【レテ・ダーム】の世界
私は梧桐志鳳ではない。
ギーメル・パペスでもない。玄松夕鶴でもない。エーシル・スティンガーでもない。ラミナ・クルシフィックスでもない。
私は私──レテ・ダームだ。
だが、そんな事実に何の意味があるだろう。もしも別人にレテ・ダームの記憶を植え付けたとして、それは私と何が違うのか。
超越者としての高い能力値?だとしたら、私の存在の核は随分と無機質な代物らしい。
私は個に意味などないと思っている。シグネットで記憶を書き換えただけで、人は簡単に己を見失う。脆く儚い紛い物。記憶を収納する為の空き箱に過ぎない。
仮に人間の存在に価値があるとすれば、他者との間に結ばれる関係性にこそ意味を見出だすべきだろう。
人と人との繋がりが広がっていけば、その輪は私のシグネットでも消し切れない本物へと昇華する。
そして、人間が強い絆を育む為には相応のドラマが必要だと、私は考えている。
異能革命以降、この世界は停滞してしまった。今の時代に生きる人間は、あまりにも退屈で空虚で無価値だ。
……いや、私が期待し過ぎていたのかもしれない。映画の本編が予告の期待感を下回った事に失望している子供のように。
それでも、こんな現実世界よりも、私の方がもっと面白い脚本を書ける。
しかし、1つだけ問題があった。自分で書いた脚本に自分で酔うことはできない。それが嘘吐きの欠点。世界を意のままに動かせたとして、私は……。
だから、誰か。
──私を、騙してくれ。
初撃。真偽織り交ぜた記憶を植え付ける私の固有術式は、梧桐志鳳の回避行動で不発に終わった。
『マナの流れを読んで躱したか。蘇生されたと聞いていたが、なかなか調子を取り戻しているらしい』
これが物質系や生物系のシグネットならば、前兆を悟られても物量で押し切れるのだが、残念ながら私は精神系である。
過去を見透かす志鳳が相手では、信桜幕楽の時のように設置式トラップとして仕掛けても効果が薄い。
『記憶を読めば全部分かる癖に。皆が力を貸してくれた。それだけ』
『精神系のサポートだな。無涯のプレイスホルダー。……その様子だと、まさか思姦と雑種もか?あの身勝手な連中から助力を得るとは大した人望だ』
私はオペラハウスの客席から立ち上がり、堂々と身を晒した。隠れるつもりはないし、その意味もない。超越者が本気で戦う場合、建物の内装程度は障害物にすらならないのだ。
『レテ。君は基柱協定を無視してる』
基柱協定。
世界を揺るがす力を持った超越者達が、幾度もの衝突を経て結んだ、抜け駆け禁止のルール。世界の基幹を支える柱。
『その言葉は久し振りに聴いたな』
超越者という連中は体制派ばかりではない。むしろ反対だ。自身の理想こそが至高と信じ、その価値観に全てを染めていく生粋の暴君である。
真に恐ろしいのは、周囲に与える影響力と人を惹き付けるカリスマ。
親衛隊を見ると良い。超越者が戦えと言えば戦い、死ねと言えば死に、命令がなければ姿を隠して待機する。呆れた忠誠心だ。
それこそ女王ベートが暴れた時代でさえ、少なくない数の異能者が彼女に賛同したらしい。愚かな人類から権利を奪い、女王が全てを支配して理想郷を創るべきである、と。
だが、そうなれば当然、超越者同士の摩擦は避けられない。誰も彼も、人の下に大人しく収まる器ではないのだから、当然だ。
結果として、結ばれた約束事が。
『基柱協定。人間社会に牙を剥いた超越者は、同じ超越者に総出で袋叩きにされるらしいな。これまでは、抵触しないように気を付けていたのだが』
締結に際して、反対意見は少なかったらしい。まあ、納得はできる。なんだかんだ言っても、私達は力を振るう機会に飢えているのだ。
有象無象を蹂躙するよりも、同レベルの超越者同士で世界の覇権を奪い合う方が楽しい。
世界が欲しければ、有象無象ではなく超越者を従えなくては面白くない。
『全ての超越者から狙われるのは、世界を敵に回すのと同義』
『流石は経験者と言ったところか。言葉に重みがあるな』
『……あれは、大切な人を守る為に仕方なかった。彼女を奪われる痛みと比べたら』
術式の前兆。
『世界1つを敵に回す程度、迷うまでもない。再演──周回する大地』
志鳳を中心に回る光球が迫り、私は錬術で空中へと逃げる。
『その通り。超越者とは本来、そういう生き物だ。きっかけ1つで世界の脅威となる。これまでの平和は偶然の産物に過ぎないらしい』
女王が引き起こした戦乱の時代は、1つの教訓を齎した。超越者が少しその気になれば、地上など一瞬で焦土と化す。もしくは、簡単に支配される。
だから、異能者は迷宮都市に籠るようになったのだ。例えるなら、身を守るシェルター代わりに生まれた文化。
『壟断。穏健派のお前や恩寵ですらも、その性質は変わらない』
『一緒にしないで』
『では、退いてくれるか?』
『嫌だ』
ああ、そうだ。超越者の異能とカリスマを前にしても呑まれず、堂々と自分を押し通せる事。それこそが同類である証。
『僕がレテを止めるって、皆と約束したから』
『外野は気にするな。私以外の事など直ぐに忘れさせてやる。失伝──不都合な忘却』
乱射される光の球を掻い潜り、一瞬で志鳳の首へと。
『っ……!?』
志鳳は我に返ったように、私の握る丸鋸の器仗を屈んで避けた。
『記憶の消去!』
『正確には封印に近いがな。異能者の記憶を完全に消す事は困難だ。時間を掛ければ思い出せなくもないらしい』
激しい戦闘の最中に、いきなり直前数分間の記憶がなくなったとして、正常な判断を下せる人間はまずいない。
志鳳さえも例外ではないだろう。消された記憶を知覚した過去で埋める作業にも、ほんの僅かな時間を要する。謂わば、記憶と真実を照らし合わせる間違い探しだ。
そんな繊細な対応を繰り返しながら、私からの直接攻撃を凌いでいれば……幾ら彼でも感覚が狂っていく。
『更に隠し味だ。失伝──束の間の記憶』
今、自分はどの時間軸にいるのか。敵は誰なのか。何をしようとしていたか。何処までが嘘の記憶なのか。
『くっ……!』
私のシグネットは梧桐志鳳に全く効かないわけではない。あくまで、対処が可能というだけで、隙を作る程度の役には立つ。
そうして、志鳳の対処能力が限界に達し、充分な隙ができた瞬間が。
彼の最期だ。
『人生というものは、思い通りにはいかないらしい』
私は志鳳に対して語り始めた。
『超越者として永遠を得ても、感動には限りがある。人の記憶を覗く度に世界は色褪せていくばかりだ』
記憶は劣化する。命よりも大切な思い出も壊れ、彼方へ消えていく。
変わらないのは、志鳳の観測する過去の真実だけだ。私がそのシグネットにどれほど嫉妬したか。
『だから、私は未知を求めているらしい。停滞した世界に引導を渡し、新しい世界の幕を上げる』
『させると思う?』
『……壟断なら理解してくれるかと、少し期待していたが』
『僕だけが理解できたとしても、演出は皆に伝わらないと意味がない』
互いに幾度も器仗を振る。しかし、未だに一合も交えず。
それで正解だ。私の器仗は武器ではない。交戦ではなく必殺に特化した処刑道具。シグネットで沈めた相手の命を確実に奪う、殺意の塊。
『万人に伝わったとして、ありきたりな脚本に何の意味がある』
得物を引いた拍子に、互いの距離が遠ざかった。暫しの空白。
『私の脚本に文句があるらしいな?』
私は器仗にマナを通して、丸鋸を勢い良く高速回転させた。
『僕の演出に何か不満でもある?』
志鳳の手の中で、錬術で象られた戦棍が短剣に形を変える。
『再演──既定路線の未知』
超越者同士の戦いにしては、あまりにも静かな攻防が繰り広げられる。オペラハウスの空気を震わせながら、私達は息を合わせて踊り続けた。
『さて、壟断。私の……いや、今の私の過去を読んだか?』
私が発した閑話を受けて、志鳳の肩が揺れる。分かりやすい男だ。
『それは、遺失支族に上書きされたイフの可能性。この世界の本当のレテは……』
志鳳の言い分も一理ある。遺失支族に改編された後も、私のシグネットはこの世界で生きていたもう1人の私の記憶を呼び起こした。
どうやら、こんな事態に備えて体外に記憶を保存していたらしい。我ながら抜け目がない。おかげで、私の世界に存在しなかった梧桐志鳳の事も鮮明に思い出せている。
『だから、忘れろと?』
私は首を横に振った。
『それはできない。事実から目を逸らさずに記憶しておく事が、脚本家の責任だ』
私が忘れてしまったら。なかった事にしてしまったら。あの世界は何だったというのか。
『じゃあ、その責任は僕が半分背負う』
志鳳は躊躇いなく言い切った。
『人間を赦せるのは人間だけ。レテがそう言ってたから』
『この世界の私は、随分と温い考え方の人間だったらしい』
少し、羨ましい。そんな言葉を掛けて貰える、この世界の私が。
『私と違ってな』
『か……あ、ぇ……?』
志鳳の膝が落ちる。
『摘果から習わなかったか?精神系は言葉を発させる前に、殺れ』
言葉は対象の精神に潜り込む為の、甘い罠。
『壟断の中には自分以外の記憶がある。親友を喪った経験。精神的なトラウマ。仲間を増やさなかった後悔。極光のドッペルゲンガーとして生まれた瞬間から、それらが生き方に影響を与えている』
わざわざ危険を冒してナーヌス・バレンシアと接触したのは、この為だった。
『梧桐詩凰の記憶を一方的に流し込んだ。過去の記憶の強制想起。私の手持ちでも足止めに……そして、処刑に向いた術式だ』
志鳳は苦悶の表情を浮かべる。
『その場に留まる為には、絶えず走り続けなくてはならない』
動かない。いや、動けない。まるで劇に熱中する観客のように、その記憶の観賞が終わるまでは客席から立ち上がれないはずだ。
『異能革命の焼き直しだ。もう一度、全人類の記憶を書き換えて、私が救世主として世界を彼方へ導く』
丸鋸を振り下ろす指が震えていたのは、私の気のせいだろう。
『これにて、終演』
さあ、楽しい劇は終わりだ。
『──閃いた』
『……ッ!馬鹿、なっ……!』
ピタリ、と。
『道具の扱いがなってないってば、未熟者』
志鳳は俯いたまま、逆手持ちの短剣で的確に丸鋸を刺し貫き、迫る凶刃を止めていた。
馬鹿な。そんな、あり得ない。まだ動けるわけが……。
『その口調……恩寵の婆の真似か?』
『誰が婆だ、大赦ー!女神のように優しい私も流石に激おこだってば!』
うがーっと立ち上がった志鳳が、短剣を鍬に変形させて振り抜く。私は弾かれるように後退した。
『何故、動ける……?』
『そんなの簡単。僕が新しい術式を完成させたから』
志鳳がいつもの抑揚に乏しい口調に戻り、鍬を戦棍に変える。
『口伝──燦然たる開演』
彼の全身に淡い光の粒子が見えた。
『僕が読んだ過去に基づいた、特定個人の完璧な人格シミュレーション。拡張思考回路が使えない今の僕では無理だけど、ソークの思考ネットワークを借りて処理能力を補った』
『私と戦いながら、新たな術式を1から作っただと?それも口伝レベルの……?』
『レテ。もしかして、僕に誰の記憶を流し込んだのか忘れた?』
『それは……』
梧桐詩凰。志鳳の元となった人物で、シグネットは光。ライフワークは……。
『術式研究の第一人者……!』
『ご名答。術式作りのコツを直接頭に叩き込まれた事で、構想段階の机上の空論を一足飛びに実用化できた』
志鳳は平然と言う。……これほどか。過去知覚なんて代物を使いこなす彼の、素の実力を見誤っていた。
知覚系が作用するのは自分自身であり、他のシグネットと違って発動を察知できない。その内側でどれだけ高度な処理がなされているかは、本人にしか分からないのだ。
『レテ。君の世界が褪せていくのは、1人で抱え込んでるせい。その気持ちを最初から、僕にぶつけてくれれば良かった』
『……お前が、解決してくれるのか?』
『いや、僕1人じゃ無理』
志鳳は否定する。
『だけど、一緒に嘆いてあげる。僕にも、そうしてくれた人がいたから分かった。どんな退屈な時間も、仲間と共有すれば最高の舞台になる』
『……私は脚本家だ』
『脚本家が舞台に上がっちゃいけないなんてルールはない』
志鳳が戦棍を担ぐように構えた。
『それと、記憶を覗いたくらいで全部分かった気にならないで。直接触れないと気付けない輝きも沢山ある』
鏡合わせのように、私も愛用の丸鋸を持ち上げる。
『記憶を塗り替えられても、研ぎ澄まされた五感は嘘を吐かない。──ザインを騙す自信はある?』
梧桐志鳳とザイン・ラムール。私を相手にするのならば、この2人は最適解に近い人選だろう。
だが。
『過去と記憶。私とお前のシグネットは似ているらしいな、壟断』
私達は全く同時に動き出した。
『シグネットを使った他者の再現。私に同じ事ができないと思ったか?』
ザインの記憶をなぞり、丸鋸を武器として十全に扱う。同じ人間の模倣。しかし、現時点での余力が多いのは私。
『悪く思うな』
志鳳は微笑んだ。
『こっちの台詞だわぁ』
『……は?』
志鳳がカードでも投げるように自然に投擲した戦棍が、私の丸鋸を弾き飛ばす。
『結局、知覚系の内側で何が起こっているかなんて、誰にも分からないのよねぇ』
『預言、のタヴ……!?』
反射的に手から離れた丸鋸にマナを絡めて、もう一度手元に引き寄せる。
それは、隙でしかなかった。
私がずっと求めていた、超越者同士の戦いにおいては致命的過ぎる、隙。
『再演──完全無欠な矛盾』
光の矛と盾が無数に出現し、志鳳を守るように浮遊する。
『再演──洗礼』
志鳳の肉体に、彼の知る限り最強の体術が宿る。
梧桐志鳳。彼は第0位階にしては珍しく、自身の強さに誇りを持っていない。
ただ、今。誰かの想いを汲み、退く事ができない戦いに挑む、この瞬間だけは。
『──僕が最強』
光の矛が今度こそ器仗を吹き飛ばす。
私の反撃を光の盾が止める。
最後に。
『これにて、終演』
彼の拳が私の体に叩き込まれた。
『正直、レテが土壇場でザインを模倣するかは賭けだった』
志鳳は独り言のように呟く。
『少し前に戦ったばかりだから、ザインの性格はよく把握してる。何処に隙があるかまで。……彼女は強いけど、不測の事態に弱い。つまり、アドリブが下手』
そうだ。人の記憶は主観でしかない。客観的な弱点は自覚できないものだ。それは過去知覚のシグネットの領分である。
こんな初歩的な失敗をするなんて……。私が自身の描いた脚本を貫いていれば、勝利は確定していた。だが、あの時、私は。
『ああいう演出をすれば、レテなら面白がって乗ってくると思った』
『はは、私の脚本が壟断の演出に呑まれた、という事か……』
悔しいが認めるしかない。それでこそ我が好敵手、と負け惜しみを言っておこうか。
『半分背負ってくれるらしいな。ならば、これを持っていけ』
私は1つの術式を編み、志鳳に譲渡した。彼は抵抗せずに受け入れる。
『今のお前は複合シグネットの真価を引き出せていないらしい。外付けの思考領域に処理を任せ過ぎだ』
あのサピエンティアとかいう遺失支族のディザイアを受けた時点で、私はもう手遅れだ。だから、できる範囲で託しておく。
『私の異能で記憶領域を増設したらしい。複合シグネットの影響か、お前のマナは第0位階の中でも特に多いからな。その余剰分で維持できる範囲の術式だ』
黙示録の侵攻は終末に至ってからが本番だ。摂理に動きを縛られている今は、太陽に照らされた吸血鬼に等しい。
そして、終末は必ずやってくる。黙示録を含めて、あらゆる存在の記憶を覗いた私は確信していた。
『最期に1つ、手向けの言葉を贈ろう』
そうだな。私がこれまで読んできた記憶を元に、敢えて最期に言い残すとしたら。
『友人は大切にすると良い』
『言われなくても』
『ああ……忘れるなよ』
これくらいで充分だ。後は、彼がこの助言を活かしてくれる事に期待しよう。脚本の意図を汲むのは演出家の仕事だろう?
『僕からも言っておきたい事がある』
志鳳が手を掲げると、光の矛が私に照準を定めた。立っているのもやっとの体調だろうに、相変わらず演出にこだわる男だと半ば呆れる。
『実は1つ、嘘を吐いた。基柱協定なんて、本当はただの口実』
彼が手を下げる動きに合わせて、光の矛が一斉に放たれた。
『──僕の大切な人を泣かせたから殺す』
光に貫かれながら、私は志鳳のらしくない冷たい言葉に目を見開く。確かに、彼の記憶を辿っただけでは、これは予想できなかった。
まんまと騙されたな。私くらいしか知らない記憶だが、女王に初黒星を付けただけの事はある。ただの温厚な男ではないらしい。
私は苦笑する。
『最初から……そう言え……。この嘘吐きめ』
しかし、まあ、なかなか尊い関係性を見せて貰った。故に、恨みはしない。
安心すると良い。
──私の前では、全ての嘘が赦される。




