
待合室に入った瞬間、一瞬驚いたように目を見開いたのを見逃さない。
「ええ、もちろん大丈夫ですよ」
男はなるべく穏やかに聞こえるように返答すると、受付のカウンターから予め問診票のセットされたバインダーを取り出し、女に手渡した。
「今受付の人がくるのでそれまでこれに記入をしていてください。あ、保険証…マイナンバーカードか、は、お持ちですか?」
「あ、はい…」
言われるままにバインダーを受け取ると、女は肩掛けのバッグの中を探り始めた。
本皮の鮮やかなブルーのバッグ。それが彼女にとても似合っていると、男は何故か急に思った。
「あらあら、先生ありがとうございます。後は私がやりますから、センセは診察室の方でお待ちください」
受付の後ろのドアから朔が現れると、そのままカウンターを通り抜けこちらまで歩いてきた。
ふぅわりと淹れたての珈琲の匂いがした。
「それじゃ、後はよろしく。あ、第2にお通ししてね」
「承知いたしました」
受付女性にバトンタッチすると男はゆっくりと診察室と書かれた扉の方へ向かった。
「では、申し訳ありませんが、先にマイナンバーカードを確認させていただいてから問診票に記入をお願いできますか?」
「あ、はい」
女は少し急ぎ足で受付カウンターに近づくとマイナンバーカードの登録を行った。
顔認証時にマスクを外した顔が20代後半くらいの美しい女性のそれであった。
「罹られるのは心療内科でよろしいですか」
「え、は、はい…あのどうして?…」
「ええ、まぁ長年の感とでもいいましょうか」
朔は一瞬少しだけ困ったような顔をしてから続けて質問をした。
「紹介状のようなものはありますか?」
「あ、あの、紹介状はないのですが、あのT大付属練馬病院の形成外科の高橋先生の紹介でここがよいと伺いまして…。あの、名前を出せば大丈夫と言われまして、そのずうずうしくお邪魔した次第でして…。」
「ははぁ、壮亮坊っちゃんからの紹介でしたか。それはお断りできませんね」
下を向いて小さくなってしまった女は受付嬢の言葉に思わず顔を上げた。
「ああ、失礼。これは聞かなかったことにしてくださいませ。」
受付嬢は上目遣いに彼女を覗き込み人差し指をマスク越しに自分の唇に当ててそういった。妙齢の女性のおちゃめな仕草は可愛らしく映る。女は緊張していた顔が少し綻んだ。
「ではそちらの問診票をあちらのソファーにおかけになってご記入ください。すぐに呼ばれると思いますよ」
女は頷いて近くのソファーに座ると問診票に記入を始める。
肩を超えるストレートの髪が俯いた頬にサラリとかかる。
それに気に留めることもなく女は記述していく。
途中何かに躊躇うように書く手を止めたが、何とか書ききった頃、診察室から名前を呼ばれる事になった。
「櫻川晶湖さん」
それが女の名前だった。
「おまたせ致しました。第2診察室へお入りくださいませ」
カウンターから先程の受付の女性の声がした。朔が微笑むと一重の目がすうっとツリ目の一本線になる。それが晶湖にはとても美しいものに見えた。
その声に促されるように、晶湖は言われるまま第2診察室とかかれた扉の方へ向かった。
カウンターから見て左手に第1診察室、処置室とならび、その横に通路があり、通路の奥にレントゲン室とトイレがあることを示す案内板が天井からぶら下がっていた。その通路を挟んだ一番目立たないところに第2診察室はあった。
──コンコン
「どうぞお入りください」
部屋の奥行きは思ったより広い。
横開きの扉を開けると奥には、向かって右手側でデスクに向かってカルテを広げる、先ほどのマスクをした男が座っていた。
「どうぞ荷物は横のカゴに置いて、そちらにおかけください」
指示された椅子リクライニング付きの一人掛けソファーだった。
何故か小さなサイドテーブルがおかれていたが、その理由はすぐにわかった。
深い臙脂色のロングスカート裾が乱れないよう押さえてソファーに腰掛けるとすぐに、先ほどの淹れたての珈琲の香りがした。
「珈琲はお嫌いではありませんか?」
ドクターと思われるその男が、真っ白なコーヒーカップの乗ったソーサーを持ってくると、サイドテーブルにゆっくりと置いた。ソーサーには金色のスプーンが添えられている。
「おっと、砂糖とミルクも必要か」
独り言のようにつぶやくとくるりと向きを変えて裏から出ていこうとしたので、晶湖はあわてて止めた。
「いえ、何もなしで大丈夫ですので」
「そう?」
そういうと男はまたくるりと向きを変えて戻ってきて、先程の場所に座った。
「よかったら診察の前に一口どうぞ。熱いかな?」
人の良さそうな笑顔でコーヒーを勧めてくる。そうしながら男性は自分もマスクをずらしてマグカップの珈琲を一口すすった。
それにつられるように晶湖はソーサーごと手に取りマスクをずらしてカップを口に運んだ。
──コクリ
一口飲んだ瞬間、思わずほぅっとため息が出た。
すごく寒かったわけでも、コーヒーがすごく美味しかった訳でもない。
ただ、肩の力が降りて安心したのがわかった。
そう、自分はすごく安心したのだ。
改めて自分の前にいる男を見つめる。
「あの、とても…美味しいです」
「そう?それはよかった」
男はホッとしたように微笑むとマスクを直して改めてこちらに体を向けた。
「では改めまして。初めまして、医師の高橋晃輔と言います。よろしくお願いします」
「あ、高橋先生の…?」
「あ、バレましたか。壮亮は兄です。身内びいきみたいですみません」
男性は苦笑して頭をかいた。
「あ、いえ、そんな。あの、高橋先生にはいつも良くしていただいていて。それであのお兄様の高橋先生がこちらの先生はとても話をよく聞いてくれる、とてもいい先生だからと高橋先生の事褒めていらっしゃったので、それで…」
晶湖は話しながらも、言ってる自分がどっちの事を言ってるのかわからなくなってくる。
「はははっ、どっちも高橋でややこしいですね。僕の方は晃輔でいいですよ。」
「そんな、いきなり失礼では…?」
急な申し出に晶湖は流石に警戒心を持つ。
いくらなんでも初対面で名前呼びなんて軽い先生なのだろうか。
しかし、そんな晶湖に壮亮はあっけらかんとしたものだった。
「いえいえ、他の患者さんもそう呼びますし。元々はここは私の祖父がやってましてね、親父も、兄も継がなかったので私がやっているんですよ。なので祖父の代からきてる患者さんやそのご家族さん何かもね、名前で呼ぶんですよ。ちなみに兄もここにくると名前で呼ばれてますね。」
「高橋、あ、お兄様の高橋先生もこちらにいらっしゃることがあるんですか?」
「ええ、うちは皮膚科もやってましてね。ちょっと難しいオペなんかをやってもらったりしてるんですよ。そうなるとどっちも高橋でややこしいでしょ?なのでなんなら兄も名前で呼んでやってください」
「ええ!?そんな、恐れ多い!」
この弟は知らないのだろうか、兄弟だと意外とわからないのかもしれない。実の兄は病院では見た目も格好良く、性格もいいととても人気の医師なのだ。既に妻帯しているとは聞いたことがあるが、それでも人気は患者からも看護師からも衰えない。そんな先生を名前呼びなんてしたら同僚達になんて言われるか。
「ははっ、全然そんなことありませんよ。もちろん無理にとはいいませんがね」
そう言うと、晃輔は少しマスクをずらして自分のマグカップの珈琲をすすった。
シャープな見た目の兄に比べると若干甘さが残る顔立ちをしているが、笑うとやはり兄に似ていた。
「さて、と。ではお話を聞かせていただきましょうか」
そう言うと晃輔は少しだけ真面目無声で、晶湖に向き直った。
「いつからどんな症状でお困りですか」
「はい、ええと…半年くらい前からでしょうか。最初は夜眠れなくなって、高橋先生…壮亮先生に相談したらマイスリーを出してくださって。一応それで眠れるようになったんですけど…あの…」
晶湖が言いごもると、壮亮はうん、と目だけで促した。
「悪夢?のようなものを見るようになって…内容はあまり覚えていないんですけれど…それに最近は…その幻聴?のようなものまで聞こえるようになってきたような気がして。それと誰かに見られてるような気もするんです。」
「一応警察にはその誰かに見られているといった話はしましたか?」
「ええ、まぁ…ただその一応家の周りの見回りは強化してくれるそうですが…理由が理由なので…お疲れなのではないかみたいな事を言われてしまいまして…」
「なるほど…」
まぁそうかもしれない、と晃輔は思う。
実際警察は実害がないと動かないと聞く。
そしてまだ多分実際には何も起こっていないのだろう。
いや、起こる前に来てくれてよかった。
流石だよ、兄貴。これは僕の領分だ。
顔には出さず、実兄に感謝しながら、晃輔は話を促した。
「他にはどんな症状がありますか?」
「はい…後は…そのせいでしょうか胸がドキドキするというか、見られてるかもって思うと変な冷や汗が出てきたり…」
「なるほど」
晃輔は紙カルテに書き込みながら、晶湖を、正確には晶湖を覆っているモヤのようなものを見つめていた。
「ちなみに、ご自分で何かきっかけのようなものがあったりしますか」
「──1年前、お付き合いしていた方を亡くしました。」
「──ああ…それはご愁傷さまでした。」
「…初めは実感もなかったし…とはいえ気がつけば泣いてたりしてましたけど、ああもういないんだ、って思ったらあるとき急に胸に何かが刺さったような凄く苦しい痛みに近いような感覚が襲ってきて…それからですかね、今ある症状が強くなったのは。」
努めて冷静に話そうとする晶湖の表情がかえって痛々しく見える。
「こんなものなんでしょうかね。よく、胸にぽっかり穴が開いたようになる、なんて聞きますけど、私の場合はこんなに…痛く…て…」
くっと胸を抑えた晶湖の鼻があっという間に赤くなり目から涙がこぼれた。
あまり恋愛感情に触れてこなかった晃輔はなんと言って声をかけていいかわからなかった。
だから代わりにティッシュボックスをそのまま差し出して、自分は珈琲を一口飲んだ。
膝の上にティッシュボックスをそのまま置かれてびっくりした晶湖は、一瞬晃輔の顔を見たが、あえて泣いている自分を見ないようにしていることに気がつくと、少しだけためらって、ティッシュペーパーを一枚引き抜き目と鼻を拭くと、少しだけ笑って自分も珈琲に口をつけた。
──ああ、やっぱり安心する。なんでだろう、この気持ち。
珈琲を口にした晶湖の口角はほんの少しだけ上がり、新たな涙が流れた。
── 「そうしたらですね。今飲んでいる薬はそのままで、こちらで一つお薬を追加しますね。ただ…自費になってしまうんですけれどよろしいですか?粉薬なんですけれど、一包30円、1日1回寝る前、1週間で210円。」
晃輔は申し訳なさそうに言っているが、自費の薬としては破格の安さではないだろうか。
「は、はい。大丈夫です、お願いします……もしかしてプラセボですか?」
「へ?あ、いや、違いますよ。ちゃんと効果はあります」
随分断定的な言い方に晶湖は一瞬呆気に取られてしまったが、その直後何故だか笑ってしまった。
「はい、ではお薬の処方をお願いします。」
気恥ずかしさを誤魔化すようにボールペンで頭を掻きながら晃輔は気を取り直してカルテに向かう。
「そうしたら、お薬をお出ししますので、また1週間後に来ていただいてもいいですか?」
「承知いたしました。」
「時間は…あ、お仕事は看護師さんですか?」
バレたとばかりに苦笑いの晶湖。
「はい、そうです。」
「そしたら、また今日と同じくらいの時間に来られますか?」
「それは大変ありがたいですが、もう終わりの時間ではないのですか?」
仕事帰りの時間に丁度良いとはいえ、仕事柄終了時間は気にしてしまう。
「櫻川さんがよろしければこちらは大丈夫ですよ」
晃輔がマスク越しでも微笑んでくれているのがわかった。
「ではこの時間でお願いいたします」
晶湖は座ったまま頭をぺこりと下げた。
晃輔がカルテを記入中、晶湖はお行儀悪いかな、と思いつつも残った珈琲をすべて飲み干し小さくご馳走様でした、と言って立ち上がる。
診察室の扉を開けるとき、ふと振り返って壮亮を見つめるとお礼を言った。
「先生、ありがとうございました。こんなに安心して楽な気持ちになったのはこうなってから初めてです」
── 「お会計は6340円です」
晶湖はおサイフから7000円支払うと、レジを叩く音がして660円を朔の手から返された。
「660円のお返しになります」
きれいに整えられた美しい爪先がちょこんと晶湖の手のひらに触れる。
ふわりと温かくなった気がした。
朔はニッコリと微笑むと続けて薬の説明に入った。
「こちらが今日の夜から飲んでいただくお薬になります。何で飲んでいただいても構いませんが…そうですね、お酒はやめておきましょうか。このお薬を飲んでいる間はお酒はお控えください。」
それから思い出したようにクスっと笑いながら
「今飲んでいらっしゃるお薬もお酒は影響しますからたぶん止められているとは思うのですが、本日お出しする薬は特にやめておいてくださいませね」
晶湖は思い当たるフシがあるのか、やや顔を赤らめながら、承知しましたとうなずいた。
「ではまた1週間後におこしくださいませ。どうぞお大事に。お気をつけてお帰りくださいませね」
「遅くまでありがとうございました」
晶湖は何度も頭を下げながら自動ドアを出ていった。
「なんのおまじないなんだい?」
晶湖がいなくなったのを見計らってカウンターの後ろのドアから晃輔は顔を覗かせると朔に尋ねた。
「さて、どの程度効くのやら」
朔は珍しく力なく首を振った。
「この中では、あの妖気に呼び寄せられた有象無象には耐えられないでしょうから散っていきましたが、本命は…珈琲で、しばらくは弱まるでしょうが、またすぐに力を取り戻すでしょう。私の薬も一時しのぎ。さてどうしたものか。」
「朔さんでも手こずるのかい?」
「あんなものどこから拾ってきたものなのか、そんじょそこらに転がっているような輩ではないはずなんですけれどね。」
背中に嫌な汗を掻きながら晃輔は尋ねる。
「あれはなんだい?」
「うわばみの一種でしょう。彼女もお酒は強い方なようだから余計にひかれたのかもしれませんね。ただ…」
「ただ?」
「あれを呼び出すには媒体が必要なのでございますよ。そんなもの一体どこから誰が手に入れて何のために彼女に使っているのか。」
「つまり?」
「つまりあれは一種の呪いです。呪いをかけている人物の意図はわかりやしませんけどね。」
「呪い殺すためじゃないのかい?」
そこで朔ははぁぁっと盛大なため息をついた。
「晃輔坊ちゃまは未だに全然わかっていませんね!全くこんなの大旦那様ならすぐにおわかりになったでしょうし、大先生だって今頃おおよその検討をお付けになっておられるに違いございません!だからそのようなお年になってもお嫁の来てがないのでございますよ!全く嘆かわしい。」
朔に頼りすぎたようだ。朔が盛大なため息をつくときは、たいてい叱られるときと子供の頃から相場が決まっている。
「と、とにかくしばらくは通ってもらって細かいのを払いながら何があったか少しずつ聞きだすしかないよね。それになんだか…」
晃輔としても何か腑に落ちないところは感じ取っていた。
朔はだまっている。これは自分で見つけろという僕への宿題だ。
早く取り除いてあげたい。
診察が終わったときに見せた笑顔。あれが本来の彼女の素なのだろう。
あの笑顔をまた見たいと晃輔は思った。




