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今度こそ無事に学校へ辿り着いた理央は、もう一人の日直に遅れたことを詫びた。
普段から必要最低限の会話すら稀にしかしないため、クラスメイトは謝罪に対し引きつった笑みを返した。
最初からあてにもしていなかったのだろう。
日直の仕事はほかのクラスメイトも手伝っていたようで、昨日集めた数学のノートの返却も終わるところだった。
理央はそれ以上口を開くことなく、義務は果たしたとばかりに席へ着いた。
クラス替えをしてまだひと月も経っていないが、ゴールデンウィーク明けともなるとそれなりにグループもでき、孤立しているのはクラスでも理央を含め数名しかいない。
ほんの少しの羨ましさと孤独という感情には慣れているつもりだ。
予鈴が鳴りそれぞれの席に戻っていくクラスメイトを尻目に、理央は頬杖をついて窓の外を見つめた。
担任が教室に入ってくると、教室内が一瞬ざわついた。
どうやら中途半端なこの時期に転入してきた人がいるらしい。
教壇であいさつをする男子生徒にちらりと視線を向けただけで、理央はふたたび窓の外へ意識を戻す。転入生の存在よりも気になるモノがそこにはいた。
軽く頭を下げてニカリと笑い、教室全体を見渡した転入生の視線が理央を捉え驚いたように見開かれた。
もっとも、転入生になんて興味のない理央は、彼の視線に気づくことなく相変わらず窓の外を見つめている。
教室内がやけにざわついていることにようやく気づいた理央が教壇に目を向ける。
絡み合った視線は逸らされることなく、見つめ合うこと数分。彼は呆然と呟いた。
「もしかして、神楽?」
突然放たれた自分の名に驚き、少し反応が遅れる。
「……は? あんた誰」
「俺のことはさっき自己紹介したやろ。神楽かって聞いてるんや」
「……そうだけど」
「やっぱり……。なんやねん……どうしたらええんや……」
頭を抱え悶絶する男に唖然とする理央。今までざわついていたクラスメイトでさえ唖然としている。
「あんた、なに?」
「うわーしかもこの容姿あかんやん……。神楽が女……やっぱり女なんや……。どういうことなん……なんでなん……」
「何者?」
「……あぁ……シュウ。木戸 愁。以後、お見知りおきを……」
シュウと名乗った転入生は、よろよろしながら教室から出ていった。
担任がいち早く我に返り、慌てて連れ戻そうとあとを追う。
(なんなの、あれ……。変な人)
理央は転入生が出ていった廊下をちらりと見やり、そこではじめて、教室中の視線が自分に向けられていることに気づいた。
あまり目立ちたくないというのに、あんなのに絡まれたらそうはいかないだろう。
「え……と、神楽さん、今の人、知り合いなの?」
おずおずと声をかけてきたのは隣の席のキレイな女の子だ。
理央とは真逆の性格を持ち合わせている子で、クセ毛の髪と毎朝格闘するのがツライと泣きそうな顔で毛先を引っ張っている姿は、誰から見てもかわいらしく、本人にとっては切なる悩みなのだろうが、その髪の毛さえもふんわりとした彼女の雰囲気にとてもよく似合っている。
対する理央は、というと、特別手入れをしなくても艶のある真っ黒な髪は母親譲りなのだとか。
理央本人の性格に倣ったのかまっすぐ肩の下へと伸びている。
こんなふうに女の子らしい振る舞いができたらいいのに、と思いながら彼女をじっと見つめる。
彼女は居心地悪そうに身じろいだ。見惚れるあまり、返事をするのを忘れていた。
「あ……きっと、人違い、だと、思う……」
普段から必要最低限の話すらしない理央にとっては、十分がんばったほうだ。
けれども、クラスから浮いていた理央が良いほうに受け取ってもらえるはずもなく。
「ほらー。やめておきなよ。神楽さんに話しかけたって無駄だってば」
「う、うん……でも、今返事……」
「人違いなんじゃないの? 偶然同姓だったとか」
せっかく話しかけてくれた女の子は、その友人らしき女子に引っ張られ、名残惜しそうに顔をそむけた。
淋しいなんて思わない。これで、いい。
理央に友人はいらない。目立ってはいけない。
理央の“仲間”だとバケモノに認識され、襲われてしまったら一大事だ。
学校という小さなコミュニティーは、理央にとって交友を深める場所ではない。
ただただ知識をつけるべく学ぶ場所でしかあってはならないのだ。
また、誰かを傷つけてしまう前に――。
『理央、ちゃん……たすけて……わたし、しんじゃうの?』
赤黒い獣の形をした“バケモノ”が、中学一年生の女の子の腹部を口にくわえ、ギリッと牙を立てる。
そのたびに女の子は絶叫し、身体に食い込む牙から逃れようと必死で手足を動かす。
理央も必死で祝詞をあげるが、“バケモノ”はジリジリと後退するばかりで口を開けようとはしない。
『わたし、どうしてこんな目に遭ってるの? 理央ちゃんには見えてるんだよね? 黙ってないで助けてよっ! 痛いっ!! やめてーーーーっ!!!』
歯噛みする理央の目の前で、女の子は脱力した。“バケモノ”の口からはおびただしい量の血液がしたたり落ちている。
「……天清浄 地清浄 内外清浄 六根清浄と 祓給う 天清浄とは 天の七曜九曜 二十八宿を清め 地清浄とは 地の神三十六神を 清め 内外清浄とは 家内三寳大荒神を 清め」
静かに紡がれる祝詞に強い抵抗を示した“バケモノ”は、咆哮した際に理央の友人をポトリとその口から落とした。
「……六根清浄とは 其身其體の穢を 祓給 清め給う事の由を 八百万の神等 諸共に 小男鹿の 八の御耳を 振立て聞し食と申す」
大量に出血してはいるが、まだ息はある。
理央は祝詞を続けながら素早く友人を抱きかかえ、必死で自宅へと急いだ。
当然、血だらけの少女を支えて歩く姿は通行人にも見られている。
悲鳴や救急車を呼ぶ声、それでもなお自宅へと向かおうとする理央に「止まれ! 動かすと死ぬぞ!」と罵声が飛ぶ。
理央だってそんなことはわかっている。
けれど、“なにもないところで”いきなり血まみれになったなんて誰が信用するのか。
バケモノが理央と間違えて友人を食ったなんて、いったい誰が信じるのか。
その日は、友人が憧れている野球部の先輩にプレゼントを買いたいから理央もついてきてほしいと懇願され、しぶしぶ付き合ったのが友人の運のつきだった。
あんなにも悩みになやんで、やっと買ったプレゼントは、友人の血液でもはや渡せるような状態ではなくなっている。
異変に気づかなかったわけではない。
理央は細心の注意を払い、いつもなら絶対に関わりあわない浮遊霊さえも祝詞で浄化してきた。
少しでも友人に危害を加えられては困るからだ。
けれど、普段やらないことをしたせいで精神力を欠き“バケモノ”の出現探知が遅れた。
気がついたときにはもう、友人は腹から血を流していた。
通行人の誰かが呼んだ救急車が理央の足をようやく止め、彼女は病院へと救急搬送された。
血まみれの制服姿のまま茫然と立ち尽くしていた理央の瞳からボロボロと涙が零れ落ちる。
自分がしっかりと神経を注いでいれば“バケモノ”の一体くらいは予知できたはずだ。
予知さえ間に合えば、友人を逃がすこともできた、はずだった。
『あんたのせいだよ、わたしがこんな目に遭ったのは』
「ごめんなさいごめんなさいっっ!!!」
自分の声にハッとして目が覚めた。パジャマは汗でぐっしょりと濡れている。
「……夢……」
震える手のひらを見つめていた理央の唇が短く息を吐いた。
何度もなんども繰り返し見るこの夢は、実のところ夢ではなく現実に起こってしまったことだ。
意識不明だった友人は、翌日目を覚まし、噛み千切られそうになっていた腹部は手術というかたちで最悪の事態は免れた。
一度だけ友人の病室へ見舞いに行ったが、彼女は理央の存在をすべて忘れていた。
記憶喪失の一種だと彼女の母親から教えてもらったが、その母親もまた、理央の存在を覚えていなかった。
彼女の怪我はどういうわけかカマイタチのせいにされ、事件解決のていではあったが、術後の回復を待って、友人一家は引っ越していった。
彼女は、理央にとって、はじめてできた親友だった。
いつも明るくて、ひとり静かに教室の隅で本を読んでいた理央に声をかけてくれたはじめての人。
面倒な球技大会の練習期間は、気がつけばすぐに姿を消している理央を追いかけてきて、一緒にサーブの特訓をしたこともあった。
頼んでもいないのに委員会の仕事を手伝ってくれたこともある。
誰にもナイショだよ、と、野球部の先輩のことが好きなんだと打ち明けてくれた。
理央は、彼女がいたから中学一年生という時期を少なからず楽しめたのだ。
それを、浅はかな自分の行動ですべて無にした。
もっと言えば、それほど大切な存在を自分のせいで傷つけた。
「……なんであんな夢……」
そう呟きながらも、理央には心当たりがある。
昨日、あの妙な転入生が教室を去ったあとに話しかけてきた彼女が、中学時代の友人と雰囲気が酷似していたのだ。
別人ではあったけれど、理央は彼女のことをいつも気にかけていた。
もし、いつか。
“バケモノ”の姿が見えなくなったら。普通の高校生と同じ生活が望めるのならば。
そのときは、真っ先に彼女と友達になりたい。
桜が舞い散っていた入学式の日、彼女の笑顔を見てそう思ったことは、すぐに記憶の片隅に追いやった。
そんな日がくることはないと知っていた。




