いぬのまき その1
雲が月を覆い隠し、町の明かりもすっかり落ちた、要するに深夜のことでした。
草木も眠る丑三つ時、という言葉に逆らうかのように、ずり、ずり、と地面にこすれる音が、誰もいない路地に響いています。
暗視能力を備えた人であれば、そこに一人の小柄な男が、足を引きずるように歩いている事がわかったでしょう。
しかし、生憎と暗視能力を持った使い魔どころか、人っ子一人いません。
暗闇をさまようように歩く男が、吸っては吐く息の音は小さく、そして荒いものでした。
腕で押さえているわき腹からは、血が今も零れてきています。
身につけている衣服は、男のものと、そうではない血に塗れています。
いくつもの血が混ざりあった、混沌とした赤色が、男の服を染め上げていました。
男が路地に血の目印をせっせとつけていると、次第に歩く速度は遅くなってきました。
そして、とうとう男は倒れました。
どさり、と乾いた音がたちますが、やはり誰もいません。
男はしばらく動きませんでしたが、やがてごろり、と寝返りをうちました。
そうして、何も見えない空を視界に収めます。
別に美しくもない、ただの闇でしかない空ですが、男は目を細めて、それを見つめ続けます。
男は自身の境遇を振り返ります。
この町、大坂に生まれて、しかし男は親に捨てられました。
鬼ヶ島とは違う、光当たる、しかし金が支配する町、大坂では子供が一人で生きていくのは並大抵の苦労ではありません。
男はすぐに路上生活になじまざるを得ませんでした。
しかし、男は幸運でした。
とある商人が男を拾い上げ、自らの屋敷で育てたのです。
残念ながら、それはもちろん善意からの行動ではありませんでした。
商人が考えるのは善悪ではありません。用は、得か、損か、なのです。
背が伸びきるまでに数々の特殊訓練を受けた男は、育てた商人のために夜の闇を駆けるようになりました。
もちろんこれは、暗闇でのかけっこなどという意味がわからなくも微笑ましいものではありません。
男は、暗殺者になったのです。
光当たる町大坂の、闇を駆ける暗殺者。
自らの主にただ従い、決して首を横に振らない男は、いつからかこう呼ばれるようになりました。
『狗』と。
その狗である彼は、今夜初めて仕事を失敗し、そしてそれ故に今朝まで同胞だった他の暗殺者に命を狙われる身となったのです。
狗の戦闘能力は大坂の暗殺者の中でも頭一つ抜けたものではありましたが、所詮は多勢に無勢。結局はわき腹に痛撃を受けることとなり、今に至ります。
狗と呼ばれてまで主人に、育ての親に尽くし――しかしただ一度の失敗であっさりと捨てられる。
自らの人生が走馬灯のように頭をめぐり、その乾いた人生に、狗は初めて、どこで何を間違えたかを考えました。
しかし答えを出すほどの時間は、彼には残されていません。失血で朦朧とする意識を、最早奮い起こす気力もなく、狗は眼を閉じようとしました。
したのですが、その時。
「お前はここまでか?」
声が聞こえました。
その声は、狗とほとんど変わらないくらいの、若い男の声でした。
その声に反応したというよりは、声がした方向にある光に誘われて、狗は身体をわずかに起こすと、視線をそちらにやりました。
いつの間にか、青白い鬼火が、夜の闇を押しのけていました。
鬼火は自らの主を隠すことなく、はっきりと映しだしています。
肩まである金髪に、黒いライダーズジャケットを着こなした、少し細身の、しかしがっしりとした体格の青年、モノタローです。
「ここまで、か?」
モノタローは狗に向けて、同じ言葉を繰り返します。
狗は嘲りのーー誰を嘲っているかはわからない――笑みを乗せて、答えます。
「そのようだ」
その言葉に、モノタローも同じ笑みを浮かべます。しかし彼ははっきりと、狗を嘲笑います。
「それで満足か?」
どういう意味だ? と狗が尋ねようと口を開くよりも早く、モノタローは続けます。
「ただ不幸が重なった、というだけでごろごろと雪だるまみてえに人生を転がり落ちて、落ちた先で泥水と混ざり合い、ぐちゃぐちゃになった挙句に捨てられて、それで満足か? って聞いてんだ」
「貴様……」
狗の瞳に、力が戻りました。怒りの炎が宿り、モノタローを睨みつけます。
大坂の闇で最強の名を欲しいままにしていたのは、伊達ではありません。まるで視線自体が槍のように、モノタローを貫こうとします。
「いい眼ができるじゃねえか」
しかしモノタローが洩らしたのは、嬉しそうな感想でした。
「お前、復讐をしないか?」
モノタローの言葉に、狗は再び唇を吊り上げました。
「何に、だ?」
それは獰猛な笑みでした。まるで、モノタローの次の言葉を予想しているかのようでした。
「もちろん、お前の飼い主と、この町にさ」
モノタローの提案は、狗に点った暗い炎を燃え上がらせるには十分でした。
だから狗は、躊躇わずに頷きます。
「いいだろう、お前の狙いは知らないが、乗ってやろう」
「よし」
モノタローも満足気に頷き、狗の手に団子を一つ、置きました。
「これは?」
訝しむ狗に、モノタローは得意げに答えます。
「どんな怪我も治す、薬売り特製きび団子さ」
そんな無茶な、という声がどこからか聞こえてきそうな説明です。
「なるほど」
しかし狗は頷いてしまいました。
しかも何を思ったか、一つまみちぎると、傷口に塗り始めました。
「アロエじゃねえ」
モノタローが冷めた声で指摘し、無理矢理口に押し込みました。
「素直に食え!」
「もがっ! もがががががっ!」
色々な物を台無しにする声が、夜の静寂を破ってしまいました。
読んでくれてありがとうございます。
このおはなしの半分は承認欲求でできています。
いいねとか超ほしいです。ブックマークも大好物です。
なお残りの半分はネタ心でできています。