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後編


 シグリット・リレアは、己の護衛騎士の傷を治してやるのが嫌いだった。

 血を見るのが苦手だとか、あの男が傷を負ったことに心を痛めているとか、そんな生やさしい理由では決してない。


 単純に気に入らないのだ。

 聖女の力を使う自分を見る、あの男の眼差しが。


「おまえ、一体何が不満なの」


 ある日とうとうシグリットはそう問うた。

 ラシュティバルトが護衛騎士となって二年目、魔物との戦いで左足を負傷した彼と一緒に馬車に乗り込んだ最中のことである。

 速さ重視の小さく狭い馬車の席で、隣の男に詰め寄る。


「どうしていつも怒っているのよ」

「いえ、そんなことはありませんが……」


 困惑した顔で「どちらかといえば怒っているのは貴女では?」と返された。それはそうなのだが、今はそうじゃない。そっちの話がしたいんじゃない。


 しかめ面のまま、シグリットは何かを言おうとして、やめて、口を閉じた。それを二度ほど繰り返す。

 こういう場合、どんな声かけをすればいいのか分からなかったからだ。誤魔化すなと睨みつけるのも、とぼけるなと声高に責めるのも、何だか違う気がする。


 ズバッと斬り込む度胸はあるが、斬り込んだ後、そこから上手く相談してもらえる流れにする話術をシグリットは持ち合わせていなかった。

 珍しくまごつくシグリットを見かねたのか、意外にも向こうから話を続けてきた。


「その……聖女様なりに、私のことを心配してくださったのでしょうか?」

「別にそういうのじゃないわ。相手が自分に対して怒っていたら、誰だって少しは気になるでしょう」


 瞬間、微かに男の顔が強張った。どうやら当たりだったらしい。


 始めは、傷を負った自分自身を責めて怒っているのかと思ったのだ。怪我を負って不甲斐ないと、悔しがっているのかと。

 けれどずっと見ていくうち、違うと分かった。そんな健全な怒りではない。これは多分、八つ当たりに近い。


「おまえはずっと、聖女()に怒っている」

「…………」

「その理由は何?」


 数秒の沈黙の後、馬車がガタンとやや揺れた。車輪が石にでも引っかかったのだろう。

 それを皮切りに、男はようやくその重い口を開いた。


「……魔王が攻めてきてから、貴女が聖女に選ばれるまで、半年ほど間があったでしょう」

「……そうね」

「その半年の間も、私たち王国騎士団は魔王や魔獣と戦っていて……、死人もたくさん出ました」


 そして、その犠牲の多さを嘆き悲しんだ女神が、聖女としてシグリットを選び、遣わした。

 女神に直接尋ねたわけではないので真偽のほどは定かではないが、一般にはそういう認識になっている。


 聖女に選ばれた際、シグリットは王城の人間とも、修道会の人間とも会ったが、彼らも正直聖女が選ばれるタイミングは分からないのだと話していた。

 人智の及ばない領域の話なのだと、教わった。


 男は俯きながら、静かな声色で続ける。


「聖女様が、私や傷ついた他の兵士を癒すたび、どうしてもっと早く貴女は現れなかったんだろうと考えてしまうんです」

「…………」

「貴女は女神に遣わされた。そしてその使命は多くの人を助け、救うことだという。……なら、貴女が現れる前に散った命は? 同じように魔王や魔獣と戦っていたのに、彼らの命は救われるに足るものじゃなかったのか?」


 男は顔を上げてこちらを向く。けれど彼はシグリットを見てはいなかった。

 その碧眼は暗い海の底のように淀み、もっと遠くの存在を見つめている。シグリットが会うことが叶わなかった、かつての仲間達の姿を。


「分かってるんだ、仕方のないことだって。無理を言っているのは俺です。でも、それでも思ってしまうんです。どうしてもっと早く女神は貴女を選ばなかったのか」


 男の声が、震えている。


「どうしてもっと早く、来てくれなかったんですか」


 そう言って、男は苦しげに涙を一粒だけこぼす。

 その身体を、シグリットは思いきり抱きしめた。


「わたし、謝らないわ」


 驚きで身を固くする男の背中へ両手を伸ばし、ぎゅっと強く、これでもかと力を込めて抱きしめてやる。


「私のせいじゃないことは、謝らない」


 自分のした過ちを謝るのと、自分のせいではないことを謝るのでは、行動の意味がまるで違う。少なくともシグリットはそう思っている。

 今謝ったら、きっと責任をとった()()をしてしまう。勝手に自分の一部にして、中途半端に背負った気になってしまう。それは目の前の男にも、亡くなった彼の仲間に対しても失礼な行為だ。


「でも、約束はできる。これから先、おまえ達騎士団がどこにいようと駆けつけて、必ず助けてみせるから」


 身体を離して、ラシュティバルトの顔を覗き込む。


「だから、これから私を責める時は、ちゃんと()()()()文句を言いなさい」


 覗き込んだ先、青い瞳は揺れていた。

 けれどその目には確かにシグリットの姿が写っていて——今度はゆっくりと、それが細まる。

 それから天高く輝く太陽を仰いだ時のような、少し眩しそうな顔をして、男は「はい」と返事をした。
















 今朝は随分と昔の夢を見た。

 ざっと二百年ほど前の、なんてことない記憶だ。

 自分の行く末など知る由もなく、聖女としての使命感と、自信と、希望に満ち溢れていた頃の。


「…………」


 修道院の入り口、石造りの階段の前でシグリットは(ほうき)を手にして立ち尽くす。掃いて集めた落ち葉の山が、風に遊ばれて少し広がる。

 秋晴れの空は雲ひとつなく、太陽に照らされた空全体の明るさが、朝の時間帯特有の青みがかった影を生み出していた。


 青空の下、やや斜めに伸びた己の影を眺めていると、ふいに別の誰かの影が重なる。


「……シグリット様? 大丈夫ですか?」


 シグリットが顔を上げると、今朝見た夢と同じ顔をした男が心配そうにこちらを見つめていた。

 この男はめげずに今日も来たらしい。常ならば「何の用なの」と睨みつけてやるところなのに、今日は何故だか上手く言葉が出なかった。


 それは多分、目の前の男の格好がいつもと違うからだ。

 彼はいつもの私服ではなく、黒い詰め襟に金の刺繍が施された特徴的な騎士服——王国騎士団の制服を身につけていた。

 細かなデザインこそ違うものの、その佇まいは二百年前の彼の姿とよく似ている。


「……おまえ、()()王国騎士になったのね」

「はい。もともと馴染みのある職ですし、それに……」

「それに?」

「……いえ、生まれ変わった貴女を捜すのにも、登城権があるに越したことはないでしょう」


「王族、侍女、騎士……貴女が王城に関係する立場の人間に生まれ変わっている可能性も充分にありえましたので」そう男は言葉を付け足す。


 ラシュティバルトは生まれ変わったシグリットを王城で見つけた。

 そのため、彼の職業は登城権のある貴族か騎士、変化球で宮廷職人のどれかだろうとはシグリットも予想していた。なので今世も彼が王国騎士であること自体には驚いていない。


 だが、女一人を捜すため、捜索範囲を城にまで広げるためだけに騎士になっても大丈夫なのだろうか。登城権を目当てにするにしても、騎士である必要はあったのだろうか。そう薄っすら思いもしたが、今世のシグリットは王国騎士団の事情にはそこまで明るくないため、無難に相槌を打つにとどめた。


「それで、どうしておまえはそんな格好をしているのよ。もしかして仕事明け?」

「はい、昨夜が夜番(よばん)で、今はその帰りです」

「そう。おつかれさま」


 さっさと帰って休むがいい。そんな気持ちを込めて男に軽い労りの言葉をかける。

 これ以上は特に話すこともないとシグリットは掃き掃除を再開した。……しかし、なかなか男は立ち去ろうとしない。


「なによ、まだ何かあるの」

「シグリット様、この掃除当番の後、今日はもうお休みでしたよね?」


 何故この男がシグリットの今日の予定を知っているのか? それは愚問である。修道院の仲間の一人(寄付金の申し子)司教(グッドラックウインク)、あの二人の顔が脳裏で彗星のように現れて消えていった。


「…………」


 しかめ面のまま、無言で凄むシグリットをものともせず、男は言葉を続ける。


「実は、貴女に少し付き合っていただきたい場所があるのです」





 ◇





 シグリットに付き合ってほしい場所がある。

 そう告げた男に連れられたのは、なぜか王国騎士団の駐屯所だった。


 シグリットの少し前を歩き、男は迷いのない表情で進んでいく。彼にとっては実に一、二時間ぶりの職場への帰還のはずなのだが、それを気にした様子もない。


 正門をくぐり、修練場の脇の廊下を通り、生活棟を抜けた、駐屯所の敷地の奥の奥。そこまで行くと、なにやら古びた建物が見えてきた。


 まず目に入ったのは、外壁に掲げられた「関係者以外立ち入り禁止」という看板。それから入り口のすぐ脇には一面だけガラスになった受付らしき場所があって、そこに団員と思しき男が一人待機していた。

 二百年前と制服が大幅に変わっていないのであれば、あれは王国騎士団所属の事務官だ。


 今はどうか知らないが、事務官といえば、いつも財源がないと頭を抱え、せかせかしている印象がシグリットにはあった。そのうち何人かは「聖女様の絵姿、売ったら絶対儲かると思うんです」とふざけた相談をしてきたこともあったが、基本的に気のいい人たちであったように思う。ちなみに絵姿の件はラシュティバルトがものすごい勢いで却下していた。


 兎にも角にも、どうやら目的地には無事到着したらしい。ここからどうするのかと男を窺うと、彼もまたシグリットを見ていた。


「これから受付をしてあの建物に入ります。見ての通り“関係者以外立ち入り禁止”とありますが、許可証があるので貴女も入館できます」


 男は懐から筒状にまとめられた紙を取り出す。どうやらそれが許可証のようだ。


「ただ、少し無理をいって発行してもらっているので……非常に申し訳ないのですが、もし受付で何か尋ねられた際は、私に話を合わせてください」

「わかったわ」


 話を合わせるだけで何をそこまで申し訳なさげにする必要があるのか分からなかったが、特に拒否する理由もないので応諾する。

 シグリットが頷いたのを皮切りに、男は受付へと向かった。


「第一部隊所属のラシュティバルト・イヴタークだ。記録管理棟への入館申請を頼む」

「第一部隊のイヴターク副長ですね。少々お待ちください」


 受付の事務官は男が提出した書類を広げ、手元の分厚い名簿を確認する。そして数秒経ったのち、再び顔を上げた。


「はい、確認できました。後ろの同伴者の方にも特別入館許可証が発行されていますが、婚約者のシグリットさんでお間違いないですか?」


 お間違いある。大間違いである。

 が、流石にここで顔に出したり否定したりするほどシグリットも愚かではない。

 努めて平静を装い、そのまま「はい」と答えた。いつもより声が2オクターブくらい低くなったが、まあ問題ないだろう。


「退館の際も受付へお願いします。ではどうぞ」


 さらりとした受付の案内の声を背に、分厚い扉を抜けて建物の中へと入る。重々しく扉が閉まると、途端に外の音が聞こえなくなった。


「…………」

「…………」


 長い長い、黒い木目の廊下を連れ立って進む。

 風ひとつない、空気の動きが完全に止まった空間で二人分の足音と衣擦れの音だけが響く。


「……ねぇ、」


 その沈黙を先に破ったのは、シグリットだった。


「ここはどういった建物なの。記録管理棟なんてもの、()はなかったでしょう」


 てっきり“婚約者”の方を問われると思っていたのだろう、男は意外そうに少し目を見開いた。だがそれは一瞬のことで、すぐに気を取り直してシグリットの問いに答える。


「確かに、この施設は貴女の死後に造ってもらったものです」

「……造ってもらった?」


 この建物の古さから考えるに、まさか今世で造ってもらったわけではないだろう。となると、考えられるのは二百年前の前世である。

 実際、魔王討伐の報酬については当時の国王から話をもらっていた。結局シグリットは死んでしまってもらいそびれたが、護衛騎士であったこの男が報酬を賜った可能性はある。


「……貴女が亡くなった後、陛下に頼んだのです。貴女がきちんと約束を果たした証を後世に遺したいと」


 男がシグリットを見る。

 彼との間に交わした約束など、一つしかない。


『でも、約束はできる。これから先、おまえ達騎士団がどこにいようと駆けつけて、必ず助けてみせるから』


『だから、これから私を責める時は、ちゃんと()()()()文句を言いなさい』


 二百年前の自分の声が、頭の中で遠く響く。


「魔王との戦いの後、瀕死だった何人もの騎士団員を貴女は全員治していました。……自身も重傷を負っていたにもかかわらず」


 男はずっとこちらを見ている。その瞳は決して淀むことはなく、ただひたすらにシグリットを見つめている。

 そこでやっと気づいた。自分はたった今、目の前の男に責められているのだ。二百年前に言った通り、彼はシグリットをちゃんと見て、文句を言っている。


「自分の傷は治せないのだから、無茶をするなと何度も申し上げたでしょう」

「……別に、無茶をしたつもりはないわ」

「団員に出血を指摘された時、これは返り血だと嘘をついたそうですね」

「本当に返り血も混ざってたわよ」

「貴女の傷のことを大声で知らせようとした者を、殴って気絶させたと」

「治すために安静にさせただけよ」

「……貴女は、本当に……」


 本当に、なんだというのだ。そう突っ込んでやりたさもあったが、男がものすごく険しい顔をしていたため、今回だけは見逃してあげることにした。


 そうこうしているうちに目的地に着いたのか、とある部屋の前で男が足を止めた。


「ここです。この部屋へ入ってください」


 その言葉に従い、シグリットは案内された一室へと入る。

 部屋はそこまで広くはなく、壁三面には本棚、中央には木製のテーブルと椅子が何脚か置いてある。おそらく本を広げて調べ物をするためのものだろう。

 ぐるりと部屋を見渡すシグリットを尻目に、男はとある本棚から分厚い一冊を取り出し、テーブルに置いた。

 それから表紙、目次……といくつかページをめくり、本を広げた状態でこちらへ差し出してきた。


「このページから、読んでみてください」


 促されるまま、シグリットは本の一行目に目を通す。


 そこには、とある王国騎士団員の氏名、その団員が魔王討伐の任務で生き残ったこと、その後の功績、それからどのようにして亡くなったか、などが簡潔な文章でまとめられていた。

 それが終わると、また別の団員の同じような記録、またそれが終わると別の団員の記録……と続いている。


 共通しているのは、出てくる名前すべてがシグリットの見知った者たち——二百年前に一緒に魔王討伐の任務にあたった王国騎士団員たち——であり、その誰もが討伐任務で生き残った旨が記されていることであった。


「これは……」


 これは多分、自分に見せるためだけに存在する記録だ。なぜか直感的にシグリットはそう思った。

 二百年前の戦いで、シグリットは聖女として約束をきちんと果たしたのだと、取りこぼした命などないのだと、そう伝えるためだけの記録だ。


 ——たった一人を除いて。


「……ラシュ、」


 二百年ぶりに、目の前に立つ男の名を呼ぶ。


「この記録には、ラシュも生き残ったとあるけれど、それだけしか記されていないのはどうして?」

「…………」

「おまえは私の跡を追って殉死したと、書いてある本も読んだわ。……でも本当は、どちらも違うのではないの」


 ずっと、違和感があった。

 最期のあの日、確かにシグリットはラシュティバルトの右目を治した。けれど、においが消えなかったのだ。

 彼が自分の元へ来てからずっとしていた、血のにおいが。


 始めは自分の腹から出ている血なのかとも思った。彼の顔から流れている血なのかとも思った。

 でも違う、本当はそうじゃなかった。右目とは別の、もっと大きな場所。きっと外から分からない背中や腹だろう。

 あの時ラシュティバルトは右目以外の場所にも重傷を負っていた。そして恐らくその傷が原因で死んでいる。


 彼がシグリットの死後、どれくらいの期間を置いて亡くなったのかは分からない。でもきっと、そこまで離れていないはずだ。

 けれどその死を認めてしまったら、「シグリットが約束を守って全員を助けた」という事実に(きず)がつく。


 だから、ラシュティバルトは己の死の事実を捻じ曲げて後世に遺した。


 自ら命を絶ったというのもきっと嘘だ。記録を残すように陛下に頼んだのなら尚更。こんな執念深くて、変なところで細かい男が、ちゃんと記録が完成したかどうかも確認しないうちに、途中で投げ出して死のうとするはずがない。

 少なくとも、シグリットが知るラシュティバルトという男はそうだった。


「わたし……ラシュのこと、助けられなかったのね」


 彼が重傷を負っていたことに、気づけなかった。

 一番助けたかった人を、助けられなかった。


「……ごめんなさい、」


 必ず助けてみせると、約束したのに。


「っ、ごめんなさい、ラシュ……」


 シグリットの金の瞳から、一粒涙がこぼれ落ちる。

 その雫が頬を伝い切る前に、シグリットは目の前の男にきつく抱き締められていた。


「……俺は、貴女にそんな顔をさせたかったんじゃない」


 驚く彼女の耳に、そんな言葉が聞こえてくる。


「シグリット様は約束を果たしたのだと、いい加減もう羽を休めていいのだと……そう伝えたくて、俺はこの記録を遺したんです」


 最初は、シグリットのことを気高く決して折れない強い女性なのだと思っていた。女神の遣わした特別な存在なのだと、愚かにもそう思っていた。


 けれど違う、本当はそうではなかった。折れないように必死に耐えて耐え抜いて、死に物狂いで踏ん張っているのだ。特別な存在でもなんでもない、ただひたすらに守られるべき、か弱い普通の女性が、()()という鎧を身にまとって立っている。

 それに気づいた時、なんて約束をさせてしまったのだろうと、ラシュティバルトは己を呪った。護衛騎士の立場で、なんて(むご)いものを彼女に背負わせたのだろうと後悔した。


 もしあの時に戻れるなら、泣いてシグリットを責めた自分を殴り殺してやりたい。

 もう約束を守らなくてもいいと、全てを投げ出して、ただ生きていてほしいと、何度そう彼女に伝えようとしたか数え切れない。


 だがラシュティバルトは言わなかった。言えるわけがなかった。今更あの約束をシグリットから取り上げることなど、もう出来なかった。


 あの呪いともいうべき約束が、既に彼女の(かて)となり、存在意義に等しいものとなっていたからだ。

 あの約束が、時には毒となって彼女に自分の身を蔑ろにさせ、時には薬となって彼女の心が折れないように支えていた。

 だから、ラシュティバルトは約束を反故させるのではなく、約束を果たさせる道を選んだ。

 茨の道に突き落として、ともに歩むことを選んだ。


「……貴女は、頑固で責任感の強い人です。もし約束を果たせなかったと思えば、きっと()()()()でも無茶をしようとするでしょう。……だから、どうしても伝えたかった」


 背中に回されていた男の腕が少し緩んで、その手がシグリットの頬にそっと触れる。


「俺の死は、決して貴女のせいではない」


 濡れた柔い頬を、男の指が優しくかすめていく。


「約束を守ってくれて、ありがとう。シグリット様」


 穏やかな青色の瞳と視線が合う。

 いつかと同じ、天高く輝く太陽を仰いだ時のような、少し眩しそうな顔をして、ラシュティバルトはこちらを見ていた。


「…………ラシュ」

「はい」

「ラシュティバルト」

「はい」


 呼び慣れない名を、何度も何度も口で呼び転がす。シグリットがどんなに小さな声で呼んでも、必ずラシュティバルトは返事をした。

 彼の名を呼ぶ度、今まで必死に繕ってきた、聖女としての自分が剥がれて落ちていく心地がする。

 そうして最後には、()()()シグリットだけが残った。


「……私、もう魔獣は倒せない」

「俺が代わりに倒します」

「もう誰の傷も治せない」

「人には元より自然に治す力が備わっています」

「一緒にいたら、ラシュをまた不幸にするかもしれない」

「貴女と共にいて不幸だったことなどありません」


 ああ言えばこう言う。(ことごと)く言い返してくる男を、シグリットは静かに見上げた。


「……もう、いいのかしら、」


  金の瞳を揺らして、心の奥底にずっと秘めていた、触れれば一瞬で壊れてしまいそうなその問いを、そっと取り出す。


「……私はもう、ラシュに“好き”って言っても、いいのかしら」


 それは、一度は墓場まで持っていった言葉だった。

 生まれ変わった今世でも、言うつもりはなかった。言えるわけがなかった。

 今更どの口が、と囁く声が今でも聞こえる。また好きな人を同じような目に合わせたらと思うと、怖くてたまらなかった。いつも散々偉そうな口を叩いているくせに、こんなずるくて臆病な聞き方しかできない。


 けれど、ラシュティバルトはそんなシグリットを嘲ることも、非難することもなく。

 その碧眼に確かな熱を宿して、彼女の頬に手を添える。それからゆっくりとシグリットの顔を上向かせ、芯の通った声で答えた。


「もちろんです。俺も貴女を愛していますから」


 その言葉に満足げに笑って、女は目を閉じた。


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