第2章 音のはじまり
夕暮れが街を包み込むころ、紬はまたあの場所にいた。
アーケードの一角、少し欠けた天井から漏れる光が
彼女の髪を薄く金色に染めている。
ギターケースを開き、軽く弦を弾くと、
その音がまるで空気をなぞるように柔らかく響いた。
「今日も、ここ?」
背後から声をかけると、紬は振り返って微笑んだ。
「うん。音の響きが好きなの。この場所、壁がちょっと斜めになってるでしょ?
声が、やさしく返ってくるんだ」
そう言って、紬は壁に向かってひとつの音を放つ。
透明な歌声が空間に広がり、やがて柔らかく戻ってくる。
その“返り音”に耳を澄ませる紬の横顔は、
音そのもののように儚く、美しかった。
「返ってくる音を聴くの、好きなんだ」
「どうして?」
「だって、自分の声なのに、もう自分じゃない音になるから」
紬はそう言って笑った。
「誰かに届いたら、その瞬間に変わるの。
それが音の奇跡――でしょ?」
俺はその言葉に、何も返せなかった。
ただ、ギターの弦を指で軽くはじく。
紬がその音に合わせて声を重ねた。
風が通り抜け、ふたりの間を音がすり抜けていく。
その響きの中で、時間が少し止まったように感じた。
スマートフォンの録音アプリが静かに赤い光を灯す。
俺たちはただ、それを忘れるように歌い続けた。
「ねぇ」
紬が歌い終わったあと、ふっと声を落とした。
「音ってさ、ちゃんと届いてると思う?」
「……届いてるさ。こうして俺の中に、残ってる」
「でも、それって“今”だけじゃない?」
「今がすべてだろ」
紬は少しだけ俯いた。
「そうだね……。でも、私ね、“今”がすぐ消えちゃう気がして」
その言葉には、少しだけ影があった。
俺はスマートフォンを取り出した。
「じゃあ、録ろう。消えない“今”を」
「ふふっ……また、録るの?」
「消えない“今”を残したいから」
紬は笑いながら、ギターを構えた。
「じゃあ、約束ね。私の声が消えても、音は残るように」
「何言ってるんだよ、縁起でもない」
「冗談だって」
そう言って笑った彼女の笑顔が、
なぜか胸の奥に焼きついた。
ふたりの音は少しずつ重なり、
やがて曲の形を帯びていく。
紬の声が導く旋律に、俺のギターが寄り添う。
言葉にできない想いが、
コードの隙間から滲み出るようだった。
その夜、家に戻ってからも、
俺は録音した音を何度も聴いた。
イヤフォンを通して聴く紬の声は、
まるで生きているように、温かかった。
画面の中で波形が揺れる。
その揺れが、呼吸のように見えた。
俺は思わず、画面を撫でた。
――この声を、消したくない。
その夜、眠れなかった。
街のどこかで、あの声がまだ響いている気がした。
月が静かに窓の外を照らしていた。
その光の中に、紬の笑顔が重なった。
そして、俺は思った。
――この声を、世界に届けよう。




