【エクスタシー】に関する閃き
専門家という生き物は、素人目には何もしていないように見える時がある。
例えば、信桜幕楽が降国風喫茶・ウールーズで提供する料理は、食材の仕入れや仕込みに相当な手間と時間を費やしているはずだ。
しかし、客達に見えているのはカウンターの向こう側で微笑む姿だけ。仕事の結果が完璧であればあるほど、そこに至るまでの過程を推し量る事は難しいだろう。
僕がライフワークとする研究職は、特にそういう性質が強い。何年分も予算と人材を注ぎ込んでおきながら、『実現不可能』という結論が出る事が珍しくないからだ。
そもそも、僕達がやっている研究とは、それっぽい場所を掘ったら宝が埋まってないか、確証もないのに探し続けるような所業である。
当然、目も当てられない失敗の方が多いし、人様に公開できるような華々しい成功など一握り。
失敗も重要なデータではあるが、傍から見れば何もせずに予算だけ浪費する穀潰しと思われても仕方がない。
仕方ないわけあるか、射殺すぞ。お前らが気安く使っている基本六術の基礎理論を確立するまでに、どれだけの研究者の屍が……。
……話が逸れた。現場仕事が増えたせいか、引き篭もり論文量産マシーンだった頃より、非論理的な思考に流れやすくなっている。反省しよう。
僕が言いたいのは、専門家が水面下で行う周到な準備を侮ってはならないという事だ。
『前置きも感謝も要らないわぁ。貴女に会った方がより良い未来に繋がると、私が判断しただけだものねぇ』
明るい灰髪をバレッタで留めた女──預言のタヴ・モンドが、ネグリジェの胸元で手を組む。
『ではでは、お客さん。どんな未来について占って欲しいのかしらねぇ?』
『黙示録と摂理の崩壊について』
タヴは静かに目を閉じ、テーブルの上に裏返しに広げた占い用のカードを3枚捲った。彼女の体内をマナが巡り、未来のシグネットの発動を感じ取る。
『いくつか、分岐が知覚できるわぁ』
『最悪は?』
『そうねぇ……。超越者の中で、私が最初に落とされる未来。敵の思い通りに進みやすくなるから、これが2番目に最悪ねぇ』
『1番目は、何?』
『──梧桐志鳳、もしくは彼の友人の誰かが、この世界から欠ける事。それが真の最悪ねぇ。ナーヌス・バレンシア……いえ、梧桐詩凰』
タヴの言葉に対して、動揺はなかった。僕の正体程度は見透かして貰わないと困る。
『私達は柵に囚われない方が強い。終末を迎える事が不利に働くとは限らないわぁ』
『……超越者が自由に暴れる為に、他が死んでも構わないと?』
『そこまでは言わないわぁ。でも……』
最高位の未来観測者は深い息を吐いた。
『私は臆病者だから、他人任せで世界が救われるなんて都合の良い未来は、どうしても思い描けないのよねぇ。私達は全員が当事者。皆、嫌でも戦うしかない時が来るわぁ』
僕はタヴとの会話を記録したメモ帳に、直近の情報を書き加えていく。
「一先ず、真の最悪だけは避けられてる。次に僕がすべき事は……」
『ナーヌス!救援要請デス!ヘルプ!』
「あ」
擬態のレーシュ・ソレイユから送られてきた閑話に、僕はとても心当たりがあった。書き物を一旦放置して、寝室の扉を開ける。
『口伝──名状しがたきもの!』
密着型のキャットスーツを透過するように、レーシュの全身から触手が飛び出した。不定形のそれは引き伸ばしたスライムにも見える。
『あら、触手プレイは大歓迎よん』
両目を布で隠した長い銀髪の女が、拘束衣の袖で触手を絡め取った。そして、歩くというより滑るような動きで、ぬらりとレーシュへと近付く。
『やっ……嫌っ……!こっ、来ないでクダサイ、変態!助けて、マスター!』
『ナーヌス直伝、脱衣開脚拳』
おい、風評被害を広めるな。僕が教えたのは武装の強固な相手に攻撃を通す術式だ。断じて、相手を裸に剥いて足を広げさせる破廉恥な技ではない。
『ワタシの特製スーツが一瞬で脱がされ……!って、その手に持ってる玉は何デスカ……!?』
『こんな風に、口に入れて遊ぶ玩具よん』
「むがっ!?むーっ!……むーっ!?」
レーシュの小さな口にカラフルな玉が放り込まれると、彼女はビクンビクンと海老反りになって痙攣し始める。
『マナを吸って膨らむのん。わっちの体で何度も試してるから、安全性は保証するわよん。直ぐに気持ち良く……あんっ!』
とりあえず、変質者の顔を蹴り飛ばしておいた。他人の寝室で何をやっているんだ、この馬鹿は。
「僕の協力者に変な事しないで、ユマン」
酩酊のユマン・グリューワイン。
シグネットは酒。ライフワークはアダルトグッズ製作。この女と会う度に、超越者の恥部を隔離するという淫祠邪教の存在意義を再確認できる。
「会いたかったわん、ナーヌス」
いつの間にか距離を詰めていたユマンに髪を触られた。するりと滑らかな動作で抱き付かれ、首筋を甘噛みされる。
「相変わらず、贅沢なスタイルねん。わっちから見ても羨ましいわん」
ユマンは片手で掬うように僕の胸を揉みながら、もう片方の手を鼠径部に這わせてきた。彼女の顔が耳元に寄ってきたところで、僕は殺気を発する。
「ヘッドホンに触れたら殺す」
「あん、残念ねん」
僕がユマンを牽制していると、レーシュが膨らんだ玉をどうにか吐き出した。
「けほっ、けほっ……!」
「加虐趣味も大概にして」
「失礼ねん。わっちは遍く人々に救いを与えたいだけよん」
ユマンは神妙な面持ちで言う。
「法悦こそがこの世の真理。快楽で世界を幸せにするのが、わっちの活動なのん」
ユマンは舌を出した口の前で右手を動かした。卑猥なジェスチャー止めろ。
「お前がおかしな思想を流布するせいで、道を踏み外した異能者がどれだけいるか……」
ユマンは何と言うか……最も意味不明な道筋で超越者に至った女である。彼女曰く、快楽の頂きから摂理の深淵を垣間見て、第1位階の壁を越えたとか。
その恩恵を他の皆にも分け与えたいと宣うユマンは、全世界の人間を理性の柵から解放しようと活動している。傍迷惑な危険人物だ。
何度か指名手配もされているが、性産業を牛耳っている彼女の持つ影響力は強く、なんだかんだで野放しにされている。
「それで、わっちは梧桐志鳳のところに行けば良いのねん?」
「……そう」
ユマン……ユマンかぁ……。この女を重要人物の元に送り込むなんて、自分でも正気の沙汰とは思えない。
「了解よん。どんな屈強な超越者でも、わっちの房中術で天国に逝かせてあげるわん」
「そんな注文はしてない」
「房中術!?ナーヌスのチャイナドレスといい、ワタシが伝えた覚えのない地球の文化が何故……!」
「あら、まだ同じかは分からないわよん?わっちが在界の房中術を教えてあげるわん」
「ひっ!」
いや、分かっている。このタイミングでユマンを投入するのは、タヴと話し合った末の結論だ。それが最善手。
「王、少しお話が……。って、裸!?これ、どういう状況ですか!?あ、ちょっと、タイツ越しに足を撫でないでください!」
「初心で可愛い反応ねん。持って帰って良いかしらん?」
「どうしちゃったの、スフィアちゃ……。きゃあああああっ!」
でも、やっぱり。
「……教育に悪い」
陰ながら梧桐志鳳を見守ってきた者として、親心にも似た感情が芽生えている僕は、流石に不安を隠し切れなかった。
『野郎共、今日も生きてっかー?真善美のクール担当、破壊系アイドルのアスタリスクとー』
『真善美のリーダーにして、パワー担当っ!突撃系アイドルのバーティカルバーだよっ!』
『あーしと比べて名前長いよなー、リーダー。ダルいからバカって呼んで良いかー?』
『もう少し良い略し方あったよねっ!?』
「ふぁあ……」
喫茶ウールーズのソファで眠っていた摂理の守護者──無涯のプレイスホルダーは、目前に迫る鞭を銃剣の器仗で受け止めた。
「女王の時代の生まれは、熟睡中でも感度が良いのよねん」
「無作法な小娘かえ」
プレイスホルダーはラジオ音声を意識から追い出し、拘束衣の女性──ユマン・グリューワインをマナで威圧する。
「酩酊!迂闊な行動は慎んでくれ!相手は救世の英雄だ!何かの間違いで敵対されたら困る!」
付き添いとして来ていた貫頭衣の女性が声を荒らげると、ユマンは肩を竦めた。
「エフェソスは真面目ねん。このくらい、超越者にとっては頬にキスする程度の軽い前戯よん」
「エフェソス……?」
プレイスホルダーは眉を顰める。
「ああ、失敬。汝が知り合いと同じ名をしておったから……」
「おそらく、それは初代の事でしょう。金枝玉葉の七家は、その代の最高傑作とされた者が名を継ぐ決まりになっております」
当代エフェソスが丁寧に答えた。赤の交じった白髪と赤い瞳は、世界最高の歴史を誇る異能血統──エフェソスの特徴である。
「英雄の血統を作るなどと言っておったが、本気だったのかえ……。あの女はその……あまり強くはなかったと記憶しておるが」
「はい。異能者としての才覚はゴミ同然だったと記録に残っています。愛想と度胸だけで地位を築いた理想主義者と」
「名家の初代がそこまでボロカス評価な事ある……?」
「とは言え、彼女の『人から好かれる魅力』がエフェソスの発展を支えたのは事実です。それ故、我々は初代とそのお相手に最大限の敬意を払っております」
エフェソスに産まれる者は他者を魅了する能力が遺伝子レベルで秀でている。その特性により、優秀な血を取り入れて栄えてきた。
「お相手……?おお、そうか。子孫が残っておるのだしな。余の女遊びは咎めておった癖に、やる事やっておるではないかえ」
プレイスホルダーが懐かしげに微笑んだ瞬間、鈍い音と振動が店内に響く。
「ユマン、捕まえた」
「ああん、捕まっちゃったわん」
志鳳がユマンの頭を掴んでテーブルに叩き付けた。その事を遅れて認識したプレイスホルダーが驚く。
「同志、何を……!?」
喫茶ウールーズを傷付けないというのは、友人間での暗黙のルールだ。志鳳が店内で暴れる姿など見た事がない。
「付いてきて、プレイスホルダー。ユマンが管理するセントレアのホテル街に行く」
志鳳はユマンの首元を握って引き摺り、独り言のように呟きながら店を出ようとする。無表情は変わらないが、目の焦点が合っていない。
「強引ねん」
「お前に言われたくない」
「お、お前!?そんな乱暴な言葉遣いだったかえ……?」
志鳳の豹変に困惑しつつも、プレイスホルダーは思考を回した。あれは知覚系が自分の世界に入り込み過ぎた時に特有の状態に見える。となると、原因は……。
「酒の匂い。これか」
調香師のプレイスホルダーは仄かな酒の匂いに気付く。市場に出回っている品とは違う、官能的で頭の奥を熱くするような香り。
「汝のシグネットかえ?」
「正解よん。酒のシグネットには生物を酔わせる副次効果があるのん」
「高位階でもお構い無しとは……」
「知覚系には特に効きやすいのよん。精神系の異能者には抵抗されちゃうわん」
高位階の異能者の体は、無意識にアルコールや有害物質の影響を弾く。
その為、酔いを制御できない状態に慣れておらず、戦闘中にユマンのシグネットが通れば一方的に負けかねない。
「あはは、志鳳くん」
店の奥から聴こえてきた、爽やかな甘さを含んだ高い声。志鳳の迷いのない足取りが一瞬だけ停止する。
「セントレアから帰ってきたら、ちょっとお話ししようかな?」
プレイスホルダーは志鳳の肩に手を置いて、耳元で囁いた。
「こういう時は女子の機嫌を取っておいた方が良い。人生の先輩からの忠告かえ」
「女の尻に敷かれそうな処世術ねん」
「喧しい」
3人の超越者が退出した店の隅で、エフェソスがLITH端末を取り出す。
『ああ、私だ。壟断が動き出した。何かの間違いなら良いが……知覚系は常識で測れない。いつでもA相当の警戒体制に移行できるよう、連盟と連携しておいてくれ』
通話を切ったエフェソスは、ふと赤髪の女性がいるであろう厨房へと視線を向けた。金枝玉葉の歴史上、ただ一度だけ発令された伝説の警戒体制がある。
全知の王と全能の女王による決闘、オムニ・ベッルム。警戒体制S+。
その意味は。
──伏して、祈れ。
グリューワイン派閥と金枝玉葉が共同で運営するホテル街は、性産業を売りにしているにも関わらず、清潔感すら感じさせる整備された街だった。
酒が入っている者も多いが、私服姿の警備スタッフが常に巡回し、トラブルを未然に防いでいる。
ライトアップされた看板がなければ、普通の高級ホテルと間違えかねない。
色町と思えない治安の良さは、実力主義の異能社会における超越者ユマン・グリューワインの名前の重さを示していた。
「レテが死んじゃったのは残念だわん。記憶のシグネットは色んな使い途があって、お気に入りの1つだったのよねん」
「僕の知り合いをそういう目で見るの、本気で止めて」
「別に性的な意味とは言ってないわん」
「……それは確かに」
「まあ、性的な意味なんだけどねん」
「殴って良い?」
「素っ気なくあしらわれるのも素敵ねん。わっちはSもMも大好物だから、冷たくされると濡れちゃうわん」
ユマンは志鳳の太股を撫でる。
「でも、貴方の中に『溜まってるモノ』を1人で相手するのは大変そうねん。体力が保つかしらん」
「お前……何が見えてる?」
「何も見えてないわん。わっちは肌で感じるだけよん」
ユマンは目隠しを触ってみせた。
「……お前は遺失支族とか世界の行く末に興味なさそう」
「失礼ねん。受肉した黙示録は両性具有なんでしょん?興味津々よん」
「プレイスホルダー、会話代わって」
「おっ、おう……!?」
急に丸投げされたプレイスホルダーが変な声を上げると、ユマンの口元が獲物を見付けたように弧を描く。
「あら、意外ねん。異性と1対1で話すのは緊張するタイプかしらん?」
「そそそ、そんな事はないかえ!」
「見栄を張らなくても、不器用なくらいが一番可愛いわん。男は付き合いながら育てていくものよん。わっちはむしろ……」
そこで、ユマンが言葉を切った。3人の超越者の感覚がほぼ同時に何かの接近を捉える。
『失伝──|針の上で天使は何人踊れるか《シースレス・エンジェル》』
志鳳は片足を持ち上げ、高速で飛来した何者かの蹴りを脛で受け止めた。
『クラシーヴィ……!』
毛先を巻いた銀色のロングヘア。カウボーイ風の軽装。
最速の遺失支族──クラシーヴィは志鳳と足で鍔迫り合いながら軽く拍手する。
『以前より速度は上がっているはずですが、よく反応できましたね、天使。それとも、道場破りの時の無様な敗北から学びましたか?』
『未だに世界は無事。負け続けてるのは、お前達の方。失伝──この世は舞台』
『貴方達はどの世界でも変わりませんね。今日まで上手くいったという事実は、明日を保証するものではありません』
一旦後ろに下がったクラシーヴィは、周囲から人が消えている事に気付いたが、障害物が減った程度にしか考えなかった。
人間を盾にしたくらいで超越者を動揺させられるなら、先輩のステファノス達がとっくに世界を滅ぼしている。ありきたりな人質戦法が効くほど彼らは『正常』ではない。
『進化とは成長ではなく淘汰。貴方達が滅びる事で、この世界は1歩先に進む』
『じゃあ、僕達がお前らを淘汰する。再演──滑らかな砕屑』
志鳳の放った光の粒群が空を切る。
『遅い、遅い!』
『ぐっ……!』
肩に打撃を食らってよろめいた。
タヴの思考パターンを借りる事で、クラシーヴィの動きは予測できている。だが、あまりの速度に志鳳の体が対応できていない。
『私はまだまだ加速しますよ。──セカンド・バースト』
志鳳は咄嗟にマナで全身を保護した。脇腹に激痛が走り、景色が目茶苦茶に歪む。蹴られた事だけは辛うじて認識できた。
『ごほっ……速さによる圧倒。随分、シンプルな戦い方。黙示録はもっと多彩な技を使ってくるのかと思ってた』
『……?ああ、貴方はモナルキーアと最初に戦ったのでしたね』
クラシーヴィは察したように返答する。
『可能世界を乱用する戦い方は些か無駄と隙が多いのですが……。あの子のディザイアは、1対1の戦闘に向いたものではありませんから』
異能者の志鳳にも何となく分かる話だ。魂に根付いたシグネットは基本六術よりも燃費が良い。素手で物を掴むのと重機を経由して掴むくらいには操作感が違う。
『ご安心を。私の加速のディザイアは正真正銘、戦闘向きの権能ですので』
クラシーヴィは手近な看板を引き抜き、志鳳に向かって投げながら加速させた。
『再演──融通の利く傀儡!』
志鳳の腕から全身へと光の繊維が伸びる。筋繊維のように収縮する事で生み出された怪力が、看板を軽く粉砕し。
『──サード・バースト』
更に加速した足に踏み潰される寸前。
『口伝──一夜限りの絶頂期』
『失伝──深き眠りの果て』
動きが鈍ったクラシーヴィの足をギリギリで避けた。
『これは……!ラミナ・クルシフィックスと戦った時と同じ……!私が減速させられている……!?』
『汝の先輩から聞いておらんか?金色の守護者には手を出すな、と』
補綴戦姫と化したプレイスホルダーが肩を鳴らす。
『念の為、戦闘用の義体も持ってきて正解だったかえ。まったく、余はイケオジ枠で売っておるというのに、女体化なぞ……』
『元男性の補綴戦姫は女体に慣れるまで戸惑うもの……皆が通ってきた道よん』
『慣れる事を前提に言わんでくれ。汝に尊厳を破壊された男の気持ちが分かるのかえ?』
『勿論、チトラーチに頼んで男体の快楽も体験済みよん。情報のシグネットはプレイの幅を広げられて最高ねん』
『その探究心を他に向けてくれれば……』
意識を朦朧とさせる酒のシグネットと、眠りに導く意識のシグネット。その相乗効果は速度に特化したクラシーヴィの天敵と言えた。
『補綴戦姫、特殊改造モード』
『酒気帯び悩殺拳、顔面騎乗首絞め殺法』
守護者と活動家。金と銀の髪が輝く。
『くっ……こうなっては、仕方ありませんね……!来なさい、ヤザタ・スプンタ!』
『待ちくたびれたぜよ』
──黒髪の修羅が、戦場に降臨した。
志鳳の中にある、いつかの記憶。
『失伝──至高なる命名』
真紅のドレスが無残に引き千切れ、傷だらけの肌を晒しても。むしろ、そんな死闘の最中だからこそ。
記憶の中の女王──擅権のベート・バトゥルは、惹き込まれるほど濃密な存在感を放っていた。
『お前の失伝を封じた。永続命令──奥の手を戦いの中で使ったのは、これが3度目だ。誇れ』
女王は上機嫌に胸を張る。
『1つ、気になっていた事がある。何故、信桜幕楽の為にそこまでする?お前のシグネットで何か見えたか?』
同じく満身創痍の志鳳は、額の血を拭いながら首を横に振った。
『僕は演出家。納得できない事は妥協できない。それだけ』
『結果、世界が滅んだとしても?』
『滅ばない。僕が世界を救ってみせる』
『欲張りだな、独占者』
『君ほどじゃない、古の女王』
2人は心底から愉快そうに笑い合う。
『認めてやる。私が全能なら、お前は全知。今回は私の負けだ。だが、忘れるな。戦いの度に思い出せ。私がお前に刻んだ傷を……』
史上初めての、個人に対する敗北。それは彼女の人生観を変えるに充分な衝撃だった。
『いつか、お前を私のモノにしてやる』
この世界はまだまだ楽しめる。女王は冷めぬ熱を抱えながら、静かに倒れた。
志鳳は首を左右に振り、何かを確認するように両の手を開閉する。理性のタガが外れた今、彼は純粋に疑問に思っていた。
自分は何故、これほど『窮屈な』戦い方をしているのだろう?
──手の届く場所に、全てがあるのに。
『全て、僕の物になれ』
女王の永続命令は彼女自身にも解除できないらしい。
『失伝──』
だから、どうした。梧桐志鳳はこの世で唯一、女王を正面から捩じ伏せた人間だ。
『|■■■■■■■■■■■■■■《■■■■・■■■》』
天使の翼。
梧桐志鳳の左背から伸びる光の螺旋が、彼の意識と■■を結び付ける。
『同志……!?』
『何ですか、アレは!!』
『ぼんやり感じ取ってはいたけど……わっちの想像以上ねん』
『がっはっは!』
ヤザタは二刀を構えて、血に飢えた獣のように走り出した。
『ありゃあ、わしの獲物じゃき!邪魔する言うなら、おんしらを先に斬る!』
『……ッ!狂犬ですか、貴方は……!』
志鳳は細かい事を気にしてしまう性格である。
自分が笑う事で誰かの心を傷付けるかもしれない。普段の彼はそう考えてしまい、意識して笑顔を作る事ができない。
しかし。
『怖い笑顔』
『がっはっは!鏡を見せちゃろうか!?』
僕はセントレアのセーフハウスにいながら、光のシグネットでリアルタイムに志鳳の様子を観察していた。
『ユマンのシグネットとの相互作用で何かが目覚めた?あれが女王とタヴの言っていた、梧桐志鳳の真の力……。……ん?どうかした、ネーベル?』
茶色のミドルツインテール。ポロシャツとスコート。健康的な爽やか美人──蝗害のネーベル・キングスバレイが、珍しく強張った表情を見せている。
『あれは……一体、何さね……?』
センサー付きの蟲を現地に送り込めるネーベルは、視覚を拡張しているだけの僕よりも得ている情報の種類が多い。
そのおかげで、遺失支族の新拠点の位置を絞り込めたのだが……。
『……術式?……何処に……?』
何やら考え込んでしまった。よほど奇怪な現象が起きていたのだろうか。
『クハハッ!そう来なくては!』
『悪魔……?』
僕の内側から甲高い声が響く。こちらはいつにも増して興奮気味だ。
『ごきげんよう!寝起きの気分は如何かね、親愛なる天使!!』
梧桐志鳳を中心に波紋が広がっていく。僕の思惑すら越えて、どこまでも。




