【裏切り】に関する閃き
資料館。
高位階の異能者がそう口にした場合、大抵はゴールデンワトルに存在する巨大な建造物の事を指す。
幾何学的なデザインの湾曲した壁。表裏が捩れて繋がった歪な柱。パズルのような窓。
騙し絵を連想させる建物だ。三次元的にはあり得ない構造も含まれているが、そこは術式で空間を歪める事で強引に実現している。
資料館は名称に違わず、連盟の所有する資料をまとめて収蔵した建物だ。
自己研鑽に励む異能者にとっては垂涎の聖地だが、入館許可を得る為には面倒な手続きを経る必要がある。
その代わり、資料館に踏み入る許可さえ降りれば、異能者が積み上げてきた歴史の大部分を知る事が可能だ。
とは言っても、こんな場所に代替不可能な重要資料を保管するほど、連盟の上層部も馬鹿正直ではない。
おそらく、本当に失われると取り返しの付かない資料は、賢者の方舟の本体と同様に隠しているはずだ。
『じゃないと、困る』
無数の小さな穴が空いた資料館の壁から目を逸らす。それは紛れもなく、僕の光のシグネットによる被害だ。
普段なら周囲に気を遣って戦えるのだが、今回は精神的にそんな余裕がない。元引き籠もりで研究者の僕は実戦の緊張に弱いのだ。
……見なかった事にしよう。どうせ淫祠邪教の暴力装置ことヴァニルの担当する西口は、もっと悲惨な事になっているはずだ。
『でもまあ、威力偵察と思われる大量の偽典はどうにか片付けた』
話を戻そう。
資料館などと名乗ってはいるが、この建物に最も期待されている役割が、失楽園の入り口を守る砦としての機能である事は明白だ。
資料館の地下。この世の地獄──失楽園に続く入り口はそこにある。
資料館が前衛芸術じみた外観になっているのは、万が一にも部外者を失楽園へ侵入させない為に増改築を繰り返した結果だ。
ちなみに、タヴ・モンドの遺体は上階に保管されているが、そちらは別の超越者が守っているから今は問題ない。
『なんか、下の音がうるさくなーい?』
耳に装着している祭具から、眠たげな思念が届く。
『死者の眠りを妨げる者には災いが降りかかるよーう?』
冥府のメム・パンデュ。
ライフワークは墓守。死者の安寧を保証する残体同盟の新世代。
『自重はしてる。でも、人手が足りてないから多少は大目に見て欲しい』
『言っとくけど、私はタヴの遺体を守りに来ただけだから、それ以上は頼らないでねーえ?』
『分かってる』
本音を言えば、メムの助力は喉から手が出るほど欲しい。だが、同時に断られる事も予想していた。
如何なる状況に置かれても、超越者は自身の掲げる信念や主義を行動の軸とする。
良く言えば、芯が揺らがない。悪く言えば、融通が利かない。
これは単なる我が儘ではなく、一種の処世術でもある。
超越者は国家とも対等に渡り合える、戦略兵器にも似た存在だ。
そして、個人であるが故に、他者と足並みを揃える必要なく、気軽に力を振るう事ができてしまう。
それは、普通に考えると恐怖の対象でしかないだろう。思想が二転三転する人間に、国を落とせる力を預けられるかという話だ。
だから、多くの超越者は敢えて一貫性のある立ち振る舞いを心掛ける。
とは言え、無理をしているわけではない。あくまで、自分の趣味嗜好を偽らず素直に生きていれば問題ない。
例えば、僕が過去に戻っても術式の研究というライフワークを選んだように、超越者の内面は容易に変わるものではない。
『はっはっ……!こちら、リーゼ!資料館の周りを広めに巡回してたら、2回死んだであります!』
『相手と場所を詳しく報告して。あと、死ぬ度に興奮しないで、変態』
そう言えば。
内面の変化で思い出したが、前の世界で親友だったアインは、分野こそ違えど僕と同じ研究者だった。
僕が術式の構築理論、アインが遺物の発生機序について研究していた事は忘れるはずもない。
しかし、今のアインは様々な立体物の原型制作をライフワークとしている。この変化はかなり大きい。
梧桐志鳳が生まれた事によるバタフライ効果、と結論付けるのは簡単だ。だが、個人的に何処かしっくり来ない。
いや、そもそも。
──かつての僕は、アインという人間の内面をどれだけ知っていたのだろう。
『主様、さっさと起きるでありんす』
眷属から送られてきた閑話によって、志鳳の意識が目覚める。
目蓋を持ち上げると、美しく整った女性の相貌が視界を独占していた。
生気を失った青白い肌が金髪の鮮やかさを余計に強調し、彼女の顔を芸術品のような雰囲気に仕立て上げている。
それは、ザイン・ラムールの遺体だった。
「うわ!」
寝起きで遺体と顔を合わせた志鳳は、驚きの声を上げた。
『志鳳くん!……良かった!サラちゃん、蘇生成功したよ!』
赤色のミディアムヘアが視界の端に映る。
『幕……楽……?』
『本当に、本当に心配したんだよ……!』
目尻に涙を浮かべた幕楽が、志鳳を抱き締めた。
『……体が動かない』
『あはは、動こうとしないでくれるかな?』
『痛い、痛い』
幕楽の指が志鳳の背に食い込む。基本的に友人達に甘い彼女だが、怒らせると怖い。
『まだ生き返っただけで、ダメージは回復してないからね。口伝──不可侵な微熱』
幕楽の体から柔らかい炎が立ち昇り、志鳳の体に吸い込まれる。
彼女の術式に込められた活術が、志鳳の肉体に僅かな生気を与えた。
『ありがとう。なんとか動けるようにはなった。……でも、マナが巧く練れない』
『蘇生の反動ね』
サラートがぬるりと現れて、身を起こした志鳳を背後から支える。
異能者は生命力をマナに変換して術式を行使している。
負傷・疲労・空腹などによって、根本的な生命の循環が乱れれば、当然ながらマナの精製も滞ってしまう。
『今の志鳳さんは幕楽さんの術式による補助で動けてるだけ。自覚はないでしょうけど、まともに戦える体調じゃないわ』
サラートはザインの遺体に足を乗せた。
『コイツのせいでね。えい、えい』
『サラート。死体蹴りはマナーが悪い』
志鳳が杜鵑花を窘める。
蘇生の術式を使ったからと言って、直ぐに完全復活とは行かない。蘇生の後は長いリハビリ期間を挟むのが常識。
それくらいは志鳳も理解している。
『だけど、ザインを倒す方法としてはアレが最善だった』
ザインはあの場で確実に倒しておく必要があった。
彼女は万物の性能を増幅できる。その気になれば、女王ベートにすら支配できないほどの質と数を兼ね備えた軍団を用意できるのだ。
『……個人的に色々言いたい事はあるけど、今は納得しておくかな』
幕楽は意固地な弟を見るような表情で、それ以上の言葉を飲み込んだ。
『玉兎』
志鳳が腰のポーチにマナを通すと、片目を隠した黒髪の女性──玉兎が顕現する。
上半身に軽い痛みが走った。マナの循環経路も傷付いているらしい。ザインから受けたダメージは想像以上に深いようだ。
『ここまで追い込まれたのは久し振りでありんすね。御園──限定展開』
玉兎は妖艶に笑いながら、虚空から透明な結晶──孔晶を取り出す。
孔晶はマナの通りが良い事から主に祭具の材料として使われるが、一時的にマナを貯蔵する素材としても利用できる。
純度が高い孔晶には大量のマナを貯めておけるので、志鳳もいざという時の備えとして持っていた。
『状況は?』
志鳳は孔晶を握ってマナを補給しながら端的に確認する。
『敵の主力──白衣の遺失支族と嘘泣き女、あと女学生の3人は既に撤退したでありんす。時間稼ぎだったのでありんしょう』
玉兎が秘書のように淀みなく答えた。
『アイン様・杜鵑花様・プレイスホルダー様の3名は真っ直ぐに失楽園へ。私達は紋章院のポールヴ様と合流してから後を追う予定でありんすね』
『私・志鳳くん・サラちゃん・蝶路くんの4人で、車移動してるところだよ』
幕楽が補足する。
そう言われて見てみると、ザインの遺体の向こう側には、ぐったりと倒れ伏した牡丹亭蝶路の姿があった。
『蝶路、大丈夫?休んでた方が……』
『失楽園の入り口に設置された結界は……俺の作品や……。黙って寝てられるわけあるか、ボケ……』
『こんな調子で縋ってくるから、仕方なく連れてきたわ』
サラートがやれやれと肩を竦める。
『超越者の動きはこんな感じでありんす。ちなみに、それぞれの派閥メンバーは各地の暴動を押さえる為に散っているでありんすな』
玉兎は切迫した状況を愉しむように微笑んだ。声色は軽やかに弾んでいる。
外見こそ人間にそっくりだが、彼女は幻界で生まれた幻妖鬼。召喚主に対して忠誠を誓っていても、価値観そのものが人間とは全く違う。
彼女達が眷属として召喚に応じるのは、現実世界という最高の娯楽を特等席で体感する為に他ならない。
世界の危機すらも彼女にとっては新鮮で刺激的なイベントなのだ。
『なるほど。分かった』
志鳳は孔晶を懐に仕舞う。
『マナは補給したけど、今のコンディションだと天使は降ろせないと思う』
志鳳が1日に拡張思考回路を展開できる時間は長くない。これはもう、術式そのものの欠点だ。
人間の限界を超えた思考に接続する行為はどうやっても負担が大きい。
ナーヌス・バレンシアのオリジナルとそれを参考にした志鳳の術式には、既に考え得る限りの負担を減らす工夫が施されている。
これ以上の燃費を望むのなら、本体性能の方を上げるしかない。そういう領域の完成度だ。
『だから、ここからは即興劇』
切り札は失った。手札も減った。敵の強大さによって、静かに追い詰められていく。
『演出家としての腕の見せ所』
それでも、梧桐志鳳が諦める理由にはならない。
国際異能連盟の重要施設の多くは、ゴールデンワトルの1国に集中している。ポールヴとの合流もスムーズだった。
『で、砂紋部隊はどの程度が寝返ったのよ』
『相変わらず、単刀直入だな、摘果ァ』
ポールヴが運転席で苦笑した。彼は術式による自動運転をオフにして手動で運転している。
資料館は周囲の時空間を意図的に歪ませており、正しい手順で正しい道順を正しい速度で進まなくては本館まで辿り着けない。
超越者にも道順は教えられているが、失楽園を管轄する紋章院のトップであるポールヴは、更に到着を早める手段を持っている。
念の為に付け加えると、彼を誘拐してその方法を吐かせる事はできない。
彼の体には情報保護の為の措置が組み込まれており、下手な手出しをすると記憶が破棄され、自動的に連盟本部へと警戒指示が送られて対策される。
連盟は異能者の自由と秩序を守る最後の砦。その総裁達には、自分よりも世界を優先する覚悟がある。
『3分の1ってとこだァ。幸いなのは、ナンバーが下位の奴から抜けてる事だなァ』
『不自然ね。遺失支族が超越者にも通じる改編能力を持ってるなら、上位の実力者から狙うはず。裏切りを隠してる可能性は?』
『精神系の異能者と祭具で確認済みに決まってるだろォ。それに、賢者の方舟の本体による最終判断の結果だァ』
『賢者の方舟の……。ディーシがいないのはそういう事ね』
『お察しの通り、過剰負荷で気絶中だなァ。だが、おかげで有益な情報を幾つも得られたァ』
志鳳は控え目に頷いた。
『僕は今、蘇生直後で異能が半分停止してる状態。賢者の方舟からの情報は重要』
『はァ!?1回、死んだのかァ!?第0位階がァ!?……相手はァ?』
『ザイン。後ろに遺体が積んである』
『恩寵かァ……!そういや、ディーシ経由で賢者の方舟が言ってたなァ!ったく、こっちは状況に付いて行くのがやっとだってのによォ!』
ぼやきながらも正確な手捌きで車を運転する。
『愚痴っても仕方ないよなァ。旧世代の実力者を被害が拡大する前に仕留められただけ、まだマシだと考えるかァ……』
『なんか、いつも面倒事ばっかり持ってきて、ごめん』
『いや、あんたは良くやってくれてるよォ。壟断と痛悔、あと洗礼がいなかったら、とっくに心労で倒れてるくらいにはなァ』
片手で眼帯を撫でながら溜め息を溢すポールヴの背中は、哀愁が漂っていた。
『はァ……。まずは、目下の問題からだァ。あんたらに情報共有しておくゥ』
『よろしく』
広い車内の壁に背を預けた志鳳が無表情に返答する。
蝶路は寝転がったまま小さくひらひらと手を振った。ザインは遺体なので、当然ながら微動だにしない。
『世界各地で起こってる一斉蜂起ィ。賢者の方舟の分析では、その下手人は遺失支族じゃないそうだぜェ』
サラートはそんな車内を見渡して、何とも言えない違和感を覚えた。
大物の暗殺を成功させた事。紋章院の総裁と会った事。普段から頼りにしている志鳳が衰弱している事。
それらの重なり合った要因が、彼女に砂紋部隊に属していた頃の殺伐とした警戒心を取り戻させていた。
『なんでも、ディーシの予想によるとォ……』
だから、反応できた。
『失伝──無秩序な熱狂!』
『ッ……!口伝──積み立てた徳点──防壁、全振り……!』
サラートは幕楽が薙いだ炎の鎌を錬術の壁で上方に逸らし、熱気の余波をシグネットで蓄積する。
同時に大槌の器仗でドアを叩き壊し、志鳳達4人を両手両足で車外に放り出した。
何かを考えての行動ではない。一連の対処はサラートの反射によって行われた。
『なっ……!』
一瞬の静寂。その後、彼女達が乗っていた車が内側から燃え上がる。
噴火。そう形容するに相応しい爆炎の柱が空へと伸びた。
完全に融解した車体から、白いシャツに黒いベストを着た女性が飛び降りる。
『私が皆を……取り返さないと……!』
『幕楽さんの様子がおかしいわ!口伝──呪われた椅子!』
サラートは躊躇いながらも、ハイウエストスカートの中に仕込んだ細身のナイフを投擲した。
しかし、圧倒的な火力で幕楽に届く前に吹き飛ばされる。
『正気に戻って、サラちゃん……!』
『ちょっ!おまいう過ぎるわ、幕楽さん!』
この場にいる異能者で、超越者クラスと戦える余力が残っているのはサラート1人。
隠密行動を得意とするサラートにとって身を晒しての戦いは分が悪いが、やるしかない。
車外に投げ出された志鳳は捻れた地面に着地する。資料館に続く道は空間が曲がりくねっており、遠近感が掴みにくい。
『幕楽、なんで……!?急いで失楽園に行かないといけないのに……!』
『そんなに早く行きたいなら、ボク達が連れていってあげようか~?』
片膝を突いた志鳳の首に小さな手が添えられる。
『がっ……!』
そのまま、志鳳の頭が勢い良く地面に叩き付けられた。
『梧桐……!ちっ、舐めんなや……!』
蝶路が結界の術式を構築し、追撃から志鳳を守ろうとする。
『人間の脆さには涙が出ますね』
『……ッ!』
が、それを実行する暇もなく、彼の体は赤い眼帯の女性に蹴り飛ばされた。列車に轢かれたような重い衝突音が響く。
『アスナヴァーニイ……!』
『天使の捕獲、完了~。ん~、何のつもりかな~?』
橙髪の黙示録──アスナヴァーニイが、ポールヴの振り下ろした軍刀を空いた手で受け止め、マナで構築された刀身を握り砕いた。
『そっちこそ、壟断を捕まえてどうするつもりだァ?』
『内緒だよ~。ヴィジラ~』
指示を受けた白髪の偽典──ヴィジラの拳がポールヴの頭を吹き飛ばす。寸前、その腕が何者かに掴まれる。
『ミセリコルディア様……?』
『ふっ、今回の目標は天使の回収。余計な事をすると歯車が狂ってしまうわ』
頭頂部が紫に染まった桃色の髪。意味深な笑みを浮かべた少女のような黙示録。
『小さな歯車のズレが大きな誤作動に繋がる。機械も人間も、運命さえも』
ミセリコルディアの背中から伸びた機械の巨腕が、志鳳を優しく抱え上げる。
『あと、我は早く帰って『大罪のナサヤ』を読みたいのよ』
『もう何度も読んでるでしょ~?』
『ふっ、分かってないわね』
ミセリコルディアは両手を顔の前に翳してポーズを決めた。
『救いのない物語を読みながら、摂理の崩壊を見届ける。これ以上に趣深い娯楽はないでしょう?』
ミセリコルディアは強い。少なくとも、志鳳が相対してきた黙示録の中では、最も強大なエネルギーを感じる。
シグネットが機能不全であっても、様々な強者を観察してきた志鳳には分かった。
故に、無駄な抵抗はせずに機械腕の中で考えを巡らせる。
『僕を連れて失楽園に向かう理由は?』
返答を期待した質問ではなかったが、隣を併走するアスナヴァーニイはあっさりと答えた。
『一言で言うと、鍵かな~』
『鍵……?』
志鳳が眉を顰める。
『ザイン・ラムールとの戦いを見て確信したよ~。キミ、適合者でもないのに聖剣の力を引き出してたでしょ~』
『それは……』
志鳳は内心で後悔した。
あの時はなんとなくできると感じ、他の手段を探す余裕もなかったから仕方ないが、敵に知られると不味い情報である事は間違いない。
『理屈はまだ分析中だけど、自身も遺物であるキミは、適合を無視して遺物を使えるみたいだね~』
アスナヴァーニイは無邪気に笑う。
『梧桐志鳳~。キミには失楽園を手中に収める鍵になって貰うよ~』
アインはいつも僕に合わせてくれていた。
僕が休みたい時には、セーフハウスで他愛もない雑談に付き合ってくれた。
嫌にならない程度に外に連れ出して、服を選んだり食べ歩きを一緒にしてくれた。
インドア派の僕が室内でも暇を潰せるように、色々な曲の入ったヘッドホンを贈ってくれた。
温泉に連れて行ってくれた。スポーツ観戦に連れて行ってくれた。
海に。山に。一緒に夜空の星を見に行ってくれた。
何も返せない僕に、最高の時間をくれた。
だから、せめて。
──彼女の期待だけは裏切らないでおこうと決めていた。
『おや、もう戻って来たらしいな』
危なかった。少しの間だが、完全に周囲が見えなくなっていた。
『過去の記憶の強制想起。私の手持ちでも足止めに向いた術式なのだが、まさか精神系への抵抗力が低い極光が、これほど早く立ち直るとは』
無機質な声。
『……この前、僕に接触して来たのは、記憶のシグネットが僕に効くか確かめる為だった……?』
『そうなるらしい』
レザージャケットを着た、紺色の髪の女。
『レテ・ダーム。お前は……』
僕は嫌な予感を覚えた。もし、この仮定が正しければ、全ての前提が引っくり返る。
『いつから、敵だった……?』
『遺失支族の改編を受けた時を指すなら、タヴの護送任務の後からだ』
『……嘘。お前はいつも自由奔放に動き回っていた。精神系の超越者とも接触している。隠しておくなんて』
『無論、気を付けてはいたらしい。梧桐志鳳との接触にだけはな』
レテが丸鋸の器仗を構えた。
『私が警戒すべきは、脚色のない過去を知覚できる彼だけだ。自分自身の記憶を上書きすれば、精神系の異能者など容易く騙せる』
超越者の心身は外部からの干渉に高い抵抗力を持つ。ただし、内部からの干渉。自分自身を対象として術式を行使したのなら。
長期間に渡って記憶操作を維持し、裏切りを隠し続ける事は──可能だ。
『世界規模の暴動もレテの仕業?』
『ああ、全ては私が仕込んだ脚本通りに進んでいるらしい。そして、残念な報せだ。既に数名の遺失支族が失楽園に侵入している』
『そんなはずはない。僕達はまだ誰も通し……て……』
いや、本当にそうだったか……?
『思い出したらしいな。そうだ。私のシグネットで記憶を封じて、一時的に忘れて貰っていた』
『っ……!リーゼ!』
通信用の祭具に呼び掛ける。この状況では、資料館の入り口だけを防衛しても無意味だ。
『させへんよ。改編──可能世界A38』
不穏な気配を察知して横に飛ぶと、僕の後ろの壁にくり抜いたような大穴が空く。
その現象を起こしたのは、ブランドスーツを着た白い短髪の人物。
『そう言えば、あんさんには一度殺された恨みがあったどすな』
エンテンデールが僕に手を向ける。
『前に会うた時には、権能を温存しとったさかいに。脳筋のドゥレッザと違うて、うちは防御力は高うありません』
『失伝──独り善がりな栄光……!』
『ほな、さよなら。改編──』
僕の異能とエンテンデールの権能が拮抗する事はなかった。
『ごっ……!?』
何故なら、突然の乱入者によってエンテンデールの体が撥ね飛ばされたからだ。
『許ざれない……許ざれない……!』
人の姿をしたそれがエンテンデールを殴打する度に、腕に纏った岩の破片が散る。
『岩のシグネット……?』
『はははっ!新しい体に馴染んだようで何よりだ、セントレアの悪霊!』
何処からか愉快そうな笑い声が響いた。声の主は見当たらない。いや、認識できない。
『こ、のっ!』
乱入者を引き剥がしたエンテンデールの腕を黒い光線が貫く。
『他人に埋め込んだ遺物を摘出して自身に移植する施術!流石の僕でも骨が折れたよ!物理的にもね!』
高い貫通力を誇る黒い光線を放つ遺物。他者の認識を狂わせる遺物。回収された遺物が最後に行き着く場所は1つしかない。
『シグネットではなく遺物を主力として用いる異端者の活用法は、以前から興味深い研究テーマの1つだった』
対抗神話。
あらゆる異能に関する事柄を研究する独立機関。善悪や保身すら考慮しない偏執的な研究者の巣窟。
『そこで僕が考案したのが、攻撃・防御・移動・隠密それぞれに特化した遺物による連携というわけさ!』
彼らは皆、夢を見ている。
超越者という神話に対抗できる存在を人為的に作り出す。そんな壮大な夢を。
『残念ながら複数人での運用は失敗だったけど、個人でやったらどうなるのか……君も気になるだろう?』
『いや、普通に死ぬから』
僕は研究者としてドン引きしていた。むしろ、複数の遺物を埋め込んで何で生きてるんだ、コイツは。
詳細を知りたいとは思わないが、絶対に生命倫理を無視した改造である事は分かる。それを自分の体でやるところが、本当にイカれている。
『やあ、待たせたね!』
対抗神話の第1室長、ロムバス博士。遺物の影響で姿は認識できないが、他にこんな奴がいて欲しくないので多分そうだろう。
『呼んでないし、待ってもない』
『ここは僕達が食い止める!君は先に進むと良い!』
『ロムバス。たった2人で遺失支族とレテを押さえるのは、無謀』
『2人?そんな事を言った覚えはないよ?』
ロムバスがそう言った直後、レテの周囲の地面が肉が焼けるような異音を発して陥没した。
『返信ないから直接会いに来たよ、ナーちゃん(哀)』
金髪に黒メッシュの入った、精悍な顔立ちの青年。まあ、その情けない表情で全てが台無しだが。
『変な呼び方しないで、フラム』
落葉のフラム・センチュリー。
シグネットは腐敗。
『私も手を貸すであります!ナーヌスちゃん!』
うんざりする僕の元に、助っ人が追加でやってくる。前髪を斜めにカットした、水色のミディアムヘアの女。
『『であります!』』
それが、3人。
『……リーゼ』
溺惑のリーゼ・マルガリータ。
シグネットは増殖。
『時間稼ぎで良い。無理はしないで』
『『『了解!』』』
僕はエンテンデールの空けた大穴から資料館に入り、地下を目指して走った。




